父の思い出

2024年5月14日 (火)

雨男と雨女

昨日は風雨が強くて蒸し暑く、今朝まで雨が降り続いていたようでした。

今日は打って変わって爽やかで、朝のうちは雲が多かったもののお昼前から晴れてきました。

同じような毎日を繰り返しているとなかなか気付きませんが、何をするにも今が一番いい季節かもしれません。

荒れ模様だった日の翌日の温かい日差しと爽やかな風の中で、ふとそんなことを感じてしまいました。

そういえば、ウチの家族が何かしら行動するときは、お天気に恵まれることが多かったように記憶しています。

そしてそれは、家族全員がなんとなくそれを意識していたようにも思います。

例えば父と一緒に行ったゴルフ、母と行った旅行もほとんど良い天気でした。

もっとも、ゴルフや旅行は予め天気予報を調べていたという事情はありますが……。

それでも、予定日にあまりにも悪い予報が出ていれば止めるというくらいで、そういうケースもそれほど無かったように思います。

ですから、今でも爽やかな晴天の日にはゴルフ場の芝生の匂いを思い出したりします。

また、温泉地に行く途中のサービスエリアで見た富士山を思い出したりもします。

いずれにしても、ウチの行事には雨男や雨女は参加していなかったようです。

2024年4月 1日 (月)

『結構ゴルフに行っていたなぁ』

昨日は父も私も晴れ男なので、二人で一緒にゴルフに行く時は大体晴れていた、と記しました。

ただ、私の仕事が休みの平日に行くことが多く、予約する前には天気予報を欠かさずに見ていました。

ですから悪天候が予想されていると、もともとその日は避けることができていたわけですが……。

それはともかくとして、振り返って数えてみると父とのゴルフは数十回行ったものと思います。

それに比べて母との旅行は30回程度と記憶していますので、おそらくゴルフはそれ以上の回数だった気がします。

ただ、母との旅行は父の死後ということで、まだ記憶に新しいのは確かです。

その点で古くなった記憶を蘇らせてみると、良い天気のゴルフ場をまず最初に思い出したということです。

ところで父は82歳までゴルフに行き、84歳まで趣味の野菜作りをしていた元気な人でした。

若い頃には戦争に行き、乗っていた船が沈んで漂流したこともあったそうです。

いろいろと大変な経験もしてきたのでしょうが、あまり話さないどちらかといえば静かな人でした。

そんな父の晩年に対しては、母の時に比べて冷たかったかな、と改めて考えてしまうこともよくあります。

それでも清々しい青空を見上げると、父が元気な時期には『結構ゴルフに行っていたなぁ』と思います。

2024年3月31日 (日)

晴れ男

今年は2月までは例年のように暖冬で、3月中旬には桜が開花するという予想が出ていました。

ところが3月は予想外に風の強い寒い日が多く、2~3日前までは桜の咲く気配もありませんでした。

それが3月も末になって昨日から突然暑くなり、あちこちで桜が咲き始めたということです。

そして今日は早くも午前中に25℃を超えて夏日になり、3月としては過去最高の気温になるということです。

ということで、いよいよ今年もお花見のシーズンがやってきました。

こういう時季の晴れて気持ちの良い日は、いろいろなことが思い出されます。

このブログには何度か記していますが、私は母の晩年はそれなりに良かったと考えています。

例えば父が亡くなった後、母とは叔母を交えて数十回も旅行に行くことができました。

また、施設で『第二の人生』と呼ばれる笑顔に溢れた生活を送ることもできました。

その反面、父にはもっと様々なことをしてあげられたのではないか、と今でも考えてしまいます。

それでも今日のような気持ちの良い青空は、父と一緒に行ったゴルフの思い出を蘇らせてくれます。

父も私も、どちらかといえばいわゆる晴れ男の部類で、一緒に行った日はほとんど晴れていたような記憶しかないからです。

2024年3月22日 (金)

戦前の風情

このところ3月11日をきっかけにして、災害に関連することをいろいろと思い出しながら記してきました。

そして昨日は亡き父が幼少時に2度ほど養子に行っていたことを知った時のことを書きました。

どちらも数週間から数ヶ月で戻っていたようですから、本人にその記憶があったかどうかは分かりません。

また、今となっては誰にも尋ねることができませんから、戸籍の情報以上のことは知りようがありません。

ただ、私が子供の頃に家族で父の故郷に行ったことがあります。

私の記憶では、父が運転する自動車で数多くの場所に連れて行ってくれたことを覚えています。

また、夏の暑い時期でしたから、どこに行っても冷たい飲み物をいただいたことが最も印象的に記憶に刻まれています。

そして父はあまり自分から説明するタイプの人ではなかったので、その時に会った人々との関係はほとんど理解できませんでした。

ただ、おそらくその中には父が養子に行った先もあったのだろうと、なんとなく考えています。

同時に父の生活していたであろう家も見てきましたが、当時は既に無人で、いかにも農村の古民家という風情でした。

その家の裏山にはお墓があって、様々な大きさの石が整列しているというよりも、雑然とした感じで立っていたのが印象的でした。

それは大阪で万博が開催されていた1970年のことですが、当時の父の故郷の風景はまだ戦前を引きずっているような気がしました。

2024年3月21日 (木)

驚いた2度の養子

このところ13年前の2011年3月11日に起きた東日本大震災について、いろいろと思い出しながら記してきました。

そして昨日は亡き父が生まれた101年前の1923年に起きた関東大震災についても考えてみました。

毎年、父の誕生日や命日が近づくといろいろな思い出が蘇って来るものです。

例えば101年前の誕生日に父は双子として生まれたそうです。

一緒に生まれた兄弟の方は戦死したと聞きました。

そして父も戦地に赴きましたが、幸運にも帰って来ることができました。

これらのことのように、もちろん父の生前から知っていたこともあります。

ただ、その他に父が亡くなってから分かったこともありました。

それほどの財産を残してくれたわけではありませんが、一応相続の手続きをするために戸籍謄本をいくつかの自治体から取り寄せました。

それらを見て私は、父が幼い頃に2度ほど養子に出ていたことを知りました。

先ほど父は双子として生まれたと記しましたが、確か既に7~8人の兄姉がいる家族の末っ子として双子が生まれた状況だったようです。

養子に出た事情はわからない上、時代を考えると珍しく無かったのかもしれませんが、それを知り私は驚きと共に何か切なさを感じました。

2024年3月20日 (水)

今でもできる親孝行

このところ13年前の2011年3月11日に起きた東日本大震災について、いろいろと思い出しながら記してきました。

その間に今は亡き父の誕生日が過ぎていきました。

それは父の誕生日が翌日の3月12日だからで、もう101年前の1923年のことになります。

そしてその1923年というのは、9月1日に関東大震災が起きた年でもあります。

つまり父が生まれてからおよそ半年後に震災があったわけですが、父は西日本の出身ですので幸いに被災することはありませんでした。

また、私が子供の頃には『関東の直下型地震は60年周期で起こりやすい』という説もありました。

ただ、1923年から既に101年が経過していますが、それらしい地震はまだありません。

発達した現在の科学でも、地震の予知はほとんどできないということです。

それでも多少の危険性の把握はできそうで、能登地方では昨年から大きめの地震が頻発していたようです。

だからといって住民が前もって避難するわけにも行かない上に、日本中安全だと太鼓判を押せる所はなさそうです。

この時期には毎年こんなことを考えていますが、一応今年も3月12日には父のためにお墓参りをしてきました。

そして101回目の誕生日をお寿司でお祝いしましたが、今ではできる親孝行といえばこれくらいになってしまいました。

2024年3月 7日 (木)

父にもリハビリを

このところリハビリについて考えることで、いろいろと思い出したことを記しています。

特にここ数日は父が怪我をした頃のことを振り返りました。

その中で思うのは、父が畑仕事で脚の怪我をした2007年12月当時、介護についての知識が乏しかったことが悔やまれるということです。

やはり脚を怪我した母がリハビリで元気を取り戻したように、父もリハビリをすれば違っていたのではないかという思いが今でもあります。

ところで、父が亡くなったのは2009年の9月で、直接は内臓疾患が原因だったということです。

ただ怪我から亡くなるまで1年9ヶ月ほどでしたが、その間はほぼ家に引きこもるような生活になっていました。

それは怪我が回復して退院した後に、脚を引きずって歩くようになったことが大きな原因だったように思います。

物理的に動くのが大変になったこともあったでしょうが、本人にとっては心理的なことも大きかったのではないでしょうか。

ただ、以前にも記したように父の怪我を冷静に振り返ると、リハビリをしっかりすれば普通に歩けるようになったかもしれません。

そうなれば、怪我の前と同じように町会の役員として活躍を続けていたことも考えられます。

もちろん結果はどうだったか分かりませんが、父の余生がより良い方向に変わっていたかもしれません。

いずれにしても既に15~16年前のことになりますが、そういう意味でその当時に介護やリハビリのことをよく知らなかったのは残念です。

2024年3月 6日 (水)

気を取り直して好循環

このところリハビリを中心に考えることで、いろいろと思い出してきています。

母は90歳を過ぎて脚を骨折しましたが、リハビリの効果もあって元気を取り戻し、施設でも概ね楽しく余生を過ごすことができました。

それに対して父の晩年については今でも多少後悔しているところがあったため、ここ数日にわたって振り返ってみました。

結局、父は畑で怪我をしてしばらく入院し、退院した時には片脚を引きずって歩くようになっていました。

それまでの父は町内会の役員として忙しく動いていましたが、怪我の後は家に引きこもりがちの生活になりました。

当然のことかもしれませんが、父も母も脚を怪我してからはその姿で人前に出ることを嫌っていた感じがしました。

ただ、そのような生活が続くと心身ともに調子が良くなくなります。

それでも母は気を取り直してからはリハビリに励み、歩行器を使えば歩けるところまで回復することできました。

すると心身の調子が好循環を取り戻して、母には笑顔が戻って施設での生活を楽しんでいました。

そういった経験から思うのは、父もリハビリに励んでいれば、ほぼ普通の歩き方に戻れたかもしれないということです。

父が脚の怪我をしたのは84歳の時で、その時まで体力的にはそれほど衰えを感じない元気な人でした。

少なくとも歩き方を気にして引きこもることがなければ、残りの人生をもっと明るく元気に過ごせたことは間違いないと思います。

2024年3月 5日 (火)

体力と気力の低下

このところリハビリを中心に考えることで、いろいろと思い出してきています。

母は90歳を過ぎて脚を骨折しましたが、リハビリの効果もあって元気を取り戻し、施設でも概ね楽しく余生を過ごすことができました。

それに対して父の晩年については今でも多少後悔しているところがありますので、少しずつ振り返ってみています。

2007年12月に父は畑から怪我をして戻って来ましたが、しばらく入院して退院した後は片脚を引きずって歩くようになりました。

当時私は『あれだけの怪我をしたのだから、多少脚を引きずるのは仕方がない』と考えていました。

ただ改めて思うのは、父もリハビリに励んでいれば、ほぼ普通の歩き方に戻れたのではないかということです。

それは母が90歳の時に脚を骨折して手術した後の経過を見て、リハビリの効果の大きさに気付いたからです。

もちろんそれは父に多大な努力を要求することになりますし、父にもその気があったかどうか分かりません。

ただ父が怪我をした当時、介護保険やリハビリの知識が周囲の誰にもなかったことは残念に感じます。

もしその当時私に今の知識があれば、父に介護認定からリハビリに通うことを勧めていたのは間違いないでしょう。

それができなかったため、父は脚を引きずって歩くようになってからはほとんど外出せず、家中にこもりがちになってしまいました。

高齢者だけではありませんが、引きこもった結果として体力と気力が低下し、父の寿命も多少縮まったのではないかと今でも時々考えます。

2024年3月 4日 (月)

運動不足で体力低下

このところリハビリを中心に考えることで、いろいろと思い出してきています。

母は90歳を過ぎて脚を骨折しましたが、リハビリの効果もあって元気を取り戻し、施設でも概ね楽しく余生を過ごすことができました。

それに対して父の晩年については今でも多少後悔しているところがありますので、少しずつ振り返ってみています。

昨日の記事の続きになりますが、2007年12月に父は畑から怪我をして戻って来ました。

その後、怪我が回復して退院したときの父は、片方の脚を少し引きずるような歩き方をしていました。

当時は『あれだけの怪我をしたのだから、多少脚を引きずるのは仕方がない』と思っていました。

ただ、今では父もリハビリに励んでいれば、ほぼ普通の歩き方に戻れたのではないかと考えることがよくあります。

それは母が90歳の時に脚を骨折して手術した後の経過を見て、リハビリの効果の大きさに気付いたからです。

ただ、父が怪我をした頃には介護保険やリハビリの知識が周囲の誰にもなかったでしょうから、やむを得なかったとは思います。

もしその当時私に今の知識があれば、父は介護認定からリハビリに通うことになったでしょう。

そうであれば、父のその後の人生も少しは良い方に変わっていたかもしれません。

なぜならば、父は脚を引きずって歩くようになってからはあまり外出しないようになり、そのためか体力が落ちたように見えたからです。

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