父の思い出

2024年8月 8日 (木)

広島と長崎

8月に入ってから私の気分的なものもあって、このブログは戦争について考えています。

それは、それなりの年齢になってから、私にとって8月が戦争について考える月になったからです。

また、両親を亡くしてから改めて考えてみると、二人とも人生の大切な時期に戦争を経験していました。

そして戦後79年が経過しました。

私には戦争の経験はないわけですが、幼い頃の記憶ではまだ所々に戦争の傷跡が残っていたように思います。

そのような世代ですから、多少なりとも戦争の記憶を次の世代に伝えておく必要があるのだろうと考えています。

というのも前日も記しましたが、もう30年程前に見たテレビの内容が衝撃的だったからです。

それはある番組でインタビューされた当時の若い日本人が、日本とアメリカが戦争をしたことを知らなかったということでした。

今インタビューをしたらどうでしょうか。

かつて日本とアメリカが戦争したことを知らない人は、結構増えているのではないでしょうか。

我々の世代では考えられないことですが、広島と長崎に原爆が落とされたことを知らない人もいるでしょう。

このブログは私の介護経験の記録として始めましたが、それ以上に戦争や原爆については後世に伝えられなければならないでしょう。

2024年8月 7日 (水)

後世に伝えるべきもの

このブログは、私が母を介護した経験が誰かの参考になればと考えて始めたものです。

何度も記しているように介護は人それぞれですから、私の経験談がどこまで役に立つのかは分かりませんが。

それでも実際に起きたことを正確に記しておくことは、それなりに意味があることだと思います。

ところで、8月に入ってからこのところ戦争のことについて記しています。

それはなんとなくそれなりの年齢になってから、私にとって8月が戦争について考える月になったからです。

そしてかつては、8月になるとテレビなどでも戦争にまつわる番組が増えたものでした。

ところが最近は、あまりそういった番組が流れなくなっているように感じます。

もっとも昨日の8月6日は広島に原爆が投下された日ということで、さすがに平和記念式典の中継はされていたようです。

ただ既に79回目の記念日ということで、式典だけではなく戦争についての説明が必要なのではないかと感じました。

というのは、もう30年以上前のことだと思いますが、あるテレビ番組で見た印象的な場面が思い出されたからです。

それはインタビューされた若い日本人が、日本とアメリカがかつて戦争をしたことを知らなかったという、かなり衝撃的な出来事でした。

私の介護経験はどうでもいいとしても、原爆や戦争経験は後世に必ず伝えるべきものであるのは明らかです。

2024年8月 6日 (火)

戦争経験者たち

最近テレビではパリオリンピックばかり放送されているようです。

昨年引越しをした私は、それを機にテレビを捨てたので私は見ていませんが……。

かつては昨日も記したように、8月になると戦争にまつわる番組が増えたものでした。

もちろん私には戦争経験はありませんが、自分の知らないことを知るのはとても貴重な経験でした。

そして私の両親は戦争の経験者ですから、もっと話を聞いておけば良かったとは思います。

ですが、私の両親を始めとして多くの戦争経験者は、あまり戦争の思い出を語りたがらなかったように思います。

私の両親も、年を取ってから思い出話のように少しずつ話してくれたような感じでした。

ただそれでも昨日の記事でも書いたように、『戦場のメリークリスマス』という映画を父が最初から最後まで見ていました。

それまで父がテレビで映画を見ることなどなかったので、その様子は私にとってとても印象的でした。

おそらく、自らが戦争の話をすることはなくても、何か思うところがあったのでしょう。

それが父にとってどんな思いなのかは分かりませんが、若い頃にそんな体験をした人々は本当に大変だっただろうと思います。

私は暑い時季が来ると戦争を考える機会が多くなるのですが、若くして戦争を経験した両親を亡くなってから更に尊敬するようになりました。

2024年8月 5日 (月)

『戦場のメリークリスマス』

早いもので、今年も既に8月に入りました。

暑い季節になると思い出すことがいくつかあります。

例えば戦争にまつわることなどもその一つです。

もちろん私には戦争経験はありませんが、両親は戦争の経験者です。

ですが、両親を始めとしてその世代の人々は、あまり戦争の思い出を語らなかったように思います。

それはやはり当然のことながら、良い思い出ではないからだったのでしょう。

ただ両親が健在の頃は、メディアでも戦争の話題を取り上げることが今よりもはるかに多かった気がします。

特にテレビでは、戦争関連の番組や映画などが放映されていました。

そういった番組を見た後には、両親とも話をしたような記憶があります。

その中で私が特によく覚えているのが、父が『戦場のメリークリスマス』という映画を最初から最後まで見ていたことです。

普段はテレビの映画を見ることなどなかった父が、最後まで見ていたのは印象的でした。

その時は映画の終了後に話をすることはありませんでしたが、どんな思いで見ていたのか聞いておけば良かったと、今でも思います。

2024年5月14日 (火)

雨男と雨女

昨日は風雨が強くて蒸し暑く、今朝まで雨が降り続いていたようでした。

今日は打って変わって爽やかで、朝のうちは雲が多かったもののお昼前から晴れてきました。

同じような毎日を繰り返しているとなかなか気付きませんが、何をするにも今が一番いい季節かもしれません。

荒れ模様だった日の翌日の温かい日差しと爽やかな風の中で、ふとそんなことを感じてしまいました。

そういえば、ウチの家族が何かしら行動するときは、お天気に恵まれることが多かったように記憶しています。

そしてそれは、家族全員がなんとなくそれを意識していたようにも思います。

例えば父と一緒に行ったゴルフ、母と行った旅行もほとんど良い天気でした。

もっとも、ゴルフや旅行は予め天気予報を調べていたという事情はありますが……。

それでも、予定日にあまりにも悪い予報が出ていれば止めるというくらいで、そういうケースもそれほど無かったように思います。

ですから、今でも爽やかな晴天の日にはゴルフ場の芝生の匂いを思い出したりします。

また、温泉地に行く途中のサービスエリアで見た富士山を思い出したりもします。

いずれにしても、ウチの行事には雨男や雨女は参加していなかったようです。

2024年4月 1日 (月)

『結構ゴルフに行っていたなぁ』

昨日は父も私も晴れ男なので、二人で一緒にゴルフに行く時は大体晴れていた、と記しました。

ただ、私の仕事が休みの平日に行くことが多く、予約する前には天気予報を欠かさずに見ていました。

ですから悪天候が予想されていると、もともとその日は避けることができていたわけですが……。

それはともかくとして、振り返って数えてみると父とのゴルフは数十回行ったものと思います。

それに比べて母との旅行は30回程度と記憶していますので、おそらくゴルフはそれ以上の回数だった気がします。

ただ、母との旅行は父の死後ということで、まだ記憶に新しいのは確かです。

その点で古くなった記憶を蘇らせてみると、良い天気のゴルフ場をまず最初に思い出したということです。

ところで父は82歳までゴルフに行き、84歳まで趣味の野菜作りをしていた元気な人でした。

若い頃には戦争に行き、乗っていた船が沈んで漂流したこともあったそうです。

いろいろと大変な経験もしてきたのでしょうが、あまり話さないどちらかといえば静かな人でした。

そんな父の晩年に対しては、母の時に比べて冷たかったかな、と改めて考えてしまうこともよくあります。

それでも清々しい青空を見上げると、父が元気な時期には『結構ゴルフに行っていたなぁ』と思います。

2024年3月31日 (日)

晴れ男

今年は2月までは例年のように暖冬で、3月中旬には桜が開花するという予想が出ていました。

ところが3月は予想外に風の強い寒い日が多く、2~3日前までは桜の咲く気配もありませんでした。

それが3月も末になって昨日から突然暑くなり、あちこちで桜が咲き始めたということです。

そして今日は早くも午前中に25℃を超えて夏日になり、3月としては過去最高の気温になるということです。

ということで、いよいよ今年もお花見のシーズンがやってきました。

こういう時季の晴れて気持ちの良い日は、いろいろなことが思い出されます。

このブログには何度か記していますが、私は母の晩年はそれなりに良かったと考えています。

例えば父が亡くなった後、母とは叔母を交えて数十回も旅行に行くことができました。

また、施設で『第二の人生』と呼ばれる笑顔に溢れた生活を送ることもできました。

その反面、父にはもっと様々なことをしてあげられたのではないか、と今でも考えてしまいます。

それでも今日のような気持ちの良い青空は、父と一緒に行ったゴルフの思い出を蘇らせてくれます。

父も私も、どちらかといえばいわゆる晴れ男の部類で、一緒に行った日はほとんど晴れていたような記憶しかないからです。

2024年3月22日 (金)

戦前の風情

このところ3月11日をきっかけにして、災害に関連することをいろいろと思い出しながら記してきました。

そして昨日は亡き父が幼少時に2度ほど養子に行っていたことを知った時のことを書きました。

どちらも数週間から数ヶ月で戻っていたようですから、本人にその記憶があったかどうかは分かりません。

また、今となっては誰にも尋ねることができませんから、戸籍の情報以上のことは知りようがありません。

ただ、私が子供の頃に家族で父の故郷に行ったことがあります。

私の記憶では、父が運転する自動車で数多くの場所に連れて行ってくれたことを覚えています。

また、夏の暑い時期でしたから、どこに行っても冷たい飲み物をいただいたことが最も印象的に記憶に刻まれています。

そして父はあまり自分から説明するタイプの人ではなかったので、その時に会った人々との関係はほとんど理解できませんでした。

ただ、おそらくその中には父が養子に行った先もあったのだろうと、なんとなく考えています。

同時に父の生活していたであろう家も見てきましたが、当時は既に無人で、いかにも農村の古民家という風情でした。

その家の裏山にはお墓があって、様々な大きさの石が整列しているというよりも、雑然とした感じで立っていたのが印象的でした。

それは大阪で万博が開催されていた1970年のことですが、当時の父の故郷の風景はまだ戦前を引きずっているような気がしました。

2024年3月21日 (木)

驚いた2度の養子

このところ13年前の2011年3月11日に起きた東日本大震災について、いろいろと思い出しながら記してきました。

そして昨日は亡き父が生まれた101年前の1923年に起きた関東大震災についても考えてみました。

毎年、父の誕生日や命日が近づくといろいろな思い出が蘇って来るものです。

例えば101年前の誕生日に父は双子として生まれたそうです。

一緒に生まれた兄弟の方は戦死したと聞きました。

そして父も戦地に赴きましたが、幸運にも帰って来ることができました。

これらのことのように、もちろん父の生前から知っていたこともあります。

ただ、その他に父が亡くなってから分かったこともありました。

それほどの財産を残してくれたわけではありませんが、一応相続の手続きをするために戸籍謄本をいくつかの自治体から取り寄せました。

それらを見て私は、父が幼い頃に2度ほど養子に出ていたことを知りました。

先ほど父は双子として生まれたと記しましたが、確か既に7~8人の兄姉がいる家族の末っ子として双子が生まれた状況だったようです。

養子に出た事情はわからない上、時代を考えると珍しく無かったのかもしれませんが、それを知り私は驚きと共に何か切なさを感じました。

2024年3月20日 (水)

今でもできる親孝行

このところ13年前の2011年3月11日に起きた東日本大震災について、いろいろと思い出しながら記してきました。

その間に今は亡き父の誕生日が過ぎていきました。

それは父の誕生日が翌日の3月12日だからで、もう101年前の1923年のことになります。

そしてその1923年というのは、9月1日に関東大震災が起きた年でもあります。

つまり父が生まれてからおよそ半年後に震災があったわけですが、父は西日本の出身ですので幸いに被災することはありませんでした。

また、私が子供の頃には『関東の直下型地震は60年周期で起こりやすい』という説もありました。

ただ、1923年から既に101年が経過していますが、それらしい地震はまだありません。

発達した現在の科学でも、地震の予知はほとんどできないということです。

それでも多少の危険性の把握はできそうで、能登地方では昨年から大きめの地震が頻発していたようです。

だからといって住民が前もって避難するわけにも行かない上に、日本中安全だと太鼓判を押せる所はなさそうです。

この時期には毎年こんなことを考えていますが、一応今年も3月12日には父のためにお墓参りをしてきました。

そして101回目の誕生日をお寿司でお祝いしましたが、今ではできる親孝行といえばこれくらいになってしまいました。

最近の写真