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2024年9月

2024年9月30日 (月)

通院日が勤務日

昨日の記事の続きになりますが、母が『類天疱瘡』を発症した頃のことです。

まずその前に2014年1月のこと、母が86歳の時にそれまで通院していたクリニックから総合病院を紹介されました。

それは母の腎臓の持病が悪化してしまったからでした。

ただこの時は幸いなことに、診察の結果、これまでのように通院で様子を見ることになりました。

つまり、総合病院に月に一度通院するという生活がしばらく続いていました。

そしてその後、2015年5月頃に母の皮膚に異常が現れました。

それがいわゆる『類天疱瘡』という病気の症状で、高齢者に特有なものということでした。

そのためその後は、その総合病院の皮膚科にも通うようになり、月に2回の通院ということになりました。

ところで、当時私はまだ仕事をしていて、その職場は休みを取りづらい勤務状況になっていました。

それは、ある月の勤務が前月の20日頃に決まり、それ以後に休みを取るのは厳しいということになっていたからでした。

ですから、母の通院がその月の20日以前であれば、翌月の通院予定日を私の休日にしてもらうことはできました。

逆に通院が20日以後の場合は翌月の勤務が既に決まっていますので、母の通院予定日が私の勤務日になってしまう可能性もありました。

2024年9月29日 (日)

『類天疱瘡』の発症

2014年1月、母が86歳の時にそれまで通院していたクリニックから総合病院を紹介されました。

それは母の持病が悪化してしまったからでした。

この時の母は人工透析の心配までしていて、私も本当に不安でした。

ところが新しい病院に行く前日に、極寒の自宅から暖かいマンションに移ったところ、明らかに母の体調が良化しました。

そして翌日の総合病院の診察の結果、これまでのように通院で様子を見ることになりました。

この辺りの経緯については、以前にも記したところです。

そして総合病院に月に一度通院するという生活がしばらく続きました。

その後、2015年5月頃に母の皮膚に異常が現れました。

いわゆる『類天疱瘡』という病気で、高齢者に特有のもののようでした。

そのため、その後はその総合病院の皮膚科にも通うようになりました。

ただこの病気は、ステロイドを服用することで症状は抑えることができました。

その結果、母の皮膚の症状は2~3ヶ月後には全くなくなりました。

2024年9月28日 (土)

毎日の楽しみ

今年も暑い日が続きましたが、気がつけば9月が過ぎようとしています。

現在の私の仕事は休日が日曜日だけなので、祝日はほとんど平日のように過ごしています。

ただ9月といえば敬老の日があり、この日は少し他の祝日とは違う感慨を持っています。

というのは2018年9月の敬老の日に、母がお世話になっていた施設で敬老会がありました。

この日の母は本当に楽しそうで、今でも私は『この日があって良かった』と心から思っています。

母は2018年7月に施設に入所しましたが、その前に入院していた病院で既にかなり元気になっていました。

2018年4月に脚を骨折して入院した母はリハビリに励み、6月には手摺りを持ちながら、伝い歩きができるくらいに回復していました。

脚の回復とともに徐々に元気が出て来て、施設に入所した後もリハビリに励み、ついに歩行器を使って少しの距離を歩けるようになりました。

それがやはり2018年9月頃のことで、体力的にもこのころが母のピークだったかもしれません。

そしてこのころの母はリハビリと同時に敬老会の練習にも熱心に励んでいました。

歌を唄ったり、車椅子に座ったまま両手に棒を持って踊ったりしていることを、楽しそうに教えてくれました。

施設に入所して間もない頃のことでしたが、いつも笑顔が絶えない母に会いに行くのが毎日楽しみでした。

2024年9月27日 (金)

元気の源

9月も下旬となり、朝晩は涼しい日も増えてきました。

9月といえば敬老の日があり、お彼岸もあって、ある程度の年齢の人には大切な行事がある月でもあります。

ところで、このブログは母の四十九日の法要が済んで、数日後に始めました。

その理由の一つは、母が施設で元気に明るく過ごしてくれたことを、とても嬉しく思ったからでした。

そんな母の姿が今でも一番印象に残っているのが、入所した年に行われた敬老会でした。

母は2018年7月に施設に入所しましたが、その前に入院していた病院で信じられないほど元気になっていました。

私は今でも当時の母は、生涯で一番元気で陽気だったのではないかと思っています。

脚を骨折した母は、病院でのリハビリで手摺りを持ちながら、伝い歩きができるくらいに回復していました。

そして施設に入所した後もリハビリに励み、ついに歩行器を使って10~20メートルほど歩けるようになりました。

このころの母は本当に熱心にリハビリに励んでいました。

また、それと同じくらい熱心に励んでいたのが敬老会の練習でした。

リハビリと敬老会の練習は、当時の母の元気の源であったと思っています。

2024年9月26日 (木)

高齢者には暖かく

このブログは母の四十九日の法要が済んで、数日後に始めました。

その理由の一つは、母が施設で元気に明るく過ごしてくれたことを、とても嬉しく思ったということです。

そして母の介護の状況を記録していたので、私自身が忘れないためということもあります。

また、介護は人それぞれとはいえ、母と私の経験が誰かの役に立てばいいなとも考えています。

そういうことからこのところ、住環境の変化によって母の持病が良くなったことについて記しています。

つまり極寒の一軒家から暖かいマンションに移動したことが、信じられない効果をもたらしたという経験です。

詳しくはここ数日の記事を見ていただきたいのですが、一夜にして明らかに母の表情が変わりました。

また表情だけではなく、顔のむくみが良化していました。

その時の環境を思い出すと、古い一軒家は室内でも暖房の前以外は10℃を上回らないような状況でした。

ところがマンションの室内は夜でも20℃を下らないような暖かさでした。

その差は大きく、寒くてトイレに行くのも厄介な場所から暖かい部屋に移った母は、伸び伸びと自由に動けるようになっていました。

住む場所を変えることは簡単ではありませんが、特に高齢者には暖かくしてあげることが大切だと実感しました。

2024年9月25日 (水)

住環境の見直し

このところ母の持病が悪化して、当時通院していたクリニックから総合病院を紹介された頃のことを記しています。

その総合病院を受診するに当たって、前日に厳寒の一軒家から暖かいマンションの一室に移動しました。

その結果、「当面通院で様子を見ましょう」ということになり、通院先がクリニックから総合病院に替わることになりました。

総合病院を紹介された時の母は人工透析の心配までしていました。

そして元のクリニックの医師も、私の「母は通院しています」という報告に対して、本当に驚いていました。

つまり、最後にクリニックに行った時の母の状態を知っている人は、『今後も通院』という結果は信じられなかったと思います。

私も前日までの母の状況を見ていて、最悪の結果まで考えていました。

ですから、それだけ暖かい住環境は母にとって大事だったのだろうということだと思います。

そして暖かいマンションに移った母は、その後は厳寒の一軒家に戻ることはありませんでした。

また、結局そのマンションでは4年3ヶ月ほど暮らしましたが、母の持病が悪化することはありませんでした。

高齢でしたので他の病気で入院したことはありましたが、尿や血液に大きな変化が現れることはありませんでした。

持ち家に住んでいると転居を考えることはほとんどありませんが、何か体調不良がある場合は住環境の見直しも必要なのかもしれません。

2024年9月24日 (火)

最良の治療法

2014年1月のこと、母は86歳で持病の悪化のため、通院していたクリニックから総合病院を紹介されました。

当時は築50年になろうかという一軒家に住んでいて、隙間風が入る日当たりの悪い環境で、母の持病を更に悪化させていたようでした。

そのため新しい病院に行く前日に、叔母と私で母を以前から借りていた暖かいマンションに連れて行くことにしました。

そして一夜をそのマンションで過ごすと、母の顔のむくみは明らかに良化していました。

その母の顔を見て叔母は「病院で『何故来たのですか?』と聞かれそうだ」と笑いながら言っていました。

そして病院で診察を受けると、結果は「当面通院で様子を見ましょう」ということになりました。

残念ながら医師は叔母が予想した『何故来たのですか?』という言葉は言いませんでしたが、いずれにしても幸いな結果になりました。

総合病院を紹介された時に母は人工透析の心配までしていましたが、結局、通院先がクリニックから総合病院に替わっただけでした。

その後、私が元のクリニックの医師に「母は通院しています」と報告をすると、その医師が本当に驚いていたのがとても印象的でした。

ただそれは無理のないことで、前日に母が暖かい部屋で一夜を過ごさなければ、どのような結果になっていたか分かりません。

むしろ持病が悪化した時の母の姿を見ていれば、入院するか人工透析をすることになるだろうとの結果を予測して当然だったと思います。

つまりクリニックの医師が驚くくらい、暖かい住環境が母にとっての最良の治療法だったということなのでしょう。

2024年9月23日 (月)

何気ない選択

2014年1月のこと、母は86歳で持病の悪化のため、通院していたクリニックから総合病院を紹介されました。

私の知る限りクリニックでは、採尿と採血をしてそのデータを外部で分析してもらっていました。

つまり母は月に一度の通院でしたから、前月のデータで診察をされていたことになります。

持病が安定しているうちはそれで良いのでしょうが、ついにそれでは心配な状況になってしまったようでした。

私はその当時、母の月に一度の通院の送り迎えの運転手をしていました。

その頃の母は杖を突いていましたが、一人で歩けたのでクリニック内には私は入らないことにしていました。

ですから母は診察や会計までが済むと、私を呼び出すためにクリニック内の電話から連絡してきました。

いつもは私の車が到着する頃に入り口で会うことになっていました。

ところがその日は、呼び出しの電話で私も先生の話を聞くように言われました。

そこでは母の状況がかなり悪化していることを聞かされて、紹介できる二つの総合病院から一つを選ぶように言われました。

私はその二つの病院を聞いて、知っている方の病院ではなく、何故か家からも遠く全く利用したこともない病院を選択しました。

この時選んだ病院に併設された施設で母は晩年を過ごし最期を迎えたのですから、私の何気ない選択が運命の選択だったような気もします。

2024年9月22日 (日)

「母は通院しています」

2014年1月のこと、母は86歳で持病の悪化のため、通院していたクリニックから総合病院を紹介されました。

当時は築50年になろうかという一軒家に住んでいて、隙間風が入る日当たりの悪い環境で、母の持病を更に悪化させていたようでした。

そのため新しい病院に行く前日に、叔母と私で母の両脇を抱えて、以前から借りていた暖かいマンションに連れて行きました。

母は部屋に入るとすぐにトイレに入り、出てきた時にはスッキリした表情になっていました。

また、その暖かい部屋で一晩を過ごし、その翌日には更に顔のむくみも明らかに良化していました。

その母の顔を見て叔母は「病院で『何故来たのですか?』と聞かれそうだ」と笑いながら言っていました。

そして病院で診察を受けると、検査の結果などを見ながら医師は「当面通院で様子を見ましょう」と言いました。

残念ながら叔母が予想した『何故来たのですか?』という言葉ではありませんでしたが、いずれにしても幸いな結果になりました。

ただ、もし極寒の環境のまま検査を受けに行っていたらどうだったか、今では分かりません。

それでも住環境、特に日当たりや室温の大切さはしっかり理解できました。

結局、母は人工透析の心配までしていましたが、通院先がクリニックから総合病院に替わっただけでした。

その後、私が元のクリニックの医師に「母は通院しています」と報告をすると、その医師が本当に驚いていたのがとても印象的でした。

2024年9月21日 (土)

一夜にして良化

2014年1月のこと、母は86歳で持病の悪化のため、通院していたクリニックから総合病院を紹介されました。

当時住んでいたのがおよそ築50年の一軒家で、そこは隙間風が入ってとても寒く、その環境が母の持病を更に悪化させていたようでした。

そのため、いよいよ新しい病院に行く前日に叔母と私で母の両脇を抱えて、借りていた暖かいマンションに連れて行きました。

母は部屋に入るとすぐにトイレに行き、しばらくすると「たくさん出た」と言いながらトイレから出て来ました。

それまでの寒さを堪えていた表情とは全く違って、母はにこやかな笑顔で、同時に顔のむくみもスッキリしたように見えました。

暖かい部屋に移って代謝が良くなったのか、その後の母は元気が出てきたようで、叔母との会話も弾んでいました。

そして温かい夕食をとり翌日の診察に備えましたが、翌朝は更に母の顔のむくみが良化しているような感じがしました。

その印象は叔母も同じだったようで、叔母は「病院で『何故来たのですか?』と聞かれそうだ」と笑っていました。

そしていよいよ新しい病院に行き、午前中に採尿と採血をして午後に診察ということになりました。

何故か叔母も一緒に診察室に入り、3人で医師の説明を聞くことになりました。

叔母が予想した『何故来たのですか?』という言葉こそありませんでしたが、「当面通院で様子をみましょう」ということになりました。

その結果はとても嬉しいものでしたが、もし前夜を極寒の環境で過ごしていたらどうだったか、今考えても恐ろしい気がしています。

2024年9月20日 (金)

『何故来たのですか?』

このところ母が86歳の1月に持病が悪化して、クリニックから総合病院を紹介された時のことを記しています。

当時住んでいたのがおよそ築50年の一軒家で、そこは隙間風が入ってとても寒く、その環境が母の持病を更に悪化させていたようでした。

そのため家の建て替えを考えて以前から借りていたマンションに移動しようということになりました。

それは、いよいよ新しい病院に行く前日のことで、叔母と私で母の両脇を抱えて部屋に連れて行きました。

母は部屋に入るとすぐにトイレに行き、しばらくすると「たくさん出た」と言いながらトイレから出て来ました。

その時のスッキリしたような母の表情も印象的でしたが、同時に顔のむくみもスッキリしたように見えました。

トイレに行くのも我慢するような厳寒な場所から解放されて、母は代謝が良くなって元気が出てきたようでした。

その夜は暖かいマンションで温かい夕食をとり、翌日の診察に備えました。

そして翌朝母の顔を見ると、前夜よりも更に顔のむくみが良化しているような感じがしました。

その印象は叔母も同じだったようで、叔母は「病院で『何故来たのですか?』と聞かれそうだ」と笑っていました。

母もそれを聞いて満更でもないようで、いかにも体調が良さそうな表情をしていました。

この時まで住んでいた寒い一軒家ではしばらく見なかったような笑顔が出て、叔母との会話も弾んでいました。

2024年9月19日 (木)

暖かい部屋

このところ母が86歳の1月に持病が悪化して、クリニックから総合病院を紹介された時のことを記しています。

当時住んでいたおよそ築50年の一軒家は隙間風が入ってとても寒く、その環境が母の持病を更に悪化させていたようでした。

そのため私は叔母と一緒に、母を以前から借りていたマンションに連れて行くことにしました。

それは、いよいよ新しい病院に行くという前日のことで、その日の夜をそのマンションで過ごそうと考えたのでした。

実際、そのマンションは南向きで日当たりが良く、暖かいことを皆知っていました。

そして自動車でそのマンションに着くと、叔母と私が母の両脇を抱えて部屋に連れて行きました。

そんな状態で部屋に入った母はすぐにトイレに入り、しばらくして「たくさん出た」と笑顔で言いながらトイレから出てきました。

その時の母の表情はとても印象的でしたが、それ以上に私には顔のむくみが良くなった感じがしました。

そんな印象は叔母も抱いたようで、母と二人で賑やかに話し始めました。

それまで寒い家にいた時の母とは異なり、笑顔に溢れた明るい表情で話も弾んでいるようでした。

とても寒い部屋にいてトイレを我慢していたのが、暖かい部屋で代謝が良くなるとともに、気分も乗ってきたように見えました。

それまで寒い家が当たり前に思っていましたが、この時ほど住環境の大切さを感じたことはありませんでした。

2024年9月18日 (水)

「たくさん出た」

このところ母が86歳の1月に持病が悪化して、クリニックから総合病院を紹介された時のことを記しています。

当時住んでいた古い一軒家は隙間風が入ってとても寒く、その環境が母の持病を悪化させていたことは間違いありませんでした。

そして、いよいよ新しい病院に行くという前日、母は「人工透析をしてまで生きたくない」と言いました。

その言葉を聞いて不安が増した私は叔母に連絡をして、2人で母を以前から借りていた近所のマンションに連れて行くことにしました。

そのマンションは半年ほど前から借りていましたが、母は引っ越すとなると面倒くさいのか、なかなか移動する気にならないようでした。

ただ、その部屋は南向きで暖かいことを皆知っていたので、総合病院で検査をしてもらう前日は3人でそこで過ごそうと考えました。

そして叔母が到着後、3人で車に乗ってそのマンションに着くと、叔母と私が母の両脇を抱えて部屋まで連れて行きました。

そんな状況で部屋に入るやいなや、母は「トイレに行きたい」と言ってしばらくトイレに籠もっていました。

やがて母は、にこやかな表情で「たくさん出た」と言いながらトイレから出て来ました。

おそらくそれまでとても寒い部屋にいたので、トイレに行くことも我慢していたのでしょう。

そして暖かい部屋に移動したことで代謝が良くなって、表情だけでなく顔色も良くなっていました。

叔母と私はそんな母を見て「顔のむくみも良くなったように見える」と、お互いに顔を見合わせました。

2024年9月17日 (火)

強制連行?

母が86歳の1月、当時は築50年になろうかという古い一軒家に、母と私は住んでいました。

その家は隙間風が入るとても寒い家で、その環境が母の持病を悪化させていたことは間違いありませんでした。

その持病である腎臓の具合が悪くなったということで、通院していたクリニックから総合病院を紹介されました。

そして、いよいよ新しい病院に行くという前日、母は「人工透析をしてまで生きたくない」と言いました。

おそらくその時の母は、そんなことを考えざるを得ないくらい、体調が良くなかったのだろうと思います。

それを聞いて不安が増した私は叔母に連絡をして、二人で母を以前から借りていた近所のマンションに連れて行くことにしました。

そのマンションは、古くなった家をどうにかしないといけないと考えて、半年ほど前から仮の住まいとして借りていました。

母もそこに何度か行ったことはありましたが、いざ引っ越すとなると面倒くさいのか、なかなか移動する気にならないようでした。

ただ、その部屋は南向きで暖かいことを皆知っていたので、総合病院で検査をしてもらう前日は3人でそこで過ごそうというわけでした。

そして叔母が到着後、3人で車に乗ってそのマンションに着くと、叔母と私が母の両脇を抱えて部屋まで連れて行きました。

その姿は周囲から見ると、おそらく拉致された母が無理矢理連行されているように見えたかもしれません。

そんな状況で部屋に入るやいなや、母は「トイレに行きたい」と言ってしばらくトイレに籠もっていました。

2024年9月16日 (月)

検査の前日

昨日の記事の続きになります。

母が86歳の時のことですが、それまで通院していたクリニックから総合病院を紹介されました。

それは1月のことでしたが、当時は築50年に迫る古い一軒家に住んでいました。

その家は隙間風が入るとても寒い家で、その環境が母の持病を悪化させていたことは間違いありませんでした。

そして、いよいよ新しい病院に行くという前日、母は「人工透析をしてまで生きたくない」と言いました。

その時母は、良くない結果を考えざるを得ないくらい、体調が良くなかったのだろうと思います。

それを聞いて私も『そうなってしまうのかな』と、本当に不安に思いました。

そこであまりにも不安な私は居ても立っても居られなくなって、叔母に相談の電話を掛けました。

すると叔母が来てくれることになり、二人で母を以前から借りていた近所のマンションに連れて行くことになりました。

そのマンションは、古くなった家をどうにかしないといけないと考えて、仮の住まいとして借りていました。

ただ、いざ引っ越すとなると母も面倒くさいようで、半年ほどは時々行ってみるくらいになっていました。

その部屋は南向きで暖かいことを皆知っていたので、総合病院で検査をしてもらう前日は3人でそこで過ごそうということになりました。

2024年9月15日 (日)

凍えるような寒い冬

母が86歳の時に、それまで通院していたクリニックから総合病院を紹介されました。

持病の腎臓病が悪化してきている、とクリニックの院長先生から私にも説明がありました。

そして、いよいよ新しい病院に行くという前日、母は「人工透析をしてまで生きたくない」と言いました。

その時母には、おそらくそのような結果になるだろうと考える理由があったのだと思います。

私もクリニックの先生の表情を見て、あまり良い状況ではないのだろうと考えていました。

それは真冬の1月のことで、当時私たちは築50年になろうかという古い一軒家に住んでいました。

その家は隙間風が入り放題で、室内にいてもエアコンの正面以外は暖かさを感じないような状況でした。

ですから前年の夏には近所にマンションの一室を借りていました。

それは古くなった家を建て替えることを考えていたからでした。

ところが、いつでも転居できるような状態でも母はなかなか移動したくないようでした。

何度かマンションの部屋で過ごしたことはありましたが、生活の場を移すのは面倒くさいようでした。

そうこうしているうちに凍えるような寒い冬がやってきて、母の持病が悪化してしまったのでした。

2024年9月14日 (土)

持病の悪化の不安

昨日の記事の続きになります。

母の通院に付き添ってくれた叔母が「あのようになってまで生きたくない」と言いました。

その視線の先には車椅子に乗った人がいました。

病院の待合室でのことですから、車椅子の人はそれほど珍しくはありません。

それに当時は、母も病院では車椅子を借りて使っていました。

そんな中で、地声がやや大きな叔母がそう言ったので、私は周囲の目が気になりました。

ただその気持ちは理解できました。

生き方の問題として、どのような状態まで我慢するかというのは人それぞれだろうと思います。

車椅子に乗って他人のお世話になりながら生きるのはイヤだ、と思うのはごく普通のことのような気もします。

ただ、その叔母は昨年亡くなりましたが、最期の数年は車椅子での生活をしていました。

その前から「めまいがする」とよく話していましたから、そういう生活になることを不安に思っていたのかもしれません。

やはり自分の持病の悪化を心配することは、母が人工透析の不安を口にしていたのと同様だったのだろうと思います。

2024年9月13日 (金)

車椅子に乗った人

母が86歳の時でした。

持病の糖尿病が悪化して、通院していたクリニックから総合病院を紹介されました。

母はショックもあったのか、気落ちした様子で「人工透析をしてまで生きたくない」と呟いていました。

私がそれを聞いたのは、紹介された病院に行く前日だったような気がします。

ところが病院での検査の結果が意外と良く、しばらく通院で様子を見るということになりました。

そして結局、母は最期まで人工透析を受けることはありませんでした。

その点に関しては母の心配が杞憂に終わって、私も良かったと思っているところです。

ところで母が総合病院に通っていた頃は、母の妹、私の叔母がよく一緒に付き添いに来てくれました。

その頃、その叔母が病院で何気なく言った言葉は、私にはとても気になりました。

それは、車椅子に乗った人を見て「あのようになってまで生きたくない」という言葉でした。

私はそれを聞いたとき『確かにその通りだろうな』と、叔母の気持ちは理解できました。

ただその当時、母も病院では車椅子を使っていましたし、ある程度の年齢まで生きればやむを得ないのではないか、という感じもしました。

2024年9月12日 (木)

母の希望通り

昨日は『そこそこでいいかな』という記事を書きました。

まず、母が85歳の頃に、CTスキャンの検査で仰向けに寝かされた時に叫び声をあげたということがありました。

そして私も二度ほどやった胃カメラの検査でイヤな思いをしました。

そんなことから、私は常々病院での検査や治療にどこまで我慢するかということを真剣に考えていました。

その結果として既に85歳を超えていた母には、なるべくイヤな思いをして欲しくないと思いました。

その後、母は腎臓の持病が悪化して通院していたクリニックから総合病院を紹介されました。

そのタイミングで母は「人工透析をしてまで生きたくない」という言葉を口にしていました。

それを聞いて私は、なるべくそのようにできればいいなと考えていました。

そして総合病院での診察の結果、定期的な通院でいいということになりました。

予想外の良い結果に私は驚きましたが、人工透析を半ば覚悟していたような母も喜んだと同時に驚いただろうと思います。

そして、この結果も『そこそこでいいかな』という考えを後押ししてくれることになりました。

結局、母は生涯人工透析を受けることはなく、少なくともその点に関しては母の希望通りにしてあげることができました。

2024年9月11日 (水)

『そこそこでいいかな』

私の母はCTスキャンの検査で仰向けに寝かされた時に叫び声をあげたようでした。

私も二度ほどやった胃カメラの検査でイヤな思いをしました。

申し訳ありませんが、病院での検査というものは不安やイヤな思いが付きまとうものだと思います。

そういう自分自身の経験や母の叫び声などから、私はあることを決めています。

それは人生は楽しく生きた方が良いので、なるべくイヤな思いはしないで生きようということです。

特に既に80代後半になっていた母が検査で叫び声をあげました。

そんな事態があって、そういう思いを特に強くしました。

もちろん元気が無いとか、何らかの症状がある場合に検査は避けられません。

それでもどんな検査をするかとか、どこまで治療をするのかは本人の意思も受け入れられるべきだと思います。

つまり、本人の身体や精神が耐えられる限度を超えるような処置は、なるべく避けてほしいものです。

ただそれは、その人の生き方にも関わる問題ですから、非常に個人的なことであります。

どんな検査や治療でも受け入れるという人がいてもいいのですが、私や母は『そこそこでいいかな』という考え方だということです。

2024年9月10日 (火)

病院での検査

母が85歳の頃に受けた病院での検査の思い出から、ここ数日の記事を書いています。

母はCTスキャンの検査で仰向けに寝かされた時に叫び声をあげたようでした。

もっとも、叫び声までいかなくでも、病院での検査は不安で恐ろしいものです。

ただ、病院の側としては決まった仕事の流れでしかないわけですが……。

それでも患者側としては、初めてだったり慣れないことなので、不安でしかありません。

私も胃カメラの検査でそんな経験をしました。

そして、イヤな検査をして異常なしという結果を見ると、疲れがドッと出たものでした。

そういう自分自身の経験と母の叫び声から、私はある決心をしました。

それは既に80代後半になっていた母に、今後はイヤな思いをなるべくさせないような選択をしてあげたいということでした。

そしてその思いは母の最期まで、何とか守ることができたと自分では思っています。

また母が亡くなった翌年からコロナが流行り始め、私はなるべく病院のお世話にならないように心掛けました。

それももう5年近くなりますが、今のところ私はイヤな検査を受けずに済んでいます。

2024年9月 9日 (月)

『二度とやるものか』

昨日は私自身の胃カメラの検査について記しました。

私はこれまでに二度ほど胃カメラを使った検査を受けました。

最初は口からで、次は鼻から入れるタイプでした。

確かに比較をすれば鼻から入れるタイプの方が楽ではありました。

それでも何か串刺しにされたような感じがして、苦痛でないとはいえませんでした。

ただ幸いに、どちらも私の胃に異常は見つかりませんでした。

そんな経験から、単なる検査としての胃カメラは『二度とやるものか』と思ったものでした。

もちろん重篤な状況で検査が避けられない場合はやむを得ないと思いますが……。

そして今では、胃カメラも麻酔を使って朦朧とした状態で検査が済むという話も聞きますので、状況は良くなっているようではありますが。

こんな自分の経験があって、ここ数日記している母が85歳頃に、検査で不安そうな表情をしていたのを見た時のことに繋がります。

その母の表情を見て、自分自身と同様に今後は母が嫌がるような検査や治療は避けようと決めたわけです。

そしてそれは母が亡くなるまで、何とか守ることができたように思います。

2024年9月 8日 (日)

胃カメラでイヤな思い

昨日の記事の続きになりますが、母は85歳を過ぎてからよく病院のお世話になりました。

もちろん若くして持病がありましたので、通院はずっとしていました。

ただ後期高齢者となってからは、その緊急性が全く違ったように思います。

もちろんそれは誰でも年齢を重ねれば同様でしょうが……。

ところでこのところ、母が85歳頃に「めまいがする」ということで検査に行った時のことを記しています。

この時、病院の検査で母がとても不安そうな表情をしていたことで、私はあることを決心しました。

それは、母が嫌がるような検査や治療はなるべく避けようということでした。

そしてなるべく穏やかに、できるだけ長く生きて欲しいと考えました。

それは以前から私が考えていたことでもありました。

というのは、私自身が胃カメラでイヤな思いをしたことがきっかけでした。

その時は幸い、私の胃に異常はありませんでした。

ただ、その検査は私にとってはとても辛いもので、異常がないならばやらなければ良かったという思いがとても強く残りました。

2024年9月 7日 (土)

80代後半の病院との関係

母が85歳頃というのは、今から12年前になります。

そしてこのところの記事は、その頃に母が「めまいがする」ということで検査に行った時のことを書いています。

その時は病院でCTスキャンをすることになりましたが、母はそれを嫌がったようでした。

私はその時の母の表情を見て、今後はなるべく母が嫌がるようなことは避けようと思いました。

それは何といっても病院での検査や治療というのは、誰にとっても不安を抱くものだということがあります。

そして母はこの時既に80代の後半で、ここまで割と平穏に生きてきて、それほど大変な治療などは経験していないと思います。

ですから今後もなるべく穏やかに生きて欲しいと考えました。

ただ、86歳の時にはクリニックから総合病院を紹介されるほど持病が悪化しました。

また、88歳を迎える直前にはむくみが酷くなって救急で入院をしました。

そして90歳の時には脚を骨折して入院し、退院後に間もなく脱水症状で、再び入院をしました。

その後は施設に入所しましたが、入所後も4回病院に入院をすることになりました。

改めて振り返ると、母は80代後半にそれまでとは全く違って、病院のお世話になることが多くなりました。

2024年9月 6日 (金)

イヤな検査を避ける

このところの記事では、母が85歳頃に「めまいがする」ということで検査に行った時のことを書いています。

病院でCTスキャンをすることになり、母が検査室に入ると間もなく、その検査室から人が出てきて私を呼びました。

どうも母がベッドに横になった途端に叫び声をあげたということでした。

昨日も記したように、母は腰を痛めていて仰向けで横になることができない、というようにこの時私は説明しました。

ただ、その後私は母に「何故叫び声をあげたのか?」ということは尋ねませんでした。

ですから、その理由が本当に仰向けがイヤだったからなのかどうかは、今でも分かりません。

それでもこの時、ベッドに仰向けで寝ていた母の不安そうな表情はとても印象的でした。

結局、この時母が検査に何らかの不安を抱いていたのは確かだったのだろうと思います。

そして病院での検査というものは、誰でも不安でイヤなものだと思います。

また母は、歯が抜けたり眼鏡の度が合わなくなっても、余程のことがなければ歯科や眼科には行かないような人でした。

ですから、この時の母の不安そうな表情と既に85歳になっていることを考え、私も一つの考えがまとまったように思いました。

それは、今後母が嫌がるような検査や治療などはなるべく避けてあげよう、ということでした。

2024年9月 5日 (木)

「何故叫び声をあげたのか?」

昨日は母の85歳頃のこと、「めまいがする」と言うので検査に行った時のことを記しました。

病院でCTスキャンをすることになり、母が検査室に入って、私はその部屋の前で椅子に座っていました。

するとすぐに検査室から人が出てきて私を呼びました。

話を聞いて見ると、ベッドに横になった途端に母が叫び声をあげたということでした。

私が中に入ると、母はベッドに仰向けの状態で不安そうな顔をしていました。

当時母は腰を痛めていて、寝るときに仰向けになれないので、必ず横を向いて寝ていることを私は知っていました。

そのため私は「母は腰を痛めていて、仰向けになるのがキツいようです」と説明しました。

すると「それでは、なるべく急いで検査をします」ということで、検査はすぐに終わりました。

その後私は母に「何故叫び声をあげたのか?」ということは尋ねませんでした。

ですから、その理由が本当に仰向けがイヤだったからなのかは今でも分かりません。

ただ、この時に母が検査に何らかの不安を抱いたのは確かだったのでしょう。

そして、この日の経験が私に一つのことを決心させたように思います。

2024年9月 4日 (水)

仰向けがキツい

母が85歳頃のことだったと思います。

ある日「めまいがする」と母は言いました。

母は当時、持病の糖尿病で月に一度近所のクリニックに通っていました。

そしてそのクリニックで病院を紹介してもらって、めまいの検査に私が同行しました。

杖を突きながら自動車に乗り込む母の後ろ姿を見て、私は『大したことがなければいいが』と思うばかりでした。

病院では、確かCTスキャンで検査をすることになったと記憶しています。

母が検査室に入り、私はその部屋の前で椅子に座っていました。

するとすぐに検査室から人が出てきて私を呼びました。

中に入ってみると、母がベッドに仰向けで不安そうな顔をしていました。

話を聞いてみると、ベッドに横になった途端に母が叫び声を上げたようでした。

当時母は腰を痛めていて、寝るときは仰向けにはならずに、必ず横を向いて寝ていることを私は知っていました。

そのため私は「母は腰を痛めていて、仰向けになるのがキツいようです」と説明しました。

2024年9月 3日 (火)

一か月前の出来事

昨日は「人工透析をしてまで生きたくない」と母が話していたことについて記しました。

幸いなことに、母は最後まで人工透析を受けることはありませんでした。

ただ亡くなる一か月前に、主治医から点滴を外して人工透析に切り替えたいという提案がありました。

電話でその話を聞いた私は、その時は即答を避けました。

するとその後すぐに、母がパニック障害の症状を起こすようになりました。

そのため、私は主治医に治療よりも先に母の精神状態の安定を求めました。

そして点滴を続けながら、鎮静剤も使うことになりました。

母のパニック障害が収まるまで数日間、私も母のベッドサイドに付き添ったりしました。

しばらくすると母は眠っている時間が多くなり、やがてパニック障害の症状も収まりました。

ただ、その時には既に心電図の波形がかなり乱れていて、私にはここから回復することは難しいように思えました。

実際に主治医もその後は人工透析の話を一切しませんでした。

これで良かったのかどうか今でも時々考えますが、若くして腎臓に持病があった母は人工透析をすることなく人生を終えました。

2024年9月 2日 (月)

母の生き方

母は若い頃に腎臓を悪くして病院に通っていました。

私も時々通院の送り迎えをしたりしていました。

当然ながら時間の経過と年齢によって、母の持病は悪化していきました。

母が86歳になった頃、ついにかかりつけ医が総合病院を紹介してくれるような状況になりました。

私も診察室に呼ばれて「お母さんの状態が悪化してきました」と、紹介された二つの病院の中から一つを選ぶように言われました。

その時のかかりつけ医の言葉からすると、入院か人工透析をすることになると思っていたようでした。

帰宅後、母は一言「人工透析をしてまで生きたくない」と、気落ちした様子で独り言のように話していました。

私はどうしたものかと思いながら、とりあえず母を紹介された病院に連れて行きました。

その結果は幸いなことに、当面通院で様子を見るということになりました。

心配していた人工透析ということにはならずに、とりあえず母も私もホッと安心しました。

ただこの時に、人工透析をすると言われたらどうだったか、今でも考えることがあります。

私はとりあえず人工透析を勧めるでしょうが、選ぶのは母で、それは母の生き方に関わることだからです。

2024年9月 1日 (日)

勝手に納得

このところ『生き方の問題』などと少し大きなテーマで話をしています。

人生は楽しく生きたいものですが、必ず楽しくない事態も起こります。

そのような時にどのような対処法を選択するかということも、広く言えば『生き方の問題』ではないかと思います。

つまり、塩分制限を必要としていた母が塩分不足になったらどうするか、ということもそのような難しい問題でした。

当時、元気の無かった母が元気を取り戻せるのであれば何でもしてあげたい、と私は一生懸命になっていました。

この時は例の『ふりかけご飯』で母は元気を取り戻しましたが、これも確かに諸刃の剣のような対策でした。

もし母が塩分制限に固執して『ふりかけご飯』を拒否するならば、それは仕方がないことでした。

体調不良を多少我慢してでも長生きができると思う方を選ぶのも本人の生き方ですから。

実際、2019年10月に元気を取り戻した母は、11月には入院して帰って来ることはできませんでした。

ですから『ふりかけご飯』が母の寿命を縮めた可能性はあったのかもしれません。

ただ私は、元気のない母の姿を見ることはなかなか耐えられませんでした。

母もどちらかといえば『寝たきりで生きていても仕方がない』と考える人でしたから、元気になる方を選ぶだろうと勝手に納得しています。

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