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2024年8月

2024年8月31日 (土)

『ふりかけご飯』の選択

この二日間『生き方の問題』などと少し大きなテーマで考えています。

といっても内容は、母が塩分不足になってしまったという話です。

そして塩分不足のために元気が無くなって、食欲不振になった母にどんな対策をしようかということになりました。

結局、看護師さんの提案により『ふりかけご飯』で塩分を補給したところ、母は元気を取り戻すことができました。

ただ母は元々、腎臓に持病があるために塩分制限が必要となっていました。

そして母は、塩分補給をして元気になった一か月後には最後の入院をすることになりました。

ですから、『ふりかけご飯』を食べたことが母の寿命を縮めたのではないか、と考える余地はあります。

少なくとも私は、そういうことを多少考えました。

実際に、塩分制限をしている人が塩分不足を起こしたときに、塩分を補給していいのかというのは難しい問題のような気がします。

とはいえ、これを『生き方の問題』というと、いくらか大袈裟な表現のように感じられるかもしれません。

ただ母は塩分補給で元気になったものの、およそ一か月後に入院をして、その入院中に帰らぬ人になってしまいました。

私は母に『ふりかけご飯』を選んだことを後悔はしていませんが、確かに母は元気になったものの、寿命は多少縮まったのかもしれません。

2024年8月30日 (金)

大切な一か月

昨日の記事では『生き方の問題』などと、少し大袈裟な表現を使ってしまいました。

それは、塩分制限をしていた母が塩分不足を起こしたことによって、その解決策を考えたことから行き着いた考え方でした。

それはつまり、持病から塩分を制限せざるを得ない母に、余計な塩分を摂らせていいのかという問題でもありました。

もちろんこれは、まず第一に母が考えればいい問題ではあります。

ただ、介護というものは本人に代わって親族や介護者が考えなければならなくなることがよくあります。

ですから私は、介護をする親族や介護者は本人と良く話をしておくことが大切だと思っています。

その上で、本人がもっとも選ぶであろう方法を代わりに選んであげることが重要なのではないでしょうか。

少なくとも私は、母を介護する上でそのように考えていました。

もちろん実際はこのように頭で考えたことよりも、母が嫌がることはしたくないという感情的なことが大きかったようにも思います。

そういうこともあって、塩分不足のため食欲不振で元気の無い母には、当然塩分を摂って欲しいと考えました。

その効果があって、その後母は元気を取り戻してほんの一か月でしたが、再び楽しく施設での生活を送ってくれました。

そしてこの一か月があったために、私は母の晩年が良いものだったと、より強く思うことができています。

2024年8月29日 (木)

対策の選択と生き方

今現在、台風10号が九州方面に停滞して大きな被害が出ているようです。

そしてその影響もあるのか、夏の暑さがやや収まってきたように感じます。

体感では去年ほどではありませんでしたが、今年の夏もかなり暑い日々が続きました。

そういうこともあって、今年の8月は母が塩分不足になったことについて記してきました。

母は腎臓に持病があったことから、世の中に減塩の商品がほとんどなかった頃から、減塩醤油を使うなど気を遣っていました。

そんな母が90歳を過ぎた2018年と2019年に塩分不足を指摘されました。

この時私にとって印象的だったのが、塩分不足と診断されても医師があまり重要視していない様子だったことでした。

確かに普段健康な人が何らかの原因で塩分不足になっても、食事の際に塩分を多目に補給すればいいだけです。

ただ母の場合は施設での生活でしたので、解決策を見つけるまでにかなりの時間が掛かってしまいました。

そして同時に母には持病がありますから、不足しているからといって塩分を多目に補給していいものかどうか、という迷いはありました。

いずれにしても、母に元気が無く食欲不振だったことから、『ふりかけご飯』で元気になった時は本当にホッとしました。

また、塩分制限をする人が塩分不足になったときの対策の選択は個人差もあるでしょうが、生き方の問題にも関わるような気がしました。

2024年8月28日 (水)

塩分の微妙なバランス

私の母は90歳を過ぎた2018年と2019年に塩分不足を指摘されました。

このところは2019年8月頃に塩分不足を指摘された時のことについて、改めて振り返っています。

母は若くして腎臓が悪くなったことで、かなり早い時期から減塩に努める食生活をしていました。

特に醤油などは、世間に減塩のものが出始めた頃から探して買い求めるほどでした。

その後しばらくして、施設に入所した後の2018年11月には、心不全と診断されました。

そのため、施設での食事が制限食となり、塩分摂取量は更に減らされたものと思います。

母から聞いたところによると、制限食のご飯はお粥だそうで、それも塩気のない味のため母はよく不満を漏らしていました。

それでも元気だった頃の母は、そんなお粥もおかずと一緒に食べて完食していたと話していました。

ところが2019年8月頃に元気が無くなると、味気ないお粥は食べられなくなって食欲不振になってしまいました。

病院での診断は、元気の無さや食欲不振の原因は塩分不足だろうとのことで、『ふりかけご飯』を食べることが始まりました。

その『ふりかけご飯』を母はとても気に入ってくれて、2019年10月には食欲が戻って以前のように明るく元気になりました。

結局、その後母が元気で過ごせたのは僅か一か月ほどでしたが、私も塩分の重要性とともに摂取量の微妙なバランスに悩まされた時期でした。

2024年8月27日 (火)

味付お粥の効果

私の母は90歳を過ぎた2018年と2019年に塩分不足を指摘されました。

このところ2019年8月頃に塩分不足を指摘された時のことについて、改めて振り返っています。

前日の記事でも記したように、この時は施設の看護師さんの提案でご飯にふりかけを使うことになりました。

その前の2018年11月に母は心不全と診断されて、施設ではその後から制限食になっていました。

母から聞いたところによると、制限食のご飯はお粥だそうで、それも塩気のない味のため母はよく不満を漏らしていました。

それでも元気だった頃の母は、そんなお粥もおかずと一緒に食べて完食していたと話していました。

ところが2019年8月頃に元気が無くなると、味気ないお粥は食べられなくなって食欲不振になってしまいました。

そして当然、しっかり食べないので元気が出ないという悪循環に陥っていました。

ただ幸いなことに、この『ふりかけご飯』は私が思っていた以上の効果がありました。

2019年8月、9月と元気が無かった母が10月からは以前のような元気を取り戻してくれました。

ただ、その翌月の11月に母は最後の入院をすることになります。

私はこの点に後悔はしていませんが、心臓に持病があった母の食事に塩分を増やすというのは、なかなか難しい問題ではありました。

2024年8月26日 (月)

塩分摂取量の増加

私の母は90歳を過ぎた2018年と2019年に塩分不足を指摘されました。

このところ2019年8月頃に塩分不足を指摘された時のことについて記しています。

最終的にこの時は、施設の看護師さんの提案でご飯にふりかけを使うことになりました。

というのも看護師さんの話では、施設の食事は普通食でも塩分は控え目なのだということでした。

その上母は、その前年に心不全と診断されて制限食になっていました。

ですから塩分を摂るためにふりかけを使おうということでした。

私もその場で即座に同意しましたが、よく考えるともっと悩むべきだったのかもしれません。

それは、母は心臓の持病で塩分制限をしていたわけですから、本来塩分の摂取量を増やすのは慎重になるべきだったでしょう。

それでも私は『ふりかけご飯』に賛成しました。

それは当時の母の状況によるものが大きかったと思います。

つまり、元気が無く食欲のなさそうな母の姿を見るのが忍びなかった、ということでもあります。

私は結果的にこの判断は良かったと考えていますが、もしかすると母の心臓の寿命を短くしてしまった可能性はあるのかもしれません。

2024年8月25日 (日)

元気の源

私の母は90歳を過ぎた2018年と2019年に塩分不足を指摘されました。

ここ数日は2019年8月頃に塩分不足を指摘された時のことを記しています。

この時はいろいろと検査をした後、体調不良の原因は「やはり塩分不足ではないか」ということになりました。

そして脳神経外科の医師が言った「塩分不足は本当にいろいろな症状がでる」という言葉が印象に残りました。

同時に「医者でもなかなか塩分不足の症状とは分からない」と付け加えていました。

いずれにしても塩分不足の対策を考えなければなりませんでした。

そして私はそれを施設の看護師さんに相談しました。

看護師さんは「施設の食事は普通食でも塩分が少ないのですよ」と教えてくれました。

そして対策としては「ご飯にふりかけを使いましょうか?」と提案してくれました。

私にとっても以前から塩分不足の対策には困っていましたので、その話に乗ってみることにしました。

結局、母はその翌日から『ふりかけご飯』を食べることになりました。

その『ふりかけご飯』を母はとても気に入ってくれて、その後は元気を取り戻してくれました。

2024年8月24日 (土)

『ふりかけご飯』

私の母は90歳を過ぎた2018年と2019年に塩分不足を指摘されました。

ここ数日は2019年8月頃に塩分不足を指摘された時のことを記しています。

この時は最初に母の認知が怪しい感じがして、同時に食欲不振で元気が無くなりました。

そのために病院で診察をしてもらいましたが、血液検査などの結果、普段と異なる値のものとして塩分不足を指摘されたわけでした。

ただその時の医師は、母の症状がそれほど大事ではないと考えていたように感じました。

そしてその後も母の症状が改善されないため、私はもしかすると『急性硬膜下血腫』かもしれないなどと考え始めました。

そこで、改めて脳神経外科で診てもらうと、検査の結果は「母の脳には異常はない」ということでした。

「それでは今の母の不調の原因は何でしょうか」と医師に尋ねたところ「おそらく塩分不足でしょう」という答えでした。

そして「医者でも臨床の現場を知らなければ、塩分不足の症状は分からないでしょう」と医師は付け加えました。

それだけ塩分不足は様々な症状が出るとのことで、私はそれを施設の看護師さんに伝えました。

看護師さんは「施設の食事は普通食でも塩分が少ないのですよね」と話して「ご飯にふりかけを使いましょうか?」と提案してくれました。

その翌日から母は『ふりかけご飯』を食べることになりました。

2024年8月23日 (金)

塩分不足は様々な症状に

私の母は90歳を過ぎた2018年と2019年に塩分不足を指摘されました。

そしてここ数日は2019年8月頃に塩分不足を指摘された時のことを記しています。

この時に最初に塩分不足を指摘した医師は、母の症状がそれほど大事ではないと考えていたように思いました。

その後私もいろいろと考えて、もしかすると『急性硬膜下血腫』かもしれないと思い始めました。

そのため施設にお願いをして、改めて脳神経外科で診てもらうと、検査の結果は「母の脳には異常はない」ということでした。

それを聞いた私は「それでは今の母の不調は何故なのか」という疑問を医師に尋ねてみました。

それに対する脳神経外科の医師の答えは「おそらく塩分不足でしょう」というものでした。

その答えを聞いて私は「今までも塩分不足は指摘されましたが、あまり重要視されなかったのですが……」と医師に問いかけました。

それに対して「医者でも臨床の現場を知らなければ、分からないでしょう」と医師は答えてくれました。

そして「一口に塩分不足といっても、本当に様々な症状が出ます」と付け加えていました。

それを聞いて、母に元気が無くなってからしばらく経っていましたので、私は少し光が見えたような気がしました。

結局、私の見立ては全く外れていましたが、母の症状を改善させる方法が分かったように思いました。

2024年8月22日 (木)

重要視されない塩分不足

私の母は90歳を過ぎた2018年と2019年に塩分不足を指摘されました。

2018年当時のことは今月、数回にわたって記事にしてきました。

そしてこのところ2019年8月頃に塩分不足を指摘された時のことを記しています。

この時に最初に塩分不足を指摘した医師は、母の症状がそれほどのことではないと考えていた節がありました。

そのため、これといった解決策は示されなかったので、母の状態は変わらずに心身の不調を訴えていました。

そこで私はいろいろと考えて、母が7月の入院時にベッドで頭を強く打ったことを思い出しました。

そして『急性硬膜下血腫』というものが母の症状に近いように思いました。

そのため施設にお願いをして、今度は改めて脳神経外科で診てもらうことになりました。

すると検査の結果は「母の脳には異常はない」ということでした。

それを聞いて私は「それでは今の母の不調は何故なのか」という疑問を医師に尋ねてみました。

それに対する脳神経外科の医師の答えは「おそらく塩分不足でしょう」というものでした。

その答えを聞いて私は「今までも塩分不足は指摘されましたが、あまり重要視されなかったのですが……」と医師に問いかけました。

2024年8月21日 (水)

やはり塩分不足?

母は2019年8月頃にも塩分不足を指摘されました。

ただこの時に塩分不足を指摘した医師からは、それほどのことではないとの印象を受けました。

そのため、これといった解決策は示されなかったので、母の状態は変わらず心身の不調を訴えていました。

そこでいろいろと考えると、私は母が7月の入院時にベッドで頭を強く打ったことを思い出しました。

そして母の状況から該当しそうな病気を調べてみると、『急性硬膜下血腫』というものが見つかりました。

母が頭を怪我した時期とその後の状態を考えてみると、いかにもそれらしい症状でした。

そのため施設にお願いをして、今度は脳神経外科で診てもらうことになりました。

私はこの時何故か、母は『急性硬膜下血腫』なのだという確信に近いものがありました。

ところが、検査の結果は「母の脳には異常はない」ということでした。

その言葉を聞いて私には『それでは今の母の不調は何故なのか』という疑問が再び湧いてきました。

その疑問に対する脳神経外科の医師の答えは「おそらく塩分不足でしょう」というものでした。

それは私にも分かっていることでしたが、ではどうしたら良いのか、再び悩みました。

2024年8月20日 (火)

ある病気の疑い

母は2019年8月頃にも塩分不足を指摘されました。

その前月の7月には病院に入院をしていて、施設に戻ったところで体調不良になりました。

そのためまた診察をしてもらったところ、塩分不足が明らかになりました。

それはまず、母がその7月頃から愚痴を言ったり細かいことを気にしたりと、精神的に不安定になっているような感じがしていました。

それが退院後に施設に戻ってから、更に状況が悪化したようになってきていました。

そして心身ともに不安定になったことで食事もあまり取らなくなったので、病院で診察してもらった結果、塩分の不足が指摘されたわけです。

ただこの時に塩分不足を指摘した医師は、大したことではないというような説明をしたように思います。

確かに母を見ただけでは、少し元気が無いというくらいにしか見えなかったのかもしれません。

そのためにこの時点では、これといった解決策が示されませんでした。

ところが、それでは当然母の状態はいつまでも変わりませんでした。

そこでいろいろ考えた私は、7月の入院時に母がベッドに頭を強く打ち付けたことを思い出しました。

そして、その時の母の状況からネットで調べた結果、私はある病気を疑い始めました。

2024年8月19日 (月)

思わぬ塩分不足

このところ、母が熱中症の症状で入院した時のことについて記しています。

その時は40日間の入院後すっかり元気になり、そのまま施設に入所することになりました。

ところで、母はその施設でも一度熱中症のような症状になったことがありました。

それは入所しておよそ1年後の、2019年8月頃のことでした。

前月の7月に心不全の症状が出た母は、2週間ほど病院に入院していました。

その頃から母は、愚痴を言ったり細かいことを気にしたりと、精神的に不安定になっているような感じでした。

それが退院後に施設に戻ってから、更に状況が悪化していきました。

そして心身ともに不安定になったことで食事もあまり取らなくなり、また病院で診察してもらうことになりました。

その結果、指摘されたのが塩分不足でした。

原因は特定できませんが、もしかすると熱中症のようなものだったのかもしれません。

あるいはその前に病院食を食べていたことで、塩分不足が加速されたのかもしれません。

いずれにしても今年もまだ暑い日が続いていますので、思わぬ塩分不足には注意が必要だと思います。

2024年8月18日 (日)

看護師さんとの会話

2018年5月24日、少し前に骨折入院から戻って来た母が、熱中症で意識がないまま再び入院することになりました。

翌日の5月25日の面会時には、母は言葉を発しないものの意識は回復していました。

そして5月26日に母はすっかり陽気になっていて、面会に行った私を見るなり笑顔で話し始めました。

その様子は子供が遠足から帰って来て、見てきたものを一つ残らず話をしようとしているような感じでした。

ところが5月27日に面会をした時、母は再び5月25日の時のように意識はあるものの無言で不機嫌そうな雰囲気でした。

ですから、この後に施設で元気に過ごしてくれた母も、順調に回復したわけではありませんでした。

この後も6月の中頃までは、体調も気分も波があった様子でした。

その後は体調が安定したからか、精神的にもずっと落ち着いていました。

そういう状態になると、リハビリも順調に進むようになって、母も全てに前向きになっていきました。

すると何もかもが好循環で回り出し、母の顔にも笑顔が見られるようになりました。

結局、この時の40日間の入院は前半が一進一退で、後半が絶好調という感じになりました。

振り返ると、母の絶好調の原因は間違い無く看護師さんたちとの会話だったと思っています。

2024年8月17日 (土)

難しい時期

2018年5月24日、母が熱中症で意識がないまま入院しました。

自宅に戻った私は『このまま意識が戻らないのかな』などと一晩中心配していました。

ところが翌日の5月25日には母は言葉は発しないものの意識は回復していました。

ただ母の様子は、入院前のようにどこか不機嫌そうで、まだ調子が良くなさそうに見えました。

そして5月26日に母はすっかり陽気になっていて、面会に行った私を見るなり笑顔で話し始めました。

その様子は子供が遠足から帰って来て、見てきたものを一つ残らず話をしようとしているような感じでした。

そんな母の様子を見て、私は『もうこれで大丈夫』という感触を得ました。

ところがその翌日の5月27日に面会をした母は、5月25日の時のように意識はあるものの無言で不機嫌そうな雰囲気でした。

ところで母はこの年の7月に施設に入所し、その施設に良く馴染んで元気で明るく楽しそうに晩年を過ごしてくれました。

そういう母の状況があったので、私はこのブログを始めたということを何度か記しました。

ただ、そんな母の状況にしても最初からずっと元気で明るかったわけではありませんでした。

2018年の5月26日には笑顔が戻りましたが、翌日には再び無言で不機嫌そうな態度だったわけですから。

2024年8月16日 (金)

再び不機嫌に

2018年5月24日、母が熱中症で意識がないまま入院することになり、点滴に繋がれてベッドに寝ている母を置いて、私は自宅に戻りました。

『このまま意識が戻らないのかな』などと一晩中悶々としましたが、翌日の5月25日には母は言葉は発しないものの意識は回復していました。

ただ母の様子は、入院前のようにどこか不機嫌そうで、まだ調子が良くないのかと思いました。

そして多少気が楽になった5月26日に面会した母は、すっかり陽気になっていました。

この日ベッドに仰向けになっていた母は、私を見るなり笑顔で話し始めましたが、その内容はとりとめのない昔話のようなものでした。

何だかその様子は子供が遠足から帰って来て、見てきたものを一つ残らず話をしようとしているような感じでした。

『暑い中遠くまで歩いて、美味しいものを食べた』などと、母は子供のような笑顔で一生懸命に話してくれました。

確かにその日は暑い日でしたので、私は母がベッドの上で見た夢を話していたのだろうと思いました。

その他にはリハビリの先生が来たとか、身体を洗ってもらったなども教えてくれました。

この日は母がひたすら喋っていて私が聞いているという感じでしたが、母が元気を取り戻したことがとにかく嬉しかったことを覚えています。

そしてこのまま母が元気で陽気に過ごしてくれればいいなと思いましたが、そう簡単にはいきませんでした。

というのは翌日の5月27日の母は、5月25日の時のように意識はあるものの無言で不機嫌そうな雰囲気だったからでした。

2024年8月15日 (木)

陽気な母の始まり

2018年5月24日、母が熱中症で意識がないまま入院することになり、点滴に繋がれてベッドに寝ている母を置いて、私は自宅に戻りました。

そして『このまま意識が戻らないのかな』などと不安を抱えて、一晩中悶々としていました。

そして翌日、5月25日の母は言葉は発しないものの、意識は回復していて私は安心しました。

ただ母の様子は、入院前のようにどこか不機嫌そうで、まだ調子が良くないのかと思いました。

それでも意識が戻らないまま終わりを迎えることが避けられて、私も楽になった記憶があります。

そして気を楽にして面会に行けた5月26日の母は、すっかり陽気になっていました。

この日ベッドに仰向けになっていた母は、私を見るなり笑顔で話し始めました。

ただその内容はとりとめのない昔話のようなものでした。

『暑い中遠足に行って、美味しいものを食べた』などと、子供のような笑顔で一生懸命に話してくれました。

その他にはリハビリの先生が来たとか、身体を洗ってもらったなどと教えてくれました。

ですから、ただ夢の中の話をしていただけではなく、実際に起きたこともしっかり覚えていたようでした。

そしてこの後、施設に入所して元気で陽気に過ごした母は、この日に始まったように私には感じられました。

2024年8月14日 (水)

点滴で元気に

2018年5月24日、母はいわゆる熱中症の症状で意識がないまま入院することになりました。

その日は点滴に繋がれて動かないままベッドに寝ている母を置いて、私は自宅に戻りました。

そして『このまま意識が戻らないのかな』などと考えて、一晩中悶々としていました。

翌日の5月25日は面会時間が始まる午後3時に、病院に着きました。

そして偶然エレベーターの前で、骨折での入院時の主治医に会いました。

私が「母が、また入院しました」と話すと、先生は「昨日より良くなっていますよ」と教えてくれました。

先生の話では「声を掛けると目が動いていた」ということでした。

リハビリの先生と見に行ったということでしたが、その言葉で私は安心することができました。

少し気分的に楽になって母の病室に入ると、母は寝ていましたが意識はあるように見えました。

私が話しかけると聞こえているようでしたが、母は言葉を発することはありませんでした。

それでも意識が戻ったことで、私はとてもホッとしたことを覚えています。

そしてこの後も母は何度か入院しますが、いつも病院で点滴に繋がれると元気が出るというような印象がありました。

2024年8月13日 (火)

意識がないまま点滴

昨日の記事の続きになります。

母は2018年5月24日に、いわゆる熱中症の症状で意識がないまま入院することになりました。

その前の5月12日には骨折が癒えて退院をしていました。

ところが、退院した後の母に元気が無かったため、すぐに通院をして診察をしてもらったのでした。

その結果、水分と塩分が不足しているのは明らかでしたが、その他はそれまでと変化がないということでした。

そう診断されて帰宅した私は、母の食事にどのように塩分を増やせばいいのか悩みました。

そして試行錯誤をしているうちに母の状態は更に悪化していき、結局、水分塩分不足で意識を失って再び入院することになったわけでした。

腎臓に持病があるために塩分に気をつけていた母の食事に、塩分を増やすのはなかなかできることではありませんでした。

そんな事情で5月24日に入院した母でしたが、意識がないまま点滴をして様子を見ることになりました。

この時、全く動かないままベッドに横たわった母を見て、私は自責の念に駆られました。

このまま意識が回復しないのではないかと思い、一晩悶々としたものでした。

自宅に戻った後は、いつ病院から連絡があるかとビクビクしながら一日を過ごしました。

2024年8月12日 (月)

塩分多目は腎臓に良くない

今年の夏も暑くなりました。

毎日、最高気温が35℃を超えて熱中症が心配されています。

熱中症の予防としては水分と塩分の補給といわれますが、晩年の母は二度ほど塩分不足を起こしました。

まず2018年のことですが、母は4月に脚の骨折で40日ほど入院をしました。

退院後の母は血圧が低くて脈拍が少なく、認知も今ひとつな様子でした。

そのため退院して間もなかったのですが外来で診察を受けたところ、水分と塩分の不足を指摘されました。

ただ母は元々腎臓に持病があったため、塩分を控える生活をしていました。

ですから私もどのような食事を提供するべきか大変に悩みました。

そうこうしているうちに母の状態は更に悪化していき、退院後12日で水分塩分不足で意識を失い、再び入院をすることになりました。

この時は、徐々に食べなくなっていく母をただ見ているだけで、私には為す術もありませんでした。

言い訳としては、水分と塩分の不足をいわれても解決策がはっきり示されなかったので、対処することができなかったということになります。

つまり水分を摂取して塩分を多目の食事にするわけですが、それは腎臓に良くないのが明らかなので、私にはできなかったということです。

2024年8月11日 (日)

施設にいながら塩分不足

この頃は毎日、最高気温が35℃を超えています。

不要不急の外出を控えることは当然ですが、室内でも熱中症に注意が必要なようです。

ところで、母が施設に入所していた2018年から2019年、私はほぼ毎日面会に行っていました。

ですから夏の間も通っていたわけですが、どうもその頃の暑さを思い出せません。

当時はおそらく暑さよりも、母に会いに行く義務感のようなもので頭が一杯だったように思います。

そして僅か数年前のことですが、今年ほど暑くなかったような感じもします。

昨日の記事では熱中症に関連して、母が塩分不足になったことを記しました。

本来、熱中症の予防には水分と塩分の補給が大切だとよくいわれています。

ところが母は若くして腎臓に持病がありましたから、水分と塩分を控えるような生活をしていました。

そのことと関係しているのかどうか分かりませんが、母の場合は90歳を過ぎた2018年と2019年に、塩分不足を起こしてしまいました。

特に2019年は施設にいながら塩分不足を指摘されましたので、その対策は難しいものがありました。

その上、当時母は既に心不全も発症していて食事制限もされていました。

2024年8月10日 (土)

熱中症の要注意人物

今年も蝉が盛んに鳴き始めました。

まだ暑い日が続いていますが、立秋も過ぎて夏も終わりが近づいているようです。

それでも今年の夏も例年同様の暑さのため、熱中症になった人が数多くいたようです。

最近の暑さは本当に危険ですから、残暑にも気をつけて欲しいものです。

ところで、熱中症の予防には水分と塩分の補給が大切だと良くいわれます。

そういう情報はかなり周知されていますので、今や皆さんがご承知のことと思います。

ただその対策は分かっていても、実際に行動に移すとなると場合によっては難しいことがあります。

私の母の場合は、90歳を過ぎた2018年と2019年に、塩分不足を起こしたことがありました。

母は若くして腎臓に持病がありましたので、塩分を控えることは本当に注意していました。

また、高齢になってからは『トイレが近くなる』という理由で、水分を控えることもありました。

そのような生活をしていましたので、今から思うと母は熱中症の要注意人物だったのかもしれません。

そんなわけで、90歳を過ぎてから母は2年連続で熱中症のような症状に苦しみました。

2024年8月 9日 (金)

昔話の時間

母を介護した経験を書き残すために始めたこのブログですが、8月に入ってからは戦争についていろいろと考えています。

それは私がある程度の年齢になってから、8月が戦争を考える月になっていたからです。

ところがいつの間にかテレビなどでは、この時期にも戦争関連の番組をほとんどやらなくなりました。

そして今日の新聞のテレビ欄を見ると、パリオリンピックの番組ばかりです。

現在のオリンピックも大事かもしれませんが、過去の戦争を振り返ることも大切です。

私がこう考えるようになったのは、私自身は戦争経験はありませんが、幼い頃はまだ所々に戦争の傷跡が残っていたからです。

ところが、30年程前に見たテレビ番組でインタビューされた当時の若い日本人は、日本とアメリカが戦争をしたことを知りませんでした。

そして今、同じインタビューをすると、かつて日本とアメリカが戦争したことを知らない人は、結構増えているのではないでしょうか。

ところで、私の両親はどちらも若い頃に戦争で辛い経験をしたのだろうと想像しています。

母は亡くなる1年程前、施設に研修に来た看護学校の学生たちに、空襲など戦争の話をしたと笑顔で話してくれました。

今の高齢者施設には、母のように戦争の話ができる人達がたくさんいるものと思います。

戦争の話だけではなく、高齢者が若い人達と様々な昔話で盛り上がるような時間があれば、施設での生活がより充実するように思います。

2024年8月 8日 (木)

広島と長崎

8月に入ってから私の気分的なものもあって、このブログは戦争について考えています。

それは、それなりの年齢になってから、私にとって8月が戦争について考える月になったからです。

また、両親を亡くしてから改めて考えてみると、二人とも人生の大切な時期に戦争を経験していました。

そして戦後79年が経過しました。

私には戦争の経験はないわけですが、幼い頃の記憶ではまだ所々に戦争の傷跡が残っていたように思います。

そのような世代ですから、多少なりとも戦争の記憶を次の世代に伝えておく必要があるのだろうと考えています。

というのも前日も記しましたが、もう30年程前に見たテレビの内容が衝撃的だったからです。

それはある番組でインタビューされた当時の若い日本人が、日本とアメリカが戦争をしたことを知らなかったということでした。

今インタビューをしたらどうでしょうか。

かつて日本とアメリカが戦争したことを知らない人は、結構増えているのではないでしょうか。

我々の世代では考えられないことですが、広島と長崎に原爆が落とされたことを知らない人もいるでしょう。

このブログは私の介護経験の記録として始めましたが、それ以上に戦争や原爆については後世に伝えられなければならないでしょう。

2024年8月 7日 (水)

後世に伝えるべきもの

このブログは、私が母を介護した経験が誰かの参考になればと考えて始めたものです。

何度も記しているように介護は人それぞれですから、私の経験談がどこまで役に立つのかは分かりませんが。

それでも実際に起きたことを正確に記しておくことは、それなりに意味があることだと思います。

ところで、8月に入ってからこのところ戦争のことについて記しています。

それはなんとなくそれなりの年齢になってから、私にとって8月が戦争について考える月になったからです。

そしてかつては、8月になるとテレビなどでも戦争にまつわる番組が増えたものでした。

ところが最近は、あまりそういった番組が流れなくなっているように感じます。

もっとも昨日の8月6日は広島に原爆が投下された日ということで、さすがに平和記念式典の中継はされていたようです。

ただ既に79回目の記念日ということで、式典だけではなく戦争についての説明が必要なのではないかと感じました。

というのは、もう30年以上前のことだと思いますが、あるテレビ番組で見た印象的な場面が思い出されたからです。

それはインタビューされた若い日本人が、日本とアメリカがかつて戦争をしたことを知らなかったという、かなり衝撃的な出来事でした。

私の介護経験はどうでもいいとしても、原爆や戦争経験は後世に必ず伝えるべきものであるのは明らかです。

2024年8月 6日 (火)

戦争経験者たち

最近テレビではパリオリンピックばかり放送されているようです。

昨年引越しをした私は、それを機にテレビを捨てたので私は見ていませんが……。

かつては昨日も記したように、8月になると戦争にまつわる番組が増えたものでした。

もちろん私には戦争経験はありませんが、自分の知らないことを知るのはとても貴重な経験でした。

そして私の両親は戦争の経験者ですから、もっと話を聞いておけば良かったとは思います。

ですが、私の両親を始めとして多くの戦争経験者は、あまり戦争の思い出を語りたがらなかったように思います。

私の両親も、年を取ってから思い出話のように少しずつ話してくれたような感じでした。

ただそれでも昨日の記事でも書いたように、『戦場のメリークリスマス』という映画を父が最初から最後まで見ていました。

それまで父がテレビで映画を見ることなどなかったので、その様子は私にとってとても印象的でした。

おそらく、自らが戦争の話をすることはなくても、何か思うところがあったのでしょう。

それが父にとってどんな思いなのかは分かりませんが、若い頃にそんな体験をした人々は本当に大変だっただろうと思います。

私は暑い時季が来ると戦争を考える機会が多くなるのですが、若くして戦争を経験した両親を亡くなってから更に尊敬するようになりました。

2024年8月 5日 (月)

『戦場のメリークリスマス』

早いもので、今年も既に8月に入りました。

暑い季節になると思い出すことがいくつかあります。

例えば戦争にまつわることなどもその一つです。

もちろん私には戦争経験はありませんが、両親は戦争の経験者です。

ですが、両親を始めとしてその世代の人々は、あまり戦争の思い出を語らなかったように思います。

それはやはり当然のことながら、良い思い出ではないからだったのでしょう。

ただ両親が健在の頃は、メディアでも戦争の話題を取り上げることが今よりもはるかに多かった気がします。

特にテレビでは、戦争関連の番組や映画などが放映されていました。

そういった番組を見た後には、両親とも話をしたような記憶があります。

その中で私が特によく覚えているのが、父が『戦場のメリークリスマス』という映画を最初から最後まで見ていたことです。

普段はテレビの映画を見ることなどなかった父が、最後まで見ていたのは印象的でした。

その時は映画の終了後に話をすることはありませんでしたが、どんな思いで見ていたのか聞いておけば良かったと、今でも思います。

2024年8月 4日 (日)

家族で抱え込む

このブログは母の四十九日の法要が済んで数日後に始めました。

その理由の一つは、母の介護についての記録を残していたことから、誰かの参考になればという思いがあったからです。

ここ数日取り上げているある著名人の介護経験に関する新聞記事も、そんな思いで記しています。

その方は当初『家族が面倒を見るのが当然だ』という考えが強かったそうです。

ただ、母親には認知症の症状があったために介護生活は大変だったようです。

そしてとうとう母親の首に手を掛けそうになる事態があったことで『自分が壊れてしまう』と思ったそうです。

当時はまだ介護保険が導入される前で、その道のプロとして病院に頼ったとのことでした。

その結果『人の手を借りることは恥ずかしいことではない』と悟ったということです。

私の母の場合は認知症の症状がなかったので、この方ほどの大変さはありませんでした。

それでもウチで介護をしていた母が、施設に入ったことで心身ともに大変楽になりました。

もちろん、このブログでも何度も記しているように、介護というものは本当に人それぞれです。

ただ、家族だけで抱え込むのはとても危険だ、ということは言えるのではないかと思っています。

2024年8月 3日 (土)

『自分が壊れてしまう』

このブログは母の四十九日の法要が済んで数日後に始めました。

その理由の一つは、母の介護についての記録を残していたことから、誰かの参考になればという思いがあったからです。

もちろんこのブログでも何度も記しているように、介護というものは本当に人それぞれです。

ですから、もう一度母が同じ施設で介護生活を送ることになっても、同じ結果にはならないだろうと思っています。

それくらい介護は難しいものだと私は考えています。

ただそれでも介護生活を送った人の経験は、後に介護をすることになる人にとって、何らかの参考になるものと確信しています。

ところで昨日も紹介しました8月1日の新聞に、親の介護生活を送ったある著名人の記事がありました。

その方の母親は認知症の症状があって介護生活も大変だったようで、母親の首に手を掛けたこともあったと語っています。

それはまだ介護保険が始まる前のことで、『親の面倒を子が見るのが当然だ』との思いがあったそうです。

その後、とうとう親の首に手を掛けた時に、『このままでは自分が壊れてしまう』と気付いたということです。

やはり認知症の症状があると、自宅で介護するのはとても大変なことだろうと思います。

結局、介護保険前ということで、その道のプロとしての病院に頼ることを決めたということでした。

2024年8月 2日 (金)

親の首に手を掛けた

このブログは母の四十九日の法要が済んで数日後に始めました。

その理由の一つは、母の介護についての記録を残していたことから、誰かの参考になればという思いがあったからです。

また、施設での母の生活について、私が満足していたことを伝えたかったということもありました。

ただこのブログでも何度も記しているように、介護というものは本当に人それぞれです。

そして、もしもう一度母が同じ施設で介護生活を送ることになっても、同じ結果にはならないだろうと思います。

それくらい介護は難しいものだと私は考えています。

ただそれでも介護生活を送った人の経験は、後に介護をすることになる人にとって、何らかの参考になると確信しています。

ところで8月1日の新聞に、親の介護生活を送ったある著名人の記事がありました。

その方は一度、母親の首に手を掛けたと話しています。

私の場合はウチで母を介護していた時も、それほど大変なことはありませんでした。

ただ母が心身ともに不調になった時に、数日だけ母のベッドの側で寝ていたことがあります。

そのわずか数日で、いわゆる介護地獄の入り口まで行ったような状況になるくらい、介護は恐ろしいものだ思っています。

2024年8月 1日 (木)

やわらかいイカ

このところ母が晩年も食欲が旺盛だったことから、食事の思い出について記しています。

母が持病がありながらも90歳を超えて生きられたのは、その旺盛な食欲にもあったと私は考えています。

母は晩年自分の歯がほぼなくなり、食べられない食材が出てきました。

そういうことから母の食事に出す材料は、噛みやすいものを選ぶようになりました。

ですから、ここ数日取り上げているイカについては、私の中では最初に除外していました。

ただ、昨日記したように母が亡くなった後にコロナが流行し、私は様々な缶詰をケースで買ったりするようになりました。

その中にはイカの缶詰がありました。

その缶詰を食べてみた私は、意外とやわらかく食べやすいことに驚きました。

そして『これなら歯がなかった母でも噛み切れたかもしれない』と思いました。

その後、大根と一緒に煮物にして食べてみました。

とてもやわらかくて美味しく、母を介護していた頃に作っていれば喜んでもらえただろうと思いました。

やわらかいイカもあることを知らなかったのは、母が亡くなった今でも後悔していることの中の一つといえるかもしれません。

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