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2024年7月

2024年7月31日 (水)

イカの缶詰

このところ母が晩年も食欲が旺盛だったことから、食事の思い出について記しています。

母が持病がありながらも90歳を超えて生きられたのは、その旺盛な食欲にもあったと私は考えています。

ところが晩年の母は歯がなくなり、食べられない食材が出てきました。

ウチで母を介護していた当時は、私が調理を担当していましたから、食材には頭を悩ますこともありました。

ということで、昨日取り上げたイカの煮物については、私の頭から最初に除外されていました。

そして当時は、なるべく自分で作ったものを母に食べてもらいたいという、そんな考えもありました。

そのためレトルト食品や缶詰などは、ほとんど食卓にあげることはありませんでした。

ただ母が亡くなってから、あるイカの缶詰を知って、これなら母も食べられたかもしれないと考えるようになりました。

というのは、2020年2月頃からコロナが始まって、私はほとんど買い物に出かけなくなりました。

その代わりに、ネットでの通信販売を利用するようになりました。

そして買い物の回数も減らすために、缶詰などをケースで買うようになりました。

そういう購買行動の変化が、それまで知らなかった食材との出会いをもたらせてくれました。

2024年7月30日 (火)

イカの煮物

このところ母が晩年も食欲が旺盛だったことから、食事の思い出について記しています。

母が持病がありながらも90歳を超えて生きられたのは、その旺盛な食欲にもあったと私は考えています。

とにかくウチで介護をしていた時期は、本当によく食べてくれたものでした。

昨日は、大根とさつま揚げの煮物を作ったことを記しました。

母は煮物が好きでしたので、もっといろいろな種類のもので作ってあげられたら良かった、という思いが今でもあります。

ただ、母はほとんど歯がなくなっていたので、食材には制限がありました。

どちらかといえば、堅いものというよりもグニャグニャして歯ごたえのないものが苦手なようでした。

ですから、ウチで母を介護していた当時は、少し気を遣いすぎていたかもしれません。

そんな中で、今さらながら作ってあげたかったと思っているものが、イカの煮物です。

歯がなかった母は、お寿司の中にイカの握りがあると必ずそれを残していました。

そういうことから私は、母に出す食事の中にイカを使うことは考えたこともありませんでした。

ただ、ある缶詰を知ってから、これなら母も食べられたかもしれないと考えるようになりました。

2024年7月29日 (月)

「何を食べているのか……」

昨日の記事では母が晩年も食欲が旺盛だったことを記しました。

私は、母が持病がありながらも90歳を超えて生きられたのは、その旺盛な食欲にもあったと考えています。

とにかくウチで介護をしていた時期は、本当によく食べてくれました。

それが、施設にお世話になってからは、残念に思われることもいろいろとありました。

昨日も記したように、まず生ものが食べられなくなりました。

その他、施設の食事は全体に塩味が薄く、母は時々不満を漏らしていました。

また、歯がないということで、多くの料理がミンチ状で出されるので「何を食べているのか分からない」と母は話していました。

確かに母はほとんど歯がなくなっていて、そのために私も調理には苦労をしました。

ですから母が好きそうなものでも、作らなかったものがいくつかありました。

特に母は大根の煮物が好きでした。

私も時々、大根とさつま揚げの煮物などを作ったりしましたが、もっと様々な種類のものを作ってあげられたら良かったと思います。

ただ私が作った煮物を食べた時の母の表情は、あまり満足そうでなかったように見えたことが多かった、と記憶しています。

2024年7月28日 (日)

晩年も食欲旺盛

昨日は今年も『土用の丑の日』が過ぎたことにちなんで、ウナギの話題を記しました。

そして母が最後にウナギを食べたのがいつだったかと考えましたが、それはもう分からなくなりました。

それにしても暑い時期にウナギを食べると、本当に元気になったような気がします。

その理由がどこまで明らかになっているのか知りませんが、こういう食べ物もあまりないように思います。

ところで食べ物の話になると、晩年でも母の食欲が旺盛だったことを思い出します。

ウチで介護をしていた当時は、インシュリンの注射を使っていたので、決まった時間にしっかり食べることが重要でした。

母自身も戦争経験者らしく、テーブルに並んだ食べ物は全て平らげるという考えの持ち主でした。

ですから、私が『少し作りすぎたかな』と思った時も、母は頑張って食べてくれました。

そんな母も、施設に入ってからは食事制限をされるようになりました。

後半は本格的に制限されましたが、生ものなどは入所とともに食べられなくなりました。

母は刺身、特にマグロが好きだったので、私も何とか食べさせてあげられないか考えたりしたものでした。

結局それは実現しませんでしたが、何度か一緒に食事をすることができて、それは良い思い出になっています。

2024年7月27日 (土)

『土用の丑の日』

今年も本格的な暑さがやってきました。

そして先日の7月24日は『土用の丑の日』でした。

『土用の丑の日』といえばウナギです。

その日私は所用で最寄りの駅周辺を歩いていました。

駅前には商店街があり、その昔は『銀座通り』と呼ばれていました。

今ではその名前は変わってしまいましたが、店が入れ替わりながらもそこそこ賑わっているようです。

それでも店の前で行列を見たことはほとんどありませんが、7月24日のお昼頃、ある店に行列ができていました。

その店は古くからある鰻屋さんで、私はかなり前から知っていますが、初めてその店の行列を見たように思います。

同時に、さすがに『土用の丑の日』ですから、鰻屋さんには頑張って欲しい気がして、何故か私も嬉しくなりました。

そういえば、母は最晩年に施設で『穴子寿司』をよく食べてくれました。

母はウナギも嫌いではなかったので、最後に食べたのはいつだったのかと考えました。

その答えは今では分かりませんが、『土用の丑の日』にウナギなどという習慣は大事にしたいものだと、改めて思いました。

2024年7月26日 (金)

「ベランダで花火を見た」

今年も本格的な暑さがやってきました。

そしてこの時期になると、各地で花火大会が催されます。

いま私が住んでいるところからは、打ち上がる花火をほとんど見ることができません。

ただ、母をウチで介護していた当時に住んでいた場所からは、ベランダに出れば見える花火大会がありました。

その頃の母は脚の具合があまり良くなく、室内でも伝い歩きをしているような状況でした。

そのために入浴も控えて、私が身体を清拭してあげていました。

ですから母は、段差のあるベランダに出たことはありませんでした。

ただ、肉眼で花火を見るのはこの時季しかないので、あるとき私は「ベランダから花火が見えるよ」と母を誘ってみました。

『足元が怖いということで母は断るかな』と私は勝手に思い込んでいました。

ところが、母は興味津々な様子でベランダの手前の窓辺まで歩いてきました。

私が母の手を取ってベランダに降ろしてあげると、しばらくの間母は花火を楽しんでいました。

母が施設に入ってからこの時のことを尋ねると、母は良く覚えていて「ベランダで花火を見た」と笑顔で振り返っていました。

2024年7月25日 (木)

花火大会も酣

今年も猛烈な暑さの時季がやってきました。

私は午前中に仕事をしていますが、母が施設にいた頃は午後に面会に行っていました。

それは、もう4~5年前のことになってしまいました。

ただ今年の暑さで午後も出かけるとなると、無事に夏を過ごせるかどうか自信がありません。

それに4~5年前はここまで暑くなかったような気もします。

いずれにしても、このところ口を開けば「暑い」と言っているように感じます。

ところでこの時期は、暑さが盛りなだけでなく、各地の花火大会も酣となります。

ウチの近所でもいくつか開かれ、暗くなると花火の音が聞こえます。

ただ、今のウチからはほとんど見えることはありません。

ところが、母を介護していた頃に住んでいた場所からは、ベランダに出れば見えた花火大会がありました。

とはいえ母は脚が悪かったので、段差のあるベランダに出たことはありませんでした。

ですから私が「ベランダから花火が見えるよ」と母に教えても、母は遠慮するのではないかと思っていました。

2024年7月24日 (水)

餅抜きの雑煮

今朝食事をしていると、危うく誤嚥をしてしまいそうになりました。

このごろ時々あるのですが、おそらく老化が原因なのだろうと思います。

聞くところによりますと、口内の動きは複雑なため、高齢者になると時々失敗してしまうようです。

そのため、より慎重に飲食をしないと危険性が増すのでしょう。

母をウチで介護していた当時、私も誤嚥には注意をしていました。

ただ母は食べ方が上手かったのか、飲食中にむせたり誤嚥をしたりすることはほとんどありませんでした。

それでも食べ物の中では、特に餅には注意をしました。

おそらく母が80代の後半を過ぎてからは、お正月の雑煮にも餅は入れなかったように記憶しています。

母は食欲が旺盛で、餅も好きでしたから残念そうな感じでした。

それでもやはり本人も心配なのか、餅抜きの雑煮に納得していたように感じています。

万一餅を詰まらせた場合、私も対処できそうにないので、いつの間にか我が家の食卓から餅の姿が消えました。

ただ、母の食べ方からすると、餅を食べさせてみても良かったかなと、今でも時々思います。

2024年7月23日 (火)

「ここの先生は優しい」

このところ母の思い出として、母が行ったリハビリについて記しています。

母は2018年4月に脚を骨折して入院した時、手術後しばらくしてリハビリを始めました。

この時は心身ともに調子を崩したこともあり、リハビリも思うように進みませんでした。

おそらく、母にとっても予想以上に身体が動かなかったこともあって、ショックだったのだろうと思います。

また私はこの時、母の認知が不安になったこともあって、主治医にお願いして早めに退院させてもらいました。

ですからリハビリもほとんどできていない状態で、5月12日に母は家に戻ってきたわけです。

ただ、自宅に戻った後は更に心身が不安定になり、意識不明の状態で5月24日に再び入院してしまいました。

この2度目の入院では、母が心身ともに回復するまでかなりの時間を要しました。

それでも調子が良くなってからリハビリを行ったからか、この時のリハビリの進み具合は目を見張るものがありました。

ところで、昨日の記事で「病院のリハビリの先生は怖かった」と、母が言ったことを取り上げました。

ただこれは、施設に入所してリハビリ好きになった母が「ここのリハビリの先生は優しい」と言った際に、比較して出た言葉です。

今思うと、母にとって病院でのリハビリが苦しかったこともあって、そんな印象が強調されたような気もします。

2024年7月22日 (月)

「病院の先生は怖かった」

私の母は2018年7月4日にいわゆる『介護老人保健施設』に入所しました。

その施設で母は楽しく笑顔に溢れた日々を過ごしてくれました。

そして、その結果を私はなんとなくですが予想をしていました。

その理由の一つとして私が考えているのがリハビリで、このところそのリハビリについて記しています。

施設に入所する前の病院で、母はとても元気で陽気になっていました。

その原因がリハビリに積極的に取り組んだ、ということにあるのは間違いのないところです。

ところがその前に2018年4月に脚の骨折で入院した時には、母は思うようにリハビリが進みませんでした。

この時は母の心身の調子が良くなく、リハビリに身が入らなかったようでした。

その結果、一旦退院しましたが自宅でさらに体調を崩して、再び入院したわけです。

そして2度目の入院時は体調の回復とともに、リハビリも上手くいったということでした。

その2回とも病院でのリハビリは同じ先生が担当していました。

また、その後に母に聞いた話では「病院のリハビリの先生は怖かった」と苦笑いしていました。

2024年7月21日 (日)

リハビリの進み具合

私の母は2018年7月4日にいわゆる『介護老人保健施設』に入所しました。

その施設で母は楽しく笑顔に溢れた日々を過ごしてくれました。

そして、その結果を私はなんとなくですが予想をしていました。

その理由の一つとして私が考えているのがリハビリで、このところそのリハビリについて記しています。

2018年5月24日に意識不明で入院した母が、施設に入所する前の2018年6月後半にはとても元気で陽気になっていました。

その原因がリハビリに積極的に取り組んだ、ということにあるのは間違いのないところです。

もちろんそのためには心身ともに健康であることは必要なことでした。

というのは、2018年4月に母は脚の骨折で入院して手術をしました。

手術後しばらくして、この時もリハビリを始めました。

確か手術をしてから10日ほどしてから本格的に始めたように思います。

ただこの時は考えていたようにはリハビリが進みませんでした。

その理由としては母のやる気もあったのでしょうが、それ以前に心身の調子が良くなかったことが大きかったように思います。

2024年7月20日 (土)

積極的な姿勢が実を結ぶ

私の母は2018年7月4日にいわゆる『介護老人保健施設』に入所しました。

その施設で母は楽しく笑顔に溢れた日々を過ごしてくれました。

そして、その結果を私はなんとなくですが予想をしていました。

それは2018年5月24日に意識不明で入院した母が、施設に入所する直前の2018年6月後半にはとても元気で陽気になっていたからです。

私の知る限りでは、この時ほど陽気な母は見たことがないくらいでした。

ウチで母を介護していた時期には施設での生活など考えたこともありませんでした。

ところが、この時期は面会に行くといつも母は上機嫌なので、これなら大丈夫ではないかという感触がありました。

その原因は、もちろん心身ともに調子が良くなったことが大きかったと思います。

そしてその他には、リハビリが大きかったのだろうと私は考えています。

このころのある日、病院で私が母のベッドを覗くと、母は仰向けに横たわったまま腕の屈伸運動をしていました。

目が合った母は照れ笑いをしていましたが、その姿を見て私は本当に嬉しく思ったものでした。

そのような積極的な姿勢が実を結んで、その後母は歩行器を使って歩けるようになるまで回復をしました。

2024年7月19日 (金)

「やる気が違います!」

私の母は2018年7月4日にいわゆる『介護老人保健施設』に入所しました。

その施設で母は楽しく笑顔に溢れた日々を過ごしてくれました。

そして、その結果を私はなんとなくですが予想をしていました。

それは2018年5月24日に意識不明で入院した母が、施設に入所する直前の2018年6月後半にはとても元気で陽気になっていたからです。

それはおそらく体調が良くなったということが大きかったのでしょう。

そして体調が良化すると、看護師さんたちと談笑したりして精神的にも明るくなっていきました。

そんなことから私は『今なら施設でも上手くやれそうだ』との感触があったわけです。

その他に母が元気になった原因として私は、リハビリを外すことはできないと思っています。

元々運動が苦手な母が、この時の入院中にすっかり『リハビリ好き』になっていました。

2018年4月2日に脚を骨折して入院した時には、手術後のリハビリが思ったようには進みませんでした。

そのためか母は精神的に落ち込んでしまい、リハビリにやる気が出ずに悪循環に嵌まってしまいました。

それが、2018年6月はリハビリの先生が「やる気が違います!」と太鼓判を押すくらい、母は気力が漲っていました。

2024年7月18日 (木)

リハビリのおかげ

私の母は2018年7月4日にいわゆる『介護老人保健施設』に入所しました。

その施設で母は楽しく笑顔に溢れた日々を過ごしてくれました。

そして、その結果を私はなんとなくですが予想をしていました。

それは施設に入所する直前の2018年6月後半に、母がとても元気で陽気になっていたからです。

それより前、母は2018年5月24日に意識不明の状態で、施設に隣接する病院に入院しました。

その病院で間もなく意識を取り戻した母は、紆余曲折がありながらも段々と元気さを取り戻していきました。

そして体調が良化すると、看護師さんたちと談笑したりして精神的にも明るくなっていきました。

そういった状況でしたから、私は『これなら施設でも上手くやれるのではないかな』と考えていました。

ところで、母が元気で陽気になったのは、心身の状態が良化したことが大きかったのだと思います。

その原因としては様々なものを挙げることができます。

もちろん幸運もあったでしょう。

ただ何といっても私は、『リハビリのおかげ』だと強調しておきたいと思います。

2024年7月17日 (水)

どこでも笑顔

私の母は2018年7月4日にいわゆる『介護老人保健施設』に入所しました。

その施設で母は楽しく笑顔に溢れた日々を過ごしてくれました。

そして、その結果を私はなんとなくですが予想をしていました。

ところで、施設に入所する前の母が隣接する病院にいたことは何度か記しました。

2018年5月24日に意識不明の状態で、母はその病院に入院しました。

間もなく意識を取り戻した母は、紆余曲折がありながらも段々と元気さを取り戻していきました。

体調が良化すると、看護師さんたちと談笑したりして精神的にも明るくなっていきました。

そういった状況を見て、私は『これなら施設でも上手くやれるのではないかな』と考えていました。

それは、施設を見学をした時に私が気に入った、ということも大きかったのかもしれません。

ただ、それまで私は、母がそういった施設に馴染んでくれるとは全く思ってもいませんでした。

むしろ、できるだけ家で余生を過ごさせてあげたいと考えていました。

ところが2018年6月後半の母は、本当に心身ともに元気で、どこに行っても笑顔でいるのではないかというくらい陽気でした。

2024年7月16日 (火)

『駅のホームのような』

私の母は2018年7月4日にいわゆる『介護老人保健施設』に入所しました。

その施設で母は楽しく笑顔に溢れた日々を過ごしてくれましたが、それでも入所当初はいろいろとありました。

これまでにいくつかの母の言葉を紹介しましたが、最も理解しがたかったのが「駅のホームから電車に乗った」というものでした。

これは入所翌日ころの話で、最初私は『夢の話でもしているのかな?』と思いました。

ただその後も話を聞いていると、どうもリハビリに行った時のことを言っているような気がしてきました。

というのも、このころリハビリが始まり、母も楽しそうにリハビリに行った話をしてくれたからです。

そして私が気付いたのは、母の居室が北側の端にあって、皆が集まる食堂までかなり長い距離の真っ直ぐな廊下を移動していたことでした。

確かにその一直線で長い廊下は『駅のホーム』と呼ぶのに相応しい感じがしました。

また当時母のいたフロアは5階で、リハビリルームはその施設の3階にありました。

ですから、母にとって廊下が『駅のホーム』だとすれば、その先で乗るエレベーターは母にとっての『電車』だったのでしょう。

いずれにしても、このころの母は心身ともに絶好調で、一生懸命にその日の出来事を話してくれました。

ただ『駅のホーム』にしても『電車』にしても、『駅のホームのような』とか『電車みたいな』と表現してくれれば良かったのにと思います。

2024年7月15日 (月)

長い廊下とエレベーター

私の母は2018年7月4日にいわゆる『介護老人保健施設』に入所しました。

その施設で母は楽しく笑顔に溢れた日々を過ごしてくれましたが、それでも入所当初はいろいろとありました。

その一つが最初の1週間ほど、私が面会から帰る際に母が「今日もここに泊まるの?」と不安そうな表情で尋ねたことでした。

そして二つ目として、「イタリア人が来て、次にスペイン人が来た」と母が笑顔で言っていたことがありました。

これは初日の介護についての話でしたが、しばらくして私は母がイタリア人とスペイン人だと考えた人たちを見つけることができました。

どちらの人も普通に日本語を話していましたが、なぜか母の感性に感心してしまったことを覚えています。

そしてもう一つ私が『?』と思ったことは、母が言った「駅のホームから電車に乗った」と説明してくれたことについてでした。

これは入所後翌日くらいの時の話で、最初私は『夢の話かな?』と思いましたが、どうもリハビリに行った時のことのような気がしました。

というのも、このころはほぼ毎日のようにリハビリがあり、母も毎日のようにそういう話をしてくれたからです。

そんな日が続いて私が気付いたのは、母の居室が北側の端にあって、皆が集まる食堂まで長い真っ直ぐな廊下を移動していたことでした。

その長い廊下を『駅のホーム』、そしてその先のエレベーターが『電車』と、母は表現していたように解釈しました。

ただ、この母の表現は最初のころだけでしたが、屈託のない笑顔で一生懸命に話をしてくれて、私も嬉しかったことを良く覚えています。

2024年7月14日 (日)

「駅のホームから電車に乗った」

私の母は2018年7月4日にいわゆる『介護老人保健施設』に入所しました。

その施設で母は楽しく笑顔に溢れた日々を過ごしてくれましたが、それでも入所当初はいろいろとありました。

その一つが最初の1週間ほど、私が面会から帰る際に母が「今日もここに泊まるの?」と不安そうな表情で尋ねたことでした。

そして二つ目として、「イタリア人が来て、次にスペイン人が来た」と母が笑顔で言っていたことがありました。

これは初日の介護についての話でしたが、私は『介護者に外国人は見当たらないけど変だな』と最初は思いました。

ところが、施設に通っているうちに母がイタリア人とスペイン人だと考えた人たちを見つけることができました。

どちらの人も普通に日本語を話していましたが、なぜか母の感性に感心してしまったことを覚えています。

そしてもう一つ私が『?』と思ったことは、入所して2~3日目のことだったと思います。

母と会話している中で「駅のホームから電車に乗った」とその日のことを説明してくれました。

これはさすがに私も何が何だかわからずに、『夢の話でもしているのかな?』と思いました。

いくら何でも入所してわずかな時期に、駅まで外出して電車に乗ることは考えられなかったからです。

ただ、母は上機嫌で熱心に話をしてくれるので、私はひたすら聞き役に回ることにしました。

2024年7月13日 (土)

夢の話?

私の母は2018年7月4日にいわゆる『介護老人保健施設』に入所しました。

その施設で母は楽しく笑顔に溢れた日々を過ごしてくれましたが、それでも入所当初はいろいろとありました。

その一つが最初の1週間ほど、私が面会から帰る際に母が「今日もここに泊まるの?」と不安そうな表情で尋ねたことでした。

そしてもう一つ、この時期に特徴的なことがあり、それは母の話の中に理解しがたい表現が、時々出てきたことです。

その中の一つとして昨日取り上げた「イタリア人が来て、次にスペイン人が来た」と母が笑顔で言っていたことがありました。

これは初日の介護についての話で、イタリア人の介護者の後にスペイン人がお世話してくれたと言っていたのでした。

そしてこれはおそらく、どことなく母のイメージするイタリア人とスペイン人に似た人がいたということだったと思います。

そのように考えると確かにそれらしい人もいた、というのが私が後に気づいたことでした。

またもう一つ私が『?』と思ったことがありました。

それは入所して2~3日目のことだったと思います。

母はその日に起きたことを「駅のホームから電車に乗った」と説明してくれました。

最初にそれを聞いたとき、私は『夢の話でもしているのかな?』と思いました。

2024年7月12日 (金)

母のセンス

私の母は2018年7月4日にいわゆる『介護老人保健施設』に入所しました。

その施設で母は楽しく笑顔に溢れた日々を過ごしてくれましたが、それでも入所当初はいろいろとありました。

その一つが最初の1週間ほど、私が面会から帰る際に母が「今日もここに泊まるの?」と不安そうな表情で尋ねたことでした。

そしてもう一つ、この時期に特徴的なことがあり、それは母の話の中に理解しがたい表現が、時々出てきたことです。

入所して間もなくの頃は、毎日私が面会に行くと、母はその日に起きたことを一生懸命に話してくれました。

ただ、その話の中に『何について言っているのかな?』と思うこともありました。

例えば初日の話の中で「イタリア人が来て、次にスペイン人が来た」と母は笑顔で言いました。

どうもそれは初日に介護されたことについて話していて、イタリア人の介護者の後にスペイン人がお世話してくれたと言っていたのでした。

その時はまだ初日でしたので私も確信はありませんでしたが、施設の介護者に外国人は見かけなかったような気がしていました。

そしてその後しばらくしても、私は介護者の中にイタリア人やスペイン人を見つけることはできませんでした。

ただ、男性の介護者に中に短髪で細面の人がいて、その人は見ようによってはイタリア人ぽいかなとは思いました。

また確かにもう一人、彫りが深く体格の良い男性がスペイン人といえばいえなくもないように見え、母のセンスもなかなかだと感じました。

2024年7月11日 (木)

イタリア人が来た

私の母は2018年7月4日にいわゆる『介護老人保健施設』に入所しました。

その施設で母は楽しく笑顔に溢れた日々を過ごしてくれましたが、それでも入所当初はいろいろとありました。

その一つが最初の1週間ほど、私が面会から帰る際に母が「今日もここに泊まるの?」と不安そうな表情で尋ねたことでした。

そしてもう一つ、この時期に特徴的なことがあり、それは母の話の中に理解しがたい表現が、時々出てきたことです。

以前も記したように、母は施設の生活に満足していた様子で、私が面会に行くとその日に起きたことを一生懸命に話してくれました。

一つ一つしっかりと思い出そうとするような表情で、本当に楽しそうに熱のこもった話をしてくれました。

その母の姿は、施設に入所する前の母が脱水状態で入院していたことを思うと、私はとても嬉しく思いました。

ただ、その話の中に『何について言っているのかな?』と思うこともありました。

例えば初日の話の中で「イタリア人が来て、次にスペイン人が来た」と母は笑顔で言いました。

それを聞いて私は『いつの何についての話かな?』と、少し戸惑いました。

そんな思いを抱きながらしばらく母の話を聞いていると、どうも初日の介護について話しているようでした。

ただ、私も初日でしたので確信はありませんでしたが、介護者に外国人は見かけなかったような気がしていました。

2024年7月10日 (水)

熱弁を振るう

私の母は2018年7月4日にいわゆる『介護老人保健施設』に入所しました。

そして何度か記してきたように、母はその施設で楽しく笑顔に溢れた日々を過ごしてくれました。

それでも入所当初はいろいろとありました。

その一つが最初の1週間から10日ほど、私が帰る際に母が「今日もここに泊まるの?」と不安そうな表情で尋ねたことでした。

そのことについては、ここ数日の間ここに記してきました。

そしてもう一つ、この時期に特徴的なことがありました。

それは、母の話の中に理解しがたい表現が、時々出てきていたことです。

以前も記したように、母は施設の生活に満足していた様子で、私が面会に行くとその日に起きたことを一生懸命に話してくれました。

それもただ話をするというよりも、本当に楽しそうに熱弁を振るうという感じでした。

施設に入所する前の母は脱水状態で病院に入院していて、一時期は意識を失ったりしていました。

ですから、施設で会う元気で熱心に話をしてくれる母の姿は、私をとても喜ばせてくれました。

ただ最初の頃は、その話の中に『何について言っているのかな?』と思うこともありました。

2024年7月 9日 (火)

「夫が帰りたいと……」

私の母は2018年7月4日にいわゆる『介護老人保健施設』に入所しました。

そして何度か記してきたように、母はその施設で楽しく笑顔に溢れた日々を過ごしてくれました。

それでも入所初日は、面会に行った私がそろそろ帰ろうとした時に、母は「ここに泊まるの?」と不安そうな表情で尋ねました。

そして、そのようなことが1週間から10日ほど続いたように思います。

ただその後は母も慣れたのか、そういう質問はしなくなりました。

当時私は『夜中に何かあるのかな?』などとも考えましたが、おそらくそれは「ウチに帰りたい」という意味を含んでいたのでしょう。

施設に良く馴染んでくれた私の母でさえ、最初はそんなこともありました。

また、施設の相談員の方と話をした時も「すぐに帰ってしまう人もいる」ということは聞いていました。

そして母がすっかり施設に馴染んだ頃のある日、帰りのエレベーターの中で面会者の方とこんなやり取りがありました。

そのご婦人はご主人が入所したばかりとのことで「夫が帰りたいと言って困ります」と言っていました。

「ウチの母も最初はそうでした」と私は答えましたが、実際には母はそれほどでもなかったようです。

あくまでも私見ですが、どちらかといえば男性の方が、このような施設での生活は馴染めないような気がします。

2024年7月 8日 (月)

「ウチに帰りたい」

私の母は2018年7月4日にいわゆる『介護老人保健施設』に入所しました。

そして何度か記してきたように、母はその施設で楽しく笑顔に溢れた日々を過ごしてくれました。

また、入所当初から母は、施設の生活におおよそ満足していたようでした。

ですから、入所初日の夕方に面会に行った際も、母は施設に来てから起こったことを漏れなく伝えようと笑顔で熱心に話をしてくれました。

ところが、私がそろそろ帰ろうかという時、母はそれまでの笑顔から「ここに泊まるの?」と不安そうな表情で尋ねました。

翌日も同様で、笑顔で熱心に話していた母が、私が帰る際には不安そうな表情で「今日もここに泊まるの?」と尋ねてきました。

そのようなことが1週間から10日ほど続きましたが、その後は母も慣れたのか、そういう質問はしなくなりました。

私は一時、『この施設では夜中に恐ろしいことでも起きるのかな?』とも考えましたが、結局そういうことではなさそうでした。

もしかすると母は、施設に入所する前の病院では「ウチに帰りたい」と口にしていましたから、それを言い換えていたのかもしれません。

帰宅の希望を口にする代わりに、疑問の形で私に伝えたのでしょうか。

それでも、この時期が過ぎて施設の生活に馴染んだ後の母は、帰宅したいというような言動は一切しませんでした。

ただこの後、母が自宅に一度も戻らなかったことは少し残念に思っています。

2024年7月 7日 (日)

夜中に恐ろしいことが……

このところずっと記事の冒頭に『2018年7月4日に母が「老健」に入所した』と記してきました。

そして何度も書いてきたように、母はその施設で楽しく笑顔に溢れた日々を過ごしてくれました。

ところで、私はほぼ毎日夕方に、母の面会のために施設に行っていました。

そして入所当初から母は、施設の生活におおよそ満足していた様子でした。

ですから、入所初日に夕方に面会に行った際も、母は施設に来てから起こったことを漏れなく伝えようと笑顔で熱心に話をしてくれました。

ところが、私がそろそろ帰ろうかという時、母からそれまでの笑顔が消えて「ここに泊まるの?」と不安そうな表情で尋ねました。

そして翌日も夕方に施設に行くと、母は初日と同様に、その日に起きたことを笑顔で熱心に話してくれました。

それでもまた、私が帰る時に母は不安そうな表情で「今日もここに泊まるの?」と尋ねてきました。

その時の母の表情は、この施設では夜中に何か恐ろしいことが起きるのかと思わせるのに十分なものでした。

そんなことが1週間から10日ほど続きましたが、さすがに母も慣れたのか、それ以後はそのような表情を見ることはありませんでした。

施設の相談員の方の話では、入所後すぐに帰ってしまう人もいるようで、やはり慣れないうちは居心地もよくないのでしょう。

結局、施設で夜中に恐ろしいことが起きたという話を母から聞くことはありませんでした。

2024年7月 6日 (土)

「今日もここに泊まるの?」

このところずっと記事の冒頭に『2018年7月4日に母が「老健」に入所した』と記してきました。

そして何度も書いてきたように、母はその施設で楽しく笑顔に溢れた日々を過ごしてくれました。

ところで、施設に入所する前に入院していた病院で、既に母は心身ともに元気になっていました。

ですから私は『これなら施設でも上手くいくかもしれない』と思っていました。

そして入所した7月4日は、午前中に手続きをした私は一旦自宅に戻って、再び夕方に母の様子を伺うために施設に行きました。

すると母は、施設に来てから起こったことを漏れなく伝えようと笑顔で熱心に話をしてくれました。

その母の姿を見て、私も嬉しくなり『上手くいきそうだ』という予想が確信に変わりました。

ところが、私がそろそろ帰ろうという雰囲気になった時、母からそれまでの笑顔が消えました。

そして、母は「ここに泊まるの?」と不安そうな表情で私に尋ねました。

楽しそうに話をしていた母の顔が強ばったのを見て、私も少し心配になりましたが、当然ながら母を残してその日は帰りました。

そして翌日も夕方に施設に行くと、母はその日に起きたことを笑顔で熱心に話してくれました。

それでもまた、私が帰る時に母は不安そうな表情になって「今日もここに泊まるの?」と尋ねてきました。

2024年7月 5日 (金)

『上手くいきそうだ』

このところずっと記事の冒頭に『2018年7月4日に母が「老健」に入所した』と記してきました。

ですから、早くもその時から6年が経過したことになりました。

そして何度も書いてきたように、母はその施設で楽しそうな笑顔に溢れた日々を過ごしてくれました。

ところで、この日7月4日の午前中に入所をした母に付き添った私は、施設で手続きをした後、一旦自宅に戻りました。

そして夕方にもう一度、母の様子を伺うために施設に行きました。

その時母は既に隣に座った入所者と話をしたりして、施設での生活に馴染めそうな感じがありました。

入所前にいた病院で、母は心身ともに健康を回復していたので、施設でも上手くやれそうだと私は考えていました。

そして、その予想が当たりそうな雰囲気があったので、私も嬉しく思ったものでした。

この時の母は私に、施設に来てから起こったことを漏れなく伝えようと笑顔で熱心に話をしてくれました。

その母の姿によって、私は一段と『上手くいきそうだ』という確信を持ちました。

ところが、私がそろそろ帰ろうという雰囲気になった時、母からそれまでの笑顔が消えました。

そして、母は「ここに泊まるの?」と不安そうな表情で私に尋ねました。

2024年7月 4日 (木)

6年前の今日

このところずっと記事の冒頭に『2018年7月4日に母が「老健」に入所した』と記してきました。

ですから母が施設での生活を始めたのは、ちょうど6年前の今日ということになります。

母をウチで介護していた頃には、なんとなく『この生活はどのように終わるのだろうか?』と考えたこともありました。

いくら考えても答えは出なかったわけですが、まさか施設に入るということは思ってもいませんでした。

それは母がデイサービスすら興味を示さないので、施設での生活など考えられなかったからです。

ですから、何事もなければウチでの介護が続いていたものと思われます。

ただそれでも、私は母が施設での生活を楽しんでくれるとの希望的ながらも、どこか確信がありました。

それは、母が施設に入所する前の病院で、すっかり元気で陽気になっていたからです。

そして、私が病院の隣のその施設を見学した時に、そこの雰囲気をすっかり気に入ったということもありました。

ですから、ウチで介護していた頃に考えていた施設のイメージとは全く変わっていました。

また、母の心身の状態もその頃とは違っていたので『上手くいきそうだ』という感触があったわけです。

結果的にその確信は大体当たり、母は施設に馴染んで楽しそうな笑顔の多い生活を送ってくれました。

2024年7月 3日 (水)

お世話になりすぎた

2018年7月4日に母が『老健』に入所した際、「ここでは健康保険が使えない」と言われました。

そうだとすると、もし施設から通院をすることになったら、その際の費用はどうなるのかという疑問が残りました。

ただ10割負担と言われるのが怖くて、一度もその説明を受けること無く、ついに母が病院に行く日が来ました。

その日病院では会計をすること無くそのまま施設に戻り、結局次月の請求書が届くまでその答えは分かりませんでした。

そしてその請求書には、通院した際の医療費は含まれていませんでした。

その後も母は、何回か隣の病院で診察をしてもらいましたが、レントゲンの費用を除いて施設から請求されることはありませんでした。

以前ネットで調べた時『老健』の入所者が病院で診察してもらう際、一旦退所の手続きをしたという記事が見つかりました。

ですから、母が入所していた施設で医療費の自己負担が無かったのは、施設の好意だったのかもしれません。

またもしかすると、施設と隣の病院とが同じグループだという事情があったからかもしれません。

いずれにしても、私の母の場合は医療費の負担はありませんでした。

自宅から通院しても1割は負担していたわけですから、何か施設にお世話になりすぎた気もします。

結局、『健康保険が使えない』イコール『10割負担』と思い込んで、勝手に心配していただけでした。

2024年7月 2日 (火)

「10割負担してください」

2018年7月4日に母が『老健』に入所した際、「ここでは健康保険が使えない」と言われました。

そうだとすると、もし施設から通院をすることになったら、その際の費用はどうなるのかという疑問が残りました。

ただ私はその疑問を「10割負担してください」と言われるのが怖くて、一度も尋ねることはできませんでした。

そうしているうちに、母はその年の11月に入院し退院後に施設に戻って、定期的に病院に通うことになりました。

そして、ついに母が病院に行く日が来ました。

その日は施設の指示で、病院では会計をすること無くそのまま施設に戻りました。

結局、この日の費用がどうなるのか全く分からないまま、次月の請求書が施設から郵送されてきました。

そしてその請求書には、通院した際の医療費は含まれていませんでした。

その後も母は、何回か隣の病院で診察をしてもらいましたが、費用はほとんど施設から請求されることはありませんでした。

ほとんどというのは、時々レントゲンを撮影した際に200円程度が請求されていたからです。

このように、母が入所していた施設では医療費は自己負担することはありませんでした。

ただこれは、隣の病院と入所していた施設が同じグループだという特殊な事情があったからかもしれません。

2024年7月 1日 (月)

注目の次月の請求書

2018年7月4日に母が『老健』に入所した際、「ここでは健康保険が使えない」と言われました。

そして数ヶ月後に母は病院に入院し、再び施設に戻って来た後は、施設から病院に通院することになりました。

そうすると、通院の際の費用はどうなるのか心配になりました。

その後、ついに母が病院に行く日が来ました。

その日施設からは、病院では会計をすること無くそのまま施設に戻るように、との指示がありました。

退院後の母は施設で普通に過ごしていて、体調も良さそうでしたのであまり心配はしませんでした。

ただ『費用はどうなるのだろうか?』という不安は付きまとっていました。

診察の結果は、私が思っていたとおり、母の体調は退院後も安定しているということでした。

そして検査のデータと薬の処方箋を受け取って、それをそのまま施設の看護師さんに渡しました。

その際も私の方からは費用のことは口に出しませんでした。

そして結局、診察費のことは次月の施設の請求書を見るまで分からないということになりました。

その結果、診察費は施設から請求されてはいませんでした。

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