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2024年6月

2024年6月30日 (日)

『やはりそうなのか』

2018年7月4日に母が『老健』に入所した際、「ここでは健康保険が使えない」と言われました。

その後、母は入院を経て再び施設に戻って来ました。

そしてその後は施設から病院に通院することになりました。

そうすると、病院での費用はこちらが持つのかという疑問が湧いてきました。

その疑問をネットで検索をすると、やはり同じ心配をしている人はいました。

それでも体験談は少なく、一例として『老健』から通院前日に退所したことにして、自分の健康保険を使ったというものがありました。

私は『やはりそうなのか』という感想を抱きました。

ただそのまま母の入所している施設に確認をすることもなく、ついに母が病院に行く日が来ました。

母の体調の方は、退院後も施設で普通の生活を送っていたので、それほど心配はないかなと思っていました。

そして診察の結果も、退院時とほとんど状態は変わらないということで、一安心できました。

ただ、それ以上に私が気になっていたのは、相変わらず診察の費用がどうなるのかということでした。

施設からは、病院では会計を済まさずにそのまま施設に戻るように、との指示がありました。

2024年6月29日 (土)

『老健』からの通院

2018年7月4日に母が『老健』に入所した際、「ここでは健康保険が使えない」と言われました。

そうすると、持病がある母がもし病院に行くことになったらどうなるのだろう、という疑問を持ったまま施設での生活が続きました。

そしてこの年の11月に、母は再び隣の病院に入院することになりました。

この時は入院ですから一旦施設を退所して、母の健康保険が普通に使われました。

ただ、退院する時に主治医から「今後は定期的に通院してください」との言葉がありました。

そして、退院後の行き先がまた隣の施設に決まったのですが、最初に入所時に「健康保険が使えない」と言われたことを思い出しました。

そのため、施設の医師に「こちらから通院はできるのでしょうか」と確認してみました。

それに対して「通院はいいですよ」と思いがけずあっさりと答えてくれました。

ただ、それでも私の方から費用については聞かないようにしました。

わざわざこちらから尋ねて「10割負担してください」と言われるのも怖かったからです。

そんなわけで、この後母は月に一度程度通院することになりました。

ですから初めて施設から病院に診察に行った時は、支払いをどうするのか全く知らず、不安を抱えて病院に向かったものでした。

2024年6月28日 (金)

10割負担?

母は2018年7月4日に入院していた病院から、隣接しているいわゆる『老健』に入所しました。

その当日に私は、その施設の医師に「ここでは健康保険が使えない」と言われました。

この言葉を聞いて思ったのは、もし病院に行くことがあったらどうするのだろうということでした。

これは誰もが抱く疑問のような気がしますが、『そちらで10割負担してください』という答えが怖くて、それは言わずに飲み込みました。

ただ母は退院したとはいえ、元々持病があるのでいずれ病院のお世話になるのは当然のことでした。

そしてこの年の11月、母は再び隣の病院に入院することになりました。

入院の場合は『老健』を退所しますので、この時の費用はウチの健康保険で支払いました。

問題なのは、退院するときに主治医に「今後は定期的に通院してください」と言われたことでした。

退院して自宅に戻るのであれば通院するのは何も問題はありません。

ところが、私にとっても初めての経験なので知らなかったのですが、隣接の施設に戻れるということになりました。

それはそれで有難いことでしたが、『通院はどうなるのかな』という不安がありました。

その点について、改めて施設で話をすることになりました。

2024年6月27日 (木)

「ここでは健康保険が使えない」

昨日も記しましたが、私は母の介護生活をそれなりに満足できたと思っています。

それでも、いくつか不満の残ったこととか、今でもよく分からないことがないわけではありません。

その中の一つが『老健』では健康保険が使えないということです。

母は2018年7月4日にいわゆる『老健』に入所しました。

その当日に私は、その施設の医師に「ここでは健康保険が使えない」と言われました。

病院を退院して、その隣の『老健』に入った直後に聞いたのがこの言葉でした。

最初はその意味がよく理解できませんでした。

それは母は退院したとはいえ、元々持病があるのでいずれ病院のお世話になると思っていたからです。

それが、健康保険が使えないとなると、いざという時にどうすればいいのか疑問に思いました。

確かに『老健』の設立の趣旨では、入所者は短期間で退所することが予定されているようでした。

母もその年の10月頃に歩行器を使って歩けるようになったので、その時に退所していれば、このことは問題になりませんでした。

ただ、母は翌月の11月に再び隣の病院に入院することになりました。

2024年6月26日 (水)

不満タラタラ

このブログは母の四十九日の法要が終わった後に始めました。

そのブログが今回で1600回目を迎えました。

その間一日も休まず続けられたことを自分ながら驚くとともに、読んでくださる方々に感謝しています。

このブログを始めた切っ掛けは、母を介護し始めてからずっと日記を書いていたことでした。

いろいろ迷いながらも母を介護した経験が誰かの役に立てばいいな、という考えがまずありました。

もう一つは母を見送った後、私にはどこか満足感がありました。

その原因を改めて考えてみたいという思いから、このブログを書き始めたということでもあります。

いずれにしてももう4年半ほど続けていますが、母との生活の記憶も徐々に薄れてきました。

それでも母と介護ということを振り返ると、本当に恵まれていたと感じています。

同時に最近の報道などを見ると、今後の介護を巡る環境が心配になります。

特に訪問介護の報酬を減らすという報道は、ちょっとあり得ないことのように思います。

結局、母の介護生活に満足できた私も、自分が介護されるときは不満をタラタラ言いそうな気がしています。

2024年6月25日 (火)

要介護4はおめでたい?

亡母の介護認定は要支援1で始まり、最後は要介護4になりました。

確か要介護2から要介護4に変わったときの話です。

要介護4と判定されたことをケアマネジャーに伝えると、ケアマネジャーは最初に「おめでとうございます」と言いました。

その直後、慌てるようにそのケアマネジャーは「あ、すみません」と謝りました。

確かに要介護2から要介護4と判定されるのは、お目出度いことではありません。

ただ私はケアマネジャーが「おめでとうございます」と口にした時、これといった感慨はありませんでした。

むしろ私も、使える介護サービスが広がって良かったのではないかと考えていました。

ですからお祝いの言葉もそれほど気にせずに、聞き流してしまいました。

それでも、ここで「おめでとうございます」は少し場違いな感じがするのも事実でしょう。

そしておそらく、そのように思ったケアマネジャーが謝罪したという出来事でした。

いずれにしても、被介護者にとって利用できる介護サービスの幅が広がることは悪いことではありません。

ただそれは、状況が悪化したことの証明に他ならず、本人にとっては辛いことであるのも確かな気がします。

2024年6月24日 (月)

コンニャクを避ける

昨日の記事では白髪が増えたり、老眼が進むことで『年を取ったなぁ』と感じることがあると記しました。

そんなタイミングで、私の右下の奥歯が欠けました。

数年前から下の歯が欠け始め、今では半分くらいが欠けています。

痛みがないのでそのままにしていますが、それでいいのかいつも悩んでしまいます。

欠けた部分は最初は鋭くて危険ですが、しばらくするとその面も滑らかになるようです。

そういえば歯医者に行くことが嫌いだった母も、歯が抜けてもずっとそのままにしていました。

晩年は歯がほとんどなくなっていたようでしたが「歯茎で噛んでいる」と笑顔で話していました。

母の笑顔は照れ笑いだったかもしれませんが、実際に普通に食事ができていました。

ただいくつかの食材、例えばコンニャクのようなものは「噛みきれない」と言って避けていました。

このように歯の不調はその程度のもので収ることも多く、すぐに命の問題になることは少ないでしょう。

ただそれでも、歯を失うというのはそれなりに寂しいものです。

それは間違い無く老化が進行中だというサインの一つでもあるからです。

2024年6月23日 (日)

『年を取ったなぁ』

このところ私が祖母と最後に会ったときのことについて、思い出しながら振り返っています。

特に祖母が「死にたくない」と私に言った時に、衝撃で何も言えなかったことが悔しく思い出されました。

ただ、そこまで切羽詰まった言葉で無くても、年を取るといろいろと考えることがあります。

つまり誰でも時間の経過とともに、老化するのは避けることができません。

ですから、すぐに最期の時を迎えるわけではなくても、少しずつその時は近づいてきています。

例えば、頭髪に白髪が増えてきます。

また、老眼が進んだりもします。

その都度命の危険を感じることはありませんが、『年を取ったなぁ』と感じることは時々あります。

それからさらに時間が経つと、体力の低下が明らかになったりします。

そのうち杖を突いて歩くようになったり、大人用のオムツを使うようになったりします。

個人差はあるとしても、それぞれの時にそれなりにショックを受けたりすることもあるでしょう。

私は母の介護をしながら、徐々に老化の程度が進んでいくのを感じていましたが、本人の気持ちを配慮する余裕がなかったのは残念です。

2024年6月22日 (土)

気持ちの整理

昨日は6月生まれだった祖母の思い出について記しました。

その祖母のお見舞いにほとんど行かなかったことは今でも悔やんでいます。

それでも最後に会ったときに、祖母が「死にたくない」と私に言ったことは印象に残っています。

その時は突然そういう言葉を聞いて、私には祖母に掛ける言葉が見つからず、ただ『そうだね』と頷くばかりでした。

そして、それは30年以上前のことでまだ私も若く、そういう言葉もそれほど深刻に考えられなかったように思います。

ただ、祖母は90歳を超えていましたし、それまでに結構長い間病院のベッドで過ごしていました。

そんな状況でも、やはり「死にたくない」と思っているのだなと、少し不思議な気もしました。

同時に、人は年齢がいくつだろうとそれほど変わらないものなのだろう、という気もしました。

その後、私は両親を見送って自分自身も年を取りました。

まだ多少早いとしても、いつお迎えが来ても文句は言えないような年齢になりました。

それでも、今の私が最期の時を迎えるとしたら、もちろん「死にたくない」と思うでしょう。

そして、今後時がいくら経っても気持ちの整理はつかないような気がします。

2024年6月21日 (金)

「死にたくない」

以前飼っていた犬の命日がきたので、その6月18日から数日、当時のことを思い出して記事にしていました。

ところで、6月18日は昔の飼い犬の命日だけでなく、私の祖母の誕生日でもありました。

明治の終わり頃に生まれた母方の祖母、母の母親の誕生日でした。

その祖母は90歳を超えて、長生きしてくれました。

それでも晩年は、結構長い間病院のベッドで過ごしていたことを覚えています。

母の弟である叔父が病院の手続きなどをしてくれていましたが、入院が3ヶ月続くと転院を勧められるということを初めて知りました。

そんな事情から、祖母も何度か転院したように思います。

この時、ほぼ寝たきりの高齢者でも転院させられると聞いて、そんなことがあるのかと驚いたことを覚えています。

そんな状況の祖母に私が会ったのは、1~2回だけだったように思います。

ほとんど会いに行かないので申し訳ないという気持ちで祖母の顔を見た私に、祖母は「死にたくない」と言いました。

それまでおそらく数ヶ月、ずっと病院のベッドで過ごしている祖母でもそんな気持ちなのだと、私は祖母に掛ける言葉もありませんでした。

確かその時が祖母との最後の会話になったと記憶しています。

2024年6月20日 (木)

動物たちの可愛さ

以前飼っていた犬の命日が6月18日ということで、このところ当時のことを思い出して記事にしていました。

その頃はまだ近所に動物病院などが無い時代でした。

もちろんインターネットもありませんでした。

そんな環境でしたので、ウチの犬の飼い方も当然自己流という感じでした。

特にほぼ室内犬の状態で、ほとんど散歩に連れて行かなかったことは、今ではとても残念な気がします。

そんな事情から太り気味だったこともあり、そのせいか10年ほどで亡くなってしまいました。

ただ当時の飼い犬の寿命は今ほど長くは無かったようですので、不摂生の割には楽しく生きてくれたかとも思います。

その点で現在は、動物病院をあちこちに見かけるようになりました。

ペットショップもかなり増え、ペットフードも充実してきた感じがします。

また、ネットには動物の映像も多く、私もいつも癒やされています。

見慣れてくると動物たちの可愛さだけではなく、賢さや愛情表現に驚かされることもよくあります。

そんなことから、高齢者施設に限らず精神的に癒やしを与えてくれる動物を、もっと世の中で生かして欲しいと願っています。

2024年6月19日 (水)

動物で癒やされる

昨日の記事では、昔我が家で飼っていた犬のことを記しました。

飼っていた犬との様々な出来事などを考えていると、いろいろと思い出してくるものです。

特に印象的だったシーンは、犬のトイレとして使っていた玄関を父が掃除をしていた時のことです。

父は毎朝出勤前に玄関を洗っていましたが、その時は必ず犬がお座りをしてその姿を見つめていました。

その光景は犬が本当に感謝しているように見えました。

その犬を失ってからそろそろ50年になるわけですが、当時よりも現在の方がペットの大切さを理解できるようになりました。

ところで犬を飼い始めた当時、母は動物が苦手だと言っていました。

確かに母はその犬の世話などはほとんどしませんでしたが、それでも徐々に慣れてきていたようでした。

今ではペットを飼う人も増え、動物病院もかなり身近になってきています。

私は以前、幼稚園や保育園などの子供の施設が高齢者施設の近くにあれば、高齢者にも楽しみが増えるのではないか、と記しました。

その代わりというわけではありませんが、動物が近くにいるというのも悪くは無さそうに思います。

ペット好きの人も多いでしょうし、私もYouTubeで動物の姿を見て癒やされていますので。

2024年6月18日 (火)

「タヌキですか?」

少し前に『ぽぽちゃん』という名前のウサギが出るYouTubeチャンネルの記事を書きました。

その『ぽぽちゃん』は本当に人懐こく、私はいつも「ウサギもこんなに懐くのか」と驚きながら見ています。

我が家では犬を飼っていたことがあるので、どれほど犬が人に懐くかはそれなりに理解しています。

ですが、ウサギが犬と同じように人懐こいというのは新たな発見でした。

ところで我が家で犬を飼っていたのは、私が子供の頃のことですから、もう半世紀ほど前のことになります。

その犬はポメラニアンという種類でしたが、当時はまだ珍しく、「タヌキですか?」と聞かれたこともありました。

もちろん我が家で犬を飼うのは初めてでしたので、いろいろと面白いことがありました。

例えば、その犬は室内で飼っていましたが、日中は何もすることなく横になっていることがほとんどでした。

「具合がわるいのではないか?」と心配した母は、ペット店に電話して尋ねてみたそうです。

それに対する店の答えは「犬は大体そういうものですよ」というものだったということです。

母としては、犬は元気に走り回るものだという認識だったのでしょうが、意外な答えに「そんなものかねぇ」と首を傾げていました。

それは50年近く前のことでしたが、今日6月18日がその犬の命日に当たるので、そんなことを思い出しました。

2024年6月17日 (月)

知識と経験

このところ、様々な介護サービスを使った方がいいですよと、そんな趣旨のことを記してきました。

これは私の実感で、母の介護を通じてそんな思いを強くしました。

もちろん母もデイサービスは使わなかったように、人それぞれイヤなことを無理にすることはありません。

ただ様々な知識を得て、その中から必要なものを選択していくことが大切だと思います。

つまり何事も満足する結果を得るためには、それなりの知識が大事なのでしょう。

例えば、私が母の介護生活にある程度満足しているのは、父の時の経験が大きかったからだと思います。

それは父が入院してやや回復したときに、主治医に介護認定をしてもらうように言われたことから始まりました。

その時点ではその指示の理由がよく分かりませんでしたが、とりあえず介護の仕組みに触れることができました。

ただ父は、残念ながらその介護認定の結果を見ることなく亡くなってしまいました。

それでもその経験から、母が腰を痛めた際に介護認定をしてもらうことが頭に浮かびました。

それを初めとして、結局母は10年ほど介護保険のお世話になりました。

何だか父には申し訳ない気もしますが、改めて知識や経験は有難いものだと思います。

2024年6月16日 (日)

使ってみる

昨日は自分のことを棚に上げて、デイサービスを利用することをお勧めしました。

母を介護した経験から私は、利用できるサービスはできるだけ使ってみる方がいいと考えています。

もちろん介護は人それぞれですから、都合に合わせてということになりますが。

ウチの場合も母は、ケアマネジャーがデイサービスの話をした時に、ほとんど興味を示しませんでした。

ですから、施設に入所することなど考えられませんでした。

ところが実際に入所した後の母は、本当に楽しそうに施設で暮らしてくれました。

このように、頭で考えることと実際に体験することは違うことも多いものです。

そんな経験から、今では介護サービスとして利用できるものは、とにかく使ってみる方がいいと思っています。

ところで先日、ほぼ同年配の方と親の介護について話をする機会がありました。

その方の父親は少し認知症の兆候があるそうですが「なかなか大変だ」と話してくれました。

私からは、なるべく介護サービスを利用することと、とにかく多くの人に話をすることをお勧めしました。

介護は一人で抱え込むと、簡単に介護地獄に陥ってしまうので、その点は気をつけて欲しいものです。

2024年6月15日 (土)

デイサービスの勧め

私が母を介護していた当時、ケアマネジャーがデイサービスを勧めてくれたことがありました。

それは私が仕事を辞めていたことから、経済面の心配をしたということもあったのだと思います。

また介護の専門家として、母のような状況の人はその方がいいという考えもあったのでしょう。

ただ、母はほとんど興味が無いような表情をしていました。

私は母を介護するにあたって、母が嫌がるようなことは極力避けたいと思っていました。

そんなことから、私はデイサービスを見学くらいしたらどうかと思いましたが、その言葉を口にはしませんでした。

実際に暇つぶしのためにデイサービスに行っても、母はいずれ辞めてしまいそうな気がしました。

ところで、このブログは私が母を介護した経験が、少しでも誰かの参考になればという思いから始めたものでもあります。

その点からすると、私も母もデイサービスは利用したことはありません。

それでも私は、デイサービスなど利用できるものは使ってみることをお勧めしたいと思っています。

それは介護というものは人それぞれだと思うからです。

例えば私は母が施設に馴染むのは難しいと考えていましたが、入所した施設で母が笑顔の絶えない生活を送っていたのを見たからです。

2024年6月14日 (金)

デイサービス

このところ母の介護のために私が離職した当時のことを思い出しています。

ここ数日は介護辞職した後に、経済面と精神面で不安定になったことを記しました。

やはり無職になるということは経済的に心配になります。

ですから、もちろん時間に余裕があれば仕事をすることを考えるようになります。

月に一度のケアマネジャーとの話の中にも、そういう話題が出て来たことがありました。

私の新しい仕事の話と関連して、母がデイサービスを利用することを勧めてきたということでした。

私も母が興味をもてば、デイサービスの利用もいいかなと思いました。

ただ母の反応は今ひとつ薄いものでした。

元々母はそれほど大きく喜怒哀楽を表現する人ではないということはありました。

そしてこの時期、いくらか引きこもりがちになっていることもありました。

それでも母があまりにも興味を示さなかったので、その後はケアマネジャーも私もデイサービスのことを口にしなくなりました。

こういう経験もありましたので、後に母が施設に馴染んでくれたときは本当に嬉しく驚いたものでした。

2024年6月13日 (木)

お金の問題?

このところ母の介護のために私が離職した当時のことを思い出しながら記しています。

2015年11月のこと、母がトイレで意識を失ったことから救急で入院することになりました。

それでもこの時は輸血などの処置をしてもらって、4日ほどの入院で帰って来ました。

ただ、この入院を切っ掛けに私は介護休職することになりました。

考えてみれば、母はこの時に入院する前まで食事の支度などの家事をしてくれていました。

それがこの後は、私が慣れない食事の支度を担当することになりました。

以前にも記しましたが、食事のメニューを考える時間になると胃が痛む日々が続くようになりました。

そして介護休職が6ヶ月を過ぎると、介護退職をせざるを得なくなりました。

すると私の収入が全く無くなって、我が家の収入は母の年金だけになってしまいました。

こういった金銭的な問題が、さらに胃の痛みを増すような気がしていました。

ですから、母の介護自体が大変だったわけではありませんでしたが、お金のことや慣れない生活の不安に押しつぶされそうでした。

ただ、結局お金の問題がなければ、もっと大きな心で母を介護できたのにと思う今日この頃です。

2024年6月12日 (水)

外に出る

このところ母の介護のために私が離職した当時のことを思い出しながら記しています。

介護を理由に辞めていく人を見て、私は『大変だろうな』と思いながらも他人事のように感じていました。

それがついに私も同じ状況になってしまい、確かに介護離職は大変なものだと痛感することになりました。

といっても私の場合は、母の介護自体が大変だったということではありません。

昨日も記しましたが介護離職をして大変だったのは、何といっても金銭面と精神面でした。

つまり、私が退職をしたために我が家の収入が母の年金だけになってしまったのです。

当然のことながら毎月の収支は赤字で、貯金が見る見る減っていってしまいました。

そうなるとなるべく生活費を節約して、外出もほとんどしなくなりました。

つまり、母も私も引きこもりのような生活が続くようになりました。

そのように外の世界とほとんど接触しないようになると、精神的に不安定になってきます。

また金銭面での不安も徐々に大きくなってきて、こちらも精神的に良くないことの一つでした。

今では、金銭面は悩んでいてもどうにもならないので、とにかく散歩でもいいから外に出るべきだったと考えています。

2024年6月11日 (火)

年金だけ

このところ私が介護離職した当時のことを思い出しながら記しています。

在職中も介護を理由に辞めていく人は結構いましたが、私はどこか他人事のように感じていました。

ただ『大変だろうな』とは想像していました。

そして、ついにその順番が私に回ってきたわけですが、確かに介護離職は大変なものでした。

とはいえ、介護といっても人それぞれだと思います。

ですから人によっては介護そのものが大変なこともあるでしょう。

ただ私の場合は介護離職をして大変だったのは、何といっても金銭面と精神面だったということでした。

最初の半年は介護休職扱いのため、平均賃金の40%ほど収入がありました。

そしてその後に私の収入が無くなると、我が家の収入は母の年金だけになりました。

ですからなるべく生活費を節約しなければなりませんでした。

そんなこともあって、通院以外の外出はほとんどしなくなりました。

そういう生活が続いて、母も私も引きこもりのような精神状態だったように思います。

2024年6月10日 (月)

金銭面と精神面

2015年11月、私は母を介護するために職場を休職することになりました。

その介護休職は半年続き、結局そのまま退職しました。

後から思うと、当時の職場に在職中も介護を理由に辞めていく人は結構いました。

しかし、私は『大変だろうな』と思いながらもどこか他人事のように考えていました。

ところが、ついにその順番が私に回ってきてしまいました。

それまではなんとなく『大変だろうな』と思っていた介護離職は、実際に大変なものでした、というのが昨日の記事になります。

ただ私の場合、母の介護そのものはそれほど大変ではなかったと思います。

それは、母が家の中では身の回りのことはほとんど自分でできたからです。

ですから、私は食事の準備と薬の管理、清拭くらいの世話をするだけでした。

もっとも何も介護経験のない私にとっては、それだけでもそこそこ大変でしたが……。

それでも介護離職をして大変だったのは、何といっても金銭面と精神面だったように思います。

おそらく両者は関連していて、そのためか母も私も引きこもりのような生活になってしまいました。

2024年6月 9日 (日)

『大変だろうな』

2015年の11月に母が貧血のため救急で入院することになり、この時は4日ほどで退院しました。

そして、これをきっかけに私は職場を介護休職することになりました。

確か当時は介護休職手当が平均賃金の40%ほど出ていた、と記憶しています。

その後この手当は60%になったと思いますが、私の場合は40%が半年続いて終わりました。

そのくらいの収入でも無いよりはましで、その後は本当に生活が苦しくなったことを覚えています。

結局、手当の打ち切りと同時に退職ということになりました。

その職場はどちらかといえば女性が多く、在職中には時々介護を理由に止めていく人もいました。

その都度私は『大変だろうな』と他人事のように考えていました。

そして、とうとうその順番が私に回ってきたということです。

もちろん高齢の親と同居していれば、私もいずれそうなる可能性は高かったわけです。

ただ、身の回りに実際に介護離職をする人が現れても、何故か他人事のように感じていました。

介護離職して収入が途絶えるなど、確かに私が考えていたように介護生活は大変なものでした。

2024年6月 8日 (土)

介護離職は突然に

私の母が初めて介護認定されたのは要支援1の状態でした。

それは母が亡くなる10年ほど前のことでした。

そしてその時でも、室内ではほとんど普通に生活ができていました。

ただ、腰を痛めていたので外出時には杖を使うという状況でした。

ですから、おそらく買い物などは既に私がしていたものと思います。

その他に、金銭の管理や様々な手続きなども私が代わりにやっていたように思います。

こういったことは介護状態とは関係なく、いつの間にか役割が代わってしまうもののようです。

それでも、この程度の役割だけでしたら私も仕事をしながらやっていました。

ただ、母の介護状態は徐々に進んで行きました。

母が亡くなる4年前、それまでの要介護2から要介護4と認定されたときに、私は介護離職をすることになりました。

もちろん人それぞれですが、高齢者と同居していると私と同じような状況になる可能性が高いと思います。

介護離職は突然に現れます。

2024年6月 7日 (金)

楽しかった通院

私の母は80歳くらいまで一人でバスと電車を乗り継いで、月に一度病院に通っていました。

そして、ある雨の日にバスで足を滑らせて腰を痛めたため、近所の整形外科に通い始めました。

その後、そこの医師の紹介で月に一度の通院も、近所のクリニックに通うことになりました。

そのため、それまではバスと電車で行っていた病院が、主にタクシーでクリニックへの通院に変わりました。

それまでも時々、母の通院と私の仕事の休みが合った場合に、私が自動車で送り迎えをしたこともありました。

ですからこのころまで、病院内では母が一人で全てを済ませていました。

ところが母が86歳のとき、母の持病が悪化しているとクリニックから私に連絡がありました。

この時から私も母と一緒に診察室に入るようになりました。

そして次第に母の病状について私も詳しくなっていきました。

すると徐々に、医師も私に母の状況を尋ねてきたり、病状の説明をするようになりました。

結局このような状況は4年と少し続きましたが、最後のころは母は診察されるだけという感じになっていました。

その間母の病状は安定していたので通院にあまり不安は無く、今では母と病院に行くのは楽しかったなと思っています。

2024年6月 6日 (木)

生命の行方

2018年7月に施設に入所した母は、11月にむくみが酷くなって病院に入院することになりました。

検査の結果は心不全と診断され、おそらく老化が原因で心臓の弁膜の働きが良くないということでした。

完治を目指すには手術しかないそうで、母の場合は手術しないで「このまま寿命を待つのかな」と医師は独り言のように話していました。

私は母に「老化で心臓の働きが衰えてきたらしい」と、当たり障りのない感じで伝えておきました。

母が心臓の手術を希望することはないだろうとの思いから、手術のことは話題にすることもありませんでした。

結局母の心臓は、この時からおよそ1年で終わりを迎えることになりました。

それでも私はこの時の判断を『まぁ良かったかな』と前向きに捉えているというのが、昨日の記事でした。

ただ当然ですが、母がこの判断を私と同様に前向きに捉えてくれたかは分かりません。

母の通院に付き添うようになり、その内に一緒に診察室に入るようになりました。

そして母が入院するときには、私が手続きや同意書にサインをすることになりました。

そのような感じで、いつの間にか母の人生に私が関わるようになっていました。

最終的には母の生命の行方を私が決めているように感じて、精神的に辛い時期もあったように記憶しています。

2024年6月 5日 (水)

『まぁ良かったかな』

2018年7月に施設に入所した母は、11月にむくみが酷くなって病院に入院することになりました。

利尿剤の点滴でむくみはすぐに治まりましたが、検査の結果は心不全と診断されました。

医師の説明によると、母の場合はおそらく老化が原因で、心臓の弁膜の働きが良くないということでした。

治療方法としては、若ければ手術をするしかありませんが母の場合は高齢者なので、医師は「このまま寿命を待つのかな」と話していました。

ただ心不全の状態としては、まだそれほど悪くはないとも話してくれました。

この説明を聞いて、私は母にそのまま伝えることはできませんでした。

「老化によって、心臓の働きが衰えてきたらしい」と、当たり障りのない感じで伝えただけでした。

もちろん心臓の手術のことなど話題にもしませんでした。

それは一つには、高齢者の母が心臓の手術を受けることができるのか、私にも分からなかったこともあります。

そして最大の理由は、母が手術を希望することはないだろうと、思っていたからです。

こういう状況が、母が亡くなるほぼ1年前に起きていました。

つまり母の心臓はこの後1年の寿命だったわけですが、今ではこの時の判断は『まぁ良かったかな』という気がしています。

2024年6月 4日 (火)

「このまま寿命を待つのかな」

2018年7月に施設に入所した母は、11月にむくみが酷くなって病院に入院することになりました。

利尿剤の点滴でむくみはすぐに治まりましたが、検査の結果は心不全と診断されました。

一口に心不全といっても、原因や症状は様々なようです。

説明を聞くと、母の場合は弁膜の状態が良くないということでした。

そしてその原因は、おそらく老化によるものだろうとのことでした。

また治療方法としては、手術しかないというのが医師による話でした。

ですから当然、若ければ手術をすることになります。

ところが母の場合は既に90歳を過ぎていましたので、医師は「このまま寿命を待つのかな」と独り言のように口にしました。

それは寂しい言葉でしたが、私としても『そんなものかな』と思いました。

同時に、母にこの話をそのまま伝えることはできないと思いました。

そして90歳を過ぎた母に「心臓の手術をする?」と話をする勇気もありませんでした。

結局、私が勝手に『母も手術はイヤだろう』と判断したわけですが、本当のところ母がどうしたかったかは、今となっては分かりません。

2024年6月 3日 (月)

老化には勝てない

母が腎臓の持病で定期的に通院していた頃、時々心臓の検査もしていました。

心臓のエコーや心電図の検査をした後には、医師から「心臓は元気ですね」といつも言われていました。

ところで、母が通っていたのは総合病院の循環器内科でした。

そこは近所のクリニックで「病状が悪化した」と言われて紹介されたところでした。

それまで母の病気に関してほとんど知識のなかった私は『腎臓の病気は循環器内科が診るのか』と、漠然と思ったものでした。

ただ、腎臓と心臓の関連性などは全く考えたこともありませんでした。

ですから「心臓は元気ですね」という言葉を聞いて、母の心臓が悪くなることは無いものだと、私は勝手に確信していました。

ところが、2018年7月に施設に入所した母は、11月にむくみが酷くなって病院に運ばれました。

その入院直後の検査で、主治医は「心不全です」とむくみの原因を説明してくれました。

その言葉を聞いても私にはピンと来ませんでした。

それは、母の心臓は丈夫だと勝手に思い込んでいたからです。

結局、当然ですが元気だった心臓も老化には勝てないということでした。

2024年6月 2日 (日)

心臓は元気

このところ母の血圧が200を超えていた日のことについて思い出しています。

この日は測定した3回とも200を超える値でした。

その時々の血圧の値に一喜一憂する必要はないと考えている私ですが、この時はさすがに心配しました。

ただ「気分は悪くない?」と尋ねた私に母は「別に」と答えて、笑顔でテレビを楽しんでいました。

それでも、さすがに翌朝も血圧が高ければ病院に連れて行こうと考えていました。

ただその後は少なくとも家で介護している間は、母の血圧が200を超えることはありませんでした。

このようなことも経験して、私は一時的な血圧の上昇に慌てる必要はないだろうと考えています。

それよりも、むしろ気分がすぐれないとか、めまいがするなどの症状の方を重視すべきだろうと思います。

ところで、母は糖尿病などの腎臓の持病で若い頃から病院に通っていました。

同時に血圧を下げる薬も長い間服用していました。

そんな中で、心臓についても心電図やエコーの検査を時々していました。

晩年はその検査に私も同行していましたが、その結果「心臓は元気ですね」と、医師がいつも笑顔で言っていたのが印象的でした。

2024年6月 1日 (土)

血圧200超の日

昨日は母の血圧が200を超えていた日のことを記しました。

確か母が90歳の頃のことでしたが、夜就寝前に血圧を測っていた時でした。

いつものようにテレビを見ている母の手首に血圧計を巻いてスイッチを入れると、血圧計がなかなか測定を止めませんでした。

いつもより長いこと測っていた血圧計が止まって見てみると、そこには200を超える数字が表示されていました。

その値は言わずに「ちょっと高いね」と、私は母に言いながら測り直すために再び母の手首に血圧計を巻きました。

「そうみたいだね」母も長い時間止まらない血圧計に気付いていて、高い値が出そうだと思っていた様子でした。

そして、その後2回続けて測ってみましたが、その日は全て200を超えてしまいました。

以前記したように、私は基本的に血圧の値に一喜一憂する必要はないと考えています。

ただこの時は、さすがの私も心配だったので、母に「気分は悪くない?」と尋ねてみました。

すると母は、笑顔でテレビを見ながら「別に」と答えました。

もちろんその後も200を超えるような値が続けば、その時は病院に行って診てもらうつもりではありました。

ただ、この時以来母の血圧が平常時に200を超えることはありませんでした。

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