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2024年5月

2024年5月31日 (金)

血圧のこと④

母の介護をしていた頃、総合病院に月に一度の通院のため、毎日朝晩に血圧を測定していました。

当時を思い出してみると、母の血圧は私よりも変動が大きかったような気がします。

上は140~170、下は60~75くらいのことが多かったように思います。

上は時々で結構変化がありましたが、下は低めに安定していました。

病院の診察室では大体170/70くらいだったように記憶しています。

血圧測定に慣れている母でも病院ではやや高目という傾向を、私は当然のことのように受け止めていました。

少し前に、朝の寝覚めが良くない時に母が血圧や血糖値を測っていた、ということを記しました。

つまりこの時の母は、気分が良くない原因を高血圧か低血糖だろうと思っていたのだと思います。

そんなときは大体、血圧も血糖値も問題がありませんでした。

ただ母が90歳を過ぎた頃だと思いますが、夜の血圧測定で上が200を超えた時がありました。

その時は3回測って3回とも200を超えました。

さすがに私も心配で、母に数値は教えずに「気分は悪くない?」と尋ねると、笑顔でテレビを見ていた母は「別に」と答えてくれました。

2024年5月30日 (木)

血圧のこと③

昨日は、血圧の上下には精神的なものが最も関係しているように思うと記しました。

私は医学的な知識があるわけではありませんが、自分の経験からそういう結論に至りました。

自宅で血圧を測定するよりも、健康診断の方が高い値が出るという経験がある人は多いと思います。

私も今では、135/85くらいの値が自宅で測った時の平均値になりました。

ただ、もし病院に行って診察室で医師に測られた場合、160/100くらいの値を出す自信があります。

これまでの自分の経験からすると、おそらくそういう結果になるでしょう。

それだけ精神的な状況が血圧に大きな影響を与えることを、何度も実感してきました。

ただそれでも私は、当然ですが血圧を測ることに意味がないと考えているわけではありません。

もちろん自分の体調を知るために普段の血圧の値を知っておくことは大切だと思います。

その値がよほど高いものであれば別ですが、「上が140を超えたら高血圧」という基準は、それほど気にしない方が良いと考えています。

あくまで私見ですが、つまりその時々の値に一喜一憂することはないということです。

それは、あまり気にしてしまうと血圧が上がってしまうからです。

2024年5月29日 (水)

血圧のこと②

私は高校生の時の健康診断で尿タンパクが検出されたことから、自分の血圧が高いことを知りました。

当時の数値は150/90くらいだったと思います。

そしてそれからほぼ半世紀が経過して、膀胱ガンが見つかってそれを摘出したところ、それ以後は尿タンパクは出なくなりました。

そして、現在の血圧は平均すると135/85くらいです。

最近はそんな話を記してきました。

久しぶりに血圧のことを考えてみたいと思います。

私の両親はともに血圧が高いといわれていて、私も遺伝的なことで自分も高いのかと思っていました。

ただ、何らかの自覚症状があるわけではなく、逆に気分が悪いと血圧を疑ったりしていました。

また母は朝の寝覚めが悪いと、血圧と血糖値を測っていました。

ただ、実際にそれらの値が極端に良くないということはほとんど無かったように記憶しています。

どちらかといえば、血圧が高くて気分がすぐれないということよりも、血圧の高さを気にして気分が悪くなる方が多かったような気もします。

私見ですが、長年にわたって血圧と付き合ってきた私としては、最も血圧の上下に関係するものは精神的なものではないかと感じています。

2024年5月28日 (火)

幸運にも早期発見

しばらくの間、自分が若くして高血圧といわれていたことから、その後自分が経験したことをいろいろと振り返ってみました。

高校時代から半世紀が経過して、今の私は明らかに高校生のころよりも血圧が低くなりました。

そして尿タンパクも検出されなくなり、何だかどんどん健康になっているようです。

今の状態で高校生に戻れれば、健康診断で引っかかることもなかったのかもしれません。

そうだとすれば、私は健康に気を遣わずに違った人生を歩むことができたかもしれません。

もちろんそれは、必ずしも良い方向に変わっていたとは限りませんが。

ところで私の高血圧は、高校時代の健康診断がきっかけで判明したことは何度も記しました。

その後は健康診断と聞くだけで憂鬱で、それは「血圧が高い」と必ず言われることがわかっていたからです。

それでも、2014年の健康診断だけは有難いものとなりました。

それは検尿で潜血反応が出た時で、その後の検査で膀胱ガンが見つかり手術で摘出することになりました。

この時に病院で聞いた話では、血尿が出て驚いて病院に来て膀胱ガンが見つかる、というケースがほとんどだということです。

私は自分の血尿は見たことがなく、どうやら健康診断のおかげで早めにガンが見つかってラッキーだったようです。

2024年5月27日 (月)

過大評価の高血圧

このところ血圧について、自分の経験から思うところを書いています。

私は高校生の頃から血圧が高いといわれると同時に、時々検尿で尿タンパクが出ることがありました。

そして50代以後は毎年尿タンパクが検出されるようになり、ついに2014年には潜血反応という言葉に変わりました。

そして泌尿器科を受診すると、膀胱ガンが見つかって手術をしました。

そして手術後にガンがなくなると、少なくともその後一年間はガンの再発は確認されませんでした。

そして最も驚いたのが、その後は検尿で尿タンパクが出なくなったことでした。

ということは、潜血反応や尿タンパクは膀胱ガンによるものだと考えられることになります。

それでは、最初に検出された尿タンパクもガンが原因だったのだろうかという疑問が残ります。

それは今では何ともいえませんが、若い頃は時々検出された程度でしたので、原因は他のことだったのかもしれません。

それはともかく若い頃の尿タンパクは、私の高目の血圧を大げさに評価させるのに十分だったような気がします。

つまり高校生以来、私は「血圧が高い」と言われ続けて、また自分自身がそれを気にしながら生活してきました。

人生とはそんなものなのかもしれませんが、振り返ると余計なことに気を遣っていたな、とは思います。

2024年5月26日 (日)

要再検査から要注意へ

このところ血圧について、自分の経験から思うところを書いています。

私は健康診断では必ず「血圧が高い」と言われると同時に、時々検尿で尿タンパクが出ることがありました。

そして50代になると毎年、尿タンパクが検出されるようになり、ついに2014年には潜血反応という言葉に変わりました。

それに驚いた私はさすがに怖くなり泌尿器科を受診すると、なんと膀胱ガンが見つかりました。

ただ手術後に行った検査ではその後一年間、ガンの再発は確認されませんでした。

そして何と、検尿では尿タンパクが出ることがなくなりました。

それまでの健康診断では先述したように、血圧が高いことと尿タンパクが出ていることで、毎年要再検査の評価が下されていました。

ところが2015年の健診では、相変わらず血圧は高めなものの尿タンパクは検出されませんでした。

その結果として、評価が要注意に変わりました。

ということは、2014年の潜血反応は膀胱ガンによるものだと考えられます。

また、それまで毎年の尿タンパクも同じ原因だったのでしょう。

それでは、さらに若い頃の尿タンパクもガンが原因だったのだろうかと、私は今でも不思議に思っています。

2024年5月25日 (土)

膀胱ガン見つかる

このところ血圧について、自分の経験から思うところを書いています。

私は若い頃の健康診断では必ず「血圧が高い」と言われると同時に、時々検尿で尿タンパクが出ることがありました。

そして50歳を過ぎてからは毎年、検尿で尿タンパクが検出されるようになりました。

それが2014年になると、これまで尿タンパクとされていたのが潜血反応という言葉に変わりました。

それまで健診の結果を無視していた私もさすがに怖くなり、泌尿器科を受診することにしました。

そして泌尿器科で膀胱ガンが見つかりました。

この時は本当にショックで、自分の余命はどのくらいあるのかなどと真剣に考えました。

そして手術までの日々、ネットで膀胱ガンの予後などを連日調べていました。

様々な情報によると、膀胱ガンは再発する可能性が高いということも分かりました。

ただ退院後は一年間、3ヶ月ごとに検査に通い再発は確認されませんでした。

そしてそれからそろそろ10年が経とうとしているわけです。

まだ生きています。

2024年5月24日 (金)

潜血反応に驚く

このところ血圧について、自分の経験から思うところを書いています。

私は若い頃の健康診断では必ず「血圧が高い」と言われました。

そして時々、検尿で尿タンパクが出ることがありました。

ただそれ以外に異常はないので、医師には「様子を見ましょう」と言われて終わるというのが、いつもの結果でした。

そして50歳を過ぎてからは毎年、検尿で尿タンパクが検出されるようになりました。

さらに年ごとに、その検出量が増えていきました。

さすがに私も心穏やかではありませんでしたが、それでも他の数値は異常がないので気にしないようにしていました。

ところが2014年のこと、これまで尿タンパクとされていたのが潜血反応という言葉に変わっていました。

潜血反応があったという状況になって、とうとう私も泌尿器科を受診する決断をしました。

ただこの時でも血圧は私としては特に高いことはなく、他の数値も問題はありませんでした。

ですから尚更、潜血反応とは何だろうかと不安になりました。

その結果、膀胱ガンが見つかりました。

2024年5月23日 (木)

標準値を知る

このところ血圧について、自分の経験から思うところを書いています。

そして昨日は、私の血圧が高校生当時の数値よりも、現在の方が低くなっていることについて記しました。

ただこれは私についての事実であって、誰もが同じだというわけではないでしょう。

そして、もちろん当時や現在の医学が間違っていると主張しているわけでもありません。

その点については今日も予めお断りしておきます。

さて、今日の私の血圧は135/88で、昨日よりは高かったですが若い頃よりはいくらか低い値でした。

このように毎日血圧を測定することで、自分の標準値を知っておくことが大事なのだと考えています。

つまり、健康診断や病院の診察室で測った値に一喜一憂する必要はないということです。

というのは、そのような場所で測ると今でもおそらく、私は160/100などという値を出す自信があります。

実際に過去はそんな結果ばかりでした。

もちろん標準値から大きく離れた数値が出たときは注意が必要ですが、後で自宅などで測定した値が戻っていれば問題はありませんでした。

私がずっとそんな経験ばかりしてきて今思うのは、血圧は一時の値で心配しすぎるのは良くないということでしょうか。

2024年5月22日 (水)

『こんなことがあるのか』

このところ血圧について、自分の経験から思うところを書いています。

ただその内容は私についての事実であって、誰もが同じだということではありません。

特に若い頃よりも現在の血圧が低くなっていることは、私としても『こんなことがあるのか』と驚いているくらいです。

それは、昔から年齢とともに血圧は高くなるものだ、と考えていたからかもしれません。

または実際に、ほとんどの人にとっては高くなるのが普通なのかもしれません。

ただ実際に今の私の血圧が、高校生当時の数値よりも低いのは事実で、それ以上でも以下でもないということです。

ちなみに最初に血圧が高いと指摘された数値は、150/95くらいだったように覚えています。

高校入学直後の健康診断で尿タンパクが検出され、人生で初めて病院で測定した血圧がその値でした。

ただ当時は、上が140~160は境界の値とされていて、医師も薬を飲むまでは必要ないと判断したように覚えています。

そして尿タンパクと血圧の値以外はこれといった自覚症状もないので、私は気にしながらもいつもほとんど無視をしていました。

その後何も対策をしないまま50年程度が過ぎ、今日測った私の血圧は126/83でした。

若い頃はいつ測っても140/90を下ることはありませんでしたから、今は嬉しさと驚きが半分ずつという感じです。

2024年5月21日 (火)

血圧と年齢

このところ血圧にこだわって記事を書いています。

私は高校入学直後の健康診断で尿タンパクが検出され、その後に病院で血圧が高いと指摘されました。

そしてその後も健康診断で尿タンパクが出ることが時々あり、その度に血圧の高さも問題にされました。

ただ血圧以外は問題がなく、またこれといった自覚症状もないので、私は気にしながらもいつもほとんど無視をしていました。

その結果何も対策をしないまま、初めて高血圧を指摘されてから50年ほど経過してしまいました。

そして私の今の血圧は、高校生当時の数値とほとんど変わっていません。

高校生以来、散々不摂生な生活もしてきましたが、何故か血圧については変化がないようです。

私が高血圧を指摘された当時、血圧は年齢を重ねると高くなるというようにいわれていました。

ですから確か成人病と呼ばれていたように記憶しています。

そして今も生活習慣病などと呼ばれて、おそらく同じように考えられているのだと理解しています。

ただ少なくとも私は、若い頃から血圧が高目だったわけですが、50年間ほとんど変化はしませんでした。

結局、私の血圧は年齢とはほとんど関係がなかったようです。

2024年5月20日 (月)

「血圧が高い」

昨日の続きになりますが、私は高校入学直後の健康診断をきっかけに、自分の血圧が高いことを知りました。

まず、その健康診断で尿タンパクが検出され、その後に病院で血圧が高いと指摘されたわけです。

そして血圧以外は問題になるものがなく、またこれといった自覚症状もありませんでした。

そんな状況が長く続きましたが、時々の健康診断ではいつも「血圧が高い」といわれてしまいました。

そういうときには医師が問診で、高血圧を放置しているとどうなるか、いろいろと教えてくれました。

ただそれは、私にとっては脅しのような効果しかなかったような気がします。

つまり、私の両親も血圧が高く降圧剤を服用していました。

ですから、私もいつかは薬を飲まなければならなくなるのだろう、と思っていました。

そして日常の生活の中で少し気分がすぐれない場合に、なんとなく『血圧のせいかな』と考えることが度々ありました。

そんなふうに、将来の健康不安を頭の片隅におきながら過ごしていたような気がします。

ただそれから数十年が経過して、幸いなことに今のところ降圧剤を使ってはいません。

そして今の血圧の値は、高校時代に「血圧が高い」といわれた頃の値とほとんど変わっていません。

2024年5月19日 (日)

血圧のこと①

私は高校に入学したときの健康診断で、尿タンパクが検出されたといわれました。

その結果を受けて、病院に行って腎臓などの検査をすることになりました。

そして、その時に問題にされたのが血圧が高いということでした。

というよりも、血圧以外は問題になるものがなかったという方が正確かもしれません。

つまり腎臓などに悪いところは見つからず、ただ血圧が高いだけということでした。

ただそれ以前から、両親ともに血圧の薬を服用していることは知っていました。

それを医師に話すと「血圧が高いのは遺伝かもしれない」と、必ず言われたものでした。

そして当時の医学では、血圧は年齢とともに上がるものだといわれていました。

例えば、標準的な血圧の値は年齢に95を加えた数字だ、などということも聞きました。

また、今では上が140を超えると血圧が高いということになるようです。

ただ当時は140~160は境界としていて、すぐに高血圧という診断にはなりませんでした。

私は血圧を測るとほとんどの場合この値の中に入っていたので、降圧剤は使わずに様子を見ましょうということになりました。

2024年5月18日 (土)

将来収入の減少

このブログは母の四十九日の法要が終わって間もなく始めました。

その理由の一つには、母のいわゆる『第2の人生』について、ゆっくりと振り返ってみたいという気持ちがありました。

そしてその母の第2の人生は、私としてはそこそこ満足のいくものでした。

もちろん母にとってどうだったかは、本人に聞いてみることもできませんので、今では何ともいえませんが……。

ところで、私にとって良かったということのほとんどは、施設での生活のことになります。

その施設で母はかなりの期間、明るく陽気に過ごすことができました。

そして施設での生活ということは、もちろん介護制度にお世話になっていたということでもありました。

そして当時、施設で働く皆さんが「いつも汗だくになりながらお世話をしてくれる」と母は大変感謝していました。

ですから母と私にとって現在の介護制度というのはとても有難いものであり、是非このまま続いて欲しいものだと思っています。

ところがここ数日取り上げたのが、介護保険料が上がり訪問介護の報酬が下がるという話でした。

施設の職員さんの給料が下がるわけではないようですが、介護に人が携わりにくくなるのは間違いないように思います。

将来自分の収入が減るかもしれないところに就職したい人がどのくらいいるのか、ということです。

2024年5月17日 (金)

介護制度の先行き不安

ここ二日間は最近気になった介護の問題について考えてみました。

まず一つは、今年度に改定される高齢者の介護保険料が過去最高になるということでした。

そして次は、今年度の訪問介護の報酬が下げられるということでした。

どちらも今後の介護に関して大きな影響を与えると思われる話題でした。

私の場合は、2009年に父が入院して「次の行き先を考えてください」といわれたことで、初めて介護保険について意識しました。

その後父は介護認定を受けることになりましたが、その結果が出たときに父は既に亡くなっていました。

ただ、その時に介護保険について知った私は、その当時に腰を痛めていた母のために入浴用の椅子を買うことを考えました。

そして母は介護認定を受け、要支援1という結果を得て、一割負担で椅子を手に入れることができました。

その後母は要介護4で施設に入所しましたが、その間に様々な介護サービスを利用することができました。

ですから私は現在の介護制度には感謝していますし、このまま続くことに期待しています。

ところがこの二日間に取り上げた話題は、どちらも介護制度の先行きを不安にさせるものでした。

というのは、保険料の上昇は利用しない人の負担まで増えることであり、報酬の下落は人手が足りなくなるのが目に見えているからです。

2024年5月16日 (木)

訪問介護報酬引下げ

昨日は今年度に改定される高齢者の介護保険料が過去最高になるという記事を紹介しました。

そして、おそらく今後も当分の間は過去最高が更新され続けるのだろうと思います。

今の社会において、介護はしばらくの間はその重要性を増していくのでしょう。

そうだとすれば介護保険はともかくとして、介護制度は持続可能性のあるものとしておかなければなりません。

それでは、保険料や自己負担が増えていくばかりの今の介護保険のままで良いのか、という問題を避けては通れません。

そしてまた、もう一つ介護について最近私が気になったことがありました。

それは、今年度の訪問介護の報酬が下げられるという話です。

ウチの母も脚の骨折から退院したときに、訪問介護と訪問看護を利用することになりました。

ただ再び体調を崩した母は、結局、訪問介護と訪問看護は数日しか利用しませんでしたが……。

それでも在宅で介護生活を送る方々のほとんどは、訪問によるサービスが欠かせないと思われます。

そして国も、在宅での介護を推奨しているようです。

ただ、その仕事に携わる人の報酬を下げるというのは、そのサービスを必要としている人の要望や国の方針に逆行しているように感じます。

2024年5月15日 (水)

介護保険料過去最高

今朝の新聞に、高齢者が負担する介護保険料が過去最高になるとの記事が載っていました。

内容としては、3年ごとに見直される高齢者が負担する介護保険料に、今年度から新たな保険料が適用されるということです。

そして、その金額が前回を上回って、過去最高の金額になるそうです。

ところで、介護に関する費用は自己負担分を除いて、保険料と国庫負担で賄われるということです。

その内、高齢者負担の保険料はこれまで(2021~2023年度)は、全国平均で6,014円でした。

それが2024~2026年度は平均6,225円になります。

また自治体別に見てみると、大阪府がこれまでも6,826円と最高で、そしてこれからも7,486円で最高だそうです。

地域ごとに差が出るのは仕方がないのかもしれませんが、原因を精査する必要もあるように思います。

このように今回の介護保険料は過去最高になったと、新聞は取り上げました。

ただ、いわゆる団塊の世代の全てが後期高齢者になるのが2025年だということです。

つまり今回の介護保険料が過去最高というのは途中経過に過ぎず、次回も最高を更新することになるのでしょう。

結局、現在のままの介護保険制度を維持しようとすると、介護は充実するどころかどんどん先細っていくような気がします。

2024年5月14日 (火)

雨男と雨女

昨日は風雨が強くて蒸し暑く、今朝まで雨が降り続いていたようでした。

今日は打って変わって爽やかで、朝のうちは雲が多かったもののお昼前から晴れてきました。

同じような毎日を繰り返しているとなかなか気付きませんが、何をするにも今が一番いい季節かもしれません。

荒れ模様だった日の翌日の温かい日差しと爽やかな風の中で、ふとそんなことを感じてしまいました。

そういえば、ウチの家族が何かしら行動するときは、お天気に恵まれることが多かったように記憶しています。

そしてそれは、家族全員がなんとなくそれを意識していたようにも思います。

例えば父と一緒に行ったゴルフ、母と行った旅行もほとんど良い天気でした。

もっとも、ゴルフや旅行は予め天気予報を調べていたという事情はありますが……。

それでも、予定日にあまりにも悪い予報が出ていれば止めるというくらいで、そういうケースもそれほど無かったように思います。

ですから、今でも爽やかな晴天の日にはゴルフ場の芝生の匂いを思い出したりします。

また、温泉地に行く途中のサービスエリアで見た富士山を思い出したりもします。

いずれにしても、ウチの行事には雨男や雨女は参加していなかったようです。

2024年5月13日 (月)

毎日が母の日

昨日は母の日でした。

ただ残念ながら、いつの頃からか5月の第2日曜が母の日だとの意識がなくなっていました。

確かに子供の頃は、学校で母の日に関する工作などをした記憶があります。

そしてそれを母に見せると、喜んでくれていたような気がします。

その後はウチでは母の日だからといって、何も特別なことはしませんでした。

そんな中でテレビなどで母の日が話題になると、私は「ウチは毎日が母の日だから」などと適当なことを言っていました。

ただそんな言い訳をしていながら、特に母の手伝いをしていたわけでもありませんでしたが……。

母が亡くなった今では、毎年の母の日を思い出に残るようなものにしてあげれば良かったと思います。

それでも母に介護が必要になってからは、いろいろとお世話をすることができました。

もちろんそれは必要があったからですが……。

例えば母のために食事を用意したり、施設に入所後も洗濯物のお世話をしました。

結局、母が要介護状態になってからは『毎日が母の日』というような状況だったように思います。

2024年5月12日 (日)

今できること

母と曾孫は2019年の8月と10月に施設で会って一緒に遊ぶことができました。

8月は母の心身の調子が良くない時期でしたが、曾孫が来てくれたその日は食欲も旺盛でとても明るく元気でした。

そして次に来てくれた10月には母の体調も戻っていました。

その間の9月に曾孫が2歳の誕生日を迎えていて、母からのプレゼントとして鉄道の模型を贈りました。

そしてその模型を面会時に持ってきてくれて一緒に遊んで、母も曾孫も本当に楽しそうな表情をしていました。

そんな時間を過ごせたことも、私が母の施設での生活を高く評価していることの一つです。

今でもこの時の写真を見ると、本当に良かったと思うばかりです。

ただやはり、これだけ母が喜んでくれるのなら、もっと頻繁に会えたら良かったと考えたりします。

またそのためには、もっと早く事務所の許可が得られていればなどと後悔したりすることもあります。

先日も記しましたが、介護生活が終わっても様々に悔いが残ることはあるものです。

母は折に触れて「こんなに長生きするとは思わなかった」「曾孫の顔が見られるとは思わなかった」と口にしていました。

ですから、母が長生きして曾孫と遊べたことを喜んであげるほかに、今できることはありません。

2024年5月11日 (土)

プレゼントの鉄道模型

母と曾孫は施設で2度ほど会って一緒に遊ぶことができました。

それは2019年の8月と10月のことでした。

昨日は2019年8月に初めて曾孫が施設に来てくれた時のことを振り返りました。

その当時の母はおそらく塩分不足が主な原因だったと思いますが、心身ともに調子の良くない時期でした。

それでも、曾孫が来てくれたその日は食欲も旺盛でとても明るく元気でした。

そして次に来てくれた10月には母の体調も戻っていました。

ところで、その間の9月に曾孫が2歳の誕生日を迎えた時に、母からのプレゼントとして鉄道の模型を贈っていました。

そしてその模型を、この2度目の面会時に持ってきて母に見せてくれました。

私がネットで探して贈った鉄道模型でしたが、実際に見たそれは思っていたよりも豪華なものでした。

また、幸い施設の面会室には他の人がいなかったため、線路を大きく広げることができました。

このように広いところで遊ぶことができて、曾孫も本当に楽しそうな表情をしていました。

母も曾孫から電車の車両を受け取ったりして、とても嬉しそうな笑顔で遊んでいる姿を見つめていました。

2024年5月10日 (金)

「たくさん食べていたよ」

母と曾孫は施設で2度ほど会って一緒に遊ぶことができました。

それは2019年の8月と10月のことでした。

それ以前に母と曾孫が初めて会ったのは、2017年12月のことで曾孫がまだ生後3ヶ月の時でした。

その時の曾孫は、ほとんどの時間を母のベッドでスヤスヤと眠っていました。

母は施設に入ってからも当時のことを良く覚えていて「私のベッドでずっと寝ていた。おとなしかったね」と振り返っていました。

それ以来に会うことになった2019年8月は、母が心身の調子が今イチの時期でした。

食欲が落ちて、精神的にも不安定になりかけていました。

施設の食事が制限食になり、母が嫌いだという塩気のないお粥が出るのでほとんど残している、という状況になっていました。

そこで、曾孫を連れてきてくれる孫に「母はあまり食欲が無い」と伝えておきました。

それでも孫は母が好みそうな食事を持って会いに来てくれました。

食事の時間に間に合わず遅れて行った私が、施設に着いてから母の様子を孫に尋ねると「たくさん食べていたよ」と答えてくれました。

その言葉を聞いてから母の姿を見たところ、その頃はほとんど見せないような満面の笑顔で曾孫と一緒に遊んでいました。

2024年5月 9日 (木)

「面会室では乳幼児もOK」

2018年7月に母が施設に入所した後、私の姪である母の孫が面会に来てくれることになりました。

その前月の6月に母が病院にいた頃には、その孫は何度か面会に来てくれました。

ただ、病院での面会は乳幼児は禁止されていたので、当時1歳だった曾孫を母に会わせることはできませんでした。

そこで、施設であれば母と曾孫が会えるかと、私に尋ねてきました。

そして、私がそれを職員さんに訊いたところ、病院と同様に遠慮してくださいと言われた、というのが昨日の記事でした。

そのためその年の敬老の日に初めて施設に来た孫は、曾孫を置いて一人で母と面会してくれました。

施設に入所以来元気に過ごしていた母が、この日に孫と会って本当に嬉しそうにしていた姿を昨日のように思い出します。

ただ乳幼児の面会を遠慮するということを、確かにこの時は私も納得していました。

そして次にその孫が面会に来てくれたのは、翌年の2019年のことになりました。

その時に再び曾孫のことが話になり、私は今度は施設の事務所に尋ねてみました。

すると「面会室では乳幼児もOK」という回答で、もうすぐ2歳になる曾孫と母は会うことができました。

結局、最初から事務所に確認していれば、1年近く早く母は曾孫と会えたということでした。

2024年5月 8日 (水)

『やはりそうなのか』

『こどもの日』が来たことで母が施設に入っていた頃に、子供たちがお遊戯で楽しませてくれた日のことを思い出して記しました。

この日の母は本当に嬉しそうで、また施設全体もどことなく明るい雰囲気に包まれているように感じました。

母だけではなく、おそらくほとんどの入所者が、施設に誰かが来てくれることを喜ぶのだろうと思います。

そして特に、それが小さな子供たちであれば尚更でしょう。

小さな子供といえば、母の入所中には孫娘が曾孫を連れて来てくれました。

孫娘は母と60歳の差で、曾孫は母と90歳離れているという年齢の差でした。

母が施設にいたのは90~92歳の時期でしたが、曾孫を見て母は本当に目に入れても痛くない、という笑顔で迎えていました。

ところで、施設に入所する前に母が入院していた病院は、乳幼児の面会は禁止されていました。

そのため孫娘が施設に初めて来るときに、曾孫を連れて行けるか私に尋ねてきました。

私はそれを母が入所しているフロアの職員さんに訊いてみました。

すると、病院と同様に遠慮してくださいと、その職員さんは答えました。

それを聞いて私は『やはりそうなのか』と納得したものでした。

2024年5月 7日 (火)

高齢者と子供たち

昨日の記事で母の施設に子供たちが来てくれた日のことを書きました。

この日の面会で母は、笑顔を絶やすことなく弾むような声で子供たちの話をしてくれました。

そして、みんなが子供たちを抱きしめていたので、柄にもなく私も抱きしめたと照れながら教えてくれました。

そんな話を母から聞いたからか、この日は入所者の皆さんの表情もいつもよりも明るく見えました。

確かなデータがあるわけではありませんが、ほとんどの高齢者は子供が好きだというのはまず間違いがないように思います。

ですからこういう日が数多くあれば、施設の雰囲気も大きく変わるのに、と思ったものでした。

ところで、ウチの近所には高齢者施設と保育園が併設された建物があります。

内部のことは私には分かりませんが、高齢者と子供たちの交流があるのだとすれば、うらやましい限りです。

もちろん時々でいいのですが、高齢者にとって子供の姿を見るだけで気分が違うだろうと思います。

以前の記事で、私は元々高齢者だけを集めた施設には良い印象を持っていないことを記しました。

それは今でも変わらないのですが、高齢者と子供との触れあいがある場所であれば、その印象は大きく変わるだろうと思います。

いずれにしても、子供たちのお遊戯を見た日の母の明るい表情を、今でも忘れることはありません。

2024年5月 6日 (月)

「子供たちを抱きしめた」

母が施設に入所している時に、子供たちが来てくれた日がありました。

母の話では、おそらく近所の幼稚園児たちが歌を唄ったり踊ったりしてくれたとのことでした。

その日は私が面会に行った時、母がいかにも体調の良さそうな笑顔で「子供たちが来た」と教えてくれました。

そしてこの日の面会中、母は笑顔を絶やすことなく子供たちの話をしてくれました。

母はあまりはしゃいだりするタイプではないのですが、この日は弾むような話しぶりでした。

まず母は「子供たちの演技を見て、感動した」と言いました。

そして「みんなが子供たちを抱きしめていた」と笑っていました。

「私は普段はそんなことはしないけれど」と言いながら、「皆のように私も『ありがとう』と言いながら抱きしめた」と話していました。

「子供たちは無表情だった」と、母はいくらか照れくさそうにしていましたが、本当に楽しかったという表情をしていました。

そんな話を母から聞いて、この日は周囲の高齢者の皆さんの表情もいつもよりも明るいように感じました。

私が知る限りでは、子供たちが来てくれたのはこの日だけでしたが、母だけでなく全ての人が楽しんだ一日だったように思います。

この日のことも、私が母の施設での生活を高く評価している点の一つです。

2024年5月 5日 (日)

『こどもの日』に思い出す

今日は『こどもの日』です。

朝から天気がとても良く、いかにも行楽日和という感じです。

こんな日は母を散歩に連れて行ってあげたいと、今でも思うことがあります。

そういう機会は母の生前にいくらでもあったので、何を今更ということですが、いつまでも後悔するというのはこういうことなのでしょう。

ところで、私が母の施設での生活に関して、概ね満足していたことはこれまでに度々記してきました。

ただ私は元々、同じような境遇の人達を集めて生活をさせることに賛成の立場ではありません。

ですから母が入所したような高齢者施設に対しても、今でも懐疑的な部分はあります。

それは、例えば母のいた当時の施設で私が見たのは、食堂に集められた皆さんの表情でした。

多くの場合ほとんどの人が無表情で、暇な時間をつぶしているという感じでした。

それでもおそらく、自宅にいてボーッとしているよりは良いのかもしれませんが……。

そんな中で多くの人達が明るい表情をしていた日がありました。

その日は母も嬉しそうな笑顔で私を迎えてくれましたが、母の第一声は「子供たちが来た」という言葉でした。

2024年5月 4日 (土)

親の人生を子が決める

このところ、介護していた親の死後に長い時間が経っても未だに後悔していることがあるという、新聞の人生相談から様々考えてみました。

私の場合、母が90歳を過ぎてから入所した施設での生活を楽しんでくれたのが、このブログを始めるきっかけになっています。

ですから、母が施設に入所後は何か後悔したということはそれほど多くありません。

ただ、それでもやはりいくつかはあるものですが……。

その中で最も悔いが残っているのが『もっと早くから散歩に連れて行ってあげれば良かった』という思いです。

このことは以前にも何度か記しましたが、母が散歩を本当に喜んでくれたので今でも残念に思っています。

ところで、介護していた親を亡くした子が後悔する理由をいろいろと考えてみました。

それが昨日の記事なのですが、自分の経験を元に振り返りました。

それは端的に言うと『親の人生を子が決めるようになるから』だということです。

それは親が認知症になった場合は当然のこと、怪我や加齢などで身体の自由が利かなくなった場合も、多くはそうなると思います。

私の場合、母の世話をしている間はその意識は全くありませんでした。

それが、母が亡くなってからしばらくして『そういえば、何から何まで自分が決めていたな』と、感じるようになりました。

2024年5月 3日 (金)

代わりに決める

今日は昨日の記事を続けようと思いますが、その前にまとめておきます。

私の母は持病があり、若い頃から定期的に通院をしていました。

80歳くらいまでは一人で出かけることができ、それまでは私も暇があれば通院の送り迎えをしたりしていました。

その後母が腰を痛めて杖を突いて歩くようになると、通院の送り迎えは毎回欠かさないようになりました。

そしてさらに病状の悪化とともに、車椅子に乗った母と一緒に私も診察室に入るようになりました。

すると徐々に、医師が私に向かって母の状況を尋ねたり、病状の説明をするようになりました。

そして結局、最終的には母の病状に詳しいのは母自身よりも私という状態になってしまいました。

その後、母が入院したりする時期になると、その手続きはもちろん私がすることになります。

そして次の行き先として施設を決めたのも私でした。

その都度、当然説明をしたり母の意見を聞いたりはしましたが、決定や手続きは私がすることになります。

誰もが同じだと思いますが、このように親が高齢になるにつれて、子が代わりに決めることが増えていきます。

本人の意見を聞いたり意思を確認したとしても、親の死後に子供が『あれで良かったのかな?』と思うのは、仕方のない流れなのでしょう。

2024年5月 2日 (木)

「声が小さくて聞こえない」

亡くなった親のことを考えていつまでも後悔してしまうという新聞の人生相談から、ここ数日はいろいろと考えてみました。

その関連で思い出したのが、母と一緒に病院に行っていた当時のことです。

母は若い頃から腎臓の持病がありましたが、80歳くらいまで一人で病院に通っていました。

その後、母は腰を痛めて杖をついて歩くようになりました。

その前から、私に時間がある時に車で送り迎えをしたことはありましたが、腰痛後は毎回一緒に行くようになりました。

そして、その後病院内では母を車椅子に乗せて一緒に診察室に入るようになりました。

すると徐々に、医師は私に向かって話をするようになりました。

それは徐々に持病が悪化してきた母の耳が遠くなってきたことも関係していたかもしれません。

また、母ももしかすると自分の持病が悪化してきたという状況は聞きたくない、という気持ちがあったような気もします。

私が「先生の説明は分かった?」と尋ねると、母はよく「先生の声が小さくて聞こえなかった」とは言っていましたが……。

このような時期からさらに時間が経過すると、最後には主治医と話をするのは私ということになっていきました。

結局、最終的に母の病状に詳しいのは母よりも私という状態になってしまいました。

2024年5月 1日 (水)

楽しかったことも

この二日ばかり新聞の人生相談のコーナーから、両親を見送った後、いつまでも後悔しているという話を取り上げました。

おそらくそれはほとんどの人が経験することで、時間が解決してくれるという回答もその通りなのだと思います。

そして私も母が亡くなって4年半ほど経ちますが、今でも時々後悔の念のようなものが頭に浮かぶことがあります、と昨日の記事に書きました。

ところで私がこのブログを始めたのは、母の四十九日の法要が済んでから数日後のことでした。

その当時はまだ、後悔することが頭の中にたくさん詰まっていたように覚えています。

ただその後は毎日、ブログを書くために記録を読んだり記憶を遡ったりしていました。

すると、母の介護生活も後悔することばかりではなく、それなりに楽しかったことも思い出しました。

特に施設に入ってからの母の写真は、笑顔に溢れたものがとても多いことが分かりました。

それは、ウチでの引きこもりのような生活では考えられないことでした。

そういう施設での生活、私が『母の第二の人生』と呼ぶ時間があったので、このブログを始めたという事情もあります。

そんなふうに毎日両親のことを考えているのは、人生相談の相談者とは少し違うのかもしれません。

それでも、今でも私もいろいろと後悔することがあるので、なかなか解決できる問題ではないような気がします。

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