« 2024年3月 | トップページ | 2024年5月 »

2024年4月

2024年4月30日 (火)

脳内を駆け巡る

昨日に続いて新聞の人生相談のコーナーに取り上げられた話に関連して、いろいろと考えてみます。

相談は50代の男性が3年半前に両親を短い間に続けて亡くして、未だにいろいろと後悔しているというものでした。

その回答は「このような思いは親を失った人なら誰でも持つものです」、「普通は時間がそれを解決してくれます」というものでした。

思いは人それぞれとはいえ、ほとんどの方はこの回答に同意するでしょう。

そして同意した上で、時間はなかなか解決してくれないと感じる人も多いのではないでしょうか。

私も母が亡くなって4年半ほど経ちますが、今でも時々後悔の念のようなものが頭に浮かぶことがあります。

そして、それはほとんどの場合、思いもよらないときにふと浮かんで来ることが多いような気がします。

また時間の経過とともに、その後悔の内容は変化するような気もします。

例えば母が亡くなって間もない頃のこと、『これで良かったのか?』という大きな疑問が時々頭をよぎりました。

もちろんこの疑問に答えてくれるべき人に質問することはできませんので、永遠に回答は得られません。

ですから、『ああすれば良かった』『こうすれば良かった』という後悔も、本当にそれが良かったかどうかは分かりません。

正解が謎のまま、後悔が永遠に脳内を駆け巡るという感じでしょうか。

2024年4月29日 (月)

消えない思い

新聞の人生相談のコーナーに、このような相談をしている人がいました。

50代の男性だそうですが、3年半前に85歳の父親を誤嚥性肺炎で亡くしました。

また、その半年後に母親を子宮ガンで亡くしたとのことです。

そして、医師の言われるままに父親を転院しなかったことと、母親の末期ガンに気付かなかったことを未だに後悔しているという相談でした。

ご両親とは同居していたようで「もっとできることがあったのでは」という思いが消えないとも言っています。

これに対して回答者は「このような思いは親を失った人なら誰でも持つものです」。

そして「普通は時間がそれを解決してくれます」と言い、その上で「いつまでもあなたが悩んでいると両親も心配します」。

最後に「大切な人を失った方の心のケアをしてくれる団体もあります」と、紹介をしています。

この回答にあるように、この方の悩みはほとんどの人が経験することではないでしょうか。

私も母が亡くなった直後は「もっと散歩に連れて行ってあげたかった」「もっと早く入院させれば助かったのではないか」などと考えました。

そしてその考えは、当時ほどではないにしても今でも時々脳裏に浮かびます。

人それぞれとは思いますが、私の場合はこの相談者と同様に、もう少しの間クヨクヨし続けるのだろうと思います。

2024年4月28日 (日)

身の回りを清潔に

今日はとても良い天気で、もしかすると30℃を超えるかもしれないという予報です。

そのため、今季初めて冷房を使うことに備えて、エアコンのフィルターを掃除しました。

また、これからジメジメする時季を迎える前に、洗濯機の洗浄を行いました。

若い頃はほとんど家や部屋の掃除をしなかった私も、変われば変わるものです。

その理由については、このところの記事に詳しく書いたつもりです。

ただ、若くて健康な人であれば洗濯槽のカビ程度では、何も症状は出ないのかもしれません。

2019年の今頃、施設の中で母と私の声だけが掠れました。

別居中の母と私の間をつなぐものは、母の洗濯物くらいしかありませんでした。

様々な情報から『ハウスダスト』と『洗濯槽のカビ』が原因のように思われました。

その時初めて、私は『洗濯槽のカビ』を洗浄する必要があることを知りました。

そんなわけで、大事には至らなかった出来事でしたが、母と私は数日間不快な思いをしました。

持病のある高齢者にとっては何が致命的になるか分かりませんので、介護する側も身の回りの清潔には気をつけたいものです。

2024年4月27日 (土)

家事の経験

このところ2019年の今頃に起きた母の声が掠れるという出来事について振り返ってみました。

おそらくその原因は『洗濯槽のカビ』だったのだと、今では思います。

改めてもし母の声が掠れることがなければ、私が洗濯槽の洗浄をするときが来ただろうかと疑問に思っています。

これに関しては不明を恥じるばかりですが、いくら年齢を重ねても知らないことは知りません。

ところで、長年の専業主婦である母と同居している間、私はほとんどの家事をしたことがありませんでした。

ところが母の介護が必要になると、今度は逆にほとんど私が担当するようになりました。

その中で一番大変に感じたのは食事の支度でした。

何といっても1日に3回メニューを考え、時間までに作り上げるのは毎日が苦行のようでした。

その他に掃除や洗濯もしましたが、これらは多少の経験があり、機械もあるので何とかできました。

そのような生活は、母の介護をするために私が退職をしてから母が施設に入所するまでの、およそ2年半ほどのことでした。

その期間に、自分が体験したことで家事の大変さを理解でき、長い間頑張ってくれた母に対する感謝の気持ちが改めて湧いてきました。

と同時に、自分が何も知らないことに呆然としながら、いろいろと経験することで知識が身につくことの大切さを認識しました。

2024年4月26日 (金)

洗濯槽洗浄の大切さ

ここ数日、2019年の今頃のこと、施設に入所していた母の声が掠れたことから始まった一連の出来事について記しました。

大勢の人が施設にいる中で風邪が流行っているわけでもないのに、何故か母と私の声だけが掠れ始めました。

そして同居しているわけでないにも関わらず、母と私に同じ症状が現れたことについて、不思議に思いながらも原因を考えました。

すると一番疑われる物が洗濯物であり、その他の様々な情報を元にして『洗濯槽のカビ』を洗浄してみようということになりました。

その後、私は施設から母の衣類などを持ち帰って、洗浄後の洗濯機で洗い直しました。

そして間もなく、母と私の声は元に戻りました。

今ではこの一連の出来事の原因は、『洗濯槽のカビ』で間違い無かったと私は考えています。

ところで、その当時の洗濯機は使い始めてから5年ほど経過している物で、それまで一度も洗濯槽を洗浄したことはありませんでした。

それでも問題なく使っていたので、私としてはカビ落としが必要だと考えたこともなかったわけです。

しかし改めて考えてみれば、どんな物でも使っていればそれなりにメンテナンスが必要です。

ただ見た目に問題が無く、何らかの健康被害が出なければ、全ての物事はそのまま流されてしまいます。

結局この時の一連の出来事は、少しの健康被害を負うことで、洗濯槽の洗浄の大切さを教えてくれました。

2024年4月25日 (木)

洗濯槽の洗浄

2019年の今頃、施設に入所していた母の声が掠れているのに気がつきました。

そしてほとんど同時に私の声も掠れ始めたのでした。

その原因について一昨日は、最初に『ハウスダスト』を疑ったことを記しました。

また昨日の記事では『洗濯槽のカビ』ということをラジオで聴いたと書きました。

確かに、当時のウチの洗濯物には何か粉のような物が付いていることが時々ありました。

気にはなっていましたが、そのまま干して乾いたら着ていました。

ただ、もしもその気にしていた物が『洗濯槽のカビ』だとしたら、それが原因であることは十分に考えられました。

今考えれば怖いことですが、5年ほど使い続けているその洗濯機の洗濯槽を洗浄したことは、それまでに全くありませんでした。

これらのことから、私はこの『洗濯槽のカビ』という説が一番納得できるような気がしました。

そのため私は、洗濯槽の洗浄というものを初めてやってみることにしました。

そして、ウチの洗濯機で洗って施設に持って行っていた母の着替えを持ち帰り、洗浄後の洗濯機で改めて洗濯し直しました。

そうして母の着替えは全て洗浄後の物になり、その後少しして母と私の声の掠れは治まりました。

2024年4月24日 (水)

『洗濯槽のカビ?』

昨日の記事の続きになります。

施設に入所中の母と私の声が掠れ始めたことで、その原因はウチでの洗濯物ではないかと考えました。

そして悪さをしているのが『ハウスダスト』ではないかと考えて、その対策のために急遽大掃除をしました。

ところで、私は普段ポケットにラジオを入れていて、母の施設への行き帰りにも歩きながら聴いていました。

そして、最近のラジオでは多くの番組が、いわゆるテレホンショッピングのコーナーを流します。

いつもは聞き流しているコーナーなのですが、このころに取り上げたある商品の説明が気になりました。

その商品が何だったか具体的には覚えていないのですが、いずれにしても洗濯に関する話が始まりました。

そして、その次に『洗濯槽のカビ』についての話になりました。

それを聞いて私は『洗濯槽のカビ?』と不審に思うと同時に、『これか?』と真犯人を見つけたような感覚になりました。

確かにこの当時のウチの洗濯物には、洗った後に何か粉のような物が点々と付いていることがありました。

私は『何だろう?』と思いながらもそのまま干していて、乾いた後には気にならなくなっていました。

結局、この時にラジオで聴いたこの情報で、私は『ハウスダスト』よりも『洗濯槽のカビ』を疑い始めました。

2024年4月23日 (火)

『ハウスダスト』が原因か?

2019年の今頃の時季、施設に入所していた母の声が掠れ始めました。

また、時期を同じくして私の声も母と同様になりました。

その時期の施設で風邪が流行っていたわけでもなく、喉の調子がおかしそうな人も見当たりませんでした。

そして母と私にも、掠れ声以外に風邪の症状があった訳ではありませんでした。

そんな時にテレビで見た『ハウスダスト』による症状が、その時の母と私の状態に似ていました。

ただ、私の症状が『ハウスダスト』によるものであるという説明は分かります。

ですが、離れた施設にいる母がどのようにしてウチの『ハウスダスト』を吸ったのかという疑問が残ります。

いろいろ考えた末に、毎日私が持ち運びをしている母の洗濯物が原因かもしれないと思い始めました。

そしてまた、この『ウチの洗濯物が原因』という説がもっとも納得できるように感じました。

それは多数の人達がいる施設の中で、母と私にだけ症状が出ていたからです。

ただ『ハウスダスト』といっても、どこのどんな埃や汚れが悪さをしているのか分かりません。

そこで滅多に掃除をしない私も、緊急で自宅の大掃除をすることにしました。

2024年4月22日 (月)

イヤな言葉

今年も桜の花が終わり、すっかり暖かくなってきました。

この時季は湿気もそれほどなく爽やかで、朝晩の寒さもほとんど気にならなくなってきました。

ところで、2019年の母は時々入院することもありましたが、それ以外は施設で過ごしていました。

私はほぼ毎日面会に行っていましたが、4~5月にかけて母の声が掠れていることがありました。

最初は『風邪かな?』と思いましたが、母に確認をすると「熱は無い」「他の症状も無い」とのことで、風邪ではなさそうでした。

そのため、私は『あの症状は何だろう?』と首を捻りながら帰宅しました。

そして、ほぼ同じ時期に私の声も掠れるようになってきました。

そんな時、家でテレビを見ていると『この時季に多い子供の不調』というような番組が放送されていました。

その番組を何気なく見ていると、今頃はやはり風邪は少ないと話していました。

その代わりに、似たような症状が現れるものとして『ハウスダスト』をあげていました。

確かに私はこまめに室内の掃除をする方ではないという自覚がありました。

そんな私にとって『ハウスダスト』とはイヤな言葉でしたが、掠れ声の原因を突き止めたような気がしました。

2024年4月21日 (日)

2人の見張り

このところ、ある男性と介護について話をしたことに関して、感じたところを記しています。

昨日はそれほど大変ではなかったウチの介護でも、一時キツい状況になったことを述べました。

その経験から、介護はなるべく関わる人数が多い方が良いと思っています。

その点で、話し相手の人の父親には認知症の症状もあるようですので、より人数が必要な気がします。

私の身近には幸い、認知症の人がいませんが、少し前にこんな体験をしたからです。

もう10年近く前でしょうか、私が行きつけの床屋さんで頭を刈ってもらっていると、ご家族の一人がその周囲を歩き始めました。

そして、その人の後ろに2人の人がついて歩いていました。

その光景を見て私は一瞬何があったのかと思いましたが、理容師さんの話では先頭を歩いている人が認知症だということでした。

つまり徘徊して外に出てしまうので、見張りが1人では見失ってしまうのだと言っていました。

当時もしかすると70歳にもなっていないその人は、身体的には元気なので結構遠くまで歩いてしまうとのことでした。

そんな事情も他人には知られたくなかったかもしれませんが、私は偶然知ってしまうことになりました。

同時に、介護の中でも認知症の大変さは特別だと実感したものでした。

2024年4月20日 (土)

できれば大人数で

昨日に続いて、先日ある男性と介護について話をした時のことです。

その人は現在の状況について「何だか、格好を付けられなくてね」と話していました。

それを聞いて私は『男はどうしても格好を気にするからなぁ』と感じたものでした。

もちろん男女というよりも個人の差かもしれませんが、私自身格好を付けたがるところがあるので、そんなふうに思ってしまったわけです。

いずれにしても、家族の問題を外の人に知られるのはあまり嬉しいものではありません。

ただ私の僅かな介護の経験からしても、なるべく多くの人に関わってもらう方が良い結果をもたらすような気がします。

それは、ウチのようにそれほど大変ではなかった介護でも、危ない時期があったからです。

2018年5月のことですが、骨折の入院から帰って来た母は精神的に不安定になっていました。

そのためか徐々に食事を取らなくなり、元気もなくなって、最後には一人ではトイレに行けなくなってしまいました。

そこで私は、母が夜中にトイレに行きたいと言った場合に備えて、母のベッドの近くで眠ることになりました。

そういう状況は確か2~3日しかなかったように記憶していますが、それでも私は睡眠不足でフラフラになってしまいました。

そんな経験から、介護はできれば多人数が関わった方が良いと考えるようになりました。

2024年4月19日 (金)

格好を付ける

先日、近所の男性と介護について少し話をすることがありました。

その人は私よりも少し年下だと思いますが、昨年母親を亡くしています。

そして現在は父親と同居していて、その父親は要介護1の状態だということでした。

その上少し認知症の症状もあるということで、いくらか疲れているような表情をしていました。

確かに最近も、その父親が一人で外出しているのを見たことがありますが、多少認知が怪しいかなという感じもしました。

ただ、父親にとっては昨年配偶者を亡くしたわけですから、精神的に参ってしまうのも当然なのかもしれません。

ところで、この時の会話の中で気になった一言がありました。

それは父親の認知症を気にしている男性の「何だか、格好を付けられなくてね」という言葉です。

やはり家族に介護を必要とする人や、認知症の人がいるとどこか引け目を感じてしまうのでしょうか。

私も母をウチで介護していた時は、ほとんど二人で引きこもりのような状態になっていました。

これは偏見かもしれませんが女性と男性を比較すると、男性の方が人の目を気にして格好を付けたがる人が多いような気がします。

それは育児や介護の経験の差によるのかもしれませんが、生活に関わるので格好を付けてばかりはいられないと認識する必要がありそうです。

2024年4月18日 (木)

遠慮しすぎ

今年も桜が散るとすぐに暑くなりました。

このところ毎年のようにそんな陽気が続いています。

昨日の記事にも記しましたが、私は早くから母を散歩に連れて行くことを考えていて、それに相応しい快適な気候を求めていました。

ところが2019年も暖かくなって桜が咲き、桜が散ったと思ったらすぐに暑さを感じるようになりました。

そのため初めて母を散歩に連れて行ったのが、この年の10月になってしまいました。

最初の時、母にはかねて散歩のことについて話をしていたので、とても楽しみにしていたようでした。

そして施設の周囲を散歩して戻って来たとき、母は「気分が良かった」と喜んでくれました。

また「みんなも行けばいいのに」とも言っていて、確かにその通りなのですが、そのためには親族が頑張らなければいけません。

結局、母との散歩は11月にも2回行きましたが、母は毎回楽しそうにしてくれました。

そんな母の表情を思い出しては『もっと早くから行けば良かった』と、尚更後悔してしまいます。

そんなわけで私の介護の経験からのアドバイスは、『できることは何でもしてあげた方が良いですよ』ということです。

もちろん人それぞれですから、本人の希望に応えることが大切ですが、介護する方が遠慮しすぎる必要はないように思います。

2024年4月17日 (水)

今年の桜

母が施設に入所している間、私はしばしば『母を散歩に連れて行きたい』と考えていました。

それもなるべく午前中に行きたいと思っていましたが、当時私は平日の午前中には仕事をしていました。

ですから行くとすれば日曜日ということになります。

そんなことを考えているうちに母の施設での生活も長くなり、ほぼ3ヶ月ごとに入退院をしたりもしました。

そして2019年4月の桜が終わろうかという時季に母は退院しました。

この時に私は「桜を見て感動した」と話してくれた母の言葉を聞き、『いよいよ散歩したいな』との思いを強くしました。

ただこのところ桜の季節が終わるとすぐ暑くなることが多く、この年もそれは例外ではありませんでした。

そして母は寒いのは苦手でしたが、暑さもまたあまり好きではありませんでした。

結局、そんなふうに天気や陽気を気にしているうちに、2019年の春も母を散歩に連れて行くことができませんでした。

そして2019年10月に初めて散歩に行くことになりますが、今でも桜の時季に行ければ良かったと思っています。

このように様々なことを思い出させてくれる桜の花ですが、今年の桜も昨日の強風であらかた散ってしまったようです。

最後に今年の桜に感謝するとともに、来年も美しく咲いて思い出を蘇らせてくれることを期待します。

2024年4月16日 (火)

桜の後は夏

このところ何度か桜の話題を取り上げました。

今年は桜の開花が遅く、葉桜に近くなってきましたが4月の中旬の今でもまだ見頃といえます。

それは3月が予想外に寒い日が多かったからですが、桜が咲いた後は平年よりも暑いくらいの日が続いています。

もしかすると、ここ数日は冷房を使っている場所もあるかもしれません。

最近はこのように、桜が散る頃には夏のような陽気になることが多くなってきました。

ところで、先日は2019年の母の様子をここに記しました。

その年の春、母は91歳になっていて、3月から4月にかけて入院していました。

私は『桜の時季には間に合わないかもしれない』とも思いましたが、何とか母は4月5日に退院して『最後の桜』を見ることができました。

そして、このころ私が気になっていたのは桜の他にもう一つあり、それは散歩でした。

退院直後のために桜を見に外出することはできませんでしたが、施設での生活に慣れてきたら散歩に連れて行きたいと考えていました。

理由は母が貧血気味で日光浴をさせたいということと、「リハビリに行って外を見る」と話していたことから喜ぶだろうと思ったからでした。

ただ、私の都合で『日曜日の午後がいいかな』などと考えているうちに、日差しの強い暑い日が続く季節になってしまいました。

2024年4月15日 (月)

大切な刺激

新聞のコラムに興味深い話が載っていました。

40年ほど前のことのようですが、母親がくも膜下出血の手術後に、ほとんど話ができなくなってしまったそうです。

このままではもう二度と母親と話ができなくなると心配した3姉妹の子供たちが、話し合って決めたのが週に一度の電話でした。

最初に毎日面会に行ける3番目の妹が、たくさんのテレホンカードを用意したそうです。

それを使って毎週末、2人の姉に電話をしてテレホンカードが切れるまで、母親と話をしてもらったとのことです。

もっとも内容は、姉たちが一方的に話して母親は返事をするくらいだったそうですが。

それでも、それが効果的だったのか主治医も驚くような回復を示し、母親はその後17年間生きることができたという話でした。

私も母の介護経験から思うところがあります。

それは、このコラムの電話のように何かしら刺激がないと人は簡単に衰えるということです。

例えば私の母の場合は、施設に入所後に家で過ごしていた頃よりもはるかに元気になりました。

それは体調が良くなったこともあったと思いますが、何よりもいろいろな刺激があったことが大きかったと感じています。

ウチでジッとしている頃と比べて、笑顔でよく話をしてくれましたし、目や耳の感度も明らかに良くなっていたのには驚きました。

2024年4月14日 (日)

『最後の桜』

母が90歳の年、2018年3月23日に母は足の爪を切ろうとして椅子から落ちて脚を痛めました。

まだ骨折と判明していませんでしたが、母は「少しずつ良くなってきた」とトイレの介助が必要な程度で、普通にウチで生活していました。

そして桜が満開になった3月27日に私が『花見ドライブ』を提案すると、母は予想外にも同意してくれました。

しかしさすがに脚が痛かったのか、母は桜の感想を口にすることはなく、もしかすると『最後の桜』と考えていたのかもしれませんでした。

以上は前日の記事にも書いたところですが、幸いにも翌年も母は桜を見ることができました。

その2019年は母が91歳の年ですが、この時は既に施設に入所していました。

ただ3月には病院にいたので、私は『今年の桜は見ることはできないかな』と考えていました。

その後なんとか4月5日に退院することができましたが、私の見たところ桜は盛りを過ぎて葉桜が目立ってきていました。

そして翌日の6日に面会した際、母は施設のリハビリルームから桜を見たことを話してくれました。

またその後はリハビリルームに行く度に、窓際やベランダから桜を見たようです。

その度に母は「感動した」「今年の桜が見られるとは思わなかった」などと笑顔で話してくれました。

そんな母の表情を見て、私は『本当に良かった』と思ったものでしたが、結局この年の桜が、母にとっての『最後の桜』になりました。

2024年4月13日 (土)

来年の桜

今年は3月に寒い日が多く、桜の開花が遅くなりました。

そのため、珍しく4月の中旬になってもまだ桜の見頃が続いています。

30年近く前、私が『そうだ、京都行こう』と考えて、修学旅行以来の京都旅行に行ったのも4月中旬のことでした。

その年も桜が咲いてから寒い日が多く、私が京都に着いた時にまさに見頃になりました。

その日に最初に行った嵐山で満開の桜を見たこともあって、私はその後毎月のように京都に行くようになりました。

ただ桜は毎年咲きますし、その度にどこか高揚感はありますが、この時のように毎年の桜が印象的なわけではありません。

私にとっては嵐山で見た満開の桜が、今でも一番記憶に残っているものの一つに間違いありません。

ところで母が90歳の年、2018年の3月23日に母が椅子から落ちて脚を痛めました。

そして3月27日に、私が母に「桜を見に行こうか」と誘うと、脚が痛そうな母は予想外にも同意してくれました。

最寄りの駅付近の桜並木は満開でしたが、助手席の母はずっと静かで、どこまで桜を楽しめたのかは分かりません。

もしかすると母も私と同様に『来年の桜も見ることができるだろうか?』と考えていたのかもしれません。

もちろん私にとって、この年の桜も忘れられないものとなっています。

2024年4月12日 (金)

低血糖の心配なし

このところ、母が低血糖の状態を怖れていたことから、いろいろと思い出して記していました。

そんな母が2018年4月2日に脚の骨折で入院し、その翌日に低血糖の状態になってしまいました。

それはインシュリンの注射をしたにも関わらず、食事をしないで眠ってしまったことで起こりました。

確かにそれは不運な出来事でしたが、睡眠中だった母が気付いていなかったことは不幸中の幸いでした。

ところでその当時で母は、既に20年ほどインシュリンの注射を続けていたと思います。

それがこの後、2018年5月24日に今度は内科に入院することになり、その途中でインシュリンの注射を止めたようでした。

その経緯はよく知りませんが、もちろん母の糖尿病が良化したのであればそれで良かったと思います。

ただ、それでも退院後に入所する施設はインシュリンの注射に対応できることになっていました。

ですから入院中にインシュリンを止める必要はなかったはずですが、主治医の判断で止めることになりました。

おそらく、しばらくの間病院食で生活をしていたので、母の糖尿病もいくらか改善したのでしょう。

2018年7月4日に施設に入所する時に付き添ってくれた看護師さんは「今朝の血糖値も問題ありませんでした」と話していました。

そして施設に入所後はインシュリン注射は全くしませんでしたから、母も低血糖を心配することはありませんでした。

2024年4月11日 (木)

インシュリン注射の中止

このところ、母が低血糖の状態を怖れていたことから、いろいろと思い出して記していました。

2018年4月2日に脚の骨折で入院した母は、その翌日に低血糖の状態になってしまいました。

それ自体は不運な出来事でしたが、睡眠中だった母が気付いていなかったことは幸いでした。

ところで、おそらく母は70歳くらいにインシュリンの注射を始めたものと私は記憶しています。

ですから、この当時で既に20年ほど続けていたことになります。

そして、この時の入院は40日ほどで5月12日に退院しましたが、その間食事前にはインシュリンの注射を欠かしませんでした。

退院後もウチにいる間は、確か12日間だけになってしまいましたが、食事前の注射をしていました。

そしてウチで脱水症状を起こして意識不明の状態になり、2018年5月24日に今度は内科に入院することになります。

この入院も40日ほどで、7月4日に退院して施設に入所することになりました。

そしてこの時の入院では、おそらく途中からインシュリンの注射を止めたようでした。

もちろん母の糖尿病が良化したのであればそれで良かったと思います。

いずれにしても2018年7月4日に施設に入所した後に、母がインシュリンの注射をしたことはありません。

2024年4月10日 (水)

納得がいかない

6年前の2018年3月23日に母が椅子から落ちて脚を怪我した後、4月2日に骨折が判明して母は入院することになりました。

ここ数日は入院翌日に母が低血糖の状態になってしまったことについて記しました。

その当時は、インシュリンの注射をしたまま母を寝かせてしまった看護師さんを恨んでしまったものでした。

それは、母が低血糖の症状をとても怖れていたということを、私がよく知っていたからですが……。

ただ、今ではいくつかの不運なことが重なった不幸な出来事だったと考えています。

このように一つの出来事でも、その当時と時間が経過した後では、受け取り方が変わることもよくあると思います。

もっとも、この時の母は眠っていて気分が悪くなった記憶はなかったようなので、不幸中の幸いではありました。

ところで、母は朝の寝起きに気分がすぐれないことが多かったように思います。

そういう時に母は必ず、血圧と血糖値を測ることにしていました。

そしてそれほど問題のない値が出ると母は、決まって納得がいかないような表情をしていました。

私からすると持病の悪化ではないことが分かって良かったのではないかと思うのですが、母には不満のようでした。

6年前の低血糖での一騒動を振り返っているうちに、そんな母の一面を思い出しました。

2024年4月 9日 (火)

不運な騒動

6年前の2018年3月23日に母が椅子から落ちて脚を怪我した後、4月2日に骨折が判明して母は入院することになりました。

そして昨日の記事に書いたとおり、入院の翌日に母は低血糖の状態になりました。

それは、インシュリンの注射後に食事をとらないで母が眠ってしまったことで起きました。

また同時に不運でもあったように思います。

まず、前日の診療時間が終了した後に入院したため、医師や看護師と服用している薬などの情報が共有されていませんでした。

もちろん通院していた病院に入院したのですから、母の薬の情報がないわけではありません。

ですからこの時も決まった量のインシュリンを注射したものと思います。

ところで、母は毎食前に注射をしていましたが、インシュリンの量はそれぞれ違っていました。

この頃は就寝中に低血糖になるのが怖いということで、夕飯の前は少なめにしていました。

それに対してお昼は、3時におやつを食べることを前提にしていたので、朝晩よりも多目の量を注射していました。

そういう最も良くないタイミングで母は、インシュリンの注射をした後に食事をしないで眠ってしまったのでした。

もちろんその後は低血糖になることはありませんでしたが、入院翌日にいろいろな不運が重なった一騒動でした。

2024年4月 8日 (月)

血糖値30

6年前の2018年3月23日に母が椅子から落ちて脚を怪我した後、4月2日になって脚が動かなくなり、ついに病院に行くことになりました。

そこで骨折が判明して、医師は最初「2日後に入院」と言いましたが、何とかお願いして即日入院することができました。

そして母が入院した時の心配事の一つが低血糖でしたが、早くも入院の翌日にその状況になってしまいました。

それは昨日の記事に書いたとおり、インシュリンの注射をした後に母が眠ってしまったことで起きました。

この日は姉がお見舞いに来てくれて母と話をした後に、私が姉を駅まで送って行きました。

そして私が姉と少しお茶を飲んでから、母の病室に戻ってみると母は眠っているように見えました。

私は、姉と話をして疲れたから眠ってしまったのかと思いましたが、その表情をよく見てみるとどこか変でした。

ただ眠っているというよりも、何か筋肉に力が入っていないような緩んだ感じがありました。

そこで看護師さんを呼んで話を聞いてみると、インシュリンの注射をした後に眠ってしまったということでした。

そのために低血糖の状態が起こっているようでした。

そして看護師さんが母の血糖値を測ってから口にしたのは、『30』という私が聞いたこともないような低い値でした。

おそらくその間母の意識はなかったと思いますが、もしこの時に目を覚ましたとしたら、とても辛い気分を味わうことになったでしょう。

2024年4月 7日 (日)

寝ている間に低血糖

6年前の2018年3月23日に母が椅子から落ちて脚を怪我した後、4月2日になって脚が動かなくなり、ついに病院に行くことになりました。

そこで骨折が判明して、医師は最初「2日後に入院」と言いましたが、何とかお願いして即日入院することができました。

母が入院した時に心配事がいくつかありましたが、その一つが低血糖でした。

そして早くも入院の翌日に低血糖になってしまったと、昨日の記事に書きました。

ところで、母は糖尿病でおそらく70歳ころから、長いこと食事の前にインシュリンの注射を打っていました。

母はそのあたりは几帳面でしたから、旅行にも忘れずに注射のセットを持って行っていました。

そして、低血糖の症状になることを大変に怖れていました。

母はその対策として、朝の寝起きと夜の就寝前に血糖値を測定していました。

それは、日中はブドウ糖を飲んだりすることができますが、夜眠っている間に気分が悪くなるとなかなか対処できないからでした。

そのため、寝る前に血糖値が低いと感じると、甘みのある飲み物を飲んでから眠ったこともありました。

それだけ用心していた母でしたが、入院直後のドタバタで低血糖の状態になってしまいました。

それは昼食前にインシュリンの注射をした後、母が居眠りをしたためにしばらくの間放って置かれたからでした。

2024年4月 6日 (土)

『低血糖』の心配

6年前の2018年3月23日に母が椅子から落ちて脚を怪我した後、4月2日になって脚が動かなくなり、ついに病院に行くことになりました。

そこで骨折が判明して、医師は最初「2日後に入院」と言いましたが、何とかお願いして即日入院となりました。

母が入院したことで、それまでの介護生活からは解放されましたが、突然の変化に対して数々の不安や心配が頭に浮かびました。

それはもちろん母の入院生活や手術に関することが主なものでした。

特に、当時母は糖尿病のために食事の前にインシュリンの注射をしていて、その点も私の心配の一つでした。

ところで、2015年に私は母の介護のために離職をしましたが、介護自体はそれほど大変なわけではありませんでした。

ただ、母が血糖値に大変気を遣っていたため、ほぼ決まった時間に食事をとる必要がありました。

そのために、私は慣れない食事の支度とインシュリンの注射や薬の管理で忙しくなりました。

それが母の入院で全てが私の手を離れ、心身共に楽になれば良かったのですが、インシュリンの注射については不安がありました。

病院で生活しているのですから、食前のインシュリンの注射を忘れることはないでしょう。

ただ、母が常々心配していたのは『低血糖』の状態になることでした。

そして、早くも入院の翌日にその『低血糖』になってしまいました。

2024年4月 5日 (金)

大きなショック

6年前の2018年3月23日に母が椅子から落ちて脚を怪我した後、4月2日になって脚が動かなくなり、ついに病院に行くことになりました。

そこで骨折が判明して、医師は最初「2日後に入院」と言いましたが、何とかお願いして即日入院となりました。

母が入院したことで、それまでの介護生活からは解放されましたが、頭で考える心配事が増えました。

それは母の年齢からして、脚の手術ができるのか、またその手術が無事に済むのか、そして元通りに歩けるようになるのかということでした。

結果としては、まず手術に関しては私が思っていたよりもはるかに簡単な手術でした。

おそらく、高齢者が骨折することは少なくないのでしょう、主治医としても慣れた手術だったようでした。

病室を出て行った母は一時間あまりで戻って来ましたので、それほど身体にも負担はなかったように思います。

そして手術後も母の体調はそれほど変わらなかった様子でしたが、普段から貧血気味の母は術後に輸血をすることになりました。

最後の、元通りに歩けるようになるかという点については、主治医は「歩行器を使えば歩けるくらいになるでしょう」と話していました。

確かに最終的にはその程度まで回復しましたが、結局私が抱いた心配の中ではこの点が最大の問題として残りました。

それはリハビリの大変さもありましたが、それ以上に精神的な問題が大きかったように感じています。

やはり母にとっては、今までと同じように歩けないということは大きなショックだったのでしょう。

2024年4月 4日 (木)

心配が絶えない

6年前の2018年3月23日に母が椅子から落ちて脚を怪我した後、4月2日になって脚が動かなくなり、ついに病院に行くことになりました。

そこで骨折が判明して、医師は最初「2日後に入院」と言いましたが、何とかお願いして即日入院となりました。

突然母が家からいなくなったことで、形の上では私が母の介護をする必要はなくなり、身体の負担はなくなりました。

その代わりに母の骨折が分かったことで、心配事が増えて心の負担が増えました。

心配事というのは、まず母の年齢を考えると、脚の手術そのものができるのかということ。

そして手術ができた場合、その手術が無事に済むのかということ。

それから、元通りに歩けるようになるのかどうかということ。

自由にできる時間は増えましたが、そのために却って母のことを考える時間が多くなって、不安感が増幅したような感じがしました。

私も今では高齢者の手術といえども、脚の骨折の手術はそれほど心配でないことは知っています。

ただ、この時は母が受ける手術は初めてということもあって、私もとても不安になりました。

母の身の回りの世話はする必要がなくなりましたが、結局毎日面会に行ったので、そこそこ身体的にも疲れました。

そして何より姿が見えなくなったことで、ずっと母のことを考えて心配が絶えなかったような気がします。

2024年4月 3日 (水)

トイレの準備が必要

6年前の2018年3月23日に母が椅子から落ちて脚を怪我した後、4月2日になって脚が動かなくなり、ついに病院に行くことになりました。

そこで骨折が判明して、医師は最初「2日後に入院」と言いましたが、何とかお願いして即日入院となりました。

この日は診察の前にかなりの時間待たされて、骨折と診断されたのは通常の診察終了時間である午後5時を過ぎていました。

そういう事情から人手の問題もあって、当日の入院を避けようとしたのかもしれません。

もしくは命に関わる病気ではないため、痛み止めを出してその内に入院させるのが普通なのかもしれません。

いずれにしても病院側の都合は私には分かりません。

ただ、脚を動かすことができない母を2日間とはいえ自宅で介護するのは、私には無理なことだと思いました。

例えば、ベッドサイドにポータブルトイレが用意されていれば、どうにかなったとは思います。

ですが要介護2とはいえ、それまで自宅では普通に動いていた母に対して、そのような用意はしていませんでした。

つまり、自力でトイレに行けなくなった場合に対しては、それなりの準備が必要だということにこの時初めて気付いたわけです。

病院では患者にオムツの中に排泄させたりしますが、自宅で介護する場合は、それはなるべく避けたいことです。

この点で即日の入院は私にとっては幸運でしたが、母にすれば寂しかっただろうと思います。

2024年4月 2日 (火)

骨折で即日入院

6年前の2018年3月23日、母が椅子から落ちて脚を怪我しました。

最初はかなり痛いようでしたが、徐々に良くなってきたと言っていたので、3月27日には『花見ドライブ』に出かけたりしました。

最初のうちは何をするにも介助が必要でしたが、一人でトイレに行けるようにもなったので『骨折ではなかったな』と安心していました。

ところが4月1日の朝のこと、母がベッドで私を呼ぶので行ってみると、痛そうな表情ではないものの「脚が動かない」と言いました。

とうとうすぐにでも病院に連れて行かなければならなくなりましたが、この日は生憎の日曜日でした。

そのため、その日は私の全介助で過ごし、4月2日の朝にケアマネジャーに連絡をして介護タクシーを手配していただきました。

そして持病で通院している病院に話をして、診察してもらえることになりました。

いつものように予約しているわけではありませんので、レントゲン撮影と診察でかなり待たされて、外は真っ暗になってしまいました。

その結果、脚の骨折が判明しましたが、最初医師は「痛み止めを出すので、2日後に入院してください」と言いました。

ただ私としては、既に片脚の動かない母を前日1日介助していたので、さらに2日もそれが続くのは厳しいと医師に話しました。

それは自宅のトイレが狭く、後ろ向きになって座るタイプであるので、片脚の動かない高齢の母にはとても辛い動きだったからです。

そのため私としては『すぐにでも入院させて欲しい』との思いを伝えると、医師も入院の手配を進めてくれました。

2024年4月 1日 (月)

『結構ゴルフに行っていたなぁ』

昨日は父も私も晴れ男なので、二人で一緒にゴルフに行く時は大体晴れていた、と記しました。

ただ、私の仕事が休みの平日に行くことが多く、予約する前には天気予報を欠かさずに見ていました。

ですから悪天候が予想されていると、もともとその日は避けることができていたわけですが……。

それはともかくとして、振り返って数えてみると父とのゴルフは数十回行ったものと思います。

それに比べて母との旅行は30回程度と記憶していますので、おそらくゴルフはそれ以上の回数だった気がします。

ただ、母との旅行は父の死後ということで、まだ記憶に新しいのは確かです。

その点で古くなった記憶を蘇らせてみると、良い天気のゴルフ場をまず最初に思い出したということです。

ところで父は82歳までゴルフに行き、84歳まで趣味の野菜作りをしていた元気な人でした。

若い頃には戦争に行き、乗っていた船が沈んで漂流したこともあったそうです。

いろいろと大変な経験もしてきたのでしょうが、あまり話さないどちらかといえば静かな人でした。

そんな父の晩年に対しては、母の時に比べて冷たかったかな、と改めて考えてしまうこともよくあります。

それでも清々しい青空を見上げると、父が元気な時期には『結構ゴルフに行っていたなぁ』と思います。

« 2024年3月 | トップページ | 2024年5月 »

最近の写真