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2024年3月

2024年3月31日 (日)

晴れ男

今年は2月までは例年のように暖冬で、3月中旬には桜が開花するという予想が出ていました。

ところが3月は予想外に風の強い寒い日が多く、2~3日前までは桜の咲く気配もありませんでした。

それが3月も末になって昨日から突然暑くなり、あちこちで桜が咲き始めたということです。

そして今日は早くも午前中に25℃を超えて夏日になり、3月としては過去最高の気温になるということです。

ということで、いよいよ今年もお花見のシーズンがやってきました。

こういう時季の晴れて気持ちの良い日は、いろいろなことが思い出されます。

このブログには何度か記していますが、私は母の晩年はそれなりに良かったと考えています。

例えば父が亡くなった後、母とは叔母を交えて数十回も旅行に行くことができました。

また、施設で『第二の人生』と呼ばれる笑顔に溢れた生活を送ることもできました。

その反面、父にはもっと様々なことをしてあげられたのではないか、と今でも考えてしまいます。

それでも今日のような気持ちの良い青空は、父と一緒に行ったゴルフの思い出を蘇らせてくれます。

父も私も、どちらかといえばいわゆる晴れ男の部類で、一緒に行った日はほとんど晴れていたような記憶しかないからです。

2024年3月30日 (土)

『一人で抱え込まない』

先日、新聞の人生相談に興味深いものがありましたので少し考えてみたいと思います。

70代の女性が長年連れ添っている80代の男性が衰えてきたため、身の回りの世話をすることになりました。

夫婦仲は悪くはないけれども、介護中心の生活はつまらない毎日だということです。

大好きな旅行にも行けないので早く一人になりたいと考えてしまうことで、自分自身に嫌悪感を抱いているとのこと。

このような質問に対して、回答者はまず「こういう心のモヤモヤは多くの人が抱くものです」と言います。

そして、仲の良い夫婦ならば自分だけが自由になるなど、なかなかできるものではありません。

それでも自由になりたいことまで否定せず、たまには気晴らしの旅行に行ってみるのもいいのでは、という回答でした。

ところで、このブログでは何度も、介護を一人で抱え込まないことが大事だと強調しています。

ですから、この質問に対する回答も悪くはないと思います。

ただ、自分自身に嫌悪感を抱いてこのような質問をする人が、実際に旅行に出かけるのはかなり難しいのではないでしょうか。

こういう方は、おそらく旅行先でもいろいろと考えてしまって、あまり楽しめないかもしれません。

それでも、介護する側が疲れてしまうと共倒れしかねないので、『一人で抱え込まない』ということはここでも強調しておきたいと思います。

2024年3月29日 (金)

桜を愛でる

このところ2018年3月23日に母が脚を怪我したことに関連して、その当時を思い出しながら振り返っています。

桜の花が満開になった2018年3月27日、私は怪我した脚を引きずっている母に「車で桜を見に行こうか?」と提案してみました。

この時母は既に90歳ということもあり、私の中には『母に見せてあげられる最後の桜かもしれない』という思いがありました。

それでも駐車場の手前には階段もあるので、脚を気にしている母は断るかと思いましたが、意外にも母は「行ってみたい」と前向きでした。

もしかすると母も同じように『最後の桜かもしれない』と思っていたのだろうかと前日の記事に書きました。

花見から帰宅後の母はやはり脚が痛かったのか、嬉しそうな表情などほとんど見られませんでしたので、この時の私の気持ちも複雑でした。

ただ母が亡くなって全てが終わった後、私は『この時に母を誘って良かった』と思っています。

というのは、この後すぐに母は骨折で入院をしてから、結局施設に入所することになります。

そして翌年の2019年の春、母は「今年のお花が見られるとは思わなかった」と言っていました。

この時は満開の時期には入院していて、何とか葉桜の頃に施設から外を眺めたことを報告してくれました。

それだけ2018年にはいろいなことがあり、おそらく母は心身共に苦しんだのでしょう。

ですから、この時期に桜を愛でるということは、母にとって大切なひとときだったのだろうと思います。

2024年3月28日 (木)

『最後の桜かもしれない』

このところ2018年3月23日に母が脚を怪我したことに関連して、その当時を思い出しながら振り返っています。

怪我をしてから数日の間、母は「脚の具合は少しずつ良くなっている」と言っていました。

確かに全く歩けないわけではなく、私が付き添えばトイレなどには行けるくらいでした。

そこで、桜の花が満開になった2018年3月27日、私は母に「車で桜を見に行こうか?」と提案してみました。

この時母は既に90歳でしたので、私の中には『母に見せてあげられる最後の桜かもしれない』という思いが少しありました。

それでも脚を気にしている母は断るかと思いましたが、意外にも母の答えは「行ってみたい」と乗り気でした。

この時に母の気持ちを尋ねた訳ではありませんが、もしかすると同じように『最後の桜かもしれない』と思っていたのでしょうか。

体調が万全なら満開の桜並木を堪能できたはずですが、やはり母は脚の痛みのためか、花見から帰宅後も反応がそれほどありませんでした。

それでも、私は今でも『この時に母を誘って良かった』と思っています。

それと同時に、ウチで母を介護していた時期には、外出する機会を増やしてあげれば良かったと反省しています。

特に天気の良い日には『散歩に連れて行けば良かった』と、今では強く思います。

家で親を介護する場合は、引きこもりがちな生活になりやすいですが、全てが終わった私からは『外に出る』ことをお勧めしたいものです。

2024年3月27日 (水)

花見ドライブ

今年2024年は2月まで暖冬でしたので、当初は桜の開花が早く、3月中旬頃だろうと予測されていました。

ところが3月に入ってから寒い日が続いていて、3月26日現在まだ開花宣言すら出されていません。

ですから、今年は桜が見頃になるのは4月に入ってからということになるかもしれません。

ところで、このところ2018年3月23日に母が脚を怪我したことに関連して、その当時を思い出しながら振り返っています。

『骨折かもしれない』と考えながらも、すぐには病院に行かず、脚の後ろのひどい内出血も見て見ぬ振りをして数日を過ごしていました。

また、怪我をした脚は全く動かないわけではなく、母は「少しずつ良くなっている」と話していました。

そこで、桜の花が満開になった2018年3月27日、私は母に「車で桜を見に行こうか?」と提案してみました。

ウチの最寄りの駅周辺に母も知っている桜並木があるので誘ってみましたが、さすがに脚を気にして母は断るのではないかと思いました。

ところが、思いがけず母は「行ってみたい」と乗り気で、駐車場への4段ほどの階段も何とか歩いて車に乗り込みました。

その桜並木を2度回って帰って来ましたが、やはり母は脚が痛かったのか、桜に対しての反応はそれほどではありませんでした。

母は既に90歳でしたから、この時の私の中に『母にとって最後の桜になるかもしれない』という思いが少しはありました。

もしかすると、母にもそんな気持ちがあったので、脚の痛みを押して『花見ドライブ』に行こうと思ったのかもしれません。

2024年3月26日 (火)

『骨折ではなかったようだ』

このところ2018年3月23日に母が脚を怪我したことに関連して、その当時を思い出しながら振り返っています。

おそらく母も私も大事でないことを祈りながら、すぐには病院に行かず、脚の後ろのひどい内出血も見て見ぬ振りをしていました。

そのようにして、しばらくはそれまでと変わらない引きこもり生活を続けていました。

そして、怪我をした母の脚も期待通りに日に日に良くなっているようでした。

この当時、私はまだ日記をつけていなかったのであくまでも記憶ですが、母は「少しずつ良くなっている」と言っていたと思います。

またトイレへの移動などは、脚を引きずっている母を私が介助すれば一緒に歩いて行けたように思います。

結局、後日母の脚は骨折していたことが判明しますが、何とか大事でない振りをしながら数日は過ごすことができました。

ところで、奇しくもこのころ私はある知人から、90歳の母親が脚を骨折して手術をした、という話を聞いていました。

それを聞いて私は漠然と『それは大変だな』と思うと同時に『90歳でも手術ができるのか』と感心したことを覚えています。

それでも、同じ90歳の私の母が脚に怪我をしたとしても『手術は避けたいものだ』と、当然思っていました。

そして実際に母が「良くなっている」と言っていることと、何とか歩けていることから『大丈夫そうだな』と感じていました。

それは希望的観測に過ぎませんでしたが、実際この時期私は『骨折ではなかったようだ』という気持ちに徐々に傾いていきました。

2024年3月25日 (月)

引きこもり生活の終わり

今年も3月23日が過ぎましたが、6年前のその日が母が脚を怪我した日に当たることから、このところ当時を振り返って記しています。

すぐに病院には行かなかったこと、怪我をした脚の後ろがひどい内出血をしていたことを既に書きました。

ところで、私はこの時90歳だった母がこの後に病院や施設で過ごした日々を『母の第二の人生』と名付けています。

そして、その時期の母のことを大変誇らしく思っています。

ただそれでも、この時の怪我がなければどうだったか、ということは今でも考えてしまいます。

その当日は2018年3月23日ですが、私が母の面倒を見るために介護退職をしてから既に2年半ほどが経過していました。

始まりは、要支援だった母が救急で入院してから要介護2の状況になったことで、私は母を家で介護することになったわけです。

もっとも、その当時は介護といっても食事のお世話が主で、この2年半はそれほど大変ではありませんでしたが。

ただそういった生活の中で、母は通院しか外出せず、私も通院の付き添いと買い物くらいしか外には出ないようになってしまいました。

そしてもしかすると、この時の母の怪我がなければ、今でも二人で引きこもっているのかもしれません。

ただ、そんな生活が続く中で、母が怪我をしたことで突然生活が一変することになりました。

結局、母が病院や施設で生活することになり、私も外に出ざるを得なくなって、二人の引きこもり生活が終わることになりました。

2024年3月24日 (日)

ひどい内出血

2018年3月23日の午後3時過ぎ、母が椅子から落ちて脚を痛がっていたことを昨日書きました。

その時の母は痛みを隠すように照れ笑いをしていましたが、私は『骨折してないかな?』と心配していました。

ただ昨日も記したように、母から病院に行くことを言い出さない限り、私はなるべく黙っていようと思っていました。

それは、母も私もできれば病院には行きたくないタイプなので、無事であることを無理にでも祈りたいという気持ちからでした。

もちろん、その後は毎日母に脚の具合を尋ねました。

最初の数日は母も「良くなって来た」と話していました。

実際に、脚を庇いながらも動かすことができていました。

ところで、以前にも記したように母をウチで介護していた時期、母はお風呂に入ることはしませんでした。

そのため夜就寝の前の時間に、母の身体を拭くことが習慣になっていました。

背中など、母が自分で拭けない部分は私が拭いていましたが、下半身の場合は立っていてもらう必要がありました。

ただ、この時期はやはり長いこと立っているのが辛そうでしたので、無理しないように短い時間で済ませるようにしていました。

それでも、痛めた方の脚の後ろが一瞬だけ見えた時、かなりひどく内出血していて驚いた記憶があります。

2024年3月23日 (土)

『骨折してないかな?』

私がこのブログを書き始めた理由の一つは、母が明るく元気に施設で最晩年を過ごしていた様子を忘れないために、というものです。

つまり、私がいうところの『母の第二の人生』を記録しておこう、という考えから始まりました。

それでは、その第二の人生はいつから始まったのか、ということも押さえておく必要があります。

もちろん、それは施設に入所した日から、という考え方もあります。

ただ全ての出来事は繋がっているので、自宅で生活していた母が施設に入ることになった原因というものがあるわけです。

その原因の一つとなるものが、6年前の今日、2018年3月23日に起きました。

その日の午後3時過ぎ、自室にいた私は居間の方から「ガタン」という物音がするのを聞きました。

確かその時居間では母がテレビを見ているはずでした。

そこで居間に様子を見に行ってみると、母が床に直接お尻を落として座っていました。

「痛い。足の爪を切ろうとして椅子から落ちた」と母は顔を顰めながら言い、私は母を起こして椅子に座らせました。

この時母は既に90歳でしたので、私は『もしかすると骨折してないかな?』と思いましたが、母には話しませんでした。

それは私も同じなのですが、母はあまり病院に行きたがらないので、本人が「病院に行きたい」と言うまでは聞かないことにしていました。

2024年3月22日 (金)

戦前の風情

このところ3月11日をきっかけにして、災害に関連することをいろいろと思い出しながら記してきました。

そして昨日は亡き父が幼少時に2度ほど養子に行っていたことを知った時のことを書きました。

どちらも数週間から数ヶ月で戻っていたようですから、本人にその記憶があったかどうかは分かりません。

また、今となっては誰にも尋ねることができませんから、戸籍の情報以上のことは知りようがありません。

ただ、私が子供の頃に家族で父の故郷に行ったことがあります。

私の記憶では、父が運転する自動車で数多くの場所に連れて行ってくれたことを覚えています。

また、夏の暑い時期でしたから、どこに行っても冷たい飲み物をいただいたことが最も印象的に記憶に刻まれています。

そして父はあまり自分から説明するタイプの人ではなかったので、その時に会った人々との関係はほとんど理解できませんでした。

ただ、おそらくその中には父が養子に行った先もあったのだろうと、なんとなく考えています。

同時に父の生活していたであろう家も見てきましたが、当時は既に無人で、いかにも農村の古民家という風情でした。

その家の裏山にはお墓があって、様々な大きさの石が整列しているというよりも、雑然とした感じで立っていたのが印象的でした。

それは大阪で万博が開催されていた1970年のことですが、当時の父の故郷の風景はまだ戦前を引きずっているような気がしました。

2024年3月21日 (木)

驚いた2度の養子

このところ13年前の2011年3月11日に起きた東日本大震災について、いろいろと思い出しながら記してきました。

そして昨日は亡き父が生まれた101年前の1923年に起きた関東大震災についても考えてみました。

毎年、父の誕生日や命日が近づくといろいろな思い出が蘇って来るものです。

例えば101年前の誕生日に父は双子として生まれたそうです。

一緒に生まれた兄弟の方は戦死したと聞きました。

そして父も戦地に赴きましたが、幸運にも帰って来ることができました。

これらのことのように、もちろん父の生前から知っていたこともあります。

ただ、その他に父が亡くなってから分かったこともありました。

それほどの財産を残してくれたわけではありませんが、一応相続の手続きをするために戸籍謄本をいくつかの自治体から取り寄せました。

それらを見て私は、父が幼い頃に2度ほど養子に出ていたことを知りました。

先ほど父は双子として生まれたと記しましたが、確か既に7~8人の兄姉がいる家族の末っ子として双子が生まれた状況だったようです。

養子に出た事情はわからない上、時代を考えると珍しく無かったのかもしれませんが、それを知り私は驚きと共に何か切なさを感じました。

2024年3月20日 (水)

今でもできる親孝行

このところ13年前の2011年3月11日に起きた東日本大震災について、いろいろと思い出しながら記してきました。

その間に今は亡き父の誕生日が過ぎていきました。

それは父の誕生日が翌日の3月12日だからで、もう101年前の1923年のことになります。

そしてその1923年というのは、9月1日に関東大震災が起きた年でもあります。

つまり父が生まれてからおよそ半年後に震災があったわけですが、父は西日本の出身ですので幸いに被災することはありませんでした。

また、私が子供の頃には『関東の直下型地震は60年周期で起こりやすい』という説もありました。

ただ、1923年から既に101年が経過していますが、それらしい地震はまだありません。

発達した現在の科学でも、地震の予知はほとんどできないということです。

それでも多少の危険性の把握はできそうで、能登地方では昨年から大きめの地震が頻発していたようです。

だからといって住民が前もって避難するわけにも行かない上に、日本中安全だと太鼓判を押せる所はなさそうです。

この時期には毎年こんなことを考えていますが、一応今年も3月12日には父のためにお墓参りをしてきました。

そして101回目の誕生日をお寿司でお祝いしましたが、今ではできる親孝行といえばこれくらいになってしまいました。

2024年3月19日 (火)

21世紀の避難所

今年も3月11日を迎えたことで、13年前の2011年に起きた東日本大震災について、いろいろと思い出しながら記しています。

今年の元日には能登地方で大きな地震が起こりましたが、当初はなかなか被害の状況を知ることができませんでした。

そして今回も、その後徐々に分かってきた避難の状態を見ると、私にはなかなか理解しがたいものがあります。

それは21世紀の現代でも学校の体育館で雑魚寝をしているということが、私にとって最大の疑問になっています。

東日本大震災からでも13年が経っています。

先日ネットで昔の避難所の写真を見ましたが、それも学校の体育館のようなところに布団を敷いて雑魚寝をしていました。

東日本大震災どころかその写真はモノクロでしたから、そんな時代と全く変わっていないということを知り、愕然としました。

例えば高齢者が被災した場合、晩年の私の母のように施設に入所していれば何とかなるのかもしれません。

ただ、入所前のように自宅で介護しているような場合は、簡単には避難ができないこともありそうです。

また、避難することができても体育館で雑魚寝というのは、高齢者でなくても心身ともに辛いものがあります。

幸い私の両親を始めとして身近な人の中で、避難所で生活をした経験者はいませんが、想像するだけでも大変なことが分かります。

能登地方だけでなく、今でも各地の避難所で生活している方々にお見舞い申し上げます。

2024年3月18日 (月)

突然ベビーカー

今年も3月11日を迎えたことで、13年前の2011年に起きた東日本大震災について、いろいろと思い出しながら記しています。

13年前の地震の後、福島県の原子力発電所で爆発が起こって放射性物質が大気に放出されました。

そして今年の元日には能登地方で大きな地震が起こり、ここにも原子力発電所があったために一時心配されました。

万一のことがあれば避難しなければなりませんが、被災地では所々で道路が寸断されたりします。

実際に移動することは難しい場合も多いでしょうが、何かあれば原子力発電所からなるべく遠く離れたいと思う人も多いでしょう。

13年前には実際にそういうことが起きていました。

私は当時東京駅のホーム上にいた時間がありましたが、何故か突然ベビーカーを押した乗客が増えてきたと感じました。

普段はホームで赤ちゃん連れの人を見かけることは多くないのですが、その時間帯は次から次とベビーカーを押したお母さんが現れました。

何だか珍しい雰囲気のホーム上になりましたが、この時点では何があったのか私には分かりませんでした。

その後知ったのは、諸外国や外資系の企業の中には関係者に避難を指示したところもあったということでした。

外資系の企業では関西方面に避難をしていたところもあったようですので、私はその様子を目撃したように思います。

いずれにしても、その頃と同じ場所で今でも生活が続けられているというのは、幸運なのかもしれません。

2024年3月17日 (日)

幸運の中の一つ

今年も3月11日を迎えたことで、13年前の2011年に起きた東日本大震災について、いろいろと思い出しながら記しています。

そして今年の元日には能登地方で大きな地震が起こり、今でも被災地で避難している方が多数いらっしゃいます。

このような自然災害は直接の被害を受けなくても、いろいろなことを考えるきっかけになることがあります。

当時私が住んでいたのは築50年になろうとする戸建ての家で、そろそろ建て替えを考えてはいました。

そんな時期に大きな地震があり、丁度一人で家にいた母が怖い思いをしました。

また私も仕事先からなかなか連絡が取れず、『ウチだけ倒れていないだろうな』と本気で心配したりしました。

そのため、地震を契機にして家を建て替えることが具体的に進み始めました。

結局は建て替える前に転居をすることになりましたが、建て替えの話で近所の不動産屋に行ったことが始まりでした。

そして、その後の転居先となったマンションは日当たり良好で、それまでの日の当たらない一軒家とは天と地の差がありました。

当時母は身体がむくみがちで、冷えることが良くなかったこともあり、転居後は暖かい部屋で過ごせたことで体調も良化しました。

このブログは、母が晩年を『第二の人生』として施設で楽しく過ごしてくれたことから書き始めました。

母が人生を楽しく終われたのは様々な幸運に恵まれた結果ですが、この時の地震もその中の一つだったのかもしれません。

2024年3月16日 (土)

『運が良かった』

このところ2011年3月11日に起きた東日本大震災について、いろいろと思い出しながら記しています。

この日は金曜日で、その午後2時46分に地震が起きました。

このブログでは何度か記しているように、このころは母や叔母と一緒に毎月のように旅行に行っていた時期でもありました。

この月も地震の前週の4日から5日にかけて、千葉県のいわゆる南房総のあたりに行っていました。

この地震では東北地方の被害が大きく知られていますが、実は関東でもそこそこの被害が出ていたということです。

この時に行った南房総のあたりにも津波が来たようで、千葉でももう少し北部では死者も出たそうでした。

そしてこの時の旅行では、私たちを乗せた自動車はその北部の方から海岸沿いの道を南下していました。

それが丁度地震のあった時間帯に当たっていて、まさに一週間ズレていなければ、私たちも危険な状況になったかもしれませんでした。

その道路を走行中に津波警報が出されても、よく知らない場所でどんな行動ができたか想像もできません。

それ以外にも旅先で災害に遭った場合のことなど、ほとんど考えたこともありませんでした。

そう考えると少なくとも私たちにとっては、この時の地震が一週間後だったことは本当に幸いでした。

もちろん逆に、たまたま旅先で被災する人もいるわけですから、このことを思い出すと『運が良かった』としみじみと思います。

2024年3月15日 (金)

転居のきっかけ

このところ2011年3月11日に起きた東日本大震災について、いろいろと思い出しながら記しています。

当日は都内で仕事中だった私は、何度か携帯電話で自宅に連絡しようとしましたが、全く繋がることはありませんでした。

当時、築50年に近い家に住んでいた私の心配は、母が無事かということと家が壊れていないかということでした。

というのは、それまでも床を歩くと所々でミシミシ音がしたり、今にも踏み抜けそうなところもあったりしていました。

そんなわけで『近所でウチだけ潰れていたら恥ずかしいな』などと、本気で考えたりしていました。

また母は当時83歳で、杖をついて歩くような状態でしたので、怪我などがないかとても心配でした。

幸いにもどちらも無事でしたが、それまでも少し考え始めていた家の立て替えについて、真剣に検討するきっかけになりました。

このころは、姉が時々来て家の清掃をしてくれることがありましたが、戸建てで広いため掃除も大変なようでした。

そのため姉が母に「どこかに引っ越したら」と話したことが何度かあったということです。

ただ戸建ての持ち家に住んでいると、引越しをしたり賃貸に住むことはなかなか現実的に考えられませんでした。

それでも実際に大地震に遭ってみると、次が来たら危ないという思いを強く持ちました。

そして2年後の2013年には賃貸マンションの契約をしましたが、私たちが転居をするきっかけの一つが東日本大震災だったわけです。

2024年3月14日 (木)

帰宅難民

このところ2011年3月11日に起きた東日本大震災について、いろいろと思い出しながら記しています。

当日は都内で仕事中だった私は、通常であれば徒歩で3時間ほどかかる自宅に向かって午後4時頃に職場を出発しました。

あれだけの大きな地震にも関わらず、ほとんどの人は通常通り午後5時まで職場にいたのか、私は予想した時間通りに帰宅できました。

ただ、公共交通機関が止まっていたため、その後の時間は歩道も車道も混雑で大変ことになったようでした。

同じ職場のある人は、自動車で家族を迎えに行ったところ、数時間も渋滞に巻き込まれたと話していました。

また他の人は、自宅まで10時間歩いたと言っていました。

そしてテレビや新聞の報道では、電車が動かないために駅に泊まり込む人達で溢れたということでした。

幸い、私が心配した『ウチだけが倒れていることはないかな?』ということはありませんでした。

また、ウチ以外でも倒壊した建物の話は聞きませんでした。

確か東京は震度5程度だったと思いますが、今後もこのくらいの地震であれば建物の倒壊はそれほど心配は無いと言えるでしょう。

ただ、昨日も記しましたがビルからガラスが割れて落ちてくることは注意する必要があります。

また、道路の混雑や帰宅難民の問題など、都会ならではの被災状況ということも改めて考えさせられた記憶があります。

2024年3月13日 (水)

落下物に注意

昨日の記事に続いて東日本大震災が起きた2011年3月11日のことについて、思い出しながら記していきたいと思います。

都内で仕事中だった私は、通常であれば徒歩で3時間ほどかかる自宅に向かって午後4時頃に職場を出発しました。

職場からは携帯電話で何度か自宅に電話をしてみましたが、全く繋がる気配がありませんでした。

自宅は既に築50年近くが経過していて、そろそろ建て替えも考えるような状況のため『ウチだけ潰れてないかな?』と真剣に心配しました。

また、一人でその家に残る母の身の安全も心配しながら、やや早足で自宅への道を歩いていたように思います。

それでも歩きながら見る建物で壊れている物は無かったので『ウチも大丈夫かな』とやや安心したのを覚えています。

ただ、大通りの歩道に人だかりがしているところがあったので『何事かな』と見ると、ビルから割れたガラスが落ちて散乱したようでした。

その後、都内でも室内で天井が落下して人が亡くなる事故があった、ということが報道されていました。

大地震では建物全体が無事でも、部屋の内外を問わず落下物に注意が必要なことが実感としてよく分かりました。

そんな景色も見ながら1時間ほど歩いたところで公衆電話が見つかり、家と母の無事が確認できたのは昨日記した通りです。

この日私が歩いた道路ではほとんど被害は見当たらず、通常通り3時間ほどで帰宅することができました。

ただ、これは私が早めに職場を出られたことが大きかったようで、少し後には帰宅ラッシュの行列が歩道を埋め尽くしたということでした。

2024年3月12日 (火)

「怖かった」

昨日の3月11日は13年前に東日本大震災が起きた日ということで、その日のことを思い出しながら少し記してみようと思います。

その時私は都内で仕事中でしたが、確かに凄い揺れ方でした。

当時は築50年近い古い家に住んでいて、2年前には父が亡くなっていたので、その自宅に一人で残る母のことがとても心配になりました。

結局この日は急遽仕事が早く終わることになり、私は夕方4時ころに職場を出たように記憶しています。

ただ、公共交通機関が全て止まってしまったために徒歩で帰らなければなりませんでした。

通常であれば3時間ほどで家に到着できることは知っていましたが、非常事態のために不安を抱きながらの帰宅となりました。

1時間ほど歩いたところで、公衆電話から人が出てきたのが目に入りました。

それまで携帯電話で何度も自宅に電話をしていましたが、全く繋がりませんでした。

そんな時に公衆電話を見つけて、緊急時は公衆電話の方が繋がりやすいという話を聞いたことがあるように思いました。

そこで自宅に電話をしてみると、すぐに繋がって「怖かった」という母の声が私の耳に飛び込んで来ました。

当時の母は83歳で、外出時には杖を使って歩くような状態で、介護度としては要支援1だったかと思います。

築50年の家が潰れることもなく、母も無事だったことが確認できて、残りの自宅までの2時間ほどは安心して歩けたことを思い出しました。

2024年3月11日 (月)

相互の気遣い

ここ数日は、このごろ私がハマっている動物の動画を見たことで、改めて人間の生活についてもいろいろと考えています。

一つには、人間が飼育している動物は飼い主の生活の一部になってしまうということがあります。

よく『動物は飼い主に似る』と言われますが、一緒に生活をしているのでそれは当然のことのような気もします。

それは、どうしても食事や排泄の世話が必要だとすれば、動物側からすると飼い主が絶対的な存在になってしまうわけです。

そういう意味では、上手くやっている動物は人間にかなり気を遣っているのかもしれません。

また、表現としては適当ではないかもしれませんが、動物の飼育と育児や介護には多くの共通点があるように思います。

これらはどれも程度の差はあっても、食事と排泄の世話を欠かすことができません。

それでも世話をする側とされる側という観点からすると、育児はほぼ一方的という点で少し異なるのかもしれません。

その点で飼育される動物と飼い主という関係と、介護をされる人とする人の関係はかなり似ていると私は思っています。

もちろん人間と動物を同列に並べるのはどうかとは思いますが、飼育される動物の動画を見ながら私はその思いを強くしました。

というのは先ほども記しましたように、飼育される動物が飼い主に気を遣っていると思われる様子がよく分かったからです。

介護に関しても程度の差はあれ、する側とされる側との信頼関係が最終的な満足感と大きく関連しているように思います。

2024年3月10日 (日)

ウサギのぬいぐるみ

このところYouTubeでハマってしまった動物の動画、特にうさぎの『ぽぽちゃん』について取り上げています。

いろいろな動画を見ていますが、改めて人間と動物にそれほどの違いはないように思えてきました。

特に人に育てられた動物は、ほとんどが徐々に自分が人間であると考えているような状態になる気がします。

そしてそこまで成長してくれると、飼い主にとって必要な世話はほぼ食事と排泄だけになるように思います。

そういうところが動物の飼育と人間の介護が似ている、というのが昨日の記事に記したことでした。

人間と動物を同列に並べるのはどうかとは思いますが、やはり生活の基本はそれほど変わらないということでしょう。

ところで、母は卯年の生まれでした。

戦前の生まれですから、今の若い人達よりは自分の干支に対する意識は強かったように思います。

施設に入所したときに同室の人が一回り下の卯年ということで、仲良くしていたことも思い出されます。

また、母の最後の誕生日は亡くなる1ヶ月前で既に入院中でしたが、姉がプレゼントとしてウサギのぬいぐるみを渡していました。

そして、そのぬいぐるみは母の棺に入れられて、母と一緒に旅立って行きました。

それは4年以上も前のことですが、このごろうさぎの『ぽぽちゃん』の動画を見ていると、私もウサギのぬいぐるみが欲しくなりました。

2024年3月 9日 (土)

癒やしが必要

昨日はYouTubeの動画に出ているうさぎの『ぽぽちゃん』について取り上げました。

カワイイ動物のほのぼのとした動画を見ると、気持ちが落ち着いてなんとなく楽しくなります。

その『ぽぽちゃん』は飼い主の方に良く躾けられている上に可愛がられていて、そんな動画を見るたびにほのぼのとした気分になります。

と同時に飼い主の方のご苦労も感じられて、それはある意味で介護にも共通するもののように思います。

ところで、うさぎの『ぽぽちゃん』は排泄の躾がしっかりできているので、普段は部屋に放し飼いをされています。

ですから飼い主は一緒に遊ぶことと、食事の用意をすることくらいが『ぽぽちゃん』に対しての必要なお世話のようです。

動物もある程度成長すれば自分のことは自分でできるので、元気であればそれほど手は掛からないのかもしれません。

それでも、人ごとながら『ここまで大変だっただろうな』とか『これからも大変だな』などと考えてしまいます。

もちろんペットとして動物を飼うのは、そこそこ余裕がある場合でしょうから、そこまで考えなくても良いかもしれません。

ただ、その点で介護の場合は、突然始まることもあるのでより大変です。

その上、徐々に手が掛かるようになって大変さが増すことも多いので、介護者の心身の負担も考えてあげなければなりません。

ペットの飼育と人間の介護を同列に考えることはできませんが、介護者も時々はどこかで癒やしが必要だろうと思います。

2024年3月 8日 (金)

『ぽぽちゃん』

気がつくと、いつの間にかYouTubeのおすすめ動画が動物関連のものばかりになっていました。

それは、このところ時間があると動物の動画ばかり見ていたからなのですが……。

特に気に入っているのが、『ぽぽちゃん』という名前のうさぎが活躍しているものです。

『ぽぽちゃん』はテレビに出たこともあるようですし、チャンネルの登録者も多いので見たことのある方もいるかもしれせん。

このごろはその動画を、寝る前と出かける前には必ず見るようになってしまいました。

カワイイ動物のほのぼのとした動画を見ると、気持ちが落ち着いてなんとなく楽しくなるように思います。

もちろん『ぽぽちゃん』には飼い主の方がいて、私は動画を見るたびに、うさぎの世話をしながら動画を撮っていて大変だろうなと感じます。

同時に、動物の世話というのも人間とほとんど変わらないのだと感じました。

それは結局、人間も動物も生活の本質的な部分は同じだということでしょう。

『ぽぽちゃん』は、食事と排泄の世話や住環境の整備などの身の回りのことは、飼い主にやってもらっているわけです。

それらは全部自分でできれば良いですが、人間でも人の手を借りる必要がある場合もあります。

そういう意味でカワイイ動物の動画を見ながらも、ふとしたときに介護のことを考えたりしてしまいます。

2024年3月 7日 (木)

父にもリハビリを

このところリハビリについて考えることで、いろいろと思い出したことを記しています。

特にここ数日は父が怪我をした頃のことを振り返りました。

その中で思うのは、父が畑仕事で脚の怪我をした2007年12月当時、介護についての知識が乏しかったことが悔やまれるということです。

やはり脚を怪我した母がリハビリで元気を取り戻したように、父もリハビリをすれば違っていたのではないかという思いが今でもあります。

ところで、父が亡くなったのは2009年の9月で、直接は内臓疾患が原因だったということです。

ただ怪我から亡くなるまで1年9ヶ月ほどでしたが、その間はほぼ家に引きこもるような生活になっていました。

それは怪我が回復して退院した後に、脚を引きずって歩くようになったことが大きな原因だったように思います。

物理的に動くのが大変になったこともあったでしょうが、本人にとっては心理的なことも大きかったのではないでしょうか。

ただ、以前にも記したように父の怪我を冷静に振り返ると、リハビリをしっかりすれば普通に歩けるようになったかもしれません。

そうなれば、怪我の前と同じように町会の役員として活躍を続けていたことも考えられます。

もちろん結果はどうだったか分かりませんが、父の余生がより良い方向に変わっていたかもしれません。

いずれにしても既に15~16年前のことになりますが、そういう意味でその当時に介護やリハビリのことをよく知らなかったのは残念です。

2024年3月 6日 (水)

気を取り直して好循環

このところリハビリを中心に考えることで、いろいろと思い出してきています。

母は90歳を過ぎて脚を骨折しましたが、リハビリの効果もあって元気を取り戻し、施設でも概ね楽しく余生を過ごすことができました。

それに対して父の晩年については今でも多少後悔しているところがあったため、ここ数日にわたって振り返ってみました。

結局、父は畑で怪我をしてしばらく入院し、退院した時には片脚を引きずって歩くようになっていました。

それまでの父は町内会の役員として忙しく動いていましたが、怪我の後は家に引きこもりがちの生活になりました。

当然のことかもしれませんが、父も母も脚を怪我してからはその姿で人前に出ることを嫌っていた感じがしました。

ただ、そのような生活が続くと心身ともに調子が良くなくなります。

それでも母は気を取り直してからはリハビリに励み、歩行器を使えば歩けるところまで回復することできました。

すると心身の調子が好循環を取り戻して、母には笑顔が戻って施設での生活を楽しんでいました。

そういった経験から思うのは、父もリハビリに励んでいれば、ほぼ普通の歩き方に戻れたかもしれないということです。

父が脚の怪我をしたのは84歳の時で、その時まで体力的にはそれほど衰えを感じない元気な人でした。

少なくとも歩き方を気にして引きこもることがなければ、残りの人生をもっと明るく元気に過ごせたことは間違いないと思います。

2024年3月 5日 (火)

体力と気力の低下

このところリハビリを中心に考えることで、いろいろと思い出してきています。

母は90歳を過ぎて脚を骨折しましたが、リハビリの効果もあって元気を取り戻し、施設でも概ね楽しく余生を過ごすことができました。

それに対して父の晩年については今でも多少後悔しているところがありますので、少しずつ振り返ってみています。

2007年12月に父は畑から怪我をして戻って来ましたが、しばらく入院して退院した後は片脚を引きずって歩くようになりました。

当時私は『あれだけの怪我をしたのだから、多少脚を引きずるのは仕方がない』と考えていました。

ただ改めて思うのは、父もリハビリに励んでいれば、ほぼ普通の歩き方に戻れたのではないかということです。

それは母が90歳の時に脚を骨折して手術した後の経過を見て、リハビリの効果の大きさに気付いたからです。

もちろんそれは父に多大な努力を要求することになりますし、父にもその気があったかどうか分かりません。

ただ父が怪我をした当時、介護保険やリハビリの知識が周囲の誰にもなかったことは残念に感じます。

もしその当時私に今の知識があれば、父に介護認定からリハビリに通うことを勧めていたのは間違いないでしょう。

それができなかったため、父は脚を引きずって歩くようになってからはほとんど外出せず、家中にこもりがちになってしまいました。

高齢者だけではありませんが、引きこもった結果として体力と気力が低下し、父の寿命も多少縮まったのではないかと今でも時々考えます。

2024年3月 4日 (月)

運動不足で体力低下

このところリハビリを中心に考えることで、いろいろと思い出してきています。

母は90歳を過ぎて脚を骨折しましたが、リハビリの効果もあって元気を取り戻し、施設でも概ね楽しく余生を過ごすことができました。

それに対して父の晩年については今でも多少後悔しているところがありますので、少しずつ振り返ってみています。

昨日の記事の続きになりますが、2007年12月に父は畑から怪我をして戻って来ました。

その後、怪我が回復して退院したときの父は、片方の脚を少し引きずるような歩き方をしていました。

当時は『あれだけの怪我をしたのだから、多少脚を引きずるのは仕方がない』と思っていました。

ただ、今では父もリハビリに励んでいれば、ほぼ普通の歩き方に戻れたのではないかと考えることがよくあります。

それは母が90歳の時に脚を骨折して手術した後の経過を見て、リハビリの効果の大きさに気付いたからです。

ただ、父が怪我をした頃には介護保険やリハビリの知識が周囲の誰にもなかったでしょうから、やむを得なかったとは思います。

もしその当時私に今の知識があれば、父は介護認定からリハビリに通うことになったでしょう。

そうであれば、父のその後の人生も少しは良い方に変わっていたかもしれません。

なぜならば、父は脚を引きずって歩くようになってからはあまり外出しないようになり、そのためか体力が落ちたように見えたからです。

2024年3月 3日 (日)

知識と経験の大切さ

このところリハビリを中心に考えることで、いろいろと思い出してきています。

母は90歳を過ぎて脚を骨折しましたが、リハビリの効果もあって元気を取り戻し、施設でも概ね楽しく余生を過ごすことができました。

それに対して父の晩年については今でも少し思うところがありますので、少しずつ振り返ってみています。

昨日の記事の続きになりますが、2007年12月に父は畑から怪我をして戻って来ました。

その後、怪我が回復して退院したときの父は、片方の脚を少し引きずるような歩き方をしていました。

その姿を見たとき私は『あれだけの怪我をしたのだから、多少脚を引きずるのは仕方がない』と思いました。

ただ、その後よく思い出してみると、その怪我の部分はほとんど出血がなく皮膚が剥がれていただけだったように感じました。

そのために治癒した後も皮膚が引き攣っていて、その部分が伸びにくかったのではないかと考えるようになりました。

そして、そうだとしたら父もリハビリに励んでいれば、ほぼ普通の歩き方に戻れたのではないかとも思っています。

それは母が90歳の時に脚を骨折して手術した後の経過を見て、リハビリの効果の大きさに気付いたからです。

ただ、父のこの怪我の話は2007年頃のことなので、この時点で介護保険の知識は周囲の誰にもなかったように思います。

その点がとても残念ですが、それだけ知識や経験が大切だということになります。

2024年3月 2日 (土)

リハビリをしていれば……

このところリハビリを中心に考えることで、いろいろと思い出してきています。

母は90歳を過ぎて脚を骨折しましたが、リハビリの効果もあって元気を取り戻し、施設でも概ね楽しく余生を過ごすことができました。

それに対して父の晩年については今でも少し思うところがありますので、少しずつ振り返ってみています。

昨日の記事の続きになりますが、父が怪我をして畑から戻って来たときに一番目立っていた傷がありました。

今では左右どちらの脚か忘れてしまいましたが、膝のすぐ上の太股の正面の部分にその傷はありました。

直径15センチほどのほぼ円形に皮膚が剥けていたので、その上の脚の付け根の部分をタオルで縛ったために良く覚えています。

そんな怪我をした父を連れて、以前診てもらったことがあるクリニックで治療をしていただき、しばらく入院することになりました。

そして怪我が回復して退院したときに、父はその怪我をした方の脚を少し引きずるような歩き方をするようになっていました。

その姿を見たとき私は『あれだけの怪我をしたのだから、多少脚を引きずるのは仕方がない』と思いました。

ただ冷静になって思い出してみると、その怪我の部分はおそらく出血をしていたわけではなく、皮膚が剥がれていただけだったようでした。

そのため治癒した後も皮膚が引き攣っていて、その部分が伸びにくかったのではないかと考えるようになりました。

そして、そういうことだとしたら父もリハビリに励んでいれば、ほとんど普通の歩き方に戻れたのではないかと今では思っています。

2024年3月 1日 (金)

一番大きな傷

このところリハビリを中心に考えることで、いろいろと思い出してきています。

母は90歳を過ぎて脚を骨折しましたが、リハビリの効果もあって元気を取り戻し、施設でも概ね楽しく余生を過ごすことができました。

それに対して父の晩年については今でも少し思うところがありますので、少しずつ振り返ってみています。

さて、父は84歳まで元気に畑仕事をしていて、2007年12月にその畑で怪我をしてしまいました。

着ていたシャツやズボンがビリビリに破れ、所々から出血しながらも父自身が車を運転して戻って来た姿を見て、私は驚きました。

そんな状況の中で、父は私に以前診てもらったことのある近所のクリニックに連れて行って欲しいと言いました。

確かその時は土曜日の午後だったため、院長が不在で1時間ほど待った後に処置をしていただき、そのまま入院することになりました。

入院中にもいろいろな出来事がありましたが、それはともかくとして退院後の父は片脚を少し引きずって歩くようになりました。

今ではそれが左右どちらの脚だったのか定かに覚えてはいません。

ただ、畑から戻って来た時に一番目立っていた傷の部分、それは膝のすぐ上の正面の太股の部分でした。

その時は衣服が破れ多数の傷が見えていましたが、その傷が最も大きかったように私には見えました。

そのため父をクリニックに連れて行くに当たって、その上の脚の付け根の部分をタオルで縛ったために良く覚えているわけです。

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