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2024年2月

2024年2月29日 (木)

大怪我?

このところリハビリのことを中心にいろいろと思い出しています。

結局母はリハビリの効果もあって元気を取り戻し、そのため施設でも概ね楽しく余生を過ごすことができました。

それに対して父の晩年には今でも少し考えてしまうところがあるので、昨日から振り返ってみています。

父は84歳まで趣味の畑仕事をしていて、確か2007年12月に畑で怪我をしました。

着ていたシャツやズボンがビリビリに破れ、所々から出血しながらも父自身が運転して戻って来た姿を見て、私は驚きました。

そんな状況の中で、父は私に以前診てもらったことのある近所のクリニックに連れて行って欲しいと言いました。

そのため私が父を連れてそのクリニックに行くと、そこの院長は不在でおそらく1時間ほど待たされたと思います。

その後院長が戻って来てから処置をしてもらって、そのまましばらく入院することになりました。

入院中にいろいろな出来事がありましたが、とりあえずそちらには触れずに父のことを記していきたいと思います。

父が畑から帰って来た時その姿を見て私は気が動転して、すぐにでも救急車を呼ぶべきだろうと思いました。

ただ、畑からすぐに戻って来たとしても帰宅するまで30分程度は過ぎていたはずでした。

そして手当をしてもらったのは、さらに1時間以上後でしたので、もしかすると最初の印象ほどの大怪我ではなかったのかもしれません。

2024年2月28日 (水)

84歳、畑で事故

ここ数日はリハビリのことについて考えてみました。

結局母はリハビリの効果もあって元気を取り戻し、そのため施設でも概ね楽しく余生を過ごすことができました。

それに対して父の晩年には今でも少し考えてしまうところがあるので、振り返ってみようと思います。

父は84歳まで趣味の畑仕事をしていて、そこには自分で自動車を運転して行っていました。

そんな元気な父でしたが、ある日その畑で事故を起こして怪我をして帰ってきました。

着ていたシャツやズボンがビリビリに破れ、所々から出血しながら自分で運転して戻って来た姿を見て、私は驚きました。

私は当然救急車を呼ぶものと思いましたが、父は自分を乗せて以前診てもらったことのある近所のクリニックに連れて行くように言いました。

私が父を助手席に乗せてそのクリニックに行くと、そこの院長は不在ということでした。

その日は土曜日のため診療時間が午前中ということで、散髪に出かけているとのことでした。

私は父に「やっぱり救急車を呼ぼう」と言いましたが、父は何故か院長の帰りを待つと言い続けました。

父がそのように言う以上私には何もできず仕方なく待ちましたが、その間の看護師さんたちの心配そうな表情が印象的でした。

確か一時間ほど待ったところで院長が戻って来て、父の怪我を診てくれました。

2024年2月27日 (火)

明るさも大切

ここ数日はリハビリの大切さに注目して記事を書いています。

昨日の記事を書いていて思い出したのが、施設のリハビリルームが明るい雰囲気だったことでした。

私は母の主治医から「次の行き先を考えてください」と言われて、初めて『老健』というものの存在を知りました。

そして、この病院の隣が『老健』だと教えていただき、すぐに見学の予約をしたものでした。

その施設は病院から自動ドア一枚で入ることができる場所にありましたが、それまでは関心がないため気付かずにいました。

そこを初めて訪れて相談員の方に案内された時、病院とは異なる明るさに『ここはいいな』と、すぐに私は思いました。

確かに病院は施設の東側にあるために日当たりが良くないという事情はありました。

それでもリハビリルームを比較すると、その明るさには格段の違いがありました。

そして、私が施設のリハビリルームを見学したとき、丁度おばあさんが一人黙々と歩いていて、その姿を見て感動しました。

そんなこともあって、私は母に『是非ここに入ってもらいたい』と考えて、母にもそれなりに勧めました。

その後母は運良くこの施設に入所することができ、いわゆる『第二の人生』を楽しんでくれたのは何度も記した通りです。

高齢者にとってリハビリは重要ですから、楽しく行うためにもその場所は明るい方がいい、というのは間違いないように思います。

2024年2月26日 (月)

「あの時は、私も感動した」

ここ数日はリハビリの大切さに注目して記事を書いています。

私の母は90歳で脚を骨折して手術しましたが、その直後のリハビリではなかなか効果が出ず、心身ともに不調になってしまいました。

ただ、再度の入院では心身ともに回復してリハビリに励み、その結果として柵を掴みながら伝い歩きができるようになりました。

その姿を見ていた私は、車椅子から立ち上がる時の母の真剣な表情に涙が出そうになりました。

そして施設に入所後も母のリハビリは好調で、ついに歩行器を使って歩けるようになりました。

この時は姉が一緒に見ていて、姉は後日「あの時は、私も感動した」と振り返ってくれました。

施設では母とリハビリについて話をすることもしばしばありました。

母は「病院の先生は厳しかったけど、施設の先生は優しいから好き」などと笑顔で話してくれました。

以前から何度も記しているように、母がお世話になった病院と施設は隣同士で併設されています。

それぞれのリハビリルームは同じフロアにありましたが、私の印象では病院の方は薄暗く、施設は明るくきれいに見えました。

ある日のこと、施設のリハビリルームのベランダで「病院の方に手を振ったら、誰かが見ていた」と、笑顔で話していたのも印象的でした。

そんなこともあってか、母は施設に入所後は本当にリハビリを楽しみにしていました。

2024年2月25日 (日)

やる気とリハビリ

前日の記事で、90歳当時の母が脚を骨折して入院し手術を受けることになった時、私はとても心配したことを書きました。

ただ結果として、手術そのものよりもその後のことを心配してあげるべきだったとも書きました。

当然ながら、私よりも脚の手術をする母の方が不安なわけですから、母の気持ちを盛り上げてあげるべきだったと思います。

結局この時は、気分的な落ち込みが回復しなかった母は再度入院することになりました。

ところが、今度の入院では母はすっかり元気になってリハビリに励み、施設に入所することができました。

この時はリハビリの先生も「今度はやる気が違います」と、太鼓判を押していたことを思い出します。

ただ、母が元気になった理由ははっきりとは分かりませんが、このころはいつもニコニコと笑顔を振りまいていました。

そういう精神状態になるとリハビリも好調で、一時は歩行器を使って長い距離を歩けるようになっていました。

つまり、やる気があるとリハビリの進捗状況も段違いで、その結果として更にやる気が出るという好循環になっていたようです。

母が90歳の頃のことですから、もっと若ければさらにやる気とリハビリが重要な気がします。

ところで私の仕事先のマンションで、最近杖を使って歩くようになった70代の女性がいます。

「これからリハビリに行くの」と笑顔で話しかけてくれたその人にも、ぜひ頑張って欲しいものだと思っています。

2024年2月24日 (土)

90歳での手術

2018年4月に母は脚を骨折して入院し、手術を受することになりました。

その時母は既に90歳の上、腎臓病や糖尿病という持病があるので、手術が無事にできるかどうか私は不安に思いました。

ところが、思いのほか手術は簡単に終わりました。

後から考えると、おそらく高齢者が骨折をするのは珍しいことではないので、今ではありふれた手術なのかもしれません。

ただ、その後の母の回復具合は順調にはいかず、精神的に不安定な状況になっていきました。

この当時のことを後にリハビリの先生に尋ねたところ、やはり「やる気が見えなかった」と話していました。

母にとっても、骨折での入院から手術というショックな出来事が続いて、精神的に落ち込んでいたようでした。

私は、このままでは母の認知がおかしくなってしまうと考え、主治医に早めの退院をお願いしました。

結局それがまた逆効果で、母は退院して帰宅後に更に落ち込み、今度は食事を取らなくなってしまいました。

その結果、帰宅してから2週間ほどで脱水症状を起こして、再び同じ病院に入院しました。

母が骨折で入院したとき、私は90歳での手術は大変なことではないのかと、心配したものでした。

ただそれは知識がなかっただけで、実際は手術よりもその後のことを心配するべきだったと、今では考えています。

2024年2月23日 (金)

母と介護保険

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

このきっかけになった2015年11月に介護認定をして、ベッドや車椅子とトイレの手摺りのレンタルが始まったのでした。

ただ、母が最初に介護認定をしてもらったのは2009年のことで、その時の結果は要支援1でした。

そのおかげで介護保険を使って浴用の椅子を一割負担で買えましたが、それはこの年に亡くなった父の時の経験が生きたわけです。

その経緯は前日の記事に記しましたが、父の入院時に介護認定を受ける必要があり、その結果として介護保険について知ることができました。

この時の父は、救急で入院してから一時回復したために介護認定を受けることになりました。

ただ、それから間もなく再び体調が悪化したために、介護保険を使うどころか介護認定の結果も出る前に亡くなってしまいました。

確かこの時の結果は要介護4だったように記憶していますが、とりあえず介護認定の流れは理解することができました。

特に介護認定までにはかなりの時間が掛かることと、結果が出る前でも介護保険が使えることなどは参考になりました。

そのために母の時には状況が変われば、早めに介護認定をお願いするように努めることができました。

最初は要支援1で始まった母の介護でしたが、その後要介護2から最後には要介護4まで、介護保険にはお世話になりました。

2024年2月22日 (木)

最初は要支援1

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

このきっかけになった2015年11月に介護認定をして、ベッドや車椅子とトイレの手摺りのレンタルが始まったのでした。

ただ、それ以前に2009年のことだったと思いますが、母は最初の介護認定をしてもらっています。

この時は、母が足元が不安だということでお風呂に入らなくなったので、介護保険で浴用の椅子を買うためでした。

当時の母は外出時に杖をついて歩いていた程度でしたので、結果がどう出るか少し不安もありました。

その結果は要支援1ということになって、無事に椅子は1割の負担で買うことができました。

ところで、この時に私が介護認定をして介護保険を使うということを知っていたのは、この年に亡くなった父の経験からでした。

父が入院して手術をした後、いくらか体調が持ち直した際に医師から「次の行き先を考えてください」と言われました。

その時はこの言葉の意味が理解できなかったのですが、早い話が「自宅に帰るか施設に入れるか」ということになります。

そのために、とりあえず父が介護認定を受けたわけですが、当時私の周辺には介護保険のことを知る人はほとんどいませんでした。

ただ、この時に介護保険に触れたことで、母の時には必要な手続きがなんとなく理解できるようになっていました。

2024年2月21日 (水)

テーブル上のヤクルト

私は今でも仕事帰りにいわゆる『ヤクルトレディ』と呼ばれる方から、時々ヤクルトを買っています。

そういえば、母もまだ彼女らが『ヤクルトおばさん』といわれていた頃から、時々買っては飲んでいました。

ずっと専業主婦を務めていた母にとって、家を訪れてくれた人はよい話し相手になっていたように思います。

新聞配達のお兄さんやヤクルトを持ってきてくれたお姉さんと、いかにも親しそうに話していた母が今でも懐かしく偲ばれます。

そしてヤクルトといえば記憶に残っているのが、しばしばテーブルに一本だけ置かれていたのを見たことです。

それは、冷蔵庫から取り出した冷えたヤクルトを、母がわざわざ常温に戻すために置いていたのでした。

母は若い頃から持病の血圧や血糖値の他には、便秘や下痢など腸の状況を気にすることが多かったように思います。

また牛乳が苦手で、他の飲み物も冷たいものは避けていたようでした。

外出する際などには整腸剤も服用していた母は、ヤクルトも同様の効果を期待して飲んでいたものと思われます。

それでも、冷蔵庫に入っていたものをわざわざ常温に戻していたのを知ったときは、私も驚きました。

ただ、それだけ母が自身の健康を気遣っていたという証ではあります。

テーブルの上の一本のヤクルトを見て、そんな記憶が蘇りました。

2024年2月20日 (火)

自家製のパン

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

前日も記したように、母との朝食は介護生活以前からパン食が定番になっていました。

ところで、私は2014年10月に体調を崩して入院しました。

その際に自分の病気について知るために、ネットを使っていろいろと検索をしました。

病気や健康について調べていると、それに付随して様々な情報が目に入ってきました。

その中に、市販のパンにはいろいろな添加物が入っているという情報があり、当時毎朝パンを食べていた私はとても気になったものでした。

そこで、この時の入院を機にホームベーカリーを購入して、自宅で食パンを作って食べることにしました。

ですから、母の介護が始まるおよそ1年前から、我が家の朝食のパンは自家製のものになっていました。

母はそのパンをいつも「おいしい」と言いながら食べてくれました。

私としては市販のパンの方が軟らかくて食べやすい気もしましたが、全ての材料が分かっているので安心ではありました。

ただ、パンには塩や砂糖が使われるので、母が食事制限されてからはほとんど食べられなかったのが残念でした。

2024年2月19日 (月)

習慣か楽しみか

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

とはいえ、私が食事の支度に不慣れなこともあり、この時期の母と私はほとんど引きこもりのような生活をしていました。

その当時のことを振り返ってみると、母は毎食前にインシュリンの注射を打っていました。

とにかく血糖値を気にしていた母は、その時々で指定された量のインシュリンを打たなければならない、という考えだったようです。

特に体調に問題がなければ、起床時と就寝前に血糖値を測定していて、それ以外の時間には低血糖にならないことを用心していました。

そのため食事の時間はなるべく正確にしたかった様子で、私も1日3食の準備で頭を悩ませていたということでした。

そんな母との食事は朝はトーストなどのパン食で、夜は主に鍋だったように記憶しています。

そのようにメニューがある程度決まっていると、用意をする私の方も楽なので、それはほとんど習慣のようになっていました。

ただ、母が施設に入所してから「パンが食べたい」という言葉を、何度も聞くようになりました。

どうも母にとっての朝のパン食は、ただの習慣という以上の楽しみだったのかもしれません。

そんなことも考えながら、私は母が亡くなってからも、休日の朝食にはコーヒーを淹れてパンを食べることにしています。

2024年2月18日 (日)

散歩だけでも難しい

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

とはいえ、私が食事の支度に不慣れなこともあり、この時期の母と私はほとんど引きこもりのような生活をしていました。

その後入院生活などを経て、施設に入所していた母を散歩に連れて行ったところ、母は大喜びしてくれました。

ですので、私は『この引きこもりの時期にも母を散歩に誘えば良かったかもしれない』と今でも時々考えます。

ただこの時期に、母に対して車椅子で散歩に出かけることを勧めても、母は断ったかもしれないということをここ数日記事にしています。

というのは、元々母は目立つことが嫌いなタイプなので、この当時は自分の車椅子姿を人目に晒したくなかっただろうと思うからです。

その後の施設での生活では、心身ともに元気で明るくなった上に車椅子にも慣れたからか、母は散歩を楽しんでくれました。

介護をしている方としては、当然ながら介護される人の希望を最大限尊重してあげたいと考えるものです。

それでも、引きこもっていた時と施設に馴染んでからの母では、同じことを同じように喜ぶとは思えない気もします。

介護は本当に人それぞれで、また同じ人でも同じことにいつも同じ反応をするわけではないので難しいものがあります。

今でも車椅子で散歩している方を見かけると、いろいろと考えてしまいますが、なるべく悔いの残らないように介護して欲しいと思います。

2024年2月17日 (土)

「車椅子で散歩に行こう」

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

とはいえ、私が食事の支度に不慣れなこともあり、この時期の母と私はほとんど引きこもりのような生活をしていました。

その後入院生活などを経て、施設に入所していた母を散歩に連れて行ったところ、母は大喜びしてくれました。

そういうことがあった後、私は『この引きこもりの時期にも母を散歩に誘えば良かったかもしれない』と考えたものでした。

ただこの時期は、母が車椅子に乗るのは通院の時だけでしたので、母自身が車椅子姿に慣れていませんでした。

誰でも年齢を重ねて以前のように動けなくなれば、いろいろな場面で人の手を借りなければならなくなります。

それは誰でも頭の中では理解していることだと思います。

ただ病院で車椅子に乗るのはやむを得ないとしても、車椅子姿で散歩に行くのを母が拒否する可能性はかなり高かったように思います。

もちろん、お花見のシーズンなど時期や散歩に誘う言葉などによって、その可能性はかなり違ったのかもしれません。

それでも「車椅子で散歩に行こう」と私が言った場合、母は人目に晒されるのを嫌って断ったのではないかと思います。

ただそれでも、天気の良い日が来るたびに『とりあえず誘ってみれば良かった』と思う今日この頃です。

2024年2月16日 (金)

車椅子での外出

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

とはいえ、私が食事の支度に不慣れなこともあり、この時期の母と私はほとんど引きこもりのような生活をしていました。

その後しばらくして、施設に入所することになった母を散歩に連れて行ったところ、母は大喜びしてくれました。

そのため、この引きこもりの時期にも母を散歩に誘えば良かったかもしれないというのが昨日の記事でした。

それでも、この時期の母はその誘いを断ったのではないかと、今でも私は考えてしまいます。

その理由はいくつかあげられますが、まず第一には特にこのころは母も私も出不精だったということです。

また、この時期の母は家中では伝い歩きができましたが、外出するとなると車椅子でということになります。

このころの外出はほぼ通院だけになっていて、病院内では当然母の車椅子を私が押していました。

つまり母が車椅子に乗っているのは病院内だけで、この時期にはそれ以外の場所で母が車椅子に座ることさえありませんでした。

施設に入所してからは、さすがに母も自分で車椅子を動かして移動したりしていましたが、この時期はまだ車椅子姿に慣れていませんでした。

特に介護の初めの時期は精神的にもデリケートで、そういう姿を見られたくないと感じる人も多いだろうと思います。

2024年2月15日 (木)

散歩日和に思う

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

とはいえ、私が食事の支度に不慣れなこともあり、この時期の母と私はほとんど引きこもりのような生活をしていました。

その後しばらくして、脚の骨折での入院などを経て母は90歳にして2018年7月4日に施設に入所することになりました。

ただこの時の私は、母が施設で上手くやっていけることを確信していた、というのがここ数日の記事になります。

そしてその後、この施設に入所した母は私が予想した以上に施設での生活に馴染んで、笑顔に溢れた生活を送ってくれました。

全てが終わってから既に4年以上の時間が過ぎましたが、それでも未だに少し残念に思っていることもあります。

例えば今日2024年2月14日は朝から快晴で、最高気温が18℃を超える穏やかで春のような陽気でした。

当然今となってはできないことですが、こんなのどかな日は母を散歩に連れて行きたいものだと思います。

そう考えると、家で母を介護していた時期に引きこもりのようになっていたのは勿体なかったと感じます。

施設入所後には3回ほど母と散歩に出かけましたが、その都度母が大喜びしていたのを忘れることはできません。

ただ、家にいた頃の母を散歩に誘っても喜んでくれたかどうかは何ともいえない気がしますが……。

2024年2月14日 (水)

90歳からの第二の人生

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

とはいえ、私が食事の支度に不慣れなこともあり、この時期の母と私はほとんど引きこもりのような生活をしていました。

ですから、母がデイサービスに行ったり施設に入所することなど、このころの私には考えられませんでした。

ところが、脚の骨折の入院などを経て母は90歳にして2018年7月4日に施設に入所することになりました。

ただこの時の私は以前の認識とは違って、母が施設で上手くやっていけることを確信していた、というのが昨日の記事でした。

というのは、施設に入所前に入院していた病院で、母がすっかり元気で陽気になっていたことが私の確信につながりました。

この時の入院では、母は本当に熱心にリハビリに励み、手摺りを掴みながら伝い歩きができるところまで回復していました。

リハビリを見学したときの母の真剣な表情を見て私は感動しましたし、リハビリの先生も母のやる気を褒めてくれました。

そして施設を見学した後、私が書道や俳句もできると説明したときに、母が興味深そうにしていたのが印象的でした。

先のことは分かりませんでしたが、その後間もなくこの施設に入所した母は、予想以上に馴染んでくれて笑顔に溢れた生活を送りました。

この施設での生活を、私は『母の第二の人生』と呼んでいて、このブログを始めるきっかけになった事柄の一つです。

2024年2月13日 (火)

100%の確信

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

とはいえ、私が食事の支度に不慣れなこともあり、この時期の母と私はほとんど引きこもりのような生活をしていました。

このころはケアマネジャーが時々母に、デイサービスの紹介をすることもありました。

ただ、母は一応説明は聞いていましたがその気はなさそうで、私も勧めはしましたが難しいだろうと思っていました。

まして施設に入所することなど全く考えてもいませんでした。

ところが、骨折の入院などを経て母は2018年7月4日に施設に入所することになりました。

この時はその前に入院していた病院で、母はすっかり元気で陽気になったので、少し事情が違うかと感じていました。

そこで主治医に「次の行き先を考えてください」と言われた私は、病院に併設された『老健』を見学に行きました。

この時私はこの『老健』を気に入ってしまい、『ここなら母もうまくやっていけるだろう』と確信しました。

先のことが分からないのは当然ですが、何故かこの時の確信は100%間違えることはないと思いました。

そして幸運なことに、その後間もなく母はこの『老健』に入所して、ここでの生活を楽しんでくれました。

2024年2月12日 (月)

天日の威力

このところウチでの洗濯事情について振り返りながら、いろいろと思うところを記してきました。

母が元気な頃は、日当たりの良い西側の部屋に洗濯物を干すために、毎日のように2階まで階段を上っていました。

そして階段を上がることが困難になると、浴室に乾燥機を置いて、ほとんどのものをそれで乾かすようになりました。

その後、戸建ての家からマンションに転居する際に、母が苦労していた洗濯が楽にできるようにしてあげたいと考えました。

そこで用意したのが乾燥機付きの全自動洗濯機でしたが、乾燥機を使うとブレーカーが落ちてしまうことが分かりました。

結局、母が一人の時には対処できないので乾燥機は使用禁止にしましたが、そうすると何処に洗濯物を干すかが問題として残りました。

新しいマンションには広いベランダもありましたが、足元に不安のある母がそこに降りて洗濯物を干すのは危険な感じがしました。

そこで仕方なく、当面は簡易型の物干し棚を使って室内に干すことになりました。

ところが、そのマンションは南向きで日当たりが良く室温も高いので、晴れていればすぐに乾いてしまうこともよくありました。

つまり洗濯物が乾きにくいという悩みは、日当たりの良くない環境の問題で、転居先のマンションでは全く問題にならなかったわけです。

そのマンションに転居した目的の一つが、母の持病が悪化したので日当たりの良い暖かい場所を求めていたこともありました。

当時86歳になっていた母が転居後に体調を取り戻すと同時に、洗濯物がすぐ乾くようになったのは、全て天日のおかげだったということです。

2024年2月11日 (日)

待っていた幸運な環境

このところウチでの洗濯事情について振り返りながら、いろいろと思うところを記しています。

築50年近くまで住んだ戸建ての家で、母は80歳くらいまで2階の西向きの部屋で洗濯物を干していました。

それは、それ以外の場所の日当たりが極端に悪く、階段で2階に上がる体力もあったからできたことでした。

ところが、腰を痛めてからは浴室に乾燥機を置いて、ほとんどのものをそれで乾かしていました。

その後、母の持病が悪化して極寒の家から日当たりの良いマンションに転居することになりました。

そのため私は戸建てからマンションに転居する際に、母が苦労していた洗濯が楽にできるようにしてあげたいと考えました。

そこで用意したのが乾燥機付きの全自動洗濯機でしたが、乾燥機を使うとブレーカーが落ちてしまうことが分かりました。

結局、母が一人の時には対処できないので乾燥機は使用禁止にしましたが、そうすると何処に洗濯物を干すかが問題になりました。

広いベランダもありましたが、足元に不安のある母が降りるのは危険なので、当面は簡易型の物干し棚を使って室内に干すことになりました。

ところが、新しいマンションは南向きで日当たりが良く室温も高いので、晴れていればすぐに乾いてしまうこともよくありました。

つまり洗濯物が乾きにくいという悩みは、日当たりの良くない家に住んでいたからで、転居先のマンションでは全く問題無かったわけです。

環境が変われば生活が変わることに考えが及ばず、同じ生活が新居でも続くと思い込んでいましたが、実は幸運な環境が待っていたのでした。

2024年2月10日 (土)

『洗濯物が乾かない』という悩み

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

しばらくの間、母の食事に関していろいろと記していると、当時の生活について他のことに関しても思い出されてきました。

たしかに食事については前述したように2015年11月から私が担当することになったわけです。

もちろん、それ以外の買い物や金銭の管理など、外出が必要なことはそれ以前から私が代わりにしていました。

ただ、家中では母も普通に動けましたので、できることはなるべく長くやってほしいと私は思っていました。

そこで2014年1月に戸建てからマンションに転居する際に、母が苦労していた洗濯が楽にできるようにしてあげたいと考えました。

そのために用意したのが乾燥機付きの全自動洗濯機でしたが、乾燥機を使うとブレーカーが落ちてしまうことが分かりました。

結局、母が一人の時には対処できないので乾燥機は使用禁止にしましたが、そうすると何処に洗濯物を干すかが問題になりました。

そこそこ広いベランダも母が降りるのは危ないので、当面は仕方なく簡易型の物干し棚を使って室内に干すことになりました。

ところが、新しいマンションは南向きで日当たりが良く室温も高いので、晴れていればすぐに乾いてしまうこともよくありました。

つまり洗濯物が乾きにくいという悩みは、日当たりの良くない家に住んでいたからで、転居先のマンションでは全く問題ありませんでした。

2024年2月 9日 (金)

丸4年

このブログが始まったのは2020年2月9日でした。

2月4日に母の四十九日の法要が終わって、それ以前から考えていた『母の思い出を綴るブログ』を始めることにしました。

その理由として、第一に母が晩年を元気で陽気に過ごしてくれたことが嬉しかったからです。

これは本当に予想外で、母を施設に入所させることやそこに馴染んで楽しんでくれることなど、全く考えてもいませんでした。

確かにいろいろな幸運もありましたが、私も毎日のように施設に通い母と楽しい時間を過ごしました。

こんなケースもあるということを、介護でいろいろと考えている方の参考になればという思いもありました。

そしてそれが、このブログを始めた第二の理由になります。

つまり、介護をする方もされる方も限られた状況の中で毎日悩むことが多々あると思います。

私の母のケースが何処まで参考になるかは分かりませんが、少しでもそういう方の参考になれば幸いです。

また、介護というものは本当に人それぞれですが、とにかくいわゆる介護地獄に陥ることだけは避けていただきたいと思います。

さて冒頭に記しましたように、このブログは丸4年が終わり、今日から5年目に入りました。

私は母の介護をきっかけに日記を書き始め、それを元に飽きっぽい私が4年間一日も欠かさずにブログを更新できたのも皆様のおかげです。

2024年2月 8日 (木)

洗濯物を干す場所

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

しばらくの間、母の食事に関していろいろと記していると、当時の生活について他のことに関しても思い出されてきました。

そこで今度は洗濯に関して振り返っています。

築50年ほどの日当たりの良くない戸建てからマンションに転居した時、私は乾燥機付きの全自動洗濯機を買いました。

それは、母が体力的に洗濯物を干すことを諦めて、浴室の乾燥機でほとんどの洗濯物を処理していたからです。

ところが、マンションでの生活が始まってから何回か、外出中の私に母から「乾燥機が止まる」という電話が掛かってきました。

結局、乾燥の機能を使うとブレーカーが落ちてしまうということで、母が一人の時には対処できないので乾燥機は使用禁止となりました。

つまり、せっかく母のために購入した乾燥機付き洗濯機でしたが、普通の全自動洗濯機として使われることになったわけです。

そうなると、足腰の良くない母が洗濯物をどのように干すのか、またその問題を考える必要がありました。

そこそこ広いベランダも母が降りるのは危ないので、当面は仕方なく簡易型の物干し棚を使って室内に干すことになりました。

ところが、新しいマンションは南向きなので室内でも日当たりが十分で、晴れていればすぐに乾いてしまうこともよくありました。

2024年2月 7日 (水)

普通の全自動洗濯機

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

しばらくの間、母の食事に関していろいろと記していると、当時の生活について他のことに関しても思い出されてきました。

そこで今度は洗濯に関して振り返ってみています。

築50年ほどの日当たりの良くない戸建てに住んでいた頃は、母は80歳くらいまで洗濯物を2階に上がって西向きの部屋で干していました。

その後、腰を痛めてから2階に上がることは止めて、浴室に乾燥機を備えてほとんどのものにこれを使っていました。

そして母が86歳だった2014年1月に、戸建ての家からマンションに転居をすることになりました。

その機会に私が選んだ洗濯機は、少しでも母に楽をしてもらいたいという思いから、乾燥機が付いた全自動洗濯機にしました。

ところが、マンションでの生活が始まってから何回か、外出中の私に母から「乾燥機が止まる」という電話が掛かってきました。

洗濯、すすぎと脱水までは問題ないのに、乾燥が始まると電気のブレーカーが落ちてしまうということでした。

結局、乾燥の機能を使うには電力が不足していたわけですが、母が一人の時には対処できなくなるので乾燥機は使えなくなりました。

ということで、せっかく母のために購入した乾燥機付き洗濯機でしたが、普通の全自動洗濯機として使われることになりました。

2024年2月 6日 (火)

乾燥機が止まる

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

このところ、当時を含めて母の食事に関していろいろと思い出しながら、気付いたことなどを記してきました。

また、当時のことを考えていると、同時にその頃の生活についていろいろと思い出されてきました。

そして昨日は母が担当していた頃の洗濯に関して振り返ってみました。

日当たりの良くない戸建てに住んでいた頃は、80歳頃まで洗濯物を2階の西向きの部屋で干していました。

その後、腰を痛めてから2階に上がることを止めて、浴室に乾燥機を備えてほとんどのものにこれを使っていました。

そして母が86歳だった2014年1月に、戸建てからマンションに転居をすることになりました。

そのマンションの洗濯機として私が選んだものは、洗濯物を干す必要が無い乾燥機付き全自動洗濯機でした。

それは、やはり母には少しでも楽をしてもらいたいということで、乾燥機が必要だろうと考えたからでした。

ところが、マンションでの生活が始まってから何回か、外出中の私に母から電話が掛かってきました。

その内容は決まって「乾燥機が止まってしまう」ということでした。

2024年2月 5日 (月)

干すから乾燥へ

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

このところ、当時を含めて母の食事に関していろいろと思い出しながら、気付いたことなどを記してきました。

そして当時のことを考えていると、同時にその頃の生活についていろいろと思い出されてきました。

私は母に代わって食事の支度をするようになりましたが、もちろん他の家事についてもいずれは私が担当するようになりました。

それでも幸運にも母は年齢の割に元気だったので、本当に徐々に交代したという感じでした。

例えば洗濯のことでいえば、母は80歳頃まで、脱水まで終わった洗濯物を持って戸建ての家の2階に上がっていました。

その家は日当たりが良くなかったので、母はわざわざ日が差す2階の西向きの部屋に干しに行っていたわけです。

その後、腰を痛めてから2階に上がることを止めて、浴室に乾燥機を備えてほとんどのものはそれを使っていました。

よく80歳まで重いものを持って2階まで上がっていたと、私は今でも感心するばかりです。

そして自らの限界を知って、乾燥機の導入に踏み切った決断にも拍手を贈りたいところです。

こういった洗濯物を干す代わりに乾燥機を使うというのは、母が86歳で転居するまで続きました。

2024年2月 4日 (日)

気を遣わない世の中

4年前の2020年2月4日は母の四十九日の法要を行った日でした。

その日私は午前中には普通に仕事をしましたので、午後2時に会場の霊園に向かうのはとても慌ただしくなりました。

それでもお天気に恵まれ、静かな雰囲気の中で母のために法要を営むことができて、一安心したことを覚えています。

その当時を思い出すと、ちょうど横浜港にコロナ騒ぎの豪華客船が停泊していた時期でした。

ご存じのように、その後はしばらくコロナで世の中が振り回されることになりました。

そういう気を遣うことになる前に、母に関する行事を終えられたことは幸運だったと思います。

そしてもちろん、母自身もコロナの世の中を知らずに亡くなったわけです。

その後の高齢者施設や病院での面会禁止などの措置をみると、母が亡くなった時期は良かったとさえ思われます。

先日叔母が亡くなった際の葬儀はコロナの前とほとんど同じように行われました。

ただ少し違うのは広い会場が開放してあることと、座席の間隔がかなり開けられていたことです。

また、お坊さんが読経の最中も含めて、ずっとマスクをつけていました。

私はほぼ毎日、母に会うために施設や病院に通っていましたが、それはとても幸運なことだったのだと改めて感じています。

2024年2月 3日 (土)

半世紀ぶりの挑戦

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

このところ、当時を含めて母の食事に関していろいろと思い出しながら、気付いたことなどを記してきました。

そして当時の食事について考えていると、同時にその頃の生活についていろいろと思い出されてきました。

例えば、前日も記したように戸建ての家からマンションに転居した際には、流し台の高さが少し高くなりました。

母にとって長年使っていた流し台の様子が変わるというのは、とても大きなことだったように思います。

それまで住んでいた家は築50年に近い古家なので、母にすると80歳を過ぎて半世紀ぶりに新しい流し台に挑戦することになりました。

また、当時の母は腰を痛めてから外出は杖を使って歩いていて、家中でもそれほど長い間は立って居られないという状況でした。

そのため流し台での作業も長い時間は疲れるということを言っていました。

そんな中での少し高くなった台所仕事は、さらに難しく疲れやすくなったようで、調理中に時々壁にもたれ掛かって休んだりしていました。

それでも、持病が悪化しての入院がきっかけで私が台所仕事を担当するまで、新しいマンションでも母は頑張ってくれました。

結局、2年近く新しい流し台で家事をしてくれましたが、そんなふうに少しずつ母の仕事が私に移ってくるという感じでした。

2024年2月 2日 (金)

流し台の高さ

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

このところ、当時を含めて母の食事に関していろいろと思い出しながら、気付いたことなどを記しています。

昨日は鍋料理がウチの定番になっていた頃に、母が野菜の準備をしていた思い出を記してみました。

このように昔の記憶を辿っていくと、次々といろいろなことが思い出されてきます。

鍋料理がウチの定番になったのは、当時の私の仕事に早番と遅番があり、夕食の時間がそれぞれで大きく違うことがありました。

遅い時間であっても、鍋であれば沸かし直せばすぐに食べられる上に、消化が良いという利点がありました。

ただそれ以上に、当時住んでいた戸建ての家が古いため、隙間風が入って極寒だったという理由も大きいですが。

ところで、このころ母は居間のテーブルを使って、テレビを見ながら椅子に座って鍋料理用の野菜を切っていました。

それは、一つには当時の母は腰を痛めてから外出は杖を使って歩いていて、家中でも長い間立って居られなかったことがあります。

ですから、料理の材料を切ることは座ってやれば良かったわけですが、他の台所仕事は徐々に難しくなっていきました。

特にその後の転居先となったマンションの流し台が少し高かったことは、母にとって台所仕事を更に難しくしていたようでした。

2024年2月 1日 (木)

鍋料理と土俵入り

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

このところ、当時を含めて母の食事に関していろいろと思い出しながら、気付いたことなどを記しています。

昨日は介護時代以前の毎晩鍋料理を食べていた頃を思い出して振り返ってみました。

すると更に思い出が蘇ってきましたので、少し細かく母の動きを中心に記してみたいと思います。

鍋料理がウチの定番になっていた頃、夕方になると居間のテーブルに母が新聞紙を敷き始めます。

その上にまな板を載せて用意した野菜を切り、傍らのザルに切った野菜を入れます。

その作業が始まる時間は、ちょうどテレビに大相撲中継の土俵入りが映るころだったように思います。

母が相撲好きなことは以前にもよく記しましたが、取り組みにしか興味の無い私と違って、母は土俵入りも好きだったようです。

それは土俵上に現れる力士たちの化粧まわしを見るのが楽しみだったようで、母はよく「昨日と違う」などと指摘していました。

そのように、テレビを見ながらマイペースで野菜を切る母は本当に楽しそうでしたが、その姿を見ることが私の楽しみにもなっていました。

ただ、そのうちに包丁を握ったまま居眠りをして時々床に包丁を落とすようになり、危険を感じてからは私が交代するようになりました。

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