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2024年1月

2024年1月31日 (水)

鍋料理時代

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

このところ、当時を含めて母の食事に関していろいろと思い出しながら、気付いたことなどを記しています。

今となっては昔のことを思い出しているうちに、介護時代以前のことも少しずつ蘇ってきました。

ここでの介護時代というのは母の年齢にして87~90歳の頃のことになります。

ただ、それ以前にも買い物や身の回りのことなどを私が母に代わって担当するようになっていました。

その中で買い物に関しては、80歳頃まで母は歩いて出かけていたように思います。

その後は私が自動車で母と一緒に行ったり、仕事帰りに買い物をして来るようになりました。

それでも調理は母が担当してくれましたが、その頃になるとほぼ毎日、鍋料理がウチの主役になりました。

鍋料理だと野菜がたくさん食べられて栄養的にも良いですし、材料もほぼ同じモノを買って帰れば良いという事情もありました。

夕方になると居間のテーブルに野菜を用意して、椅子に座ってテレビを見ながら包丁で切る母の姿が恒例になりました。

徐々に立って調理をするのが難しくなったからですが、時々包丁を握ったまま居眠りをしていた母の姿が懐かしく思い出されます。

2024年1月30日 (火)

時々手抜き

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

このところ、当時を含めて母の食事に関していろいろと思い出しながら、気付いたことなどを記しています。

昨日はコンビニのお惣菜を食べたところ、思っていた以上においしかったので母が感心していたことを記しました。

それ以外にも以前書いたように、母はコンビニのスイーツがお気に入りでした。

私もコンビニで扱っている食料品は以前の認識とは違って、とてもおいしいものになっていると思います。

ただ、私も考えていたように高齢者を介護する際に、なるべく良いモノを食べさせたいという思いがある人もいるでしょう。

そうするとメニューに悩んだり、調理に時間が掛かってしまうこともありそうです。

そのような介護は最初のうちは良くても、長い目で見ると介護疲れをしてしまうことに繋がりかねません。

そういう意味でもコンビニに限りませんが、時々は出来合いの食べ物で済ませることも大事なように思います。

このブログは、自分の介護経験を通じて考えたことを参考にしていただきたいという思いもあって、毎日更新を続けています。

というわけで、介護地獄を防ぐためには食事に限らず、なるべく手抜きも考えることが大切なように思います。

2024年1月29日 (月)

コンビニのお惣菜

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

このところ、当時を含めて母の食事に関していろいろと思い出しながら、気付いたことなどを記しています。

その頃の母は通院以外は外出をすることがほとんど無く、家中ではテレビを見て過ごすことが多い日々でした。

私は今ではテレビを見ることはありませんが、当時は母と一緒に見ていて、振り返ると思い出したことがあります。

その頃の私は調理初心者で、テレビやネットなどで見るものは何でも参考にしたいと思っていました。

それは、母には良いモノを食べてもらいたいと考えていて、なるべく手の掛かったモノを作りたいという希望があったからです。

ただ、その考えは自分を苦しめていて、メニューが思い浮かばないときには本当に胃が痛くなったものでした。

そして2016~17年頃のことですが、当時のテレビCMで『セブンイレブンのお惣菜』というものをよく見かけるようになりました。

それより以前は「コンビニのお惣菜なんて」と、母も考えていたように感じていました。

ところがある時、私がそのお惣菜のうち『サバの塩焼き』を買ってレンジでチンして食卓に並べると、母は「おいしい」と笑顔で言いました。

「これ何処で買ったの」と尋ねる母に、私が「セブンイレブン」と答えると、母は大きな声で笑って感心していたのが印象的でした。

2024年1月28日 (日)

食べ物の好き嫌い

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

このところ、当時を含めて母の食事に関していろいろと思い出しながら、気付いたことなどを記しています。

昨日は、母がパスタやソバ、うどんなど長いものをあまり好まなかったことを紹介しました。

他にも母は歯が悪く、硬いモノやフニャフニャして噛みづらいモノは避けていました。

それでも全体として好き嫌いは少なく、あまり珍しい料理は別として、普通の食事は何でも食べていました。

一度嫌いな食べ物を尋ねたところ「子供の頃は、にんじんが嫌いだった」と答えてくれました。

ただ、煮物のにんじんなどは普通に食べているので理由を聞くと「昔のものほど癖が無いから食べられる」と言っていました。

ところで、このブログは主に母の思い出を振り返ることで、介護をする方に何らかの参考になればと考えています。

介護生活の中で、食事はかなりの部分を占めるものと思います。

もちろん介護は人それぞれの部分が大きく、食事についても好き嫌いや食べることができないモノなど、違いは大きいでしょう。

その点でも母は食欲旺盛で嫌いな食べ物がほとんど無かったので、介護する立場としてはラッキーだったと今でも感じています。

2024年1月27日 (土)

長いモノには巻かれない

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

このところ、当時を含めて母の食事に関していろいろと思い出しながら、気付いたことなどを記しています。

母が、2018年5月に脱水症状を起こして入院した後、7月の退院後は病院に隣接した『老健』に入所することになりました。

当初は食事制限が無く、食欲旺盛な母は「全部おいしい」と言いながら施設での生活も楽しんでいて、笑顔が溢れていました。

私は毎日夕方に面会に行っていましたが、食事の話になると母は「欲を言えば、パンが食べたい」とよく話していました。

また、ウチにいた頃は朝食として毎日紅茶を飲みながらパンを食べていましたから、母がパン好きなことは分かっていました。

その他に、時々おやつとして食べる洋菓子『ティラミス』や『モンブラン』にいつも歓声を上げていました。

また、施設で誕生会が催されたときに「コーヒーをおかわりした」と、嬉しそうな笑顔で話してくれたこともありました。

これらのことから母が洋食、特にパン食が好きで楽しみにしていたことは明らかでした。

もちろん、白米に焼魚や煮物といった和食も好きでしたが、うどんやソバのような食べものは苦手な様子でした。

同じように洋食でもパスタはあまり好まなかったようで、もしかすると長いモノが苦手だったのかもしれません。

2024年1月26日 (金)

一緒に食べる日曜日の昼食

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

このところ、当時を含めて母の食事に関していろいろと思い出しながら、気付いたことなどを記しています。

母が、2018年5月に脱水症状を起こして入院した後、7月の退院後は病院に隣接した『老健』に入所することになりました。

当初は食事制限が無く、食欲旺盛な母は「全部おいしい」と言いながら施設での生活も楽しんでいて、笑顔が溢れていました。

ところが、2018年11月に母はむくみがひどくなって入院することになりました。

その際に心不全と診断され、その後に退院して施設に戻ってからは水分や塩分などを制限された食事になりました。

そして、食事制限をされてからの母は食事に不満を漏らしたり、不機嫌になったりすることもありました。

そのため、私は母の体調が落ち着いていた2019年の春頃に、主治医の了解を得て何度か日曜日の昼食を持参して一緒に食べました。

母に食べたいもののリクエストをしてもらい、よく食べたのが『穴子寿司』でした。

その他に、家で『ほうれん草のおひたし』などを作ったり、トマトやキウイフルーツなどの野菜及びフルーツを切って持って行きました。

母がトマトを好きなことは知っていましたが、ウチではあまり食べることが無かったキウイフルーツを喜んでいたのが印象的でした。

2024年1月25日 (木)

制限食の最後の1年

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

このところ、当時を含めて母の食事に関していろいろと思い出しながら、気付いたことなどを記しています。

母が、2018年5月に脱水症状を起こして入院した後、7月の退院後は病院に隣接した『老健』に入所することになりました。

当初は食事制限が無く、食欲旺盛な母は「全部おいしい」と嬉しそうに言いながら、心配している様子もありました。

それは、3度の食事以外におやつまで出るので「いつも何か食べている」と、食べ過ぎを不安に思っているようでした。

実際に入所してから少しして体重を量った際には「少し増えた」と職員さんに言われたと、母は話していました。

そして食事制限の無いまま過ごしていた2018年11月、母はむくみがひどくなって入院することになりました。

その際に心不全と診断されてから1年ほどの命だったわけですが、その後は施設でも何らかの制限をされた食事になりました。

もちろん心不全の持病があることが分かれば、施設がカロリーや塩分、水分の制限をした食事を出すのは仕方ありません。

ただ、食事制限をされてからの母は、食事の話をすると不満を漏らすこともありました。

結局母は制限をされた食事で最後の1年を過ごしましたが、制限なしの食事だったらどうなったか、何ともいえませんが難しい問題です。

2024年1月24日 (水)

「そうだったかねぇ…」

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

このところ、当時を含めて母の食事に関していろいろと思い出しながら、気付いたことなどを記しています。

母は若い頃に腎臓を悪くして、その影響でしょうか70歳くらいから糖尿病になりました。

そのため家で介護をしていた時期には、毎食前にインシュリンの注射をしていました。

そんな母が、2018年5月に脱水症状を起こして入院した後、7月の退院時にはインシュリンの注射を止めていました。

退院後に入所した施設でもインシュリン注射は対応していましたが、主治医の判断で注射を止めることになりました。

結局、施設入所の後は血糖値を測ったり、インシュリンの注射をすることは全くありませんでした。

ですから、施設入所後に糖尿病が悪化して、母の死因になった心不全が発症した可能性は肯定も否定もできません。

ただ、施設に入所当初の制限がほとんど無かった食事を母は喜んでいて、施設での生活にもとても満足していました。

つまり制限のない食事が母の寿命を縮めた面はあるかもしれませんが、施設での母はいつも楽しそうな笑顔で溢れていました。

ある日私が「施設入所前は毎食前にインシュリンの注射をしていたね」と話すと、母は「そうだったかねぇ…」と忘れてしまったようでした。

2024年1月23日 (火)

制限のない食事

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

ここ数日は、その当時の食事について思い出しながら記しています。

母は若い頃に腎臓を悪くして、その影響でしょうか70歳くらいから糖尿病になりました。

そのため家で介護をしていた時期にも、毎食前にインシュリンの注射をしていました。

もともと減塩には気を遣っていて、タンパク質も取りすぎには注意をするように言われていました。

それでも年齢の割には食欲は旺盛で、私が調理するようになってからも食卓に並べたものはほとんど平らげていました。

そんな母が、2018年5月に脱水症状を起こして入院した後、7月の退院時にはインシュリンの注射を止めていました。

退院後に入所した施設でもインシュリン注射は対応していましたが、主治医の判断で注射を止めることになりました。

確かに退院当時の血糖値は問題なかったようですが、その後の血糖値については分かりません。

施設に入所当時は食事制限がほとんど無かったようで、母は「全部おいしい」と笑顔で言い、とても満足していました。

もしかすると制限のない食事が母の寿命を縮めた面があるかもしれませんが、私が知る限り、このころの母の笑顔は最高でした。

2024年1月22日 (月)

最高の賛辞

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

ここ数日は、その当時の食事について思い出しながら記しています。

今では、いろいろな缶詰などを使って作る方も楽をしながら、おいしく食べてもらえば良かったと思っています。

ただ、当時は料理をほとんどしたことがなかったという負い目からか、食材に手を加えないわけにはいかないと思い込んでいました。

ところで、母が無条件に「おいしい」と言っていたものがあります。

それは、時々おやつとして出した『洋菓子』です。

まず、最寄りの駅の前にある洋菓子屋の『チーズケーキ』は特にお気に入りでした。

2~3口程度で食べられる小さなもので歯の無い母にも問題なく、時々買って帰ると母はおいしそうに笑顔で食べてくれました。

また、近所のコンビニで買って行く、いわゆる『コンビニスイーツ』も喜んでくれました。

特に好きだったのが『モンブラン』や『ティラミス』で、食べるたびに「何これ、初めて食べた」と母は声を上げていました。

当然初めてではなく何度も食べていたものでしたが、それだけおいしかったのでしょう、母の最高の賛辞なのだと思いました。

2024年1月21日 (日)

パンが好き

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

ここ数日は、その当時の食事について思い出しながら記しています。

今では『魚の缶詰』や『イカの缶詰』などをもっと使って、母に食べてもらえば良かったという気がしています。

さて、それ以外にも母が施設に入所してから『こんなに好きだったのか』と改めて感じたものもいくつかあります。

まず最初にあげられるものが『パン』です。

母がウチにいた頃の朝食はいつもパンでしたから、母がパンを好きなことは知っていました。

ただ、病院や施設の食事でパンが出ないということは、母と話をするまで気がつきませんでした。

それは、パン自体に塩分が含まれているため、腎臓に持病がある母のために米飯ばかりになったのかもしれません。

また、もしかすると希望すれば時々はパンが主食として出されたのかもしれません。

施設に入所後、母に食事について不満を尋ねると、必ず「パンが食べたい」と答えてくれました。

そこで私が「職員さん全員に『パン食べたい』と耳元で囁くといいよ」と言うと、母は「ハハハ!」と大きな声で笑っていました。

2024年1月20日 (土)

『イカの缶詰』

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

ここ数日は、その当時の食事に関して記しています。

昨日は『魚の缶詰』について、もっと使ってみれば良かったという反省の思いを述べました。

『高齢の母には良いもの食べてもらいたい』という考えが強すぎて、生の食材の調理にばかり気が向いていたように思います。

料理の経験が少ないからこそ、手を加えることが貴重であって缶詰をそのままというのは手抜きだ、という考えにとらわれていました。

それと同時に、塩分制限をしている母にとって缶詰の塩分が気になっていたこともあります。

また母の歯が悪かったこともあり、それらの理由から母に缶詰を食べさせることを避けていました。

ただ、今では私のお気に入りとして『イカの缶詰』があり、これを母にも食べさせてあげたかったという思いがあります。

というのは、母が好きだった食べ物の一つに『大根の煮物』があり、この『イカの缶詰』と大根を一緒に煮るととてもおいしいからです。

母の食事を作っていた当時、歯が悪い母にイカを出すことは避けていましたが、この『イカの缶詰』は軟らかく食べられそうな気がします。

母がこのイカを噛めるかどうかも含めて、一度食べさせてみたかったと思うと同時に、少し残念な気もしています。

2024年1月19日 (金)

魚の缶詰

2015年11月に母を介護するために休職をした私は、6ヶ月後に退職をして母が施設に入所するまで、2年半ほど家で母を介護しました。

介護といっても母の場合は、通院の付き添いや買い物など外出することが主で、家中では食事の管理くらいでした。

ここ数日は、その当時の食事に関して記しています。

何といっても私は料理の経験がほとんど無かったので、最初のうちは作れるものを繰り返すことしかできませんでした。

徐々にネットでレシピを調べていろいろ挑戦してみましたが、そういうものはあまり長続きしなかったように思います。

母はほとんど好き嫌いがなかったので、私が作ったものはほぼ完食してくれました。

それでも、今から振り返ると残念に思うことがいくつかあります。

そのうちの一つが、母が好きだったと思われる魚料理が少なかったことです。

その理由は、後片付けや調理が面倒くさかったことはありますが、当時は魚の骨を私が気にしたことが大きかったと思います。

ただ、母が施設に入所した後、私は魚の缶詰を食べることも多くなったのですが、今の缶詰はほとんど骨は気にならなくなっていました。

これならば、母にも缶詰を食べてもらえば良かったのでしょうが、当時は生の魚を調理することしか考えていませんでした。

料理の経験が少ないために食材の知識もほとんどなかったので、母には申し訳なかったような気がしています。

2024年1月18日 (木)

『多すぎたかな?』

このところ、いわゆる『男の介護』について思いつくところを記しています。

自分の経験から男性が介護することの大変さに、つい同情してしまいますが、それは当然女性でもすることは同じです。

ただ、一般的に男性の方が家事の経験が少ない人が多いでしょうから、介護でも試行錯誤しながら失敗も多いだろうと想像しています。

ところで、昨日は私の胃が夕方になると痛み出したことを書きました。

それは料理の経験がほとんど無い中で、母に変わって食事の支度を担当せざるを得なくなったからでした、

特に夕食の献立を考え始めると胃が痛み出すという状況が、毎日のように繰り返されていました。

ネットでレシピを検索したりしていろいろと考えるのですが、そもそも作ったことのあるものがほとんどありません。

そして、もちろん料理を作ることも不慣れなのですが、何故か料理を作り始めると胃の痛みは消えていました。

母も私も好き嫌いがほとんどないので何でも作れば良いのですが、なかなか身体が動きませんでした。

やっと何品か作ってテーブルに並べた料理を母は残さずに食べることがほとんどでした。

時々『多すぎたかな?』と思うこともありましたが、母は「目の前の料理を残すことはできない」と、育った時代がそうさせていたようです。

それでも体調が良くなければ食も細くなるので、母がたくさん食べてくれるのは、私にとってとても嬉しいことでした。

2024年1月17日 (水)

夕方の胃痛

昨日は仕事先のマンションで見かける、ご主人が奥様の乗った車椅子を押すご夫婦について記しました。

そして介護の現場では、どちらかといえば逆の立場の方が多いのではないか、ということに触れました。

ただ、私も母が歩けなくなってからは母の車椅子を押していたので、その立場を少しは理解することができます。

その上で、本当に問題なのは車椅子を押すという見た目ではなく、男が介護するという難問がその影に隠れていることです。

昔のような大家族であれば、高齢者の介護は多くがお嫁さんなど女性の役目とされていました。

ただ、今のように核家族化が進むと介護をする人は限られているので、男性にもその役目が回ってきます。

そこで問題なのは、今の高齢男性は家事全般を女性にお任せするのが普通な生活をしてきたということです。

つまり、奥様の乗った車椅子を押しているご主人は、家の中でも不慣れな家事をしているのではないかと想像してしまいます。

大きなお世話に違いないのですが、私の場合がそうでしたのでそんな心配をするわけです。

もう10年近く前のことになりますが、母の介護を始めてからしばらくの間、夕方になると私の胃がキリキリと痛み始めました。

食事の用意などほとんどしたことがなかった私にとって、毎日の夕食のメニューを考えるのは本当に苦痛でした。

母も私も好き嫌いがないので何でも作れば良いのですが、昔母に「何が食べたい?」と聞かれて「何でもいい」と答えたことを反省しました。

2024年1月16日 (火)

夫が押す車椅子

私は母が施設に入所した2ヶ月後に、近所のマンションの清掃の仕事を始めました。

仕事を探し始めて間もなく、自宅の近くで午前中だけの仕事が見つかり、午後は母の面会に行くという生活が1年と少し続きました。

母が亡くなった後も仕事は続けていて、早いもので5年が経過して今では6年目に入っています。

そのマンションは元々、高齢の方が多いところでしたが、5年も経つといろいろなことがありました。

亡くなった方も私が知っているだけで、既に片手の指に余るくらいの数になりました。

また、最初の頃にはよくお会いしていて、最近顔を見かけないので心配な方もいます。

他には、以前は杖をついて歩いていた高齢の女性が、このごろはおそらく旦那さんに車椅子を押されて出かけているのを見かけたりします。

その様子を見て『杖から車椅子というのは母と同じだな』などと考えてしまいましたが、ご本人はやはり寂しいものだろうなと思います。

そして、二人が一緒の姿を見て『あの人達が夫婦だったのか』と分かったり、少しずつ職場の状況に慣れてきた自分がいます。

また、夫が妻の車椅子を押すというのはどちらかといえば少数派で、私はつい『大変だろうな』と余計な同情をしてしまいます。

それは、年配の男性は本格的な介護どころか、ちょっとした介助の経験もないことが多いと思われるからです。

いずれにしても、お二人にはなるべく元気で長生きをして欲しいとお祈りするばかりの今日この頃です。

2024年1月15日 (月)

「今年もシクラメンが咲いたよ」

15年くらい前のある日、私が出かけようと玄関を出ると「シクラメンが咲いた」と、外にいた母が嬉しそうに笑顔で言いました。

その頃の私は植物のことをよく知らなかったこともあって『時季が来ればシクラメンも咲くのだろう』と、特に感慨もなく思っていました。

当時の母は趣味の書道教室に通っていて、一緒に通う人から鉢植えの花を譲ってもらうことがよくあったようです。

その花を庭に植えたり、日の当たる玄関先に置いて世話をしたりしていました。

それが、母にも介助が必要になって戸建てからマンションに転居してからは、私も花の面倒をみることになりました。

マンションの南側のベランダに棚を設え、そこに鉢植えの花を置いて窓を開ければ花の世話をできるようにしておきました。

そんな環境で母は南向きの窓辺で日光浴をしながら、窓を開けて花の手入れをしたりすることもありました。

時々、母は気に入った花を摘んで小瓶に挿し、居間のテーブルの上に置いて楽しんだりしていました。

そんな母の姿を見て、私も季節の旬の花をホームセンターで探して買って来ることが楽しみになってきました。

少し花のことに詳しくなってきた私は、冬が近づくと店頭に並ぶシクラメンを何回か買ってきたこともあります。

現在のウチの鉢植えのシクラメンは母が世話をしていたものではありませんが、今冬も葉が生えそろい今にも花が咲きそうになってきました。

もう少しで「今年もシクラメンが咲いたよ」と、母に報告できそうです。

2024年1月14日 (日)

頬の日焼け

昨日はこの季節としては珍しく、午後から初雪混じりの雷雨が降りました。

それでも今日は冬らしい雲一つない晴天で、朝から南向きの窓に日差しが降り注いでいます。

およそ10年前の2014年1月に、母はかかりつけのクリニックに持病が悪化したということで総合病院を紹介されました。

その当時は築50年近い一戸建てに住んでいましたが、隙間だらけのその家は冬の寒さが半端ではありませんでした。

そのため家の建て替えか引越しを考えていた私は、その前年の2013年から近所のマンションを借りていました。

それでもなかなか引越しをしたがらない母でしたが、とうとう寒さに耐えきれず病院を紹介されたタイミングで転居をすることになりました。

その転居先のマンションは窓が南向きで、それまでほとんど日が当たらなかった一軒家とは暖かさが段違いでした。

そのおかげか母の持病はいくらか持ち直し、新しい病院では月に一度の通院で様子をみるということになりました。

その報告をかかりつけのクリニックの先生に伝えたところ、少し驚いたような表情をしていたのが印象的でした。

母も、新しい病院に行く前は「人工透析をしてまで生きたくない」と心配そうでしたが、受診後は嬉しさと驚きが相半ばという感じでした。

そのマンションに引越し後の母は、南向きの窓辺で日光浴をしながら居眠りをするのが日課で、頬の左側はすっかり日焼けをしていました。

その日焼けも施設に入所後は徐々に消えましたが、私は今でも日差しの暖かさに感謝するとともに、気持ちよく居眠りする母を思い出します。

2024年1月13日 (土)

状況を受け入れる

昨日ラジオを聴いていると、ある医師が興味深いことを話していました。

その医師は高齢者を担当することになり、いろいろと見ているうちに元気のある人とない人の特徴に気付いたということです。

それは老化現象に対する考え方の違いが大きいということでした。

例えば、コップの水が半分になった時に「もう残り半分しかない」と「まだ半分もある」とで、考え方の違いを説明されることがあります。

これと同様に、人それぞれ老化に対する考え方で高齢者の生き方に違いが出るというのが、この医師の説明でした。

つまり、老化現象は誰にも避けることができません。

ですから、若い頃とは違うことをどこまで認識して受け入れることができるかが、大きな違いとして現れるということです。

この時のラジオの話が私にピンときたのは、施設での母のことが思い出されたからです。

施設に入所して1ヶ月ほどが経過した頃、母はすっかり馴染んで毎日楽しそうに笑顔で過ごしていました。

ある時、ある職員さんが母に「どうしていつもそんなに楽しそうなのですか?」と尋ねました。

私は母がこの質問にどう答えるのか興味がありましたが、母の答えは「諦めが肝心だよ」というものでした。

母も施設入所前に心身ともに苦労した時期もありましたが、私はその言葉を聞いて『状況を受け入れることができたのだ』と納得しました。

2024年1月12日 (金)

「わー、冷たい」

地球温暖化といわれ始めてかなり経ちましたが、近年の日本の冬も比較的暖かいことが多いように思います。

ただ、今朝は今冬でも最も寒かったように感じられて、外出中はずっと手の指先が冷たくなっていました。

このような日に施設にいた母に面会に行った時、私が挨拶代わりに母の手に触れたことが何度かありました。

すると母は「わー、冷たい」と本当に驚いたような反応をよくしていました。

おそらく施設に入所後の母は、それほど冷たいものに触ったことはなかったでしょうから、それは大げさな反応ではなかったと思います。

施設は全体に空調が効いていて母も概ね快適に過ごしていましたが、「暑い」は時々言っても「寒い」はほとんど聞きませんでした。

ですから、一時期寒さでむくみが悪化した母にとって、施設での生活は心身ともにありがたいものだったでしょう。

逆に、ずっと施設内にいる母にとって、外の天気や暑さ寒さが分かりにくいという面があったようです。

母はラジオが好きでしたから、天気はほとんどしっかりと把握していましたが、風の強さや気温は分かりにくいわけです。

そのため、よく私に「外は暑いの?」とか「寒いの?」と尋ねることがありました。

その他に母がよく言っていたのが「お世話してくれる人の指が冷たい」とか「汗びっしょりでお世話してくれる」という言葉でした。

ずっと室内で介護されていた母も、職員さんとの触れ合いで外の陽気を感じていたのだと、改めて思い出しました。

2024年1月11日 (木)

一人では抱えない

1月8日の記事で新聞の読者の投稿から、引きこもりがちな母親を施設に入れたら明るくなって驚いたという話を紹介しました。

そして私の母も、施設で笑顔に溢れた生活をしてくれましたが、これらは数少ない幸運な例だろうと記しました。

その上で、それでも一人で抱え込むよりは施設などの専門家にお任せした方が良さそうだというのが私の考えです。

それに対して、今日はある方のSNSでの投稿を目にしました。

その内容は、両親の認知症が進んで50年来住んでいる家での火事などが心配になってきたそうです。

そのため半ば強制的に家から離して、そこそこ小ぎれいな老人ホームに入れたそうです。

すると、両親ともに一瞬にして気力・体力ともに弱って、鬱病の中で亡くなってしまったということでした。

もちろん、そのまま家での生活が続いていたとしたら、どのような最期を迎えたのかは分かりません。

ただこのような経験をしてこの方は、現状がどうであろうと安易に環境を変えるのが良いとは言えなくなった、と結んでいます。

それだけ高齢者介護は特に認知症が関わると、とても判断が難しいだろうと思います。

そしてその判断を下すのは高齢者介護の場合、ほとんどが本人では無く周囲の親族ということになります。

どちらにしても多少の後悔は残るものと割り切って『一人では抱えない』ことが良いのだろうと、私は考えています。

2024年1月10日 (水)

仏壇と仏具のサイズ

4年前の2020年1月10日は晴れで12℃の金曜日、前年の12月20日に亡くなった母の葬儀は12月25日に終了しました。

この日は父の月命日ということで、霊園でお墓参りをした後にその隣の仏具屋に行きました。

その仏具屋さんは、母が亡くなる10年ほど前に父が亡くなった際、仏壇と仏具、父の位牌をお願いしたところです。

そして、この日は母の位牌をお願いするために行きました。

葬儀と同様、父と母で差を付けたくないという思いから、同じサイズの位牌を作ってもらおうと考えていました。

参考のために持参した父の位牌と同じ大きさのものはありましたが、値段を見ると2倍近くになっているような気がしました。

それでも今更考えを変えるわけにもいかず、奮発して母は父と同じ大きさになりました。

ところで大きさといえば、この時行った仏具屋さんに展示されていた仏壇のことが気になりました。

ウチでは父が亡くなった際に仏壇を購入したのですが、その頃は大型のタイプが主流でした。

そんな中において、私は数少なかった小型の仏壇を選びました。

その時以来に仏壇の展示場を訪れたわけでしたが、10年の時を経て大型の仏壇はほぼ見当たらなくなっていました。

仏壇の主流が小型のものになったのは様々な事情があると思いますが、全く景色が変わってしまった展示場は感慨深いものがありました。

2024年1月 9日 (火)

高齢者は火気に注意

4年前の2020年1月9日は晴れで14℃の木曜日、前年の12月20日に亡くなった母の葬儀は12月25日に終了しました。

告別式が終わった後には、葬儀屋さんがウチに来て仏壇の前に大きな祭壇を設えてくれました。

大きな母の遺影と香炉そして燭台には長い蝋燭が備えられていて、母が喜びそうな供物もたくさん並べられそうな大きさでした。

その祭壇が備えられてから私は毎日、蝋燭に火を付けてそこから線香に火を移していました。

母がウチにいた頃は仏壇は母の担当で、私がお墓参りに行くというようになんとなく分担されていました。

母は最初の頃こそ線香を使っていましたが、危険なことでもあったのか、じきに仏壇の前で手を合わせるだけになっていました。

私はそれを見て、高齢者が火を扱うのは危ないので良いことだと思っていました。

その私が、母が亡くなった後に立派な祭壇ができたために、火を付けた線香をお供えするようになっていました。

その習慣を2週間ほど続けていたこの日も、お昼頃に仕事から帰った後、蝋燭から線香に火を移して香炉に立てました。

その後しばらくして私は、室内がなんとなく焦げ臭いのを感じました。

そのため、ガス器具などを点検した後に仏壇の前に来ると、何と蝋燭の火が付いていて、その蝋燭がほんの2~3㎝の長さになっていました。

さすがに線香は香炉の外に倒れないように気をつけていましたが、蝋燭を消すことには今ひとつ気遣いが不足していたようでした。

2024年1月 8日 (月)

介護地獄につながる道

今日の朝刊に読者の声として興味深い投稿文を見つけました。

それは、10年ほど前から何らかの介助が必要だった別居の母親が、1年前から程度がひどくなって頻繁に介護に通うようになりました。

そして、先月には24時間の見守りが必要だと判断されて、とうとう施設に入所させたとのことでした。

すると、それまでは長年引きこもりがちだった母親が明るさを取り戻してきているいうことです。

「疲れた」という言葉が口癖だったものが、施設では「ここは楽」と笑顔で話しているそうです。

予想外の結果に、自分の事情を優先して母親を施設に入れた投稿者が驚いたということでした。

ところで、この話は私の母の例にも似ていて、母も施設で笑顔に溢れた生活をしてくれました。

ただ、おそらくこのような幸運な例は数少ないのではないかと思います。

また、同じ人でも施設に入所するときの気分など、そのタイミングによっては結果が異なる場合もありそうです。

当然ながら、施設や介護をしてくれる人との相性も大事だと思います。

それでも私の少ない介護経験からしても、もし失敗したとしても施設で介護の専門家にお任せするのは悪くないだろうと考えます。

というのは、自宅で一人で抱え込むのが最悪の介護であって、それは介護地獄につながる道だと思っているからです。

2024年1月 7日 (日)

ブログの誕生

4年前の2020年1月7日は曇りで8℃の火曜日、前年の12月20日に亡くなった母の葬儀は12月25日に終了しました。

この日は前日作成した寒中見舞いを投函しました。

母が年の暮れに亡くなったために喪中はがきが出せなかったので、寒中見舞いでお知らせをすることになりました。

また、世の中は徐々に普通の生活が戻り、様々な事務的な手続きも始めなければならない時期になってきていました。

私も役所に行ったり、郵便局や年金事務所の他に仏具屋などにも行かなければなりませんでした。

そんな中、年始の抱負としては『介護生活と母の思い出など』を記録に残すことを考えました。

そして、その考えがまとまり始めたのがこの日だったのかもしれません。

まずタイトルが『邯鄲の夢』に決まりました。

それから、一度書き始めたら毎日更新することを当面の目標にしました。

それは私が飽きっぽい性格で、ほとんどのものが長続きしないという実績があるからでした。

それとともに、母の面会に行っている頃は日々忙しく、いろいろと考えを纏める機会がなかったこともありました。

そういうことで、このブログは何とか1400回を超えて続いていますが、その誕生がこの頃だったというわけです。

2024年1月 6日 (土)

年末の弔事

4年前の2020年1月6日は晴れで12℃の月曜日、前年の12月20日に亡くなった母の葬儀は12月25日に終了しました。

この日は朝から本当に良い天気で、仕事帰りに久しぶりにコンビニに寄って買い物をしました。

そしてその後には郵便局にも行くことになりました。

というのは、母が亡くなったのが年末だったので喪中はがきを出すことができず、年賀状が来てしまいました。

私自身はかなり前から年賀状の習慣を止めていましたが、それでも出してくれる方がいたため、返信は毎年送ることにしていました。

ただこの年は喪中ということで、いつものように年賀状というわけにはいかないので、改めて寒中見舞いのはがきを買う必要がありました。

ところで、母の場合は徐々に状況が悪化していましたが、年内に最期を迎えるかどうかまでは分かりませんでした。

また先日、叔母は12月24日に亡くなって、12月31日に告別式が行われました。

そういえば母の葬儀を執り行ってくれた葬儀屋さんは『年中無休で24時間営業』と話していました。

亡くなる日時は選べませんから、それはやむを得ないのでしょう。

それでも残された方は勝手なもので、なるべく都合の良さそうな時季に亡くなってくれればありがたい、などと思ってしまいます。

年末の弔事は役所関係やしきたりなど、普通の時季と違っていろいろと考えるべきことが多くなりますから。

2024年1月 5日 (金)

傾くカップで目を覚ます

4年前の2020年1月5日は晴れで12℃の日曜日、前年の12月20日に亡くなった母の葬儀は12月25日に終了しました。

この日は朝から本当に良い天気で、午後2~3時に南向きの窓際で日光浴をしていると、暖かさで気持ちが良く居眠りをしてしまいました。

そういえば、母もこの窓際で椅子に座ってよく居眠りをしていたものだと思い出しました。

そして、ある時にその様子を見ていた叔母が「あのまま死ねたらいいわね」と言っていたことも思い出しました。

確かに、気持ち良く居眠りをしているうちに事切れるというのは、理想的な最期かもしれません。

よく『ピンピンコロリ』などといいますが、実際にはそうはいかないことがほとんどでしょう。

それでも母の気持ち良さそうな居眠りを見ていると、そんなことを考えるのも良く分かります。

母は南向きの窓際に置いた椅子に座って、外の景色やベランダの花などを見ることが好きでした。

ダイニングで食事を終えた後にそこに移動した母に、私が食後のお茶を持って行くことがしばしばありました。

母はお茶の入ったカップを手で受け取って、少し飲んだ後にきまって居眠りを始めます。

当然ながら、お茶がまだたくさん入ったカップを両手に持って眠るのは危険で、周囲の者は注意しながらその様子を見つめます。

ただ、母は手に持ったカップが傾くと必ず目を覚まし、お茶を零したことがなかったのは本当に不思議でした。

2024年1月 4日 (木)

ブログの始まり

4年前の2020年1月4日は晴れで12℃の土曜日、前年の12月20日に亡くなった母の葬儀は12月25日に終了しました。

この日は正月明けの初仕事の日で午前中は外出しましたが、午後は前日に姉と話をしたブログについて考えました。

というのは、母が脚を骨折していわゆる第二の人生が始まった時から、私は日記を付けていました。

それが母が亡くなったことにより一区切り着いたので、その日記を振り返ってみたいと考えたのでした。

ところが、私には自信がないので「自分には文才がないからなぁ」と姉に相談すると、姉は「いいじゃない、書いてみれば」と答えました。

そんなやり取りの後に、仕方がないので自分で書くことにして始まったのが、このブログというわけです。

最初のアイデアとしては、母の写真と思い出話をラミネート加工にして残していこうか、という考えもありました。

ただ、やはりそれは怠惰な私には長く続きそうにないので、今の形で毎日続けているというわけです。

一つには、全く介護経験がなかった私が、いろいろと試行錯誤したことを記録しておきたいということがありました。

そのことが、今後介護が必要になる人の役に立てば、という思いがあったからです。

もう一つは、思いのほか母が楽しく晩年を過ごしてくれたので、少しでも当時の楽しさが残せればとも考えました。

いつかこの目標が達成できればとは思いますが、未だに半ばのその道が始まったのが4年前のこの日だったということです。

2024年1月 3日 (水)

昔話に花が咲く

4年前の2020年1月3日は晴れで11℃の金曜日、前年の12月20日に亡くなった母の葬儀は25日に終了しました。

この日は姉がウチに来てくれる予定で、一緒にお昼を食べることになっていました。

ちょうど正午になる頃に着いた姉は「迷った」と、多くの食材を手に抱えながら少し疲れたような表情で言いました。

母が施設や病院にいる時に何度か来てくれた姉でしたが、表面的なことしか話ができていないような感じがしていました。

その点この日はお昼から夕方まで、いろいろと気になっていたことを話をすることができました。

まず、母の四十九日の法要の日程を2月4日を第一の候補にすることに決まりました。

また、ある程度の年齢になると健康の話になるのは必然ですが、この時の姉は「耳が聞こえにくい」などとも話していました。

そして当然母の病気の話も出ましたが、母は妊娠中毒症から腎臓を病んだということは私には初耳でした。

その他には、やはり昔話が中心になりましたが、お互いに知らない話もあって楽しい時間が過ごせました。

最後に、母の衣類で着てみたいものがあれば持って行けばと勧めましたが、デザインや色など今ひとつ気に入ったものはないようでした。

久しぶりの人との会話で充実した時間でしたが、楽しい時は冬の夕暮れと同じようにアッという間に終わってしまいました。

ずっと一緒にいた母のことでも、未だに知らないことはたくさんあるのだなと改めて思った一日でした。

2024年1月 2日 (火)

『箱根駅伝』と温泉

4年前の2020年1月2日は晴れで11℃の木曜日、前年の12月20日に亡くなった母の葬儀は25日に終了しました。

1月2日といえば東日本では恒例の『箱根駅伝』がスタートする日です。

ウチでもかなり前から、この日のテレビは朝から『箱根駅伝』を見ることになっていました。

といっても、もちろんスタートからゴールまでずっと見続けているわけではなく、テレビの画面がずっと映っているということです。

また、父母が元気だった頃は1月2日に旅行に行くことも多く、その際は自動車のラジオで駅伝中継を聴くことがよくありました。

ところで、旅行といえば先日亡くなった叔母と一緒に、私と母と3人でよく行った先が箱根でした。

振り返ると、その期間は3年ほどだったのですが、ほぼ毎月のように行っていたので30回近く行ったものと思います。

以前記したように、母は80歳を過ぎたくらいから足元が怖いということで、入浴をしないで身体を拭いていました。

そのために、私は温泉に行けば母もお風呂に入るかと考えましたが、やはり一人での入浴はできないようでした。

どうしようかと考えていたところ、叔母さんが「私も行きたい」と言ってくれたので、その後は母と一緒にお風呂に入るようになりました。

叔母さんは乳がんの手術をしていたこともあって、大浴場を避けて2人で貸切風呂に入れるのがとても嬉しい様子でした。

毎年『箱根駅伝』が箱根湯本のあたりを通ると、そんなことを思い出しています。

2024年1月 1日 (月)

『冷蔵おせち』

4年前の2020年1月1日は晴れで10℃の水曜日、前年の12月20日に亡くなった母の葬儀は25日に終了しました。

新たな年を迎えて気分も改まれば良いのですが、10日ほど前に母が亡くなったばかりでは、お正月気分というわけにはいきませんでした。

お天気も良く午後には快晴になりましたが、お雑煮を作ってお餅を食べてもやはり一抹の寂しさがありました。

ところで、お正月といえば『おせち料理』ですが、母がウチにいる頃からネットで注文することが恒例になっていました。

きっかけは母が高齢になってから、どんなものにも『いつかは終わりが来る』と、私が考え始めたことでした。

つまり、母がおせち料理を楽しめるのも今回が最後かもしれないという、当然ながらしかしあまり思いたくないことから始まりました。

ところが、母がいなくなったことでこの年は『おせち料理はもういいかな』という気分もありました。

しかし、年末にスーパーに買い物に行くと、普通の食材はなかなか手に入りにくくなっていました。

そのため、やはり3が日を過ごすにはおせち料理が便利だということで、その後も買い続けているわけです。

ただ、せっかく年に一度の食べ物ですから、高齢の母には少しでも良いものを食べて欲しいという思いがありました。

そこでウチで毎年注文しているものは、数としては少ない『冷蔵おせち』で、到着後にすぐ食べることができます。

母がいた頃は2~3人分を2日くらいで食べ終わりましたが、今ではお正月気分を味わいながら3が日を掛けて食べることにしています。

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