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2023年12月

2023年12月31日 (日)

大晦日の告別式

2023年12月31日、今日は叔母の葬儀があり参列してきました。

確か叔母は生前「私は雨女」と言っていたことがあるように、今日も私が家を出る時には雨が降っていました。

私の母は2019年12月20日に亡くなって、お通夜が24日、告別式が25日に行われました。

先日叔母は24日の夜に亡くなったということなので、4年前に母のお通夜が行われた日に叔母が亡くなったことになります。

そして今日大晦日の葬儀は、お通夜と告別式に分けずに一日で全てが執り行われました。

私の父と母の葬儀の間隔はちょうど10年でしたが、その頃も既に葬儀はコンパクト化していましたが、より簡素化されていました。

ところで叔母は母とは9歳離れた妹で、高齢になってからは一緒に温泉に行ったり、母の通院に連れ添ってくれたり大変お世話になりました。

3人兄弟の息子のうちの2人を若いうちに亡くしましたが、いつも明るく陽気な人でした。

母がウチにいた頃には、しばらくウチに泊まって母の話し相手になってくれたりしたこともありました。

ただ、母が施設に入った頃に叔母さんも入院をしてしまい、その後は話をすることもできなくなってしまいました。

今日は残念ながら私は都合があり斎場までは行けませんでしたが、叔母の棺を乗せた霊柩車が出て行った時、雨はすっかり上がっていました。

自称雨女だった叔母さんに「ありがとう」という言葉をお贈りするとともに、ご冥福をお祈り致します。

2023年12月30日 (土)

人生は一瞬の夢

4年前の2019年12月30日は曇り一時雨で8℃の月曜日、12月20日に亡くなった母の葬儀は25日に終了しました。

母が亡くなって10日が経過したということで、少しずついろいろなことを考えたり思い出したりできるようになってきました。

前日は履き物のことを思い出したりしましたが、この日は何故か以前見たテレビのドラマの台詞を思い出しました。

それは「人生なんて一瞬の夢のようなものだ」という言葉でした。

この言葉こそ、このブログのタイトルの元となっているものですが、何故かふと脳裏をよぎりました。

若い頃はピンと来なかった言葉ですが、年齢を重ねてみるとまさにその通りだと感じます。

そういえば、かつて母も「90歳なんてアッという間だね」と話していたことも思い出しました。

母の最後の入院が40日間で、この日で死後10日なので施設を出てから50日が経過したことになります。

そろそろ施設での生活の記憶も薄れて来る頃で、私も『夢のようだったな』と感じるようになってきていました。

母は施設の生活に良く馴染んでくれて、自宅での生活とは全く違う第二の人生というふうに見えました。

母の楽しそうな表情を見て、私は『いつまでも続くといいな』と思ったものでしたが、第二の人生は1年半ほどで終わってしまいました。

それは本当に夢のような時間でしたが、それも含めて人生はアッという間に終わってしまうものなのだと実感しました。

2023年12月29日 (金)

懐かしい履き物

4年前の2019年12月29日は晴れで11℃の日曜日、12月20日に亡くなった母の葬儀は25日に終了しました。

葬儀後初めての日曜日ということで、改めて母が家で過ごしていた頃のことが思い出されました。

私には高齢者にとって室内でスリッパを履くのは危険だという思いがあり、ウチではカーペットを敷いて過ごしていました。

とはいえ、そういえば母は室内履きを履いていたのだったな、などとふと思い出したりしました。

また、靴入れの中を見ると母の外出用の靴が残っていて、まだ歩いていた頃の母の姿が懐かしくなりました。

同時に、母が元気でウチにいた頃は私も良く散歩をしていたことを思い出しました。

施設や病院に行くようになってからは、仕事のある日には一日に15,000~18,000歩ほど歩いていました。

他に何らかの用事があって出かける日には20,000歩を超える日もありました。

それが母が亡くなって出かける必要がなくなってから数日が経過して、このところ10,000歩程度になってしまっていました。

以前のように歩いた方が健康にいいな、と考えていたところに懐かしい履き物を見て、更に久しぶりに散歩をしたくなりました。

母に会いに行くために施設や病院に行く足取りは、その時の母の状況によって軽かったり重かったりしました。

この日はとても天気が良かったので近所のスーパーに買い物に行きましたが、久しぶりにゆっくり買い物が楽しめた気がしました。

2023年12月28日 (木)

避けられた人工透析

4年前の2019年12月28日は晴れで11℃の土曜日、12月20日に亡くなった母の葬儀は25日に終了しました。

私の気持ちも徐々に落ち着いてきて、母との思い出なども落ち着いて考えられるようになってきました。

母は若い頃から腎臓を患いながらも、本人も予想外だったと思われる92歳まで生きることができました。

それでも糖尿病を発症し、それが悪化してクリニックから病院を紹介された時は深刻に悩んでいたようでした。

確か母が86歳の時でしたが、おそらく病院に行く前日に「人工透析してまで生きたくない」という言葉を聞きました。

結局この時は通院をすることが決定しただけでしたが、本人はそこまで悲観的に考えていたのでしょう。

実際に人工透析を受ける以外に方法がなかったとしたら母がどうしたかは分かりませんが、私は勧めるしかなかったと思います。

ただ、その人の生き方は本人が決めるべきなのは確かですから、母が拒否をしたら他の方法を取るほかなかったかもしれません。

幸い母は人工透析を受けることなく人生を終えたわけですが、私には今でも気に掛かっていることが一つあります。

それは母が最後の入院をしていた時に主治医から「利尿剤が効かなくなったので人工透析をしたい」と連絡がありました。

その時に私が思い出したのが母の言葉で、即答を避けたためそのまま利尿剤の点滴を続け、一か月後に母は亡くなってしまいました。

この時すぐに人工透析をしていたら母がもう一度元気になったかどうかは分かりませんが、その言葉が私に引っかかっていたのは確かでした。

2023年12月27日 (水)

葬儀の大きさ

4年前の2019年12月27日は曇りのち晴れで14℃の金曜日、12月20日に亡くなった母の葬儀は25日に終了しました。

後は年金の停止や保険金の請求など、いくつかの事務的な手続きが残っているだけとなりました。

ところで、母の葬儀はその10年前に行なわれた父の葬儀と同じ葬儀屋さんにお願いしました。

それは父と母で葬儀に差を付けたくなかったという、私の気持ちの表現でもありました。

ただ、参列者も少なくなることから、なるべく費用は抑えたいという気持ちもありました。

そのため、祭壇の大きさなど融通の利くものは小さめのものにしたり、いろいろと工夫をしたつもりでした。

ところが、葬儀が終わって改めて金額を確認してみると、確かに少しは安くなったのかなという程度でした。

そして、逆にごく身近な親族だけで行ったため、収入の方は当然のことながら激減していました。

結局、赤字が拡大してしまったわけですが、これは分かっていたこととはいえ気持ちは受け入れても、実際かなり厳しいことになりました。

今回比較して分かったことは、葬儀でかかる費用で人数に関わるものは飲食代がほとんどで、それはいわゆる変動費でした。

それに対して、少人数で行うと固定費はほぼ変わらない上に、収入が減ってしまうという悲しい現実でした。

つまり、葬儀の費用を抑えたいのであれば、なるべく小さな会場で行うのが良いということなのでしょう。

2023年12月26日 (火)

睡眠の質

4年前の2019年12月26日は曇りで11℃の木曜日、12月20日に亡くなった母の告別式は前日終了しました。

自宅に葬儀屋さんが葬儀費用の集金に来て支払いが終わると、一通りの行事は終了となりました。

後は様々な手続きが残っているだけで、母に関する事柄が少しずつ終了を迎えつつありました。

前日は告別式が終わった後に、葬儀屋さんが仏壇の前に大きな祭壇を設えてくれて、大きな母の遺影が笑っていました。

私は一連の行事での疲れもあったのか、その夜はグッスリ眠れたように思います。

確かに母が帰ってくることの無くなった家で過ごしていると、なんとなく寂しい気分にはなりました。

それでも、もう病院や施設から緊急の連絡が来ることもないので、今後は良く眠れるものだと思っていました。

ところがこの26日の深夜、正確には27日未明に眠っていた私は、胸の痛みと激しい鼓動で飛び起きました。

驚いて血圧を測ってみると、173/120で脈拍は82、心臓がドキドキしてしばらく落ち着きませんでした。

その後も192/124、脈拍80のような数値が30~40分ほど続いたので、私は椅子に座りながらジッとしていました。

40分後には131/91、脈拍61という数字に戻って来たので再び床に就きましたが、何だか気持ちが落ち着きませんでした。

結局これは一時的なものでしたが、おそらくイヤな夢でも見ていたと思われ、この後しばらくは睡眠の質について考えていたものでした。

2023年12月25日 (月)

棺の大きさ

4年前の2019年12月25日は晴れで10℃の水曜日、この日は12月20日に亡くなった母の告別式の日でした。

告別式は12時からでしたが、親族は午前11時に葬儀場に行くことになっていました。

前夜はお通夜でそこそこ疲れた私はタクシーで行くつもりで、いよいよ出かける時間になって電話をするとタクシー不在の回答でした。

慌てて徒歩で葬儀場に向かって何とか間に合いましたが、考えてみるとこの日はクリスマスだったのでした。

忙しさに気を取られて全く知りませんでしたが、母のお通夜はクリスマスイブで告別式がクリスマスに当たっていました。

そしてこの日は母の棺に入れようと、二人で折った鶴を持てるだけ持って行きました。

以前に同所で行われた父の葬儀では、棺の中に空いたスペースがあったような気がしたので、母にはいっぱいにしてあげようと思いました。

式が進んで、いよいよ出棺の前に棺の中に思い出の品を入れる時間になりました。

まず花で母の体を囲んで、ぬいぐるみやタオルなどが入るとほとんどいっぱいに見えました。

その後に皆の手で折鶴を入れていきましたが、用意した分どころか少し入れただけで母の顔以外は埋まってしまいました。

『どうしてこんなに少ししか入らないのかな?』と疑問に思いましたが、結局父とは棺の大きさがかなり違っていたことに気付きました。

いずれにしても、全身を折鶴で覆われた母は幸せな旅立ちができたと、私は勝手に考えています。

2023年12月24日 (日)

涙の大きさ

4年前の2019年12月24日は晴れで12℃の火曜日、この日は12月20日に亡くなった母のお通夜の日でした。

親族で内々に行うことにしましたが、皆さんに見ていただくための在りし日の母の写真などを持って、一旦午後2時に葬儀場に行きました。

その時には既に祭壇が出来上がっていて母の遺影が中央にあるのを見て、それまでとは違う厳かな雰囲気に圧倒されました。

そして、これまではどこか実感がなかったものが、突然緊張感に包まれたように感じられました。

その後一度自宅に戻って、午後4時30分ころに再び葬儀場に行きました。

母が亡くなってから4日後がお通夜ということで、その間は母の遺体と一緒に過ごすことができました。

また、その1ヶ月前くらいから『今回はもうダメなのかな』と、私は覚悟していました。

そういった理由から、この日も感情が高揚することはもうないのかな、と考えていました。

午後6時にお通夜が始まって、お経が流れ始めるころまでは確かに私は落ち着いていたと思います。

それが、最初に私がお焼香をして真っ新な香炉に抹香を指先から落とした瞬間に、涙が両目からどっと溢れ出しました。

それは私にとって予想外の出来事でしたが、それ以上に驚いたのはその時の涙の粒が、経験したことがないほど大きく感じられたことでした。

まるで子供の頃に見た少女漫画のヒロインが流すような大粒の涙のようで、私は『涙にも大きさに違いがあるのか』と妙に感動しました。

2023年12月23日 (土)

病院での精算

4年前の2019年12月23日は晴れで12℃の月曜日、12月20日に亡くなった母はこの日も葬儀屋さんの和室に安置されていました。

お通夜が24日、告別式が25日に決まっていて、もうしばらく母と一緒にいられることになっていました。

この日私は葬儀屋さんに寄った後、母が入院していた病院に費用の精算のために行きました。

以前にも記していたように、病院は母がお世話になっていた施設と同じ建物内にあり、ドア一つで往き来ができました。

施設入所前から母はこの病院に通院していて、確か2014年1月が最初だったものと思います。

そして通院は2018年3月が最後でしたので、4年2ヶ月の間続いたことになります。

その後2018年4月に脚の骨折で入院し、5月に退院したものの同月中に脱水症状で再び入院することになります。

そして2018年7月に体調が回復した母を受け入れてくれたのが、この病院に併設された『老健』でした。

今振り返ってもこれは本当に幸運で、施設入所後に母は4度入院しましたが、全て隣の病院にお世話になることができました。

私も母が元気な時は施設に、そして入院をした時は病院にと、どちらも同じ建物に来れば良かったわけでした。

ところが、母が入院したことで施設の費用の精算は既に済んでいて、後は病院での入院費用の精算が残っているだけでした。

この日病院での精算が終わって、数々の思い出が残るこの建物に来る必要もなくなるなと思うと、一抹の寂しさがこみ上げてきました。

2023年12月22日 (金)

棺の中

4年前の2019年12月22日は曇りのち雨で10℃の日曜日、12月20日に亡くなった母はこの日も葬儀屋さんの和室に安置されていました。

前日は納棺の儀を行い、冷たくなった母はきれいにお化粧をされて棺に収っていました。

お通夜は24日で告別式が25日に決まっていて、もうしばらく母と一緒にいられることになっていました。

ただ前日も記したように、私には母が母では無くなったような不思議な感覚がありました。

それは一つには、痩せた顔にお化粧をしたことや、触れると冷たい身体が原因であったかもしれません。

また、この前年にも母が意識不明の昏睡状態になったことがあり、その時はすっかり元気に回復して『第二の人生』を生きてくれました。

その記憶があるために、母が再び蘇るのではないかという思いが強かったのかもしれません。

いずれにしても、私には傍らの棺に入っているのが母だという実感がなかなか湧いてこなかったのは確かでした。

そんな中、従兄弟や姪たちが母に会いに来てくれて、私はそこそこ忙しくこの日も過ごしました。

もう一つ不思議な感覚だったのが、棺に入った母と日中ずっと一緒にいたわけですが、これといった思いが湧かなかったことでした。

というのも私は、これ以前は棺の中の人と顔を合わせることができず、父の時でもなるべく見ないようにしていました。

ところが、この時は特に感慨もなく普通に母の顔を見ることができて、自分ながら『どうしてだろう?』と疑問に思ったものでした。

2023年12月21日 (木)

母が母では無くなった

4年前の2019年12月21日は曇りで10℃の土曜日、前日母は最後の入院をして40日目に亡くなりました。

前日の夜は、母の遺体とともに父の葬儀を執り行ってくれた葬儀屋さんに移動しました。

そこで通夜や告別式の打ち合わせをして、私が自宅に戻ったのは真夜中になっていました。

そして、この日は午後2時に納棺の儀を行うということで葬儀屋さんに行くと、母の遺体は2階の和室に移されていました。

私はここ一週間ほどで母がとても痩せたと感じていて、そのためか改めて見る母の顔はかなりシワが目立っていました。

元々ふくよかだった母の顔は年齢の割には若く見えていたと思いますが、痩せたために急激に年を取ったように見えました。

そして、納棺師が母にお化粧を施して唇の赤が強調されるようになると、私には母の顔が別人のように感じられました。

そういえば、口紅をさした母の顔を見るのはいつ以来かと考えましたが、その答えは『かなり前』としか思い出せませんでした。

その後、履いていなかった靴下を履かせて手の指に触れると、生前の温かい母ではなく、すっかり冷たくなっていました。

それから納棺をするときには母の背中に手を触れましたが、この時も母の身体が小さくなってしまったことが分かりました。

納棺の儀は、小さく痩せてお化粧をした冷たい母が棺に収って終了しました。

この時の私の気持ちとしては、母が亡くなって悲しいというよりも、母が母では無くなってしまったという感覚だったような気がします。

2023年12月20日 (水)

丁度いいお天気

4年前の2019年12月20日は晴れで15℃の金曜日、母が最後の入院をして40日目、この日は午後5時頃に病院に行くことになりました。

前日の母は計器の数値も落ち着いていて、スヤスヤと眠っているように見えたので『このまま眠っていてくれればいいな』などと思いました。

ただ、私は12月16日に激しく呼吸をする母を見てから、いつ病院から電話が来るかと不安を抱えながら日々を過ごしていました。

そして、とうとうこの日の午後4時20分に病院から電話が来てしまいました。

電話をくれた看護師さんの話では「まだ息はありますが、血圧が50まで落ちたので連絡をしました。早く来てください」ということでした。

夕食の支度をしていた私は『とうとう来たか』と思い、ご飯が炊けたのを確認してから家を出て、午後5時10分ころ母の病室に到着しました。

途中で西の空を見ると、雲が多いながらもきれいな夕焼けでやや暖かく『母が旅立つには丁度いいお天気かもしれない』と感じました。

病室での母の状況は脈拍は乱高下していて、血圧はほぼ平坦で波が無く、心電図も見たことの無いような形の波になっていました。

この日の母はこれまでのような鼻からのものではなく、口を覆う酸素吸入をしていて、ずっとハァハァと荒い呼吸を口でしていました。

ただ、鎮静剤の効果で母の顔に苦しそうな表情はなかったので、その点は良かったと思いました。

そのうち血中酸素量が指先で測れなくなり、看護師さんが耳たぶと額に器機を移動させて測っていましたが、最後は測定不能になりました。

そして、午後6時42分に母は息を引き取りました。

2023年12月19日 (火)

いつまでもこのままで

4年前の2019年12月19日は曇りで10℃の木曜日、母が最後の入院をして39日目、この日は午後7時頃に面会に行きました。

前日の母の様子は脈拍が80~120の間を忙しく動いていましたが、息は静かで良く眠っているような感じでベッドに横たわっていました。

そして利尿剤の点滴が外されていて、高血圧に悩まされていた母もいよいよ血圧を下げる必要が無くなっていました。

若い頃から定期的な通院と薬の服用が習慣になっていた母にも、その習慣が終わる時が来たというわけです。

12月16日の激しい呼吸を見てから私は、いつ病院から電話が来るかと不安を抱えながら日々を過ごしていました。

それでも、この日も病院からは何も連絡が無いので、なかなか病院に向きづらい重い脚を引きずるように母の面会に行きました。

いつものように母の状況を心配しながら病室に入ると、仰向けで顔を右側に向けてスヤスヤと寝息を立てていました。

その表情は、いかにも気持ちよさそうに眠っているように見えました。

計器の数値を見ると、脈拍は90台で安定していて血圧は115/42、酸素量は94と、これだけ見れば何も問題はなさそうでした。

この日は息が荒いこともなく脈拍も安定していて、むくみも顔には無く、腕や指に多少目立っているという程度でした。

他には心電図の形がかなりイヤな感じではありましたが、母の寝顔を見ていると『いつまでもこのまま眠っていて欲しい』と思いました。

最後に胸に掛けていたジャイアンツの白いタオルを、母が愛用していた高橋由伸のタオルに交換してあげて、私は帰路に就きました。

2023年12月18日 (月)

薬からの解放

4年前の2019年12月18日は曇りで16℃の水曜日、母が最後の入院をして38日目、この日は午後7時5分頃に面会に行きました。

前日の母は脈拍が80~90の間を忙しく動いて、少しハァハァと息をしていましたが前々日ほどではありませんでした。

ただ、なんとなく祭りの後の余韻のような感じがして、後は終わりを迎えるだけなのかなどと、さすがの私も諦めが漂い始めていました。

前々日の状況を見てからは、いつ病院から電話が来るかと不安を抱えながら日々を過ごしていました。

それでも、この日も病院からは何も連絡が無いので、なかなか病院に向きづらい重い脚を引きずるように母の面会に行きました。

いつものように母の状況を心配しながら病室に入ると、母は仰向けで顔を右側に向けて寝息はとても静かでした。

この日も脈拍は80~120の間で乱高下している感じで、心電図にもいろいろな波形が現れていました。

気がつくと利尿剤の点滴が無くなっていて、そのためか全体的にむくみが多少良化しているように見えました。

後日受けた説明では、利尿剤は血圧を下げるので外したということで、とうとう母も高血圧の心配をする必要がなくなったということでした。

私が母の薬を管理していた頃には10種類程度を服用していましたが、いよいよこの状況になって母は薬から解放されました。

帰りに「息子さん帰るよ、また来るね」と母の耳元に声を掛けると、反応してくれたのか酸素量が78まで下がりアラームが鳴りました。

そして最後に、お別れの挨拶として母の顔と腕に触れると、その身体は相変わらずとても温かいままでした。

2023年12月17日 (日)

発作の翌日

4年前の2019年12月17日は曇りで10℃の火曜日、母が最後の入院をして37日目、この日は午後7時頃に面会に行きました。

前日の母はそれまでとは一変して、脈拍が100~170の間を忙しく動き、ハァハァと苦しそうに大きく息をしていました。

私はその場にいても為す術もないので帰宅して、病院から電話が来ないことを祈りながら眠れない夜を過ごしました。

その前までも心電図の波形が大きく乱れ始めていましたが、前日以後はそれ以外の全てのことが心配になってきていました。

それでも、この日の日中も病院からは何も連絡が無いので、いつもの時間に面会に行きました。

母がどのような状況にあるのか不安を抱えながら病室に入ると、仰向けの母は前日同様に高橋由伸のタオルを胸に掛けて寝ていました。

そして、顔は左側に向けていて口を開けて「ハァハァ」と呼吸をしていました。

脈拍は前日ほどではありませんでしたが、80~90の間で安定せずに忙しく動いていました。

当然、心電図の波形も前日ほど乱れてはいず、前々日までに戻ったようにいくらか落ち着いた感じでした。

血圧は98/36、呼吸は96から87まで落ちてアラームが2度鳴るなど、どちらも表示された波が小さくて元気がないように感じました。

ここ数日痩せてきたと思っていた顔は、更に小さくなったようでシワが目立ち、被っている帽子がかなり緩くなっているように見えました。

母が亡くなるのは3日後ですが、今思うと前日の状況で心臓が寿命を迎えて、その後は惰性で血液が流れていたのか、などと考えています。

2023年12月16日 (土)

切迫した事態

4年前の2019年12月16日は晴れで13℃の月曜日、母が最後の入院をして36日目、この日は午後7時頃に面会に行きました。

前日の母は、私が一番お似合いだと思っている緑色の帽子を被って静かに寝息を立てていました。

その母の顔はこのところ、むくみが取れてスッキリしているというよりも、かなり痩せてきたように見えてシワが目立ち始めていました。

そして最も心配なのが心電図の波形で、ここ数日は悪化のスピードが速くなってきていて、こちらは不安が増大してきました。

そのため、この日も母の状況を心配しながら病室に入ると、仰向けに寝た母は大きく口を開けて「ハァハァ」と呼吸をしていました。

どのくらいこの状況が続いているのかは分かりませんが、まるでゴール間近のマラソンランナーのように激しく息をしていました。

計器を見ると脈拍が100~170の間を急激に上下していて、なおかつ一時たりとも安定していない上に、心電図は更に悪化していました。

私は『何が起きたのか』と考えながら、主治医がかつて話していた「いつ不整脈が起きても不思議ではない」とは、このことかと思いました。

いずれにしても前日まではしばらくの間スヤスヤと眠っていたことを思うと、事態はいよいよ切迫してきたと思わざるを得ませんでした。

ただ、どんなに母が激しく呼吸をしていて心電図が不安定でも、私にできることは何もありません。

逆にこれからは、いつ病院から呼び出しが来てもおかしくなくなったと感じ、この日はそのまま帰宅することにしました。

それでも救いだったのは、荒い呼吸をしているにもかかわらず、鎮静剤の効果か母の表情が全く苦しそうではなかったことでした。

2023年12月15日 (金)

爪切りもお役御免

4年前の2019年12月15日は晴れで12℃の日曜日、母が最後の入院をして35日目、この日は午後6時55分頃に面会に行きました。

前日の母は、私が一番お似合いだと思っている緑色の帽子を、久しぶりに被ってスヤスヤと良く眠っていました。

その母の顔はこのところ、むくみが取れてスッキリしてきたというよりも、かなり痩せてきたようでシワが目立ち始めていました。

そして心電図の波形はここ数日、悪化のスピードが速くなっているように感じられて、こちらは不安が増大してきました。

そのため、この日も母の状況を心配しながら病室に入ると、いつものように仰向けで首を右側に向けて良く眠っていました。

前日と同様に緑色の帽子を被り、愛用の高橋由伸のタオルを胸のあたりに掛けた格好で、静かに寝息を立てていました。

「息子さん来ましたよ」と声を掛けると、計器に表示された脈拍、血圧と呼吸の波が少し動いたように感じました。

ただ身体の動きは全くないので、母に聞こえているかもしれないと思いながらも、一抹の寂しさは拭えませんでした。

むくみは前日と同じくらいで、相変わらず腕や指の太さが目立っていました。

また、毎日感じている心電図の波形の悪化ですが、この日も明らかに前日よりも良くない形になっていました。

私は病院に行く際に、母が施設にいた当時と同じ鞄を持っていましたが、その中には何度か母の爪を切ってあげた爪切りが入っていました。

残念ながら母の状況を考えて、私は『さすがに、もうお役御免だね』と呟きながら、その爪切りを鞄から取り出しました。

2023年12月14日 (木)

一年後の深刻さ

4年前の2019年12月14日は晴れで16℃の土曜日、母が最後の入院をして34日目、この日は午後7時頃に面会に行きました。

前日の母は口を開けて眠っていて、その口の中が赤くなっていた理由が看護師さんの説明で分かりました。

そして、ずっとベッドで寝ている母にも様々なお世話を続けてくれている看護師さんたちに、感謝の気持ちしかありませんでした。

また、母の顔がスッキリしてきた感じがしましたが、それはむくみが良化したというよりも、何故かかなり痩せたように見えました。

そして、心電図の波形はここ何日かで悪化が進んでいるようで、こちらは不安が増大してきました。

そのため、この日も母の状況を心配しながら病室に入ると、仰向けで首は右側を下にしてスヤスヤと良く眠っていました。

久しぶりに、母は私が一番お似合いだと思っている緑色の帽子を被っていました。

「息子さん来ましたよ」と声を掛けると、計器に表示された脈拍、血圧と呼吸の波が少し動いたように見えました。

身体の動きは全くないので実際のところは分かりませんが、私には声が母に聞こえているように思えました。

母の顔はますます小さくなったように感じられ、ふくよかだったその顔にもシワが目立つようになってきていました。

ただ、相変わらず腕や指がむくみで太くなったままで、心電図の波形の乱れ方も更に悪化が早くなっている気がしました。

母が心不全と診断されてからおよそ一年が経過して、いよいよ私にもその深刻さが分かってきました。

2023年12月13日 (水)

帰宅は厳しい

4年前の2019年12月13日は曇りで9℃の金曜日、母が最後の入院をして33日目、この日は午後7時頃に面会に行きました。

前日は母に声を掛けると、はっきりとは分かりませんでしたが、瞼や口が動いたような気がしました。

そして顔がスッキリした感じがしましたが、それはむくみが良化したというよりも、何故か短時間にかなり痩せたように見えました。

また、心電図の波形は更に悪化しているようで、こちらは不安が増大してきました。

そのため、この日も母の状況を心配しながら病室に入ると、仰向けの状態で口を開けて寝ていて大きく息を吸っていました。

舌を巻き込んでいるのか大きな音がしていましたが、表情に苦しさはなく顔を見ると瞼の中で目が動いているのが分かりました。

そして、口を開けているので気になったのが、前日同様に母の口の中が赤く見えたことでした。

そのため、私が様子を見ようと少し覗き込んでいたところ、ちょうど看護師さんが現れて説明をしてくれました。

「口が乾いていたので拭きながら汚れを取っていたところ、出血してしまいました」と言いながら、看護師さんは謝罪をしてくれました。

ついでに私が「母は今でも薬を飲むこともあるのですか?」と尋ねると、さすがに「それはありません」ということでした。

そして、看護師さんが「日中は大きな息はしていなかった」と言いながら、母の顔を少し下に向けると大きな音は収りました。

この日も腕はむくみで相変わらず太く、また心電図は細かい波が増えているような感じで、更に状況は厳しくなったように思いました。

前日までは、このまま安定した状態であれば帰宅も考えていましたが、『更に悪化しているようで難しくなった』と感じ始めた頃でした。

2023年12月12日 (火)

出血のような汚れ

4年前の2019年12月12日は晴れで19℃の木曜日、母が最後の入院をして32日目、この日は午後6時55分頃に面会に行きました。

前日は母に声を掛けると瞼をパチパチとさせて反応をしてくれました。

そして顔の周辺のむくみが少し良化しているように見えましたが、心電図の波形が悪化しているような感じもありました。

そのため、この日も母の状況を心配しながら病室に入ると、仰向けの状態で寝ていて顔は左側を向いていました。

気になったのが、母の口の中や周囲が赤く出血したような感じで汚れていたことでした。

少し前にも口の辺りに何かが付いていたことがありましたが、今でも口から何かを飲んだりしているのかと少し不思議に思いました。

この日は覚醒していたのかどうか、話しかける前から瞼や口が動いているように見えました。

そして母の耳元に声を掛けてみると、瞼が更に動いて口からは何か声を発したような気がしましたが、はっきりとは分かりませんでした。

改めて顔を見ると、いつものむくみどころか瞼がクッキリと二重になり、シワが目立つような感じでかなり痩せたように思いました。

ただ、腕の太さは相変わらずで、前日と同じ程度のむくみがあるように感じました。

そして気になる心電図の波形は、やはり前日と同様に小さな波が細かく付いていて、とても心配な状況に思えました。

それでも計器の数値はこれまでと変わりなく、私は母の愛用の高橋由伸のタオルを胸に掛けてあげてから帰路に就きました。

2023年12月11日 (月)

居ても立っても居られない

4年前の2019年12月11日は曇りで17℃の水曜日、母が最後の入院をして31日目、この日は午後6時55分頃に面会に行きました。

前日は母に声を掛けると脈拍数が若干増えたくらいで、身体が動くような反応はありませんでした。

そのため、この日も母の状況を心配しながら病室に入ると、ほぼ仰向けの状態で顔の左側を下にして眠っていました。

改めて母を見てみると、この時は心なしか前日よりもむくみが少し良化しているような感じがしました。

そして母の耳元に声を掛けてみると、瞼を何回かパチパチと瞬きをするような動きがありました。

このところ反応がほとんど無いことが多かったので、私は『今でも覚醒していることもあるのか』と、驚きとともに嬉しく思いました。

それでも心電図を見ると、前日から再び気になっていた波形が更に悪化した感じで、こちらは本当に心配になってきました。

ところでこの日、自宅で母を介護していたときにお世話になっていたケアマネジャーさんに連絡をしてみました。

一つには9月に自宅に戻ることを相談したので、母の近況を報告しておく必要があると思ったからでした。

そしてもう一つは、寝たきりのまま母を自宅に連れて帰ることも可能かどうか、ということを確認したかったからです。

これについては訪問看護や訪問医療も可能だが、まずその前に主治医の許可が必要だという、当然と思える返事でした。

冷静に考えれば当たり前のことですが、この時の私は母の状況を見て『居ても立っても居られない』という心境だったのだと思っています。

2023年12月10日 (日)

墓参から一か月

4年前の2019年12月10日は曇りで13℃の火曜日、母が最後の入院をして30日目、この日は午後6時55分頃に面会に行きました。

前日は母に声を掛けると脈拍数が若干増えたくらいで、身体が動くような反応はありませんでした。

そしてグッスリ眠っているからか、計器の数値がとても安定していたので、『この状況も悪くないのかな』などと考えていました。

この日も母の状況を心配しながら病室に入ると、ほぼ仰向けの状態で顔が左側を向いて良く眠っていました。

改めて母の顔を見てみると、口のあたりに何かドロッとした灰色のものを零したような後が付いていました。

これについては今でも分かりませんが、この頃は既に口から薬を飲むことも出来なかったと思います。

あくまで推測ですが、これまでも乾いた唇を拭いてあげたことがあったように、看護師さんが何らかのケアをしてくれたのでしょう。

また、むくみの方は前日までと同様に顎の下あたりや両腕の太さに表れていました。

母の耳元に声を掛けると、この日も身体の反応はありませんでしたが、計器に表示された血圧や脈拍の波が少し動いたように見えました。

おそらく声は聞こえているものと勝手に判断しましたが、気になったのが心電図に不穏な波形が再び現れていたことでした。

今回の入院も30日が経過して、下半身のむくみは早々に無くなりましたが、上半身のむくみと心電図は徐々に悪化してきたように感じました。

入院の前日には介護タクシーに乗ってお墓参りに行きましたが、早いものでそれから一か月が経過していました。

2023年12月 9日 (土)

反応は脈拍数だけ

4年前の2019年12月9日は曇りで11℃の月曜日、母が最後の入院をして29日目、この日は午後6時55分頃に面会に行きました。

前日は母に声を掛けると何度か瞼が瞬きのような動きをしたように見えました。

そしてグッスリ眠っているからか、計器の数値がとても安定していたので、『この状況も悪くないのかな』などと考えてしまいました。

この日も母の状況を心配しながら病室に入ると、顔は右を向いていましたが仰向けの状態で、鼻を鳴らして良く眠っていました。

改めて母の顔を見てみると、顎の下あたりにやはりむくみがあるように思いました。

また、外に出していた腕も前日までと同じような太さで、相変わらずいくらかむくんでいるようでした。

今回の入院は上半身のむくみがなかなか取れず、11月20日には主治医から「利尿剤が効かなくなった」と伝えられていました。

その際に人工透析を勧められたわけですが、私が即答を避けたために変わらず利尿剤の点滴を続けていました。

その後間もなく、母がパニック障害を発症したために状況がそのまま続けられているというのが現実でした。

そのため、むくみの良化はほとんど考えられないのはやむを得ないことでしたが、状態が安定していたので私はある程度満足していました。

この日も母の耳元に「息子さん来ましたよ」と声を掛ると、鎮静剤が効いたのか身体の動きは全くなかったように見えました。

それでも脈拍数がやや増えたのが分かりましたので、おそらく私の声が聞こえたのだろうと今でも勝手に思っています。

2023年12月 8日 (金)

この状況も悪くない

4年前の2019年12月8日は晴れで12℃の日曜日、母が最後の入院をして28日目、この日は午後6時55分頃に面会に行きました。

前日は姪たちがお見舞いに来てくれましたが、母に声を掛けても何も反応がありませんでした。

その前の日は私の言葉に対して声にならない声で何かを答えてくれましたが、この頃はほとんどの時間を眠っているようでした。

この日も母の状況を心配しながら病室に入ると、母は身体の左側を下にしてベッドに横たわっていました。

その耳元に「息子さん来ましたよ」と声を掛けると、目が何度か瞬きをしたような感じがしました。

ベッドサイドの器械の脈拍の波が微妙に動いたように見えたので、おそらく私の声が聞こえたのだろうと思います。

その器械の心電図、血圧、呼吸の波は相変わらず安定していました。

血圧が145/50、脈拍は78、酸素量が97でグッスリ眠っていることもあってか、これらの数値は良い感じでした。

顔のむくみはほとんどありませんでしたが、布団をめくって母の腕を見てみると、両腕のむくみは残っていてかなり太く見えました。

それでも前日やこの日のように母がグッスリ眠っているのを見ると、この状況が続くのも悪くないかな、と思ったりもしました。

というのも、母は眠りが浅いタイプでしたので、穏やかな表情で過去の分を取り返すように深い眠りの母を見て、少し安心出来たからです。

パニック障害をきっかけに母に付き添い始めたのが2週間前の日曜日でしたが、その後は本当に時の流れの速さを感じるばかりでした。

2023年12月 7日 (木)

絶筆『光』

4年前の2019年12月7日は雨のち曇りで7℃の土曜日、母が最後の入院をして27日目、この日は午後3時頃に母の面会に行きました。

姪たちがお見舞いに来てくれるというので、病院の待合室に集合してから二組に分かれて病室に行くことにしました。

この日の母は珍しく仰向けに寝ていたこともあってか、いびきを掻いていました。

両腕を布団の外に出して、姉が先月の母の誕生日に持ってきてくれたウサギのぬいぐるみを両手で持っていました。

おそらくこれらの姿勢は看護師さんの手によるものと思われましたが、前日の母は吐息のような声にならない声を出していました。

ですので、もしかすると目が覚めた時に母が同意したポーズだったかもしれませんが、私としても初めて見た光景でした。

いずれにしても外に出していた腕は相変わらず太く、どうしても上半身のむくみは取れないようでした。

前日は私が声を掛けると、母はわずかに瞼を開いて何か言葉を発してくれたので、皆さんがお見舞いに来てくれたこの日も期待しました。

しかしながら、誰が耳元で話しかけても全く反応はなく、それは仕方のないことでしたがとても残念に思いました。

それでも、当然ながら精神的に安定して良く眠っているからか、ここ数日は計器の値が悪くなく心電図も平坦で安定していました。

その後病室を出てから、隣接の施設で開催中の展示会を見に行くことになりました。

この年に母の名前で出品されたものとしては、工作のダルマと絶筆となった書道の『光』という二つの作品がありました。

2023年12月 6日 (水)

「大丈夫」もしくは「ありがとう」

4年前の2019年12月6日は曇りで10℃の金曜日、母が最後の入院をして26日目、私は午後6時55分に母の病室に行きました。

11月24日の夕方から28日の早朝まで4日間、夜間母の付き添いをしていましたが、心配だったパニック障害の症状はほとんど治まりました。

そのため、28日以後は普通の面会時間に行くことにしていて、この日も午後7時前に行くことになりました。

前日の母は声を掛けても何も反応が無くずっと寝ているので、時計代わりに決まった時間に行く必要がなくなったこともありました。

ただ同時に、母の状態が良化することはほとんど考えられなくなり、気分的に病院に足が向きにくくなってきたことも事実でした。

前の2日間は計器の数値がかなり良く『むくみが取れれば退院か』などと考えたりしましたが、この日も不安を抱えながら病室に入りました。

この日の母は左側を下にして寝ていて、胸には姪が母の誕生日プレゼントとして送ってくれたジャイアンツのタオルを掛けていました。

私が耳元に声を掛けると、思いがけず少し瞼が開いたように見え、同時に口を開けて何か言葉を発してくれました。

それは吐息のような声にならない声でしたが、おそらく私に「大丈夫」もしくは「ありがとう」と言ってくれたのだと今でも信じています。

それくらいの短い言葉でしたが、これまでの状況からして母が反応してくれるとは考えてもいなかったので、驚きとともに嬉しく思いました。

また、鎮静剤を使って10日経過し面会時はほとんど眠っていたので、もう話は出来ないと勝手に思っていたことを少し後悔しました。

もしかすると、この状況下でも母のベッドサイドに一日中いれば、少しは何か話が出来たのかもしれなかったのですから。

2023年12月 5日 (火)

安定の2日間

4年前の2019年12月5日は晴れで16℃の木曜日、母が最後の入院をして25日目、私は午後6時50分に母の病室に行きました。

11月24日の夕方から28日の早朝まで4日間、夜間母の付き添いをしていましたが、心配だったパニック障害の症状はほとんど治まりました。

そのため、28日以後は普通の面会時間に行くことにしていて、この日も午後7時前に行くことになりました。

前日の母は声を掛けると目が瞼の中で動いただけの反応しか無く、ずっと寝ているので時計代わりが必要なくなったこともありました。

ただ同時に、母の状態が良化することはほとんど考えられなくなり、気分的に病院に足が向きにくくなってきたことも事実でした。

前日は計器の数値がかなり良く『むくみが取れれば退院か』などと勝手に考えたりしましたが、この日も不安を抱えながら病室に入りました。

この日の母はやや右側を下にしてほぼ仰向けで寝ていましたが、声を掛けたり顔や身体に触れても全く動きませんでした。

ただ、そのためか却って計器に表示された血圧や呼吸、心電図の波形が安定していました。

また、血圧は172/68で酸素量は97、心電図も力強く前日よりも波形がきれいになったように感じました。

計器の数値は前日に続いて良化を感じさせてくれるもので、私はこの日も『退院』という文字が脳裏に浮かんでしまいました。

それでも冷静に母の様子を見ると、顔には少しむくみがあり、右腕はそれ以上に気になるほどの太さで、左手の甲もむくみが見られました。

この2日間、私の声に反応がほとんど無いのは残念でしたが、母は穏やかな表情で眠っていて数値も安定していたのは嬉しい限りでした。

2023年12月 4日 (月)

『また退院できるかな』

4年前の2019年12月4日は晴れで16℃の水曜日、母が最後の入院をして24日目、私は午後6時55分に母の病室に行きました。

11月24日の夕方から28日の早朝まで4日間、夜間母の付き添いをしていましたが、心配だったパニック障害の症状はほとんど治まりました。

そのため、28日以後は普通の面会時間に行くことにしていて、この日も午後7時前に行くことになりました。

前日の母は声を掛けると瞬きで反応してくれましたが身体は動かず、ずっと寝ているので時計代わりが必要なくなったこともありました。

ただ同時に、母の状態が良化することはほとんど考えられなくなり、気分的に病院に足が向きにくくなってきたことも事実でした。

前日は心電図に余計な波形が増えていたため、母の状況が日毎に悪化しているように感じられて、この日も心配しながら病室に入りました。

この日の母はやや左側を下にして珍しくほぼ仰向けで寝ていましたが、今思えばこの頃は看護師さんが姿勢を決めていたのかもしれません。

母の耳元に声を掛けると、閉じたままの瞼の中で目が何回かキョロキョロと動いていましたが、身体を動かすことはありませんでした。

その瞼や顎の下や顔全体が、まだいくらかむくんでいるように見えました。

また、布団の上に出していた右腕が手首の上の辺りまでむくんでいて、顔のむくみよりも気になりました。

血圧が珍しく158/68と表示されていて、酸素量も93で安定していたので、この数値だけ見れば前日よりも良化している気がしました。

これで穏やかな表情で寝ている母の顔や腕からむくみが取れれば『また退院できるかな』と、一瞬だけ夢を持った日だったように思います。

2023年12月 3日 (日)

瞬きだけ

4年前の2019年12月3日は晴れで16℃の火曜日、母が最後の入院をして23日目、私は午後6時40分に母の病室に行きました。

11月24日の夕方から28日の早朝まで4日間、夜間母の付き添いをしていましたが、心配だったパニック障害の症状はほとんど治まりました。

そのため、28日以後は普通の面会時間に行くことにしていて、この日も午後7時前に行くことにしました。

前日の母は吐息のような声で何かを言ってくれましたが、ずっとベッドに寝ているので、時計代わりが必要なくなったこともありました。

ただ同時に、母の状態が良化することはほとんど考えられなくなり、病院の方に足が向きにくくなってきたことも事実でした。

前日は母の両方の瞼が結構腫れていて再び悪化したように見えたので、この日も心配しながら病室に入りました。

この日の母は右側を下にしていて、暑いのか上衣が胸まではだけたような感じで、愛用の高橋由伸のタオルを掛けて寝ていました。

前日と違って瞼のむくみはほとんどありませんでしたが、手指のむくみはなかなか取れないよう見えました。

母の様子を見ているうちに、腕に巻いた血圧計が動き出し測定を始めると、220/100という数字が表示されてアラームが鳴りました。

そのままにして母に声を掛けると、瞼が動き出して何度か瞬きをしましたが、目が開くことはなく口や身体も動くことはありませんでした。

十日ほど前から鎮静剤を使ってきて、その効果で動けないのかと思うと同時に、母は瞬きで何かの意思を伝えてくれたのだと感じました。

ただ、血圧測定でアラームが鳴る状態であると同時に、心電図は一見して怪しげな波が増えていて、なんとなく絶望感が漂い始めました。

2023年12月 2日 (土)

広かった背中

4年前の2019年12月2日は雨で14℃の月曜日、母が最後の入院をして22日目、私は午後6時55分に母の病室に行きました。

11月24日の夕方から28日の早朝まで4日間、夜間母の付き添いをしていましたが、心配だったパニック障害の症状はほとんど治まりました。

そのため、28日以後は普通の面会時間に行くことにしていて、この日も午後7時少し前に行くことにしました。

前日の母は少し笑ったような表情もありましたが、ずっとベッドに寝ているので、時計代わりになる必要がなくなったこともありました。

ただ同時に、母の状態が良化することはほとんど考えられなくなり、病院の方に足が向きにくくなってきたことも事実でした。

この日も勇気を振り絞って病室に入ると、母は左側を下にして眠っていて、両方の瞼が結構腫れているように見えました。

前日までは点滴の量が減り、その分身体の水分も減ったためか、むくみが多少良化したような感じがしましたが、再び心配になってきました。

この日も「息子さん来ましたよ」と耳元で挨拶をすると、母の唇が動いて声にならない吐息で何かを言ってくれたのが分かりました。

同時に手が動いて、握っていた高橋由伸のタオルが揺れていたのでその手に触れると、明らかに前日よりもむくんでいました。

計器の数値は心電図こそ規則正しい感じでしたが、脈拍は90前後、血圧は215/100と表示されていました。

帰り際に母の背中に触れてみると、肩甲骨や背骨が目立っていて、筋肉はほとんど落ちてしまったような状態でした。

以前母の身体を拭いていた時に、身体の割に広いと思った背中が『こんなに小さくなったのか』と私は驚き、改めて寂しさを感じました。

2023年12月 1日 (金)

可愛い笑顔

4年前の2019年12月1日は晴れで13℃の日曜日、母が最後の入院をして21日目、私は午後7時20分に母の病室に行きました。

11月24日の夕方から28日の早朝まで4日間、夜間母の付き添いをしていましたが、心配だったパニック障害の症状はほとんど治まりました。

そのため、28日以後は普通の面会時間に行くことにしていて、この日も午後7時過ぎに行くことにしました。

前日は母の瞼が開いたりしましたが、ずっとベッドに寝ている状況なので、時計代わりに夕方に行く必要がなくなったこともありました。

ただ同時に、母の状態が良化することはほとんど考えられなくなり、病院の方に足が向きにくくなってきたことも確かでした。

この日も勇気を振り絞って病室に入ると、母は右側を下にして眠っていて、瞼の腫れがほとんど引いているように見えました。

前日に、点滴の量が減っていることに気付いたこともあり、水分を減らしたのがむくみにも影響しているのかと感じました。

そして前日と同様に「息子さん来ました」と声を掛けると、母は少し笑ったような表情になり何か声を出してくれました。

何を言っていたのかは分かりませんでしたが、その時の笑顔はこれまでに見たことのないような可愛さでした。

この日はベッドの周囲の計器には血圧は表示されていませんでしたが、脈拍が75、酸素量は95~96くらいで安定していました。

この時は酸素吸入のチューブが鼻にしっかりとは入っていないにもかかわらず、なかなか良い数値だったので、私も安心できました。

そんな鼻から外れかけたチューブと穏やかな表情で寝ている母を見て、私は『もう、そういう細かいことは大体でいいよ』と思いました。

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