« 2023年10月 | トップページ | 2023年12月 »

2023年11月

2023年11月30日 (木)

最後に見た私の姿

4年前の2019年11月30日は晴れで12℃の土曜日、母が最後の入院をして20日目、私は午後6時40分に母の病室に行きました。

24日の夕方から28日の早朝まで、4日続けて夜間母の付き添いをしていましたが、心配だったパニック障害の症状はほとんど治まりました。

そのため、28日以後は普通の面会時間に行くことにしていて、この日も午後6時過ぎに行くことにしました。

この頃の母は既に食事を取ることもなく、ずっとベッドに横たわっていたので、時計代わりになる必要もないだろうという判断でした。

この日の母は右側を下にして寝ていて、やや腫れた瞼の状態は前日までと変わらないように見えました。

ベッドの周囲の計器を見ると、心電図はそれほど悪く無さそうでしたが、脈拍は75、血圧が210/90と表示されていました。

「息子さん来ましたよ」と声を掛けると、母が目を開けたので手に触れると「冷たい」と、元気なころと同じような反応をしてくれました。

カチカチに乾いた唇を拭いてあげると喜んでくれて、開けた目も見えているようでした。

珍しく瞼が両方開いたのは、むくみが多少良化したからかと思い腕に触れてみると、気のせいか少し細くなったようにも感じました。

ただ、点滴の量が減らされた様子もあって、むくみの良化はその影響のような気もしました。

会話の中で母は、朦朧とする意識の中でも「大丈夫」と笑い、私の「また明日来ます」という言葉に手を振るような仕草をしてくれました。

この日以降、私と一緒の時に母の瞼が開いたことは無かったので、もし目が見えていれば、母が最後に見た私の姿だったことになります。

2023年11月29日 (水)

時計代わりは必要ないかな

4年前の2019年11月29日は晴れで10℃の金曜日、母が最後の入院をして19日目、私は午後6時に母の病室に行きました。

24日の夕方から28日の早朝まで、4日続けて夜間母の付き添いをしていましたが、心配だったパニック障害の症状はほとんど治まりました。

そのため、28日の夕方からは普通の面会時間に行くことにしましたが、母はほとんど眠っているので、この日は午後6時ころ行きました。

2018年4月に母が脚を骨折して以来、施設入所後もずっと私は母の時計代わりになるように、午後4時ころに面会に行くようにしていました。

入院や施設での生活では時間の把握が難しいようで、母はよく私に時間を尋ねてきました。

そういう経験から、私が現れたら『夕方だ』と分かりやすいように、なるべく同じ時間に顔を出すようにしていたわけです。

ただ、この時の母の状況からすると『残念ながら、もう時計代わりは必要ないかな』と考えました。

また、母と話をしても楽しい内容にはならないと思い、眠っていたらそのまま帰ろうと考えたことも理由の一つでした。

この日の母はベッドに左側を下にして寝ていて、計器を見ると酸素量は90前後でしたが、脈拍や心電図は安定していました。

声を掛けると起きていて、「私はどこにいるの?」「明日の土曜日に何かある」などと、声は小さいながらもしっかりした口調で言いました。

さらに「何処かでお葬式をしているんじゃないの?」と、夢と現実が混ざり合いながらも、いろいろと考えているようでした。

鎮静剤のために朦朧としていたこともあったでしょうが、私はこの時の母の状態を見て『出来るだけのことはしてあげたかな』と思いました。

2023年11月28日 (火)

4日間で体力の限界

4年前の2019年11月28日は曇りの木曜日、母が最後の入院をして18日目、私は24日の夕方から病室で母に付き添っていました。

24日の夕方に面会に行くと、最初母は静かに眠っていましたが目が覚めそうになったときに突然苦しがり始めました。

同時にベッド脇の計器のアラームが鳴り出して看護師さんたちが来ましたが、初めて見た私は『大変なことになった』と、まず思いました。

驚いた私は、今にも母の命に関わるのではないかと考えて、姉のところに連絡をしたりしていました。

その間、苦しがっていた母に看護師さんは痰の吸引をしていて、母は違う意味で再び苦しがっていました。

その姿を見かねた私が看護師さんに相談すると、親族が付いて見守れば処置が変わるとのことで、突然私は母に付き添うことになりました。

一晩母の様子を見た私は、苦しい痰の吸引がきっかけとなってパニック障害を起こしているのではないか、と考えました。

そこで、25日に主治医に「パニック障害ではないか」と話した結果、鎮静剤を使うことになりましたが、しばらく見守る必要がありました。

昼の時間帯は姉が来てくれたので、私は夜の母の様子を見ることになりましたが、既にこのころは眠っていることが多い状況でした。

付き添って4日目の28日にはパニック障害の症状はほとんど治まって、母は目が覚めても身体に力が入ることも無くなりました。

夜だけとはいえ4日間付き添った私は体力に限界を感じたため、28日の早朝に一旦帰宅して、午後4時ころ再び面会に行きました。

母は精神的には落ち着いてきていて、穏やかに話をすることができましたが、顔や腕のむくみはまだかなり目立っていて厳しい状況でした。

2023年11月27日 (月)

氷枕で穏やかな寝顔

4年前の2019年11月27日は曇りで11℃の水曜日、母が最後の入院をして17日目、私は24日の夕方から病室で母に付き添っていました。

24日の夕方に面会に行くと、最初母は静かに眠っていましたが目が覚めそうになったときに突然苦しがり始めました。

同時にベッド脇の計器のアラームが鳴り出して看護師さんたちが来ましたが、初めて見た私は『大変なことになった』と、まず思いました。

驚いた私は、今にも母の命に関わるのではないかと考えて、姉のところに連絡をしたりしていました。

その間、苦しがっていた母に看護師さんは痰の吸引をしていて、母は違う意味で再び苦しがっていました。

その姿を見かねた私が看護師さんに相談すると、親族が付いて見守れば処置が変わるとのことで、突然私は母に付き添うことになりました。

一晩母の様子を見た私は、苦しい痰の吸引がきっかけとなってパニック障害を起こしているのではないか、と考えました。

そこで、25日に主治医に「パニック障害ではないか」と話した結果、鎮静剤を使うことになりましたが、しばらく見守る必要がありました。

昼の時間帯は姉が来てくれたので、私は夜の母の様子を見ることになりましたが、既にこのころは眠っていることが多い状況でした。

付き添って3日目の27日にはパニック障害の症状はかなり治まっていて、目が覚めた時に唇を拭いてあげると母はとても喜んでいました。

ただ、精神的には落ち着いてきても、身体のむくみ特に上半身は相変わらずで、利尿剤を増やしても尿量はほとんど増えていないようでした。

それでも、看護師さんが持ってきてくれた氷枕が気持ち良かったようで、母は穏やかな顔で眠っていて、私は少しホッとできました。

2023年11月26日 (日)

柵を掴む手を解く

4年前の2019年11月26日は曇りで9℃の火曜日、母が最後の入院をして16日目、私は前々日の夕方から病室で母に付き添っていました。

24日の夕方に面会に行くと、最初母は静かに眠っていましたが目が覚めそうになったときに突然苦しがり始めました。

同時にベッド脇の計器のアラームが鳴り出して看護師さんたちが来ましたが、初めて見た私は『大変なことになった』と、まず思いました。

驚いた私は、今にも母の命に関わるのではないかと考えて、姉のところに連絡をしたりしていました。

その間、苦しがっていた母に看護師さんは痰の吸引をしていて、母は違う意味で再び苦しがっていました。

その姿を見かねた私が看護師さんに相談すると、親族が付いて見守れば処置が変わるとのことで、突然私は母に付き添うことになりました。

25日には主治医に「パニック障害ではないか」と相談した結果、鎮静剤を使うことになりましたが、しばらく見守る必要がありました。

昼の時間帯は姉が来てくれたので、私は夜の母の様子を見ることになりましたが、既にこのころは眠っていることが多い状況でした。

24日の夕方に見たのは、母が目が覚めそうになったときに「息ができない」と言いながら苦しがる姿でした。

その後もしばらくそういった状況が続いて、目覚めた母は息苦しさでベッドの柵を掴むということの繰り返しでした。

ベッドの柵を掴んだ母の手に触れると、その手にはもの凄い力が入っていましたが、その力を解いてあげるのが私の仕事になっていました。

その効果もあったのか26日に付き添った時には、目覚めた時のパニック障害の症状は少しずつ治まり始めたか、という気がしました。

2023年11月25日 (土)

パニック障害で付き添い

4年前の2019年11月25日は曇りの月曜日、母が最後の入院をして15日目、私は前日の夕方から病室で母に付き添うことになりました。

前日は夕方に面会に行くと、最初母は静かに眠っていましたが目が覚めそうになったときに突然苦しがり始めました。

同時にベッド脇の計器のアラームが鳴り出して看護師さんたちが来ましたが、初めて見た私は『大変なことになった』と、まず思いました。

驚いた私は、今にも母の命に関わるのではないかと考えて、姉のところに連絡をしたりしていました。

その間、苦しがっていた母に看護師さんは痰の吸引をしていて、母は違う意味で再び苦しがっていました。

その姿を見かねた私が看護師さんに相談すると、親族が付いて見守れば処置が変わるとのことで、突然私は母に付き添うことになりました。

母の様子としては、深い眠りの間は何でも無いのですが浅い眠りになると身体に力が入って、目覚めるときに息ができなくなるようでした。

そして、酸素量があっという間に下がって酸素不足のアラームが鳴り、母は息苦しさでベッドの柵を掴むということの繰り返しでした。

一晩私が見守って午前8時ころに姉が来てくれたので、私は一旦帰宅して布団に横になりながら寝不足の頭でいろいろと状況を考えてみました。

そして一眠りした後、午後5時ころに再び病院に行って姉に様子を聞いてみると、母の状況は特に変わらなかったとのことでした。

その後、主治医が来たので私の考えとして「パニック障害のような症状が現れて、治療に影響が出ている」と話してみました。

その結果、主治医の判断として、この時から鎮静剤を点滴で使用することになりました。

2023年11月24日 (金)

『大変なことになった』

4年前の2019年11月24日は雨のち曇りで20℃の日曜日、母が最後の入院をして14日目、午前10時40分ころ病室に面会に行きました。

このころ私は毎日、母の体調に不安を抱えながら入室していましたが、ここ3日ほど少し良化したように見え、ひたすら話をしてくれました。

ただ、話す内容は施設にいた頃のことや、自分が放って置かれたりいじめられるといった愚痴を、不機嫌そうに言うことがほとんどでした。

気になる身体の状況は平行線で、20日には主治医から「利尿剤が効かなくなった」との連絡が来て、人工透析の提案もありました。

その時は私が即答を避けたために利尿剤の増量で様子を見ることになり、この3日ほどはその影響で良化したような印象がありました。

そして、この日は日曜日なので午前中に病室に行ってみると、母はベッドに仰向けで熟睡していたので、その姿を撮影して一旦帰りました。

そして再びいつものように夕方に面会に行くと、最初母は静かに眠っていましたが目が覚めそうになったときに突然苦しがり始めました。

同時にベッド脇の計器のアラームが鳴り出して看護師さんたちが来ましたが、初めて見た私は『大変なことになった』と、まず思いました。

驚いた私は、今にも母の命に関わるのではないかと考えて、姉のところに連絡をしたりしていました。

その間、看護師さんたちは医師に連絡していましたが、今思うと少し前からそのような状況になっていたのだろうと思います。

苦しがっていた母に看護師さんは痰の吸引をしていて、母は違う意味で再び苦しがっていました。

その姿を見かねた私が看護師さんに相談すると、親族が付いて見守れば処置が変わるとのことで、突然私は母に付き添うことになりました。

2023年11月23日 (木)

精神的に不安定

4年前の2019年11月23日は雨で13℃の土曜日、母が最後の入院をして13日目、午後4時ころ病室に面会に行きました。

このころ私は毎日、母の体調に不安を抱えながら入室していましたが、前日の母は少し良化したように見え、ひたすら話をしてくれました。

「誰も来ない」などと不機嫌そうな愚痴が多かったですが、元気な声で施設のころの話などもしていて、私は『回復したのか』と思いました。

ただ、身体の状況は平行線で、20日には主治医から「利尿剤が効かなくなった」との連絡が来て、人工透析の提案もありました。

その時は私が即答を避けたために利尿剤の増量で様子を見ることになり、この2日ほどはその効果が出たような良化が見られていました。

そして、この日も恐る恐る病室に入ると、母は前日と同様にベッドの背を立ててあぐらを掻くような格好で座っていました。

この日もまた「ずっとほったらかしで、ご飯も食べていない」と、不機嫌そうに言っていました。

話を聞くと、看護師さんに派閥があって、母をかわいがってくれる人達の反対派がいじめに来るということを、母は説明しました。

派閥という話は、以前入院していた時にも母が言っていたことがあるので、実際に何かいじめと思うようなことがあったのかもしれません。

また、この日はずっと涙目のようになっていて瞼も腫れ気味で、話の内容も亡くなった家族や親族の思い出話が中心でした。

数日前に私は母の『せん妄』を心配しましたが、この日の状況はどちらかといえば鬱病の症状のような感じがしました。

心電図は安定して酸素量は96ほどに良化したのに対して、今度は精神的な不安定さが現れて、私にとっては心配が絶えませんでした。

2023年11月22日 (水)

『このまま良化するのか?』

4年前の2019年11月22日は雨で7℃の金曜日、母が最後の入院をして12日目、午後4時ころ病室に面会に行きました。

このころ私は毎日、母の体調に不安を抱えながら入室していましたが、前日の母はとりとめの無い話をハイテンションで話していました。

ただ、身体の状況は平行線で、20日には主治医から「利尿剤が効かなくなった」との連絡が来ました。

その時には人工透析の提案もありましたが、私が即答を避けたために利尿剤の増量で様子を見ることになりました。

この日も恐る恐る病室に入ると母は前日と同様に元気があり、ベッドの背を立ててあぐらを掻くような格好で座っていました。

この日もまた、とりとめの無いことを話し始めましたが、やはりまだ施設にいるつもりのような感じがしました。

「誰も来ない」などと愚痴をこぼしていたので母の顔を改めて見ると、前日までよりも幾分スッキリしたように見えました。

そこで、ベッドの下の尿を溜めた袋を見ると、前日まではほとんど増えなかったのが、この日は明らかに増えていました。

主治医との話で「利尿剤を増やす」ということになったので、その効果が現れて、むくみが多少良化したのかもしれないと思いました。

そのためか、母の話を聞いて動きを見ていると、前日よりは目や耳の感度も良くなっているようでした。

また、心電図は力強く安定していて、酸素量も96ほどで、話をしていても問題なく『このまま良化するのか?』と期待したほどでした。

いずれにせよ、この薬が効かなくなれば打つ手がないという状況は変わりませんでしたが、少しの猶予が与えられたようで嬉しい一日でした。

2023年11月21日 (火)

「午前中は分からなくなっていた」

4年前の2019年11月21日は晴れで15℃の木曜日、母が最後の入院をして11日目、午後4時ころ病室に面会に行きました。

このころ私は毎日、母の体調に不安を抱えながら入室していましたが、前日の母は上機嫌でずっと話をしてくれました。

ただ、状況は悪化していたようで、病院からの帰途に主治医から「利尿剤が効かなくなった」との連絡が来ました。

同時に人工透析の提案がありましたが、私が即答を避けたために利尿剤の増量で様子を見ることになりました。

この日の母は前日と同様に元気があって、ひたすらいろいろと話をしてくれましたが、少し違和感があるように感じられました。

ベッドに仰向けで横になっていた母は、私と目が合うと「頭がおかしいでしょ」と話しかけ、「何をするの?」と聞いてきました。

私のことを認識できていないような母の様子でしたが、看護師さんによると「午前中は分からなくなっていた」と話していました。

それでも、母は施設でのリハビリのことなどをいつも以上に詳細に話してくれて、記憶はしっかりしているようでした。

そして積極的に喋りながらも、見ているものにピントが合っていない感じで、どこかマボロシを見ているような視線をしていました。

どちらかというと、過去の記憶はしっかりしているものの、現在の状況が分からなくなっているような感じがしました。

また、この日は鼻からの酸素吸入のチューブは取れていて、足の親指で測定していた酸素量は問題無さそうでした。

ハイテンションで話をしている母を見て、私は何故か『ひょっとして最後かもしれない』と思い、この日は1時間半ほど一緒にいました。

2023年11月20日 (月)

ベターな選択

4年前の2019年11月20日は晴れで15℃の水曜日、母が最後の入院をして10日目、午後4時ころ病室に面会に行きました。

このころ私は毎日、母の体調に不安を抱えながら入室していましたが、この日の母は仰向けの状態で目を開けていました。

母は何故か上機嫌で一方的に話をしてくれましたが、その内容は今ひとつ要領を得ない感じでした。

私はこれまでの経験から、いわゆる『せん妄』が始まったのかと思いましたが、母はこの日にあったことを一生懸命に話しているようでした。

どうもこの日は久しぶりに看護師さんたちと話をして盛り上がったようで、その余韻が冷めやらずにいたのだろうと思います。

姉が母の誕生日プレゼントに持ってきてくれた「ウサギのぬいぐるみに名前をつけようと看護師さんたちと話した」と笑顔で言っていました。

ただ、元気さは取り戻していましたが、あらためて母の顔や腕を見ると再びむくみ出している感じは否めませんでした。

心電図、血圧、酸素量はまずまずでしたが尿量が前日から増えていないのと、むくみのためか手を使って瞼を開いていたのが気になりました。

そして病院からの帰途、主治医から私の携帯に電話があり「利尿剤が効かなくなって、この3日で尿が100㏄しか出ない」ということでした。

続けて「点滴を外して人工透析を始めたい」と言う申し出がありましたが、この点に関して私は回答を保留させていただきました。

すると主治医は「それでは利尿剤を増やして、もう少し様子を見ましょう」と言い、そのまま利尿剤の点滴が続くことになりました。

今から思うと、わずか数分のこの電話が母のその後を決めたことにもなりますが、ベストではなくてもベターな選択だったと考えています。

2023年11月19日 (日)

92回目の誕生日

4年前の2019年11月19日は曇りで21℃の火曜日、母が最後の入院をして9日目、午後4時ころ病室に面会に行きました。

入院の2日目には脚のむくみは無くなり、3日目には食事も出て、これまでの入院時と同様に順調に回復しているように見えました。

4日目には4人部屋に移っていましたが、私は心電図にイヤな波形を見つけて、少し不安に思い始めていました。

5日目はほとんど寝ていたようで元気が無く、うつろな目で話をすると頻繁に酸素不足のアラームが鳴っていたのが気になりました。

6日目はいくらか元気になって話もできましたが、『痰の検査をして、死ぬ思いだった』などと、多くの検査をしたと話していました。

7日目は再び調子が悪そうにしていて、上半身のむくみがなかなか取れないのではないかと、私は考え始めていました。

前日の8日目は姉が面会に来てくれましたが、母は酸素不足気味のためにベッドを半ば起こした状態でずっと過ごしていました。

9日目のこの日は左側を下にして出入り口の方を向いて寝ていましたが、話しかけると母は目を瞑ったまま話し始めました。

「鼻の中を治療した」と言っていて、「痛かった」と振り返っていましたが、「その後はずっとほったらかしだ」と愚痴っていました。

この日は母の誕生日なので「今日は誕生日だからウチでお鮨でお祝いするよ」と私が言うと、母も「昨日から考えていた」と言いました。

私の「退院したら考えましょう」との言葉に、母も「そうだね」と笑顔で答えてくれて、会話中も酸素不足のアラームは鳴りませんでした。

ここ数日の中では、息苦しさは多少良かった感じでしたが、心電図の乱れと波形の元気の無さが気になった母の92回目の誕生日でした。

2023年11月18日 (土)

ベッドを起こしていた理由

4年前の2019年11月18日は晴れで21℃の月曜日、母が最後の入院をして8日目、午後3時40分ころ病室に面会に行きました。

入院の2日目には脚のむくみは無くなり、3日目には食事も出て、これまでの入院時と同様に順調に回復しているように見えました。

4日目には4人部屋に移っていましたが、私は心電図にイヤな波形を見つけて、少し不安に思い始めていました。

5日目はほとんど寝ていたようで元気が無く、うつろな目で話をすると頻繁に酸素不足のアラームが鳴っていたのが気になりました。

6日目はいくらか元気になって話もできましたが、『痰の検査をして、死ぬ思いだった』などと、多くの検査をしたと話していました。

前日の7日目は再び調子が悪そうにしていて、上半身のむくみがなかなか取れないのではないかと、私は考え始めていました。

そして8日目は姉が面会に来てくれましたが、母はベッドを半ば起こした状態で眠っていました。

目を覚ました後にはいろいろ話をして、記憶もしっかりしていましたが、話し続けると酸素不足のアラームが何度も鳴っていました。

部屋に来た看護師さんも「寝かせると酸素量が下がってしまう」と言っていて、ベッドを起こしていた理由が分かりました。

それでも母は、話をしているうちに元気が出て来て、カーテンが開いている東向きの窓を見て「ずっと天気でいいよ」と笑っていました。

そして「外に行きたいなぁー」と、鼻に酸素吸入のチューブを入れたまま、少し息苦しそうな声で気持ちを吐露していました。

帰り際に手を握ると、母は珍しく私の手を「暖かいね」と言い、姉の「また来ます」という言葉に「ありがとう」と答えていました。

2023年11月17日 (金)

「ずっと寝ていて、具合が良くない」

4年前の2019年11月17日は晴れで17℃の日曜日、母が最後の入院をして7日目、午後4時ころ病室に面会に行きました。

入院して2日目には脚のむくみは無くなり、3日目には食事も出たようで、これまでの入院時と同様に順調に回復しているように見えました。

4日目には4人部屋に移っていましたが、私は心電図にイヤな波形を見つけて、少し不安に思い始めていました。

5日目はほとんど寝ていたようで元気が無く、うつろな目で話をすると頻繁に酸素不足のアラームが鳴っていたのが気になりました。

前日の6日目はいくらか元気になって話もできましたが、『痰の検査をして、死ぬ思いだった』などと、多くの検査をしたと話していました。

この日の母はベッドに横になっていましたが目は開けていて、私を見ると「ずっと寝ていて、具合が良くない」と言いました。

いつものように鼻から酸素吸入をしていましたが、普通に呼吸をしていれば90を下ることはありませんでした。

しかし、酸素吸入のチューブが外れると、87くらいまで下がってアラームが鳴り出すといった状況でした。

前日は鼻からチューブを外して話をしていても、アラームが鳴ることはなかったですが、この日は体調が悪化しているように感じました。

母は「食事もほとんど食べないで、汁物を飲んだ程度」と言っていて、それも元気の無い原因だったのかもしれません。

それでも、意識や記憶ははっきりしていて話も普通にできましたが、時々苦しくなるのか何度か続けて深呼吸をするようなこともありました。

利尿剤の点滴を一週間続けて、まだ肺や心臓のむくみが取れないのか、もしくは心臓が弱ってきたのかなど、私もいろいろと考えていました。

2023年11月16日 (木)

「痰の検査?」

4年前の2019年11月16日は晴れで17℃の土曜日、母が最後の入院をして6日目、午後4時ころ病室に面会に行きました。

入院して2日目には脚のむくみは無くなり、3日目には食事も出たようで、これまでの入院時と同様に順調に回復しているように見えました。

4日目には4人部屋に移っていましたが、私は心電図にイヤな波形を見つけて、少し不安に思い始めていました。

前日の5日目はほとんど寝ていたようで元気が無く、うつろな目で話をすると頻繁に酸素不足のアラームが鳴っていたのが気になりました。

この日は右側を下にして窓の方を向いて横になっていたので、そちら側に回って顔を見ると母はよく眠っていました。

これまでと違って鼻に酸素吸入のチューブが入っていませんでしたが、酸素不足のアラームは鳴っていませんでした。

私は一瞬、母の状態が良くなってチューブが外されたのかと喜びましたが、ただ単に鼻から外れていただけでした。

眠っている母の愛用のタオルが胸の上に置いてあったのでそれを交換しようと触れると、丁度その時に母は目を覚ましました。

母は「今日はいろいろと検査をした」と言い、特に「痰を取る時に喉の奥まで器具を入れられて死ぬ思いだった」と振り返っていました。

「痰の検査?」と私は少し不審に思いましたが、その後話をしていると、この日の母は確かに痰が絡みやすくなっているようでした。

心電図はこの日も時々小さな波が入りながらも安定していて、「お腹が空いた」という発言もあって前日よりは元気な感じがしました。

話をしているうちに声も出て来て、チューブが外れていても酸素不足のアラームが鳴らなかったので、少し回復傾向かと思いました。

2023年11月15日 (水)

頻繁に鳴るアラーム

4年前の2019年11月15日は晴れで17℃の金曜日、母が最後の入院をして5日目、午後4時ころ病室に面会に行きました。

入院して2日目には脚のむくみは無くなり、3日目には食事も出たようで、これまでの入院時と同様に順調に回復しているように見えました。

前日の4日目には4人部屋に移っていましたが、私は心電図にイヤな波形を見つけて、少し不安に思い始めていました。

この日は私が病室に入ると、母は左側を下にした姿勢で奥のベッドに寝たまま、うつろな目つきでこちらを見ていました。

変わらず鼻に酸素吸入のチューブを入れた母は、私の姿を見て話しかけてくれましたが、横になったままだからか良く聞き取れませんでした。

母が話をすると酸素不足のアラームが鳴り、心なしか母の話し方が少し苦しいように感じました。

改めて話を聞くと、「レントゲンを撮った」ことと「何らかの手術をした」というようなことを言っていました。

前日には食事の話もしていましたが、この日は「一日中、ほとんど寝ているようだ」とのことでした。

朝も「8時半まで眠っていたので、朝日を見ることもできなかった」と残念そうな表情をしていました。

とにかくこの日は元気が無く、横になったままうつろな目で話をしていたので、これ以上の細かいことは聞かないようにしました。

それでも前日気になった心電図の波形はきれいに安定していたので、この点は少し安心できました。

ただ、母が話をしていると酸素不足のアラームが頻繁に鳴るのがとても気になりました。

2023年11月14日 (火)

心電図に小さな波

4年前の2019年11月14日は晴れで22℃の木曜日、母が最後の入院をして4日目、午後4時ころ病室に面会に行きました。

いつもの個室を覗くとその部屋には誰もいないので、看護師さんに尋ねると「部屋を移った」ということでした。

母が移った部屋は4人部屋で、母は入り口から見て右奥で東向きの窓側のベッドで横になっていました。

母は眠ったまま移動したのか状況が掴めていない様子でしたが、東向きの窓際と説明すると理解できたようでした。

「東側だから、窓から朝日が見えるかもしれないよ」と私が言うと、母は喜んでいました。

施設では毎日のように、一緒に西側の窓から夕日と夕焼けを眺めていましたが、どちらかというと朝日の方が嬉しかったかもしれません。

それから母の顔を見ると、この日も鼻から酸素吸入をしていましたが、前日から食事が出たと教えてくれました。

ただ、母は「お粥だったので食べなかった」と言いながらも「おかずは食べたよ、肉が出た」と微笑んでいました。

また、新しい器械がベッドの脇にあり、そこからのコードが何本か伸びていて、母の身体の周囲がコードだらけで眠りづらそうに見えました。

その器械には、心電図、血圧と脈拍、酸素濃度が表示されていて、話をしている間に時々アラームが鳴ったりしました。

それは酸素濃度が90を下回ると鳴るような感じでしたが、母が話をしていると結構頻繁に90を下回ってしまうようでした。

もう一つ気になったのが、心電図にこれまで見なかった小さな波が現れていて、『イヤな悪化でなければいいが……』と私は思いました。

2023年11月13日 (月)

「気楽は気楽だ」

4年前の2019年11月13日は曇りで18℃の水曜日、母が最後の入院をして3日目、午後4時ころ病室に面会に行きました。

この日は身体の左側を下にして寝ていて、私が挨拶をすると母は「いててて」と声を上げながら起きました。

それまでは良く眠っていたようで、鼻にはまだ酸素吸入のチューブを入れていました。

母は「部屋が暑い」と言いながら私の手に触れて「冷たいね、手袋をした方がいいよ」と私の心配をしてくれました。

続けて「これから会社に行くの?」と尋ねるので「夕方です」と私が答えると、母は声を出して笑っていました。

息苦しさの無い声が良く出ていて瞼の腫れもほとんど無いので、私の感触としてはかなり回復したように思いました。

母の話では「先生が来て『大分むくみが無くなりましたね』と言っていた」とのことで、良化しているのは確かなようでした。

また「二日間ほとんど寝ていた」と言いながらも、三日前に行ったお墓参りのことはしっかりと覚えていました。

「暖かくて良い天気だった」と振り返っていて、意識の方も大丈夫でした。

そして看護師さんたちとも話をしたようで、母は「皆、知っている人らしい」と微笑しながら「私は分からないけど」と苦笑していました。

ここまではずっとベッド上で過ごしているので「気楽は気楽だ、タオル折りもないし」と、少し寂しさも感じている様子でした。

最後には「じゃ、また来ますから」と私が手を振ると、母は「ご苦労様でした」と、施設での面会と同じようなお別れの挨拶ができました。

2023年11月12日 (日)

「皆さんによろしく」

4年前の2019年11月12日は晴れで21℃の火曜日、母が最後の入院をして2日目、午後4時ころ病室に面会に行きました。

前日に入院をした母は身体の右側を下にして、壁側を向いて横になっていました。

眠っているようでしたので布団をめくって母の脚を見てみると、入院する際に着けていたグレーのレッグウォーマーはそのままでした。

今回は入院前もそれほど太くはなりませんでしたが、更に細くなっていて、脚のむくみについては問題無さそうでした。

その時、母が目を覚ましたようで、こちら側を向きました。

下にして寝ていたためか、右側の瞼はかなり腫れていましたが、その他はほとんど回復しているように感じました。

特に話をするときの息苦しさは、だいぶ和らいだ様子でした。

母は「昨日の夜は一番苦しかった」と振り返っていましたが、おそらくそれは日曜日の夜のことだろうと思われました。

この日も鼻から酸素吸入をしていて、利尿剤の点滴が行われていました。

面会していた10分程度の間、心電図は安定していてきれいな波形が現れていました。

そして血圧が170/70、脈拍が60と表示されていて、ここ1~2週間、母の体調を心配していた私は『入院して安心した』という気がしました。

母は意識もはっきりしていて「皆さんによろしく」と最後に言い、ここまでは順調に回復しているように見えました。

2023年11月11日 (土)

不安的中?

4年前の2019年11月11日は雨のち曇りで20℃の月曜日、母が施設に4回目の入所をして106日目、午前中に施設から電話がありました。

前日は母を3回目の散歩に連れて行き、午後4時ころに面会した際には元気な様子が見られたので安心していたところでした。

ただ、この十日ほどで2回病院で診察を受けて心不全の悪化も指摘されていたので、この日予定されている入浴を私は心配していました。

というのも、土曜日と日曜日に母が「動悸がした」と言っていたため、私は『お風呂に入れるかな?』と不安視していたわけです。

そして、この日午前10時30分ころに施設から電話が来たので、私は『不安が的中したのか?』と、思いました。

ところが実際は入浴とは関係なく朝から母は息苦しさを訴えていて、病院を受診するという連絡でした。

急いで施設に向かうと、母は既に入院が決まったということで、隣の病院の救急室の前に行くと主治医の先生の姿がありました。

母の顔を見ると、両方の瞼がすっかりむくんでいて苦しそうでしたが、意識はしっかりしていて話は普通にできました。

鼻から酸素吸入をしていましたが母は口で呼吸をしていたので、鼻呼吸をするように言うと「誰も教えてくれなかった」と不満そうでした。

この時は入院手続きを済ませて一旦自宅に戻り、夕方4時45分ころ母の病室に行くと、母は仰向けの姿勢でよく眠っていました。

心電図は安定していて瞼のむくみはかなり取れ、レッグウォーマーを着けた脚にもむくみは無く、既に枯れ木のような細さになっていました。

話をしても息苦しさはほとんど無いようで、母は前日までよりもむしろ楽になった感じで、ここまでは順調に回復しているように思いました。

2023年11月10日 (金)

しばらくぶりのお墓参り

4年前の2019年11月10日は晴れで19℃の日曜日、母が施設に4回目の入所をして105日目、午前10時20分ころ施設に行きました。

しばらく体調が良かった母は10月の終わり頃、脚のむくみが目立つようになってきて、私は『またそろそろ入院かな』と思い始めていました。

特に11月に入って既に2度診察を受け、直前には心不全の悪化を指摘され、かなり心配な状況であることは認識していました。

さて、私は2週前の日曜日に初めて母を散歩に連れて行き、前週に続いて3回目の外出は介護タクシーでのお墓参りを予定していました。

ところが前日母が「動悸がした」ということで、この日散歩に行けるかどうか不安を抱えながら午前中に施設に向かったわけです。

母のフロアに着くと、母は食堂のいつもの場所で「朝から日の出を拝んだ」と、予想外に元気で『これなら行けそうだ』と思いました。

母もかなり積極的で、当然出かけるつもりで準備をしていたようでした。

外に出ると母は「暖かくて風がなくて良かった」と、嬉しそうな笑顔で呟いていました。

お墓に着くと、前日私が用意しておいた供花を見て「きれいだね」と言いながら「しばらくぶりに来ました」と、亡父に話しかけていました。

一時間弱の介護タクシーでの往き来でしたが、施設に戻ったあとの母は、だいぶ疲れた様子の上に話し声はやはり少し苦しそうでした。

午後4時ころ再び面会に行くと、母は定位置にいて「お昼は完食して、昼寝も熟睡した」と言い、とても元気だったので私も安心しました。

そして、午前中のお墓参りの写真と曾孫の動画を続けて見せると、母はいつものように嬉しそうな笑顔で楽しんでくれました。

2019年11月10日

2023年11月 9日 (木)

「この感じだと無理かな?」

4年前の2019年11月9日は晴れで18℃の土曜日、母が施設に4回目の入所をして104日目、午後4時5分ころ面会に行きました。

8月中旬ころから母が体調不良の日が多く、検査して塩分不足が指摘されたため、『ふりかけご飯』を食べ始めることになりました。

母はその『ふりかけご飯』をとても気に入って食事の量も増え、9月下旬には体調の良化が感じられるようになりました。

ただ、体調の良化に精神的な状態が追いつかず、気持ちの落ち込みはなかなか改善されずにいました。

それが10月に入ると精神的にも落ち着いてきて、母の口数も増えて、普通に笑顔が出るようになってきていました。

しかし10月も終わり頃になり、脚のむくみが少しずつ目立つようになってきて、私は『またそろそろ入院かな』と思い始めていました。

この日の母は食堂のいつもの場所で前日と同様に首を右に傾けて熟睡していて、その姿を見て私は『これまでとは違うな』と感じました。

母の話を聞くと「車椅子を自分で動かして戻って来たら動悸がなかなか収らなかった」と言い「昼食もかなり残した」と続けていました。

二日前の診察で心不全の悪化が確認され、血圧が高目で脈拍も多目であることは把握していましたが、とうとう自覚症状も出てきました。

その後、ベッドに座らせて着替えながら話をすると、明らかに押し出すような苦しそうな話し方になり、私の不安は最高潮に達しました。

それでも、母の意識や口調などの元気さは今までと変わらず、翌日の日曜日には3回目の散歩を予定していたので母に確認してみました。

「明日は予定通りお墓参りに行けそう?」と私が尋ねると、母は「この感じだと無理かな?」と残念そうな表情で答えました。

2023年11月 8日 (水)

『こういう時間も捨てがたい』

4年前の2019年11月8日は晴れで20℃の金曜日、母が施設に4回目の入所をして103日目、午後4時5分ころ面会に行きました。

8月中旬ころから母が体調不良の日が多く、検査して塩分不足が指摘されたため、『ふりかけご飯』を食べ始めることになりました。

母はその『ふりかけご飯』をとても気に入って食事の量も増え、9月下旬には体調の良化が感じられるようになりました。

ただ、体調の良化に精神的な状態が追いつかず、気持ちの落ち込みはなかなか改善されずにいました。

それが10月に入ると精神的にも落ち着いてきて、母の口数も増えて、普通に笑顔が出るようになってきていました。

しかし10月も終わり頃になり、脚のむくみが少しずつ目立つようになってきて、私は『またそろそろ入院かな』と思い始めていました。

この日の母は食堂のいつもの場所で首を右に傾けて熟睡中で、私が「4時だよ」と声を掛けると母は「もうそんな時間?」と目を開けました。

この日も9階の面会室に行き、少し曇り空の暮れゆく夕焼けを見ながら話をしましたが、母は「面白いね、ずっと見ていると」と笑顔でした。

ただ、前日の診察で心不全の悪化が確認されたこともあってか、この日の母の話し声はひときわ苦しそうに私には聞こえました。

本人も自覚症状として感じてきたようで「今日は朝からハァハァしている」と言い、深呼吸をして「何か重いね」と首を捻っていました。

ついに自覚症状が現れて、母の体調はこれまでの入院前と同様な状態になり、私は『すぐ入院した方が良さそうだ』との考えはありました。

それでも、母はこの日も夕焼けを見ながら「わぁ、きれいだ」と歓声を上げていて『こういう時間も捨てがたいな』との思いもありました。

2023年11月 7日 (火)

「失敗だったの?」

4年前の2019年11月7日は22℃の木曜日、母が施設に4回目の入所をして102日目、午前11時ころ施設に行きました。

8月中旬ころから母が体調不良の日が多く、検査して塩分不足が指摘されたため、『ふりかけご飯』を食べ始めることになりました。

母はその『ふりかけご飯』をとても気に入って食事の量も増え、9月下旬には体調の良化が感じられるようになりました。

ただ、体調の良化に精神的な状態が追いつかず、気持ちの落ち込みはなかなか改善されずにいました。

それが10月に入ると精神的にも落ち着いてきて、母の口数も増えて、普通に笑顔が出るようになってきていました。

しかし10月も終わり頃になり、脚のむくみが少しずつ目立つようになってきて、私は『またそろそろ入院かな』と思い始めていました。

この日は母の一週前の診察の際に検査の数値に悪化が見られたので、主治医が指定した通院の日ということで、私は午前中に行きました。

母は食堂のいつもの位置で「タオル折りをして疲れた」と言ってから「今日もきれいな日の出を見た」と笑顔で教えてくれました。

一度病院に行って採血をしてから施設に戻ると、丁度昼食の時間で母の食事を見ると結構量も多く、母はそれらをしっかり完食していました。

「食べ過ぎた」と言う母を連れて病院に行くと、すぐに診察となり、様々な数値が一週間で明らかに悪くなっていました。

特に心不全の値が良くなく、私が「声の出し方も気になる」と言うと、主治医は「むくみが悪化するなら受診するように」との答えでした。

診察後、まだほとんど自覚症状が無い母もこれらのやり取りが気になったようで「失敗だったの?」と、私に不安そうな表情で尋ねました。

2023年11月 6日 (月)

真っ赤な夕焼け

4年前の2019年11月6日は晴れで22℃の水曜日、母が施設に4回目の入所をして101日目、午後4時5分ころ面会に行きました。

8月中旬ころから母が体調不良の日が多く、検査して塩分不足が指摘されたため、『ふりかけご飯』を食べ始めることになりました。

母はその『ふりかけご飯』をとても気に入って食事の量も増え、9月下旬には体調の良化が感じられるようになりました。

ただ、体調の良化に精神的な状態が追いつかず、気持ちの落ち込みはなかなか改善されずにいました。

それが10月に入ると精神的にも落ち着いてきて、母の口数も増えて、普通に笑顔が出るようになってきていました。

しかし10月も終わり頃になり、脚のむくみが少しずつ目立つようになってきて、私は『またそろそろ入院かな』と思い始めていました。

この日の母は丁度トイレに入っていたのでしばらく待っていると、母は「出そうで出なかった」と苦笑いしながら食堂に現れました。

そして、この日も9階の面会室に行くと雲一つ無い快晴で、今にも日が沈もうとしている中、母の背中に夕日を受けながら話をしました。

この日も母は穏やかな口調で昔の思い出話や、先日からの食事を「少なくなって丁度いい。ふりかけがおいしい」と笑顔で言っていました。

それから、この日もここ数日と同様に好天で室内は暑いため、着替えの時に拭いてあげた母の背中はかなり汗を掻いていました。

また、着替え時に車椅子からベッドに移動させて会話をすると、前日気になったものと同様な少し苦しそうな発声の仕方になりました。

以前もこの息遣いになって間もなく入院したので、私の不安は増しましたが母は夕焼けを見て「凄い真っ赤だ」と歓声を上げていました。

2023年11月 5日 (日)

少し息苦しそうな声

4年前の2019年11月5日は晴れで19℃の火曜日、母が施設に4回目の入所をして100日目、午後4時5分ころ面会に行きました。

8月中旬ころから母が体調不良の日が多く、検査して塩分不足が指摘されたため、『ふりかけご飯』を食べ始めることになりました。

母はその『ふりかけご飯』をとても気に入って食事の量も増え、9月下旬には体調の良化が感じられるようになりました。

ただ、体調の良化に精神的な状態が追いつかず、気持ちの落ち込みはなかなか改善されずにいました。

それが10月に入ると精神的にも落ち着いてきて、母の口数も増えて、普通に笑顔が出るようになってきていました。

しかし10月も終わり頃になり、脚のむくみが少しずつ目立つようになってきて、私は『またそろそろ入院かな』と思い始めていました。

この日の母は食堂のいつもの場所でこちらを向いていたので、手を振ると私のことが分かったような表情をしていました。

食堂の窓には既にカーテンが掛けれていましたが、西日がキツく室内が暑いので母は「カーディガンを脱ぎたいくらいだ」と言いました。

9階の面会室に行って話をすると、この日はリハビリがあって「最後には立ち上がった」と、笑顔で母は教えてくれました。

また、いつものようにリハビリルームのベランダを散歩したそうで、この時も母は「良かった」と嬉しそうな笑顔で話してくれました。

ただこの日の母の声は、これまでの入院前のように少し息苦しそうに聞こえ、このところの不安がかなり増大したような気がしました。

それでも話をする表情は変わらず明るく、夕焼けを見て感動する姿など、一日でも長くこんな日が続いて欲しいと私は願っていました。

2023年11月 4日 (土)

「今朝は日の出も見た」

4年前の2019年11月4日は晴れで20℃の月曜日、母が施設に4回目の入所をして99日目、午後4時5分ころ面会に行きました。

8月中旬ころから母が体調不良の日が多く、検査して塩分不足が指摘されたため、『ふりかけご飯』を食べ始めることになりました。

母はその『ふりかけご飯』をとても気に入って食事の量も増え、9月下旬には体調の良化が感じられるようになりました。

ただ、体調の良化に精神的な状態が追いつかず、気持ちの落ち込みはなかなか改善されずにいました。

それが10月に入ると精神的にも落ち着いてきて、母の口数も増えて、普通に笑顔が出るようになってきていました。

しかし10月も終わり頃になり、脚のむくみが少しずつ目立つようになってきて、私は『またそろそろ入院かな』と思い始めていました。

この日の母は食堂のいつもの場所にいて「朝からお風呂に入った」と、気分の良さそうな表情で言いました。

「前日の散歩で疲れたように見えたけど」と私が尋ねると、母は「それほどでも無く良く眠れた」と笑顔で答えていました。

いつものように9階の面会室に行くと、母は雲一つ無く眩しい夕日を背に受けて、この日の入浴の話を元気な声で熱弁してくれました。

しばらく背中に夕日を受けて話していた母でしたが、一区切り付いたところで「暖かくて気持ちがいい」と、穏やかな微笑で言っていました。

そして「今朝は日の出も見た」と、母は続けて言い「いいところを見たよ」と、本当に嬉しそうな表情をしていました。

この日は車椅子とベッドとの移動も軽快で、意識もしっかりしていて機嫌も良く、全体的に元気な母でした。

2023年11月 3日 (金)

「今日の散歩も良かったね」

4年前の2019年11月3日は曇りで20℃の日曜日、母が施設に4回目の入所をして98日目、午前10時30分ころ施設に行きました。

8月中旬ころから母が体調不良の日が多く、検査して塩分不足が指摘されたため、『ふりかけご飯』を食べ始めることになりました。

母はその『ふりかけご飯』をとても気に入って食事の量も増え、9月下旬には体調の良化が感じられるようになりました。

ただ、体調の良化に精神的な状態が追いつかず、気持ちの落ち込みはなかなか改善されずにいました。

それが10月に入ると精神的にも落ち着いてきて、母の口数も増えて、普通に笑顔が出るようになってきていました。

しかし10月も終わり頃になり、脚のむくみが少しずつ目立つようになってきて、私は『またそろそろ入院かな』と思い始めていました。

この日の母は食堂のいつもの場所にいて、声を掛けると「タオル折りをたくさんした」と体調の良さそうな表情で言いました。

この日は少し風があってヒンヤリする感じでしたが、前週に続いて母が楽しみにしていた2回目の散歩に行くことになりました。

施設の前の公園を覗いてから、施設の周囲を回って戻ってくると、母は「少し肌寒くなってきた」と言っていました。

そして「車椅子に座っているだけでも、緊張して疲れる」と、この日は前回と違ってかなり疲れた様子で振り返っていました。

着替えの際も疲れのためかジッと目を瞑って動かないこともありましたが、最後は「今日の散歩も良かったね」と嬉しそうな笑顔が出ました。

結局次週の3回目で散歩は最後になりましたが、これほど母が喜んでくれるなら、もっと早く始めれば良かったと今でも思っています。

2023年11月 2日 (木)

「こんな日は外に行きたいね!」

4年前の2019年11月2日は晴れで20℃の土曜日、母が施設に4回目の入所をして97日目、午後4時5分ころ面会に行きました。

8月中旬ころから母が体調不良の日が多く、検査して塩分不足が指摘されたため、『ふりかけご飯』を食べ始めることになりました。

母はその『ふりかけご飯』をとても気に入って食事の量も増え、9月下旬には体調の良化が感じられるようになりました。

ただ、体調の良化に精神的な状態が追いつかず、気持ちの落ち込みはなかなか改善されずにいました。

それが10月に入ると精神的にも落ち着いてきて、母の口数も増えて、普通に笑顔が出るようになってきていました。

しかし10月も終わり頃になり、脚のむくみが少しずつ目立つようになってきて、私は『またそろそろ入院かな』と思い始めていました。

この日の母は食堂のいつもの場所にいて、声を掛けると「今日は何も無くずっと寝ていたようだ」と、少し寝ぼけ顔で言いました。

いつものように9階の面会室に行くと、西日が強いためカーテンが閉められていましたが、開けて外を見ると雲の無いきれいな快晴でした。

その空を見て母は「こんな日は外に行きたいね!」と、体調の良さをアピールするような一言を笑顔とともに発していました。

そこで私が前の日曜日に続いて「明日の日曜日も散歩に行こうか?」と問うと、母は「天気が良ければね」と満更でない表情で答えました。

この日の室内はとにかく暑く、着替えの際に汗ばんだ背中と頭をゴシゴシ拭いてあげると、母は「気持ちいい」と嬉しそうな笑顔でした。

ただ腿上げ20回の後半はかなり疲れていて、また車椅子とベッドとの移動では脚がガクッとなるなど、体力の低下が少し心配になりました。

2023年11月 1日 (水)

小回りの利く車椅子の話

4年前の2019年11月1日は晴れで24℃の金曜日、母が施設に4回目の入所をして96日目、午後4時5分ころ面会に行きました。

8月中旬ころから母が体調不良の日が多く、検査して塩分不足が指摘されたため、『ふりかけご飯』を食べ始めることになりました。

母はその『ふりかけご飯』をとても気に入って食事の量も増え、9月下旬には体調の良化が感じられるようになりました。

ただ、体調の良化に精神的な状態が追いつかず、気持ちの落ち込みはなかなか改善されずにいました。

それが10月に入ると精神的にも落ち着いてきて、母の口数も増えて、普通に笑顔が出るようになってきていました。

しかし10月も終わり頃になり、脚のむくみが少しずつ目立つようになってきて、私は『またそろそろ入院かな』と思い始めていました。

この日は母が食堂のいつもの場所に見当たらなかったので、職員さんに尋ねると「トイレに入っている」ということでした。

しばらく待っていつものように9階の面会室に行って話をすると、この日はリハビリと入浴があって忙しく過ごしていたようでした。

リハビリでは、天気が良く風も無いのでベランダに連れて行ってもらって「気持ち良かった」と、母は笑顔で振り返っていました。

そしてリハビリの先生と「室内用の小回りの利く車椅子の話をした」と言っていて、帰宅に向けて積極的になってきた様子でした。

ただ、前日の診察で心臓の悪化が指摘され、飲み水と食事が少なくなったと言いながら「丁度いい」と、母の元気さは変わりませんでした。

この日は夕日が沈むまで9階の窓際で夕焼けを楽しみましたが、母は「意外に早いね」と感心しながら日没を見つめていました。

« 2023年10月 | トップページ | 2023年12月 »

最近の写真