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2023年3月

2023年3月31日 (金)

「お花見に行くの?」

4年前の2019年3月31日は曇りで14℃の日曜日、母が3月7日に入院して25日目、この日は午後3時45分ころ面会に行きました。

母は25日から感染症で隔離されていて、この日もカーテンの向こう側でラジオを聴きながら眠っていました。

私が左耳にイヤホンを入れたまま眠っている母の肩をトントンと叩くと、母は目を開けました。

ただ、よく眠っていたからか「お花見に行くの?」と、最初に奇妙なことを言いました。

これは私の想像ですが、眠る前に看護師さんとお花見の話でもしていたか、もしくは夢でも見ていたのでしょう。

後で母に聞いた話では「おいて行かれると思った」と言っていて、花見に行くために起こされたと思い少し慌てたとのことでした。

そのように花見に行く気満々の母でしたので、この日も元気に話をしてくれました。

ただ、寝起きのためか覚醒のレベルが今ひとつのようで、話のつじつまが合わないところもありました。

そして珍しく耳の聞こえ方も今ひとつなのか、会話をしていて聞き返すことが何度かありました。

それでもお昼に出たうどんが美味しかったそうで、「ほとんど食べたけど短いので食べにくく、最後は飽きた」と笑っていました。

また、窓のカーテンが開けてあり「雲の動きがよく見える」と嬉しそうな表情で外を眺めていました。

まだ隔離中とはいえ、この日の母は体調も良さそうで、元気な声で楽しそうに話をしてくれました。

2023年3月30日 (木)

桜が待っている?

4年前の2019年3月30日は曇りで10℃の土曜日、母が3月7日に入院して24日目、この日は午後3時40分ころ面会に行きました。

母は25日から感染症で隔離されていて、この日も変わらず母のところはカーテンで囲われていました。

そのため私は窓の方に回ってベッドを覗き込むと、母は横になってラジオを聴いていました。

ちょうど高校野球を聴いているところだったようでした。

母は皮肉なことに隔離されてからずっと元気で、この時も顔色も良く元気そうでした。

母の話では、食事はこの日もベッドで食べたということでした。

ただ、この日は朝早くからレントゲンを撮りにエレベーターに乗って下まで行ったと言っていました。

前日から続いてこの日も寒かったので、母は「パジャマのまま行ったので寒かったし、人が多くて待たされた」と振り返っていました。

ようやく病室の外に出られたことで、母は前日以上に元気になったように感じられました。

また、肌寒い曇りの日が二日続いているおかげで、見頃の桜が少し長持ちしそうな状況になってきました。

前年には脚を怪我した母を車に乗せて、満開の桜を見せてあげることができました。

私は『今年も母が桜を見られるといいな』と思っていましたが、母の退院を桜が待っていてくれそうな気がしました。

2023年3月29日 (水)

「桜が散っちゃうね」

4年前の2019年3月29日は曇りで9℃の金曜日、母が3月7日に入院して23日目、この日は午後3時40分ころ面会に行きました。

母のいる4人部屋の病室は、相変わらず母のところだけカーテンで囲われる感じになっていました。

この日の母は左側を下に通路側を向いて横になっていましたが、眠っていたわけでは無くラジオを聴いていました。

母に挨拶をすると「高校野球を聴いているところ」と言っていました。

そこで、この日から母が楽しみにしていたプロ野球が始まることを伝えて、ラジオの電池を替えてあげました。

また、最近はプロ野球の中継をするラジオ局も少なくなったので、チューニングも合わせておきました。

暇な時間にラジオを楽しめるようになった母は、この日も体調は良さそうでした。

カテーテルを取ってもらったそうで、看護師さんがよく来てくれるようになったと嬉しそうに話していました。

私が面会に行ったときも、ちょうど体位を変えてもらったところだったということでした。

そのためもあってか、この日も横になったまま話していましたが、意識がハッキリしていて話し声もしっかりしていました。

かなり元気になってきた母に「もうすぐ4月だよ」と言うと、母は「そうだね、いつまでも寝ていられないね」と答えてくれました。

続けて「桜が散っちゃうね」と笑顔で言い、早く退院したいというような表情をしていました。

2023年3月28日 (火)

元気になった証拠

4年前の2019年3月28日は曇りで16℃の木曜日、母が3月7日に入院して22日目、この日は午後3時45分ころ面会に行きました。

病室に入ると母は窓側を向いて横になっていて、よく眠っているように見えたので帽子を交換して帰ろうかと思いました。

すると「冷たい手だね」と、頭に私の手が触れた時に母は目を開けました。

母はよく自分に触れる人の手の冷たさで外の寒さがわかると言っていましたが、この時もこの日の外気の冷たさを感じたようでした。

結局、母が起きたことでいつものように話をすることになりました。

私が「顔色もいいし、元気そうだね」と言うと、母は「みんなそう言うね」と笑顔で答えてくれました。

この日はお腹の調子も悪くなく、全体的な体調も良いということでした。

先生が毎日一回来てくれるそうで「どうですか」「大丈夫ですよ」というようなやりとりをしていると笑っていました。

ただ、この日は検査も無く、時々看護師さんが来て話をするくらいだと言っていました。

そのような話をしていると看護師さんが「どうしました?」と現れましたが、それは母が布団の中で呼び出しボタンを押していたからでした。

つい話に夢中になっていたために誤って押したようで、それだけ元気になった証拠のような気がしました。

「もう下痢も無く、食欲も普通にある」と本人も話していて、顔色も良く元気な母でした。

2023年3月27日 (月)

「巨人と広島だね」

4年前の2019年3月27日は晴れて20℃の水曜日、母が3月7日に入院して21日目、この日は午後3時40分ころ面会に行きました。

病室に入ると母はこちら側を向いて横になっていて、目は開いていました。

挨拶をすると話し始めましたが「誰もいない」とか「整理しようと思っていた」などと、よくわからないことを口にしました。

その表情を見ると、少し前まで眠っていてまだ夢の中だったような感じがしました。

また、この日もまだ感染症の影響でカーテンで隔離されていて、誰の話し声も聞こえないので不安だったようでした。

それでも話をしているうちに「お昼の玉子焼きがおいしかった」と、少しずつ意識もハッキリしてきました。

他には看護師さんたちと「桜を見に行こう」などと話をしたことも教えてくれました。

ただ、簡易的とはいえ隔離されているだけあって「ずっと静かだった」、「夜中に起きた」と寂しがっていた様子もありました。

病院でこのような状況になると、いわゆる『せん妄』に注意しないといけないと、あらためて感じました。

そして、この日は暑い日でしたが、母はレッグウォーマーを着けている上に靴下まで履いていて、暑くないのかなとも思いました。

ただ、横になったまま話したからか母は終始鼻声でしたが、話しぶりは元気で声も良く出ていました。

最後にプロ野球が金曜日から始まることを伝えると、母は「巨人と広島だね」とすでに知っていて、意識もしっかりしていました。

2023年3月26日 (日)

『間に合わないかなぁ』

4年前の2019年3月26日は曇りで16℃の火曜日、母が3月7日に入院して20日目、この日は午後3時30分ころ面会に行きました。

この日は母の病室に行く前に姉と待ち合わせて、とりあえず隔離されていることなどを説明しました。

病室に入ると、前日に続いてこの日もカーテンでとりあえずの隔離がしてありました。

カーテンの向こう側に回って母に挨拶をすると、母はベッドに仰向けになっていましたが目は開けていました。

「少し赤い顔をしているね」と話しかけると、母は「暑い」と言いました。

姉が来ることを伝えていたこともあって、母は「面会を待っていた」と、新しい話し相手が来てくれたことが嬉しそうでした。

前日に細菌が検出されてしばらく隔離されることになった母ですが、この日も姉と元気に話をしてくれました。

今から思うと、感染症が発覚した頃には症状はほとんど治まっていたようです。

その前の数日間体調が悪そうな時期があり、おそらくその頃が発症のピークだったように思います。

それまで順調な回復をしていて、そろそろ退院も近いかもと感じていただけに私にとっても残念でした。

というのも、感染症が無ければ桜が見頃になる前に母が退院できそうだったからです。

ところが、いよいよ見頃というときに一週間隔離されることになり『間に合わないかなぁ』と思ったのは、母も同じだったかもしれません。

2023年3月25日 (土)

細菌が検出される

4年前の2019年3月25日は晴れて15℃の月曜日、母が3月7日に入院して19日目、この日は午後3時40分ころ面会に行きました。

病室に入ると母は珍しく出入り口の方を向いて横になっているのが見えましたが、その時看護師さんが私に話しかけてきました。

このところ水っぽい便が出ていたので検査をしたところ、細菌が検出されたということでした。

『下痢をする細菌』だそうで、面会は大丈夫ですが手洗いと消毒をしてくださいと言われました。

感染症とのことでしたが、母は4人部屋の中でカーテンで囲われた程度の隔離をされていました。

母の話では、この日も一度は広間で食事をしたそうで、その後細菌が検出されたようでした。

しばらく外に食事に行けないとのことで、やっと車椅子での移動ができるようになったのに残念そうでした。

それでも、パジャマや下着を新しくしてもらって「気持ちいい」と喜んでいました。

実際、母が体調不良だったのは数日前からの2~3日で、この日も顔色は悪くなく話し声も元気でした。

前日には南や東の窓から良い天気の外の景色を見たことも覚えていて、母は「良かった」と言いました。

また、夜中に目が覚めた時ラジオをつけるとちょうど懐メロを聴くことができて、こちらも「良かった」と笑顔を見せてくれました。

感染症での一週間ほどの隔離は残念でしたが、元気はあって体調もそれほど悪くなさそうでしたので、あまり心配はしませんでした。

2023年3月24日 (金)

遠足に行く清掃工場

4年前の2019年3月24日は晴れて15℃の日曜日、母が3月7日に入院して18日目、この日はちょうど正午に面会に行きました。

前日母に話したとおり昼食の時間に合わせて広間を覗くと、数日前にボーッとしていたところと同じ場所に母はいました。

ただ、その時とは表情が全く違っていて、また食欲も出たようで母はほぼ完食していました。

広間のテレビではちょうど『のど自慢』が映っていましたが、母がそちらを見ている様子はほとんどありませんでした。

食後には錠剤の薬を2錠飲んでから、数日前のように南側の窓際に移動して外の景色を見ながら話をすることにしました。

2~30分ほど話をしていると明るい光に慣れたのか、母は「だんだん景色が見えてきた」と言いました。

やはり天気の良い日は窓辺で過ごすと気分も和らぐようで、母の表情も明るくなってきました。

しばらくして病室に戻った後も、そこの東向きの窓辺で外を眺めながら少し話をしました。

その窓からはちょうど清掃工場の煙突が見え、母は「遠足に行くところだね」と、私が小学生の頃に行ったところだと分かっていました。

その後看護師さんを呼んで車椅子からベッドに移動させてもらい、母は右側を下にして左の耳でラジオを聴きながら横になりました。

私はそうした母の動きを見て、少しずつ身軽になってきていて大分回復したな、と感じました。

声も以前よりは元気になったようで、一時の心配なレベルは脱してくれたと思い安心しました。

2023年3月23日 (木)

やっと開いた瞼

4年前の2019年3月23日は曇りで9℃の土曜日、母が3月7日に入院して17日目、この日は午後3時40分ころ面会に行きました。

前日の母は元気でしたが調子の波が大きいころでしたので、不安な気持ちを抱きながら病室に入りました。

この日の母も窓側を向いて横になっていて、私が肩を叩くとすぐに話し始めました。

目を閉じたままでしたが話し声は普通で、その点は安心できましたが「ウンチが出て仕方ない、止まらない」と、心配なことを言いました。

「昼食にうどんが出て美味しかった」と話しながら「不安があるのでベッドで食べた」と苦笑いをしていました。

元気さはそこそこという感じでしたが、話し声は明るく意識はしっかりしていたので、楽しく話をすることができました。

そして、いろいろな話をしているうちに母の瞼が開いたので私が手を振ると、それを見た母は笑ってくれました。

この日の母はラジオを聴かずに寝ていたようで、母の友達のラジオは背中側に放って置かれていました。

そろそろ大相撲中継の時間というころに、翌日の日曜日はお昼頃に来ることを約束して、私は帰ることにしました。

ところで、5年前の2018年3月23日に母は椅子から落ちて脚を骨折し、これが『母の第二の人生』が始まる原因になりました。

『この事故が無ければどうなっていたか』ということは何とも言えませんが、間違いなく事故後の母は人生を楽しんでいたと思います。

私がこのブログを始めようと考えたのも、そして今でも記し続けているのは、その時期の母の笑顔が忘れられないからでもあります。

2023年3月22日 (水)

「明日、花見に行こう」

4年前の2019年3月22日は晴れて24℃の金曜日、母が3月7日に入院して16日目、この日は午後4時15分ころ面会に行きました。

前2日の母の調子があまり良くなかったので、心配な気持ちを引きずりながら病室に入ると、母は窓側を向いて横になっていました。

ラジオを聴きながら起きていたようで、私が声を掛けると「子供の自殺についてやっている」と、ラジオ番組の内容を説明してくれました。

この時は珍しく大相撲中継以外のものを聴いていて、意識もハッキリしていて顔色も良好で元気がありました。

この日の話を聞いてみると、朝から食事のために広間に行ったものの「しばらく放って置かれた」と笑っていました。

その後は看護師さんたちと「明日、神宮方面に花見に行こう」などと話をして盛り上がったとも話していました。

そういう楽しい会話もできたので、3日ぶりに元気だったのかもしれません。

また、暑くなったこの日にパジャマとシーツを交換してもらったそうで、気持ちが良かったこともあったのでしょう。

そして、食欲が無さそうだったので持って行ってあげたゼリーも、美味しそうに2口ほど飲んでくれました。

最後に帽子を交換して、ラジオを大相撲中継に合わせてあげました。

この日は面会前の不安な気持ちが拍子抜けするくらい、母は久しぶりに元気でした。

翌日も元気な母に会えるか不安はありましたが、とりあえずこの日は帰りの足取りは軽く、夜はよく眠れたように覚えています。

2023年3月21日 (火)

感染症の兆候?

4年前の2019年3月21日は晴れて22℃の木曜日、母が3月7日に入院して15日目、この日は私の仕事も休日でした。

そのため午前11時45分ころ母の昼食に合わせて病院に面会に行きました。

母のフロアに行き、まず広間を覗くと母は奥の方でボーッとした表情をして車椅子に座っていました。

私が隣の席に座って話を聞くと、母は「ここに連れて来られたけれど、何をしたのかわからない」と言っていました。

前日私が2回来たことも「全然知らない」と言い、おそらくこの時も直前までベッドに横になっていたものと思われました。

あまりにも元気がないとはいえ私にできることもないので、明るく暖かい南側の窓の前に母を連れて行きました。

そこで日光浴をしながら小一時間ほど話をすると、少しは気分が良くなったように見えました。

特養にいる叔母が少し調子が良くなったことを教えると、母は「こんなところで一緒に話をしたいねぇ」と、しみじみと呟いていました。

また、姉のところのお義母さんの話をするなど、かなり人恋しいような様子もありました。

その後は病室に戻りベッドに横になってラジオを聴いていましたが、順調な回復からここ二日ほどは体調不良になってしまいました。

この時は原因がわからなかったので、栄養面や精神的な問題などを心配しましたが、実はこの数日後に感染症が判明します。

この日の不調が確実に感染症によるものとはいえませんが、症状からしてすでにその兆候が現れていたのではないかと思います。

2023年3月20日 (月)

「痛いよぅ、痛いよぅ」

4年前の2019年3月20日は晴れて21℃の水曜日、母が3月7日に入院して14日目、この日は午後3時40分ころ面会に行きました。

母は4人部屋のベッドに右側を下にして横になっていましたが、熟睡しているようで茶色の帽子が頭の上方に跳ね上がっていました。

大きな寝息を立ててよく眠っていましたので、とりあえずラジオの電池を交換して私は一旦帰ることにしました。

そして、翌日の仕事が休みということで夕食の時間に再び母に会いに行くことにしました。

午後6時45分ころ病院に着いてまず応接室の方に行くと、入院患者さんが何人かいましたが母はそこにはいませんでした。

私は、すでに食事が終わって母は病室に戻ったのかと考え、病室に向かいました。

病室で母は夕方と同じように窓側を向いて横になっていて、近づくと「痛いよぅ、痛いよぅ」という声が聞こえました。

母がどこかを痛がっていると思い声を掛けると、半分寝言だったのか母はそれほど痛そうな表情はしていませんでした。

ただ「右脚が痛い」と言うので見てみると、心臓のあたりに取り付けられた機器の一部を右脚が踏んでいたようでした。

かなり回復して様々な機器は外されましたが、その器械とカテーテルはこの時もまだ付けていました。

また、今まで便通がないと言っていたのがなんとなく匂うので「出たの?」と尋ねると、母は「出ちゃうのよ」と困った顔をしていました。

少し前に施設でも漏らしたことがありましたが、再び難しい状況になってきたなと思いました。

2023年3月19日 (日)

ラジオが無い!

4年前の2019年3月19日は晴れて19℃の火曜日、母が3月7日に入院して13日目、この日は午後3時40分ころ面会に行きました。

母は4人部屋のベッドに右側を下にして横になっていましたが、ラジオを探しているようでかなり慌てていました。

なかなか見つからなかったので入室してきた看護師さんに尋ねると、カーテン越しに置いてあったテーブルの上にありました。

母はラジオが見つかったことを本当に喜んでいました。

かなり体調が良くなってきたこともあり、この日も暇な時間にはラジオを聞きたくなっていたようでした。

特にもうすぐ大相撲中継が始まるので慌てていたのかもしれません。

ところで、この日の母はちゃんちゃんこを着たまま寝ていて、食事の時には広間に移動しているようでした。

また、仰向けになって話をすると、いつものように鼻が詰まってしまって良く聞き取れない声になりました。

それでも話し声は良く出ていて体調は良さそうで、前日まで付けていた血圧計も外されていました。

少し気になったのが、食事時の移動の際に見るものを話してくれたのですが、その記憶が施設のものと混同している感じがありました。

入院して2週間ほどが経過して、母はさまざまな記憶が混ざり合ったような話をするようになってきました。

そろそろ『せん妄』の兆候が出てきたのかと不安を抱えながら、大相撲中継が始まったところで私は帰ることにしました。

2023年3月18日 (土)

左脚の細さ

4年前の2019年3月18日は晴れで15℃の月曜日、母が3月7日に入院して12日目、この日は午後4時ころ面会に行きました。

母は4人部屋のベッドに横になっていましたが、目は覚ましていてラジオを聞いているようでした。

母は「文化放送を聞いている」と言っていて、この日は国会中継があるので大相撲中継は5時からで、まだ始まっていないのでした。

母はこの日も仰向けに寝ていたからか「鼻が詰まる」と言い、確かに鼻声のため聞き取れない言葉も数多くありました。

それでも表示されている血圧計の数値は160/60で、意識もハッキリしていて体調に問題はなさそうでした。

母の話では、この日も主治医が様子を見に来てくれたとのことでした。

食事は毎回広間に行って食べているわけでもなく、肌寒い日が続いていることもあって「寒いから」と断ることもあったそうです。

そして「結構食べている」と言いながらも「完食ではない」とも言っていました。

久しぶりに脚を見てみるとレッグウォーマーをしていて、おそらくこれは入院当初からしていたものなので『替えてあげよう』と思いました。

それから脚の太さが左右で明らかに違っていて、左側がかなり細く見えました。

これは骨折をしたためか、元々左脚の方が細かったのかわかりませんが、右脚がむくみで太いということもなさそうで、あらたな認識でした。

ただ脚にむくみはありませんが、顔がふっくらしていて『上半身にはむくみが残っているのかな?』と、母は元気でしたが少し心配でした。

2023年3月17日 (金)

母のトレードマーク

4年前の2019年3月17日は曇りで14℃の日曜日、母が3月7日に入院して11日目、この日は午後3時40分ころ面会に行きました。

母は前日に移った4人部屋のベッドに横になっていましたが、主治医が話していたとおり点滴は取れていました。

それでも血圧計などの計器はまだ付けたままになっていました。

母は「ラジオが聞こえない」と退屈そうにしていました。

見てみると、イヤホンのコードが絡んでいたのでそれを直して、ついでに電池も替えておきました。

母は目や耳の状態は良さそうでしたが、寝たまま話をしているからか鼻が詰まったような声で話していました。

そして相変わらず、時々血圧計が動いて母の血圧を測っていました。

この日は150/65と表示されて、主治医が言っていたように薬のおかげなのでしょう、あまり心配しないでよい数値でした。

日曜日ということでまったりと過ごしていて、看護師さんと写真を見たりして楽しんだということでした。

また、食事は車椅子で広間に行って食べているそうでしたが、母は「まだ便通がないけど、苦しくはない」と余裕がある様子でした。

帽子を緑色のものから茶色に替えてあげると大相撲中継の時間になったので、母は楽しみにしていたラジオを聞き始めました。

『帽子とラジオ』、ある看護師さんが母のトレードマークだと言っていたことを思い出しました。

2023年3月16日 (木)

『間に合いそうだな』

4年前の2019年3月16日は曇り一時雨で13℃の土曜日、母が3月7日に入院して10日目、この日は午後3時40分ころ面会に行きました。

私がいつもの個室に入るとそこのベッドに母がいないので、ちょうど見かけた看護師さんに尋ねました。

その看護師さんによると、母は4人部屋に移ったということで案内してくれました。

母は東側の窓に向いたベッドに横になっていて、ちょうど寝起きだったようでした。

私の顔を見ると、少し寝ぼけたような声で「ご飯食べたのかな?」と尋ねてきました。

母の話では、食事はテレビのある広間で食べているそうで、昼食後に部屋を移ったのではないかと私は思いました。

順調に回復をしているので4人部屋に移ったのでしょうが、まだ点滴はつながれていました。

また、心臓のあたりには3本のコードの付いた小さな器械が付けられていました。

そこに主治医が現れ「血圧はまだ高いですが、回復してきたので明日点滴を取ります」と、説明をしてくれました。

ただ、その代わりに飲み薬としての利尿剤が増えるとも言っていました。

個室に入院したものの4人部屋に移動できて点滴も外せるというので、桜が見頃になる頃には退院できるのかなと、私は思いました。

花好きの母は毎年桜を楽しみにしていましたから『間に合いそうだな』と、私は安心しました。

2023年3月15日 (水)

「太鼓、大阪」

4年前の2019年3月15日は晴れて15℃の金曜日、母が3月7日に入院して9日目、この日は午後3時40分ころ面会に行きました。

母はいつもの個室でベッドに仰向けで寝ていましたが、目は覚ましていたようでした。

母は私を確認すると、少し寝ぼけたような声で「何にも聞こえないの」と最初に言いました。

それを聞いて私は『何の話かな?』と思いましたが、どうも母はラジオのことを言っていたようでした。

それに続けて母は「お昼食べたのかな?」と、横になったまま話しているからか鼻が詰まったような声で言いました。

「前、お手伝いしたところにずっといたけど、全然聞こえなかった」と、ナースステーションではラジオが聞こえなかったようでした。

母の話では、この日は食事の前後に車椅子でナースステーションに行って、自分の写真を看護師さんたちに見せたということでした。

今回の入院で車椅子を使ったのは初めてだと思いますが、「みんなで写真を見た」「お仕事は頼まれなかった」と笑顔で教えてくれました。

私が「またお手伝いできるようになるといいね」と言うと、母は「そうだね」と頷いていました。

同時に、ナースステーションではラジオが聞こえなかったと心配していたので、私は電池を替えるなどして聞こえるように直してあげました。

すると母は「良かった」と安心したように言い、大相撲中継が始まると「太鼓、大阪」と、聞こえたものを口にしていました。

「これから始まる、どうもありがとう」と母は私にお礼を言い、仰向けの胸の上にラジオを置いて「聞こえる」と確認するように言いました。

2023年3月14日 (火)

「頭が寒いよぅ」

4年前の2019年3月14日は晴れて14℃の木曜日、母が3月7日に入院して8日目、この日は午後3時40分ころ面会に行きました。

母はいつもの個室でベッドを半ば立てて、耳にイヤホンを入れたまま眠っていました。

寝息を立ててグッスリ眠っているようだったので、私は帽子だけ替えてあげようと思って母の帽子を取りました。

すると母は突然「頭が寒いよぅ」と、起きていたのか寝言なのか微妙な言葉を発しました。

私は寝言だと思いましたが、それをきっかけに目を覚まして、母は話を始めました。

まず、前日に私が持って行った母の子供の頃の写真を、看護師さんたちと見たことを報告してくれました。

また、この日は「窓を開けたら風が強くて寒かった」と外気の冷たさも知っていました。

そのような話をしていると主治医が現れて「かなり回復してきました」と、話してくれました。

前日、低い値が出て驚いた血圧のことを尋ねると「薬のおかげ」と言っていて、やはり薬をいろいろと使っているようでした。

そして母の話では「食事はほとんど食べている」「だけど便通がない」と、前日とほとんど状況は変わっていないようでした。

また、私が「今日3月14日は五木ひろしの誕生日だよ」と母に言うと、母は「そうだね」と返事をしてくれました。

このような記憶は相変わらずハッキリとしていました。

2023年3月13日 (月)

小学校の卒業写真

4年前の2019年3月13日は晴れて19℃の水曜日、母が3月7日に入院して7日目、この日は午後3時40分ころ面会に行きました。

私はこの日、やっと見つけた母の子供の頃の写真を持って母の病室に入りました。

母はいつもの個室で壁の方を向いて眠っているようでしたので、私はその肩をトントンと叩いてみました。

母はよく眠っていたようで、少し動いてからおもむろに起き始めましたが、なかなか目が開かないようでした。

まずこの日は国会中継があるので、ラジオの大相撲中継が5時からだと伝えました。

同時に、この日の午後8時から演歌の番組があることを教えると、少し興味があるような感じでした。

その次に、持参した母の小学校の卒業写真を見せてあげるととても喜んでくれました。

その時、ずっと腕に巻き続けている血圧計が動き出して測定を始めました。

その結果は134/49、脈拍は68で前日までと違って妙に低い値が出たので、私は『何か薬でも変えたのかな?』と考えました。

また母の話では、前夜先生が来て「むくみはかなり良くなりました」と話してくれたとのことでした。

ただ、食事はよく食べているけれども、まだ便通がないのは相変わらずだと苦笑いをしていました。

入院して一週間、ここまでは順調に回復しているようで、私の帰り道の足取りも軽い日が続いていました。

2023年3月12日 (日)

懐かしい写真に笑顔

4年前の2019年3月12日は晴れて18℃の火曜日、母が3月7日に入院して6日目、この日は午後3時40分ころ面会に行きました。

私はこの日、前日母から言われた母が子供の頃の写真を探しましたが見つからず、とりあえず昭和30年頃のものを持って行きました。

母はいつもと同じ場所のベッドに横になっていましたが、私が持参したそれらの写真を興味深そうに見ていました。

自分たちの結婚式のものと、私たちが子供の頃の旅行に行ったときの写真などでした。

母は「懐かしい」と言いながら、楽しそうに笑顔で何度も見返していました。

この日も元気そうな母は、お目当ての写真はなかったものの、昔を思い出して喜んでくれました。

その時、ずっと腕に巻き続けている血圧計が動き出して測定を始めました。

その結果は187/70、脈拍は67で入院以来の高めの値が続いているようでした。

母の話では、看護師さんにも「血圧が高い」と言われたそうでした。

ただ、便通はまだないものの食欲はあるそうで、ここまでのところ血圧以外に不安な点はなく、全体的に元気でした。

この日は検査もなくずっと病室にいるようで、そろそろラジオの大相撲中継が気になる時間でした。

万一のためにラジオの電池を交換してから私は帰途につきました。

2023年3月11日 (土)

母が子供の頃の写真

4年前の2019年3月11日は雨のち晴れで18℃の月曜日、母が3月7日に入院して5日目、この日は午後3時30分ころ面会に行きました。

母はいつもの病室にいましたが、なぜかこの日は部屋のドアが閉まっていました。

私が入って行った時に母は、ベッドを半ば立ててラジオを聴こうとしているところでした。

話を聞いて見ると「FMになってしまって直せない」と苦笑いしていて、4時から大相撲中継があるので焦っていたようでした。

この日も母は顔色が良く話し声にも元気がありました。

前日は賑やかな看護師さんたちが3人で母のところに来てくれて、みんなで楽しく話をしたことを教えてくれました。

日曜日だったこともあったと思いますが、それに比べて「今日は静かで退屈だ」と言っていました。

その看護師さんの一人が母の子供の頃の写真を見たいと言ったそうで、私はとりあえず「探してみる」と答えておきました。

そんな感じで母は元気でしたが、ずっと腕に付けている血圧計が時々動いて血圧を測っているようでした。

その時表示されていた値が210で、おそらくそれまでの最高値と思われますが、私と話をしている間にも動き出して207と出ました。

笑顔で楽しそうに話をしてくれる母とは対照的に、その血圧は少し心配になる値だったので、予断は許さないように感じました。

それでも元気な母と楽しく話ができたこともあり、大相撲中継が始まるのを機に私は病室を後にしました。

2023年3月10日 (金)

ラジオが友達

4年前の2019年3月10日は晴れて16℃の日曜日、母が3月7日に入院して4日目、この日は午後3時40分ころ面会に行きました。

母は入院当初と同じ病室にいて、私が入った時にはベッドの背を起こしてラジオを聴いていました。

母はまず「演芸を聴いて笑っていた」と笑顔で言いました。

「4時からはお相撲だ」と楽しみにしていて、「ラジオをずっと聴いていた」と元気そうな様子でした。

ラジオの電池を替えながら食事のことを尋ねると「味付けが美味しいからいいね」と喜んでいました。

あらためて母の様子を見ると、左腕には腕帯を巻いてずっと血圧を測っていて、この時は最高値として191と表示されていました。

また何か点滴をしていて、こちらは足から入れていて、おそらく利尿剤だろうと思いました。

そして例によって「ウンチがまだ出ていない」と心配していて、指を入れてもらったところ「まだ出口にはない」と言われたとのことでした。

こういうことをお願いするのも、ウチにいたころの母には考えられないことで、私としては良い方に変わってくれたと思いました。

それから自分で腕を上げて見せて「シワだらけだ」と笑い、「目が良く見える」と元気さをアピールしてくれました。

久しぶりに脚のむくみを触ってみると、ふくらはぎにはむくみは無く、すっかり細く柔らかくなっていました。

この日は日曜日で暇を持て余し気味でしたが「演芸が面白かった」「これからはお相撲だ」と、すっかりラジオが友達になっていました。

2023年3月 9日 (木)

病院で元気が出る

4年前の2019年3月9日は晴れて16℃の土曜日、母が3月7日に入院して3日目、この日は午後4時ころ面会に行きました。

前日は夕食時に行ったため、母が「今日は来ないのかと思った」と言っていたので、この日はいつものような時間に行きました。

母は同じ部屋にいて、私が入った時にはベッドの背を少し起こしてこちら側を見ていました。

目が合うと母は「待っていた」と言ってくれて、その顔は元気そうで安心しました。

周囲の様子から推測をすると、これといってすることもなく時間を持て余し気味のようでした。

すぐに食事の話になり、「今日も美味しい肉が出た」と嬉しそうに教えてくれました。

ただ「硬くて食べられないので半分残してしまった」と残念そうな表情をして「全部食べたかった」と、続けて言いました。

母にとって少なくとも食事に関しては、施設よりも病院の方が圧勝しているようでした。

また暇な時間にタオル折りをするわけでもないので「ラジオをよく聴いた」そうで、プロ野球のオープン戦のことも良く知っていました。

ベッドに寝ながら話していることもあってか鼻声でしたが、声も良く出ていてたくさん話をしてくれました。

本人も「目が良く見える」と言っていて、話していても反応も良いので耳の調子も良さそうでした。

母は病院に入院すると安心するのか元気が出ることがよくあり、私にとっても不安が和らいで気持ちが落ち着いたような気がしました。

2023年3月 8日 (水)

今回の入院は正解

4年前の2019年3月8日は晴れて13℃の金曜日、前日母が施設の隣の病院に入院したので、この日は午後6時頃面会に行きました。

母は入院した時と同じ部屋にいて、丁度食事中でした。

施設での食事とは異なり、形のはっきりしたものを箸を使って食べていました。

カジキの煮付け、つまみ菜のおひたし、洋梨のシロップ漬けなどで、顔色も良く食欲旺盛な食べっぷりでした。

母が最初に言ったのは「今日は来ないのかと、確認しようかと思っていた」とのことで、いつも夕方に行っていたので心配したようでした。

周囲を見てみるとテーブルにはラジオが置いてあって、かなり自由で元気に過ごしていた様子でした。

また「朝食にはパンが出た」と、嬉しそうに教えてくれました。

それに続けて「おやつが出なかった」と不満そうに言っていましたが、食事の内容は病院の方が気に入っているようでした。

このフロアへの入院は3回目になるので、顔見知りの看護師さんたちが次々に挨拶に来てくれて楽しかったとのことでした。

そんなこともあって母は一気に元気になり、逆に退屈したので料理の本を借りて見ていたと、これもテーブルに置いてありました。

この日の母の元気さを見ると、むくみ、塩分、貧血などいろいろ思うところはありましたが、解決策はどれも難しいものでした。

母は「昨日お風呂に入らなかったのは良かった」と言っていましたが、確かにその通りで今回の入院は正解だったと思いました。

2023年3月 7日 (火)

102日で2回目の入院

4年前の2019年3月7日は雨で10℃の木曜日、母が施設に再入所して102日目、この日母はまた入院をすることになりました。

前日の面会後、母の状況が心配だった私は帰宅してから施設に電話をしました。

脚のむくみはまだ余裕があるように見えましたが、食欲不振と苦しそうに聞こえる呼吸から限界が近いような気がしたからでした。

この時電話で話した施設の看護師さんが、翌日に施設の医師が診察してくれることを約束してくれました。

ただこの夜に、私はいてもたってもいられなくなり、翌日の仕事を休んで母を病院に連れて行くことを決心しました。

そして明けて7日の朝9時頃、再び施設に電話して母を病院で診てもらいたい旨を告げると、意外にも簡単に許可が出ました。

その後、午前11時頃に私は施設に着くと母のフロアに行きました。

母は食堂のいつもの場所に車椅子で座っていましたが、居眠りをしていました。

かなり深く眠っていたようで挨拶をして起こすと、よだれを拭いながら目を開けましたが、しばらく状況がよくわからない様子でした。

やはり意識もぼんやりしているのか心配な表情のまま病院で診てもらうと、上半身にむくみがきているようで入院をすることになりました。

このころは深く考えていませんでしたが、昨日も記したように、脚のむくみで母の体調を判断するのは止める頃だったのかもしれません。

いずれにしても、母は施設に入所後2回目の入院をすることになりました。

2023年3月 6日 (月)

明日の入浴「自信がない」

4年前の2019年3月6日は曇りで13℃の水曜日、母が施設に再入所して101日目、この日は午後4時ころ面会に行きました。

母は食堂のいつもの場所にいて目は開いていましたが、あまり元気がありませんでした。

その時私が壁に新しい習字の作品が貼られているのを見つけたところ、母は「初めて気づいた」と言いました。

久しぶりに書いたはずですが、それにしては上手な字でした。

その後、職員さんが私に「この頃食欲が無くて、食べなかったり元気が無かったりする」と話しかけてきました。

また、看護師さんが「今夜から新しい降圧剤を増やします」とも言っていて、かなり心配な状況になってきました。

母の話では、この日も昼食は食べずにおやつを食べた、ということでした。

午前中にはリハビリがあって、集団でやったので歩行運動は無かったと話していました。

リハビリから戻って習字を書いたとのことで「自分ながらうまく書けた」と自賛していましたが、確かに私もそのように思いました。

この日も話をするうちに徐々に元気になってきましたが、脚のむくみは特に右足が目立ってきていました。

その上、前回入院したときと同様に、呼吸をする際に喉から笛のような音が聞こえてきて、上半身のむくみも心配になってきました。

母は「今日は目もよく見えない」と呟いて、翌日に予定されているはずの入浴も「自信がない」と不安そうにしていました。

2023年3月 5日 (日)

脚のむくみは余裕があるが……

4年前の2019年3月5日は晴れて16℃の火曜日、母が施設に再入所して100日目、この日は午後4時10分ころ面会に行きました。

母は食堂のいつもの場所にいましたが、その場で居眠りをしているように見えました。

話を聞いてみると、おやつを食べる前後にトイレに行って、手を洗って一休みしていたところのようでした。

ただ、一休みしているうちにも居眠りをしてしまうとは、少し心配な状況にも感じました。

おやつには草餅のような色のお饅頭が出たそうで、そのおやつの前には「トイレでたくさん出た」と、母は笑っていました。

またこの日の昼食には短くカットされたうどんが出たそうで、職員さんが「ちゃんぽん」と呼んでいたと教えてくれました。

それから、心配をしていた前夜の夕食も「普通に食べられた」と言っていて、この日の体調はそれほど悪くはなさそうでした。

また、こちらも心配していた血圧は、179/72の脈拍が69で、少し高めな様子でした。

脚のむくみは足首の上くらいまで感じられましたが、それでも全体的に柔らかく、まだ余裕がありそうな感じがしました。

そして、車椅子とベッドとの移動の際の足取りも問題なく「足も痛くない」と母は言っていました。

ただ、前年の11月の入院時に心不全と診断された頃から、母の体調を脚のむくみで判断するのは良くなかったかもしれません。

以前と違って、おそらく脚のむくみが目立つ前に、上半身にむくみが溜まるようになっていたような気がします。

2023年3月 4日 (土)

「食欲が無い」

4年前の2019年3月4日は雨で8℃の月曜日、母が施設に再入所して99日目、この日は午後4時ころ面会に行きました。

母の姿が食堂のいつもの場所に無かったので職員さんに尋ねると、寝ているということで職員さんと一緒に部屋に行きました。

母はベッドの上で横になっていましたが、声を掛けるとすぐに目を開けました。

この日は午前中の最後に入浴をしてすぐに昼食となりましたが、食欲が無かったので食べなかったということでした。

その後は昼寝をしてからおやつは食べて、また寝ていたという状況だったようでした。

おやつには甘いカステラのようなものが出て、美味しくて全部食べたと言っていましたから、体調が悪い感じでもなさそうでした。

また、話をしている時もそれほど元気が無いようには見えませんでした。

ただ血圧が高かったようで、久しぶりに降圧剤を首下に貼ってありました。

私も横になっていた母を起こして血圧を測ってみましたが、187/73と、確かに高めの数字が出ていました。

「お風呂上がりに昼食になり、目が見えなくなった」と母は言っていたので、貧血気味だったのかもしれません。

またこの時、すでに夕方になっていたにもかかわらず、母は「食欲が無い」と言っていたのが少し心配でした。

帰り際に私が「たくさん食べてね」と声を掛けると、母は頷きながらも少し涙目で苦笑いのような表情をしていました。

2023年3月 3日 (金)

3月3日、おやつは桜餅

4年前の2019年3月3日は雨で10℃の日曜日、母が施設に再入所して98日目、この日は午後4時ころ面会に行きました。

私が母のフロアに着くと、母は丁度いつもの場所からどこかに移動しようとしているところでした。

どうもトイレに行こうとしているようでしたので、先に部屋に行って待っていることにしました。

少し待って母が戻って来たところで、このころ気になっていた血圧をまず測ることにしました。

結果は181/71、脈拍は76で、トイレから戻った直後ということもあったのかもしれませんが、やや高めでした。

この日母が最初に話してくれたのは「おやつに食べた桜餅が美味しかった」ということで、とても嬉しそうな表情をしていました。

逆に、朝食の際に自分のところが一番遅く配膳されたので「パンが来るかと楽しみにしていたらお粥だった」と、残念そうに言いました。

また、日曜日ということで特に催しも無く「体操をやったかな」というくらいの様子でした。

このころは母の好きなリハビリの回数も減って刺激が少ないこともあり、私は「桜の時期には散歩でもしようか?」と提案しました。

母を散歩に連れて行くことは、私としてはかなり前から考えていたことでしたが、母に直接言ったのは初めてだったように思います。

私の提案に対してはっきりした母の反応はありませんでしたが、少しは興味がありそうな感じがしました。

ただ、この数日後に母は入院していまい、退院が桜の終わる頃になったこともあって、実際に散歩をしたのは秋になってからでした。

2023年3月 2日 (木)

珍しく愚痴が多い日

4年前の2019年3月2日は晴れで15℃の土曜日、母が施設に再入所して97日目、この日は午後4時10分ころ面会に行きました。

母はいつもの場所にいて、珍しく何か工作をしていました。

見ると、ボール紙を台紙に貼るために糊付けをしていましたが、私が現れたため途中で止めて一緒に部屋に行くことになりました。

話を聞くと、この日もリハビリは無く、まったりとした時間を過ごしていたようでした。

前夜はあまりよく眠れなかったそうですが、その代わりに昼寝でよく寝たと言っていて、そのためか少し寝ぼけ気味の感じもありました。

体調としては朝から便通があり血圧は172/65、脈拍は70で、母としてはいつもの数値でした。

また「おやつの草餅が美味しかった」と言っていて、食欲もあって体調は良さそうでした。

そして、この日私が持参したレモンのゼリーも美味しそうに半分くらい飲んでくれました。

ただ、車椅子とベッドとの移動の際には「右足の踵のあたりが痛い」と言っていて、そのあたりのむくみも少し気になりました。

母はこの日も話をするうちに元気になって行く感じがありましたが、この日は珍しく愚痴が多かった気がしました。

例えば、このところ母の好きなリハビリを始めとして行事のない日が続いて、放っておかれることが多いようでした。

このころは再入所からも3ヶ月以上が経過して、変わりは無いけれども退屈な毎日、という感じだったような気がします。

2023年3月 1日 (水)

「寝起きだよ」

4年前の2019年3月1日は雨から曇りのち晴れという天気で13℃の金曜日、母が施設に再入所して96日目でした。

この日は午後4時5分ころ面会に行くと、母は食堂のいつもの場所で目を瞑っていました。

挨拶代わりに肩を叩くと、母は目を開けて「トイレに行って戻ってきたところ」と言いました。

おやつを食べてからトイレに行ったら「たくさん出た」と、嬉しそうな表情をしていました。

そして、おやつに出た「玉子のような冷たいものが美味しかった」と、笑顔で教えてくれました。

部屋に行って話を続けると、母は「寝起きだよ」と言っていましたが、覚醒のレベルは良く言葉もはっきりしているように感じました。

ただ「右足の踵があまり調子が良くない」と言っていて、確かに右足はくるぶしのあたりまでむくんできていました。

その上、トイレで右足の脛を車椅子にぶつけてしまったようで、ひどく内出血をしていました。

この日の話としては、リハビリは無く、体操をやったとのことでした。

また、午前中にはいつものようにタオル折りをしたそうですが「たくさんやった」と強調していました。

そして、食事では「美味しいお肉があった」とも言っていて、このころとしては意識もはっきりしていて元気な日だったように思います。

最後はエレベーター前で母が笑顔で手を振ってくれて、体調に不安を感じながらもホッと安心した気持ちで帰途につくことができました。

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