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2022年5月

2022年5月31日 (火)

久々の噛み合った会話

4年前の2018年5月31日は曇りのち雨の木曜日、母が入院して8日目、午後3時30分ころ母の面会に行きました。

前日は突然母が上げた左手を私が握ると母が握り返してくれるなど、意識と気持ちはしっかりしてきた印象がありました。

この日の母の調子はどうだろうかと心配しながら病室に行くと、母はタオルケットを体全体に掛けて仰向けに寝ていました。

しばらく私が左手を握っていると、母が何か声を出したのでよく聞いてみると「水が飲みたい」ということでした。

看護師さんが持ってきた、とろみのついたお茶のような飲み物を母は飲もうとしましたが、うまく飲むことができませんでした。

まず目が開かないのと、カップを持っている腕が震えてしまうので、ストローを上手く口に入れることができなかったのでした。

看護師さんの話によると、やはりあまり食べていないようで、そのためもあってか身体を上手く動かせないようでした。

その後病室に来た主治医も、二日前には完食していると言っていましたが「あまり食べないんです」と現在の母の状況を話していました。

ただ、この日も精神的には安定していて「明日からは6月だよ」と私が言うと、母は「そう、早いねぇ」と、か細い声で答えてくれました。

母との嚙み合った会話は久しぶりで、おそらく骨折入院中の頃以来だったと思います。

このころの私は、母の不調の大きな原因が精神的なものだと考えていましたが、今振り返ると体力的な問題も大きかったのでしょう。

特にこのころは食べたり食べなかったりが日替わりで、体力や栄養状態は母の人生の中でも最悪だったのではないかと思います。

2022年5月30日 (月)

思いがけない無言の握手

4年前の2018年5月30日は曇りのち雨の水曜日、母が入院して7日目、午後4時ころ母の病室に行きました。

前日は姉が行った時も私が行った時も、顔を隠すような動きをしていたことが気になりました。

この日も同じような母なのか、それとも元気な母に会えるのか、不安と期待で血圧を上げながら母のベッドを覗きました。

母はいつものように右側を下にして、つまり部屋の奥の窓の方を向いて横になっていました。

窓側に回り込むとタオルケットが落ちていたので「寒くない?」と言いながら体に掛けてあげました。

すると母はそのタオルケットで顔を隠しましたが、私が「大丈夫だよ」と言いながら顔を出してあげると、この日はそのままにしていました。

前日のように眠っているわけではなく、声は聞こえているようでしたが、昼食を食べていない様子だったのでナースコールをしてみました。

来てくれた看護師さんの話によると、お昼はお粥を三口ほど食べただけで薬も拒絶をしたとのことでした。

他には、リハビリはまだのようですが、車椅子に乗ってお風呂に行ったことを教えてくれました。

ベッドサイドでいろいろな話を看護師さんとしていると、母が左手を空中に上げたので私が握ると、握り返してくれました。

そして、帰りにはいつものように「水分と栄養を取って、ゆっくりしてね」と言って手を握ると、この日の母は頷いていました。

久しぶりの入浴で疲れたのか元気はありませんでしたが、意識はしっかりしていて気持ちも前向きになってきたように感じました。

2022年5月29日 (日)

ある意味で贅沢な悩み

4年前の2018年5月29日は曇りの火曜日、母が入院して6日目、この日は姉が母の面会に行ってくれることになっていました。

午後4時ころ姉から連絡があり、看護師さんに案内されて母の病室に行くと、母は眠っていたようでした。

そこで看護師さんが声を掛けてくれたところ、かなりの大声にもかかわらず母は起きなかったそうでした。

仕方なく姉はそのまま帰って来たとのことでしたが、少し気になる点があったと話していました。

それは看護師さんが声を掛けた時、母は寝返りをしてタオルケットを頭から被ってしまったとのことでした。

前日の元気で陽気な母とは違って、またウツ状態なのかと不安になりました。

その後、私が病室に着いたのが午後4時45分くらいで、母はやはり寝ていました。

身体に触れてもほとんど反応はなく、逆に人を避けるような動きをしたように見えました。

それが意識的なものなのか、本当に眠っているのかはっきりとは分かりませんでしたが。

看護師さんに確認すると、夜中に独り言を言っていることもあり、逆に日中眠っていることも多いという話でした。

一日中ベッドの上ですし、この日もリハビリがあったというので疲れていたのかもしれません。

そして精神安定剤を服用中とのことですが、面会時に元気な母に会えないと寂しく感じるという、ある意味で贅沢な悩みが出てきました。

2022年5月28日 (土)

「とうとう相撲を見なかった」

4年前の2018年5月28日は曇りの月曜日、母が入院して5日目、この日は主治医と面談をする予定になっていました。

その予定時間の少し前に母の病室に行くと、前日とは打って変わって母は上機嫌でした。

何気なく床のごみ箱を覗いてみると、精神安定剤と思われる薬の袋が捨ててあり、精神的なケアも既に始めてくれているようでした。

ただ、母が話す内容は過去の記憶に基づくことのようでしたが、横になったまま話していることもあってか、よく聞き取れませんでした。

それでも、入院前と違って元気で陽気な母に会えるようなったことは、私にとってはとても嬉しいことでした。

しばらく母と話をしていると午後5時になり、主治医と話をすることになりました。

母の現状としては、脱水は回復し入院時に母が言っていた「お腹痛い」ということも問題がなかったと。

食事も完食に近く、この日もリハビリが行われて経過は順調ということでした。

退院後の話も出て、私が「施設の方が良いかなという気もします」と言うと、主治医は「一週間様子を見ましょう」と話を締めくくりました。

面談が終わり再び母の病室に行くと「とうとう相撲を見なかった」と母は言い、時間の経過が少しは分かっているようでした。

また「昨日、五木さんが何かした?」などと尋ねてきて、断片的ながらウチにいた時の記憶も残っているように思いました。

主治医の話に安心し、母の元気な顔も見ることもできて、久しぶりに気持ちが軽くなった日でした。

2022年5月27日 (金)

4日目は元気のない日曜日

4年前の2018年5月27日は晴れた日曜日、母が入院して4日目、前日思いがけず元気だった母の面会には午後2時45分ころ行きました。

この日も母が元気ならいいなと、期待とともに不安も半分持ちながら病室に入りました。

この日は珍しく左側を下にして、つまり入り口側を向いてベッドに横たわっていました。

足首以外はウチから持ってきたタオルケットを被っていて、エアコンが効いていたので寒いのかと思いました。

そこで「寒いの?」と声を掛けると、母は首を振ったように見えました。

顔を見ると目は開けていませんでしたが、瞬きのように瞼をパチパチさせていて、その中で目玉が動いたように思いました。

前日と違って点滴はなく、布団をベッドの柵にかけてはありませんでしたが、ベッドの柵は紐で括り付けてありました。

おそらく、ベッドの柵を握ったり引き抜こうとしていたのかもしれません。

しばらく私は母の手を握ったり背中をさすっていましたが、「ゆっくりしてね」と声を掛けると母は少し目を開けました。

私の顔を見たのでマスクを外しましたが、無表情で全く声を出すこともありませんでした。

帰りがけに「また来るよ」と言いながら母の手を握りましたが、この時も反応は全くなかったように思います。

確かに前日の母は元気で陽気でしたが、状況の理解はあやふやでしたし、この日は寝ぼけていたのか再び塞ぎ込んだのか微妙な感じがしました。

2022年5月26日 (木)

「お尻のキズが二つもある」

4年前の2018年5月26日は曇りの土曜日、この日はまず病院内の地域医療連携室というところに行きました。

担当者の方は私の話を親身になって聞いてくれましたが、最終的には主治医に相談してくださいということでした。

それでも、前夜は母に食事が出て、いくらか食べたという情報を教えてくれました。

それを聞いて、私の面会に向かう足取りも多少軽くなりました。

午後3時ころに母の病室に入ると母はベッドの中で目覚めていて、私に会うなり笑顔で元気に話をしてきました。

ただ、仰向けに寝たままで舌足らずのような喋り方のため、話の内容はあまり良く分かりませんでした。

分かったことは、前日に体を洗ってもらって「お尻のキズが二つもある」と言われたということでした。

それから、リハビリの先生が来て身体を動かしたようで、そのためかしきりにベッドの柵を持って起き上がろうとしていました。

その他に印象的だったことは「暑い中をたくさん歩いて疲れた。パンを食べたのがおいしかった」と、母が嬉しそうに話してくれたことです。

今回の入院の前は、反抗期の子供のような態度が時々見られましたが、この時一生懸命に話をする母は遠足に行った子供のようでした。

それでも、投げやりだった態度が楽しそうな笑顔に変わり、その上元気になった母を前にして、私は夢でも見ているのかと思いました。

この時は、母が笑顔で楽しそうにしていられるのなら、ずっとこのままでも悪くはないかな、と考えたものでした。

2022年5月25日 (水)

脱水で入院、意識は回復

4年前の2018年5月25日は晴れた金曜日、母が再び入院したので午後3時ころ病院に行きました。

ここまで病院からの連絡はないので、母の急変はながったのだろうと思いながらも、一抹の不安を抱えて病室に向かいました。

病院のエレベーターの前で母の脚の手術をした医師と遭遇し、少し話をすることができました。

「昨日よりかなり良くなっていますよ。目を動かしたりしています」と教えてくれたので、いくらか安心することができました。

また、病室に案内してくれた看護師さんによると、この日の朝には何度かナースコールを押していたということでした。

母に挨拶をすると、私の声は聞こえているようでした。

「脱水でまた入院することになったよ」と言うと、母は状況が理解できているのか、少し頷いたように見えました。

ただ動きがどこかソワソワしていて、ウチから持って行ったタオルケットをしきりに被ろうとしていました。

「寒い?」と尋ねると頷くので、看護師さんに布団をお願いすると、一枚の布団がベッドの柵に掛けられていることに気づきました。

看護師さんによると、母がベッドの柵から手や脚を出そうとするので、危険防止のために布団を掛けているという説明でした。

前日の朝私が見た危険な行動を母は入院してからもやっていたようで、やはり心身のどこかに問題が残っているように感じました。

特に精神的なことを誰かに相談したかったので、この日見つけた病院内にある地域医療連携室というところに行ってみようと考えました。

2022年5月24日 (火)

第二の人生の始まりの日

4年前の2018年5月24日は晴れた木曜日、母は朝6時ころ「お腹痛い、お腹痛い」と寝言のように言い続けていました。

本当に腹痛があるのかどうかは分からず、トイレや水について尋ねると、母は拒否をしました。

そこでケアマネージャーに連絡をして、看護師さんが来てくれることになりました。

その間に母は暴れ出し、ベッドの柵から脚を出したり壁に頭をぶつけそうな動きをしていました。

その後、看護師さんが来てからはほとんど反応しなくなり、ストレッチャーで介護タクシーに乗り、いつもの病院に運ばれて行きました。

再び入院することが決まり、医師の話では「脱水症状が進んでいるので点滴をして様子を見ましょう」ということでした。

ただ、高齢なので急変がないとは言えず、どこまで回復できるかわからないとも言われました。

その上、奇妙な行動も精神的なものだけではなく、体の内部の不調からも起こることがあり、その場合はより深刻だなどと説明されました。

そして、この時測定された母の体重は、通院していたこの年の3月頃に比較して6~7キロ減少していました。

医師の説明やここまでの状況を見ると、母の状態はかなり厳しいものだと感じました。

当時はこのような事態になり、最終的に母が二度とウチに帰ることもなかったので、退院を早めたことは失敗だったと悔やんだものでした。

ただ全てが終わった今では、この日が母の第二の人生が始まった日だと考えることが出来るようになりました。

2022年5月23日 (月)

介護地獄の手前まで

4年前の2018年5月23日は曇りのち雨の水曜日、前夜の母は何度か泣いているような声を出していました。

そして朝の6時頃にはゴソゴソ動いていましたが、結局8時半頃にトイレに起きたついでに朝食になりました。

この日も母は食事以外は居眠りをしていて、声を掛けてもトイレ以外は拒否をするという状況でした。

朝食後は再びベッドに戻り、午後1時頃「トイレに行く」と言って起きました。

「ウンチが出る」と言うのでトイレに連れて行くと、既に手遅れで背中にベッタリとついていました。

ここ数日トイレに間に合わないことが何回かありましたが、本格的な下の世話はこの時が最初で最後でした。

慣れない私はタオルと使い捨てのビニール手袋を何枚も使って、何とか処理をしました。

ところで、この日は前日の訪問リハビリに続いて、訪問看護の看護師さんが来ることになっていました。

その看護師さんは、私が何とかトイレの処理を済ませて間もなく、午後2時過ぎに来ました。

この日も血圧など看護師さんが診てくれた部分での異常はなく、私はとにかく母の精神状態が落ち着いてくれることを願っていました。

最後に、一口に介護と言っても人それぞれですが、下の世話が必要な介護をしている人には本当に頭が下がります。

当時を思い出すと、私もいわゆる介護地獄の手前まで行っていたと感じますが、これに下の世話が加わっていたら確実に落ちていたと思います。

2022年5月22日 (日)

ハッピーエンドが見えない

4年前の2018年5月22日は晴れて爽やかな火曜日、それでもこのころの我が家の中は淀んだような空気で溢れていました。

この日の母も不機嫌そうな表情で食事もあまり食べずにいましたが、姉とリハビリの先生が来ることは理解しているようでした。

姉がお昼に来て、その後リハビリの先生が午後1時頃から40分程、母にリハビリを施してくれました。

午後3時過ぎに姉が帰るときには、それまで横になっていた母も起きてきて帰りの挨拶をしました。

その後またベッドに寝た母は、午後7時頃トイレに行った時に少し早くチビってしまい、パジャマを濡らしてしまいました。

数日前にはトイレに着く前に大きい方が出てしまったこともあり、こういうことが続くと私もそうですが本人も辛かったと思います。

そして夕食後は例によってテーブルに突っ伏して居眠りをしていました。

午後11時頃にトイレからベッドに戻った時には、この日のリハビリでやったように黙々と自分で身体を枕まで移動させていました。

ただ、眠っていると思った午前0時頃に、母は少しの間シクシクと泣いているようでした。

時々「痛いよう」という言葉も聞こえてきて、夢を見ているようでしたが私は『どこか痛い場所があるのかな』と少し不安になりました。

いずれにしても、退院後の母の心身の状態は悪化の一途を辿っているようにしか思えませんでした。

このころの私は毎日を無事に過ごすだけで精一杯で、寝不足もあって悲観的になりやすく、ハッピーエンドなどは全く見えませんでした。

2022年5月21日 (土)

介護会議の日

4年前の2018年5月21日は晴れて爽やかな月曜日、前夜に大声で泣いた母はこの日もずっと泣きそうな顔をしていました。

このころは食事以外はほとんど居眠りをしていましたが、食事も少ししか食べなくなったので、私の頭痛の種が増えました。

そんな中、この日はケアマネージャーなどと介護会議があり、翌日からでも訪問介護とリハビリを始めてもらうことになりました。

そして、この日会議に参加していた看護師さんが、血中酸素濃度や血圧の測定と聴診器による診察をしてくれました。

結果は特に異常はないということでホッと胸をなでおろすとともに、なおさら私は母の精神的な問題が気になりました。

そういう状況の中、翌日は姉も来てくれることになって、にぎやかになるのは悪くはないと思いました。

結局この日も食事以外は居眠りをしていて、午後11時に私が「ベッドで寝る?」と聞くと「そうしようか」と母は答えました。

続けて「明日は何時?」と聞くので「7時頃起きようか」と答えると母は頷いていました。

ベッドに横になってから「また明日」と手を握ると、この日の母はしっかり握り返してくれました。

母の気持ちも日替わりで、この日は珍しく意思の疎通ができたので少し安心できました。

ただ、母を早めに退院させてから10日ほど、不安に思っていた通り母の心身の状況は悪化を続けてしまいました。

今では懐かしく振り返ることができますが、当時の私は何をすればいいのかわからないまま、ひたすら心配するばかりでした。

2022年5月20日 (金)

ついに爆発

4年前の2018年5月20日は爽やかに晴れた日曜日、母が午前7時過ぎに起きたのでトイレに連れて行きました。

そのまま朝食にしようと思いましたが、母はほとんど手をつけずに居眠りを始めてしまいました。

その後、お昼にそうめんを3口ほどと、デザートの桃を全て食べ、その他のものを手で除けてその場に伏せ、また居眠りを始めました。

この日の母は前日同様ずっとしかめっ面をしていて、私の声にもほとんど無反応という状況でした。

また、心配なのが前日から食事量が減っていることで、この日もほとんど食べませんでした。

午後6時半頃に「夕食にする?」と尋ねると、拒否することもなかったので料理を食卓に並べました。

すると母は、いつもよりも勢いよく茶碗のご飯を食べ終わり、冷奴を2切れ食べました。

一切れ残った冷奴を見て私が「このくらい食べたら」と言うと、母はそれを手づかみで口に入れてそのままテーブルに突っ伏しました。

そこで、私が食後の薬を飲ませようとすると、母はその手を払って大きな声を上げて泣き出しました。

前日辺りから、母が時々反抗期の子供のような態度をしていましたが、ついに爆発した感じがしました。

その後、午後9時前にはベッドに移動して横になりましたが、2時間ほどの間に私を3回呼びました。

特に用事はなさそうで寂しかったのだろうと思いますが「ラジオ聞く?」と勧めてみると「やだ、やだ」と、母は相変わらずの拒否反応でした。

2022年5月19日 (木)

久しぶりの就寝時の挨拶

4年前の2018年5月19日は雨のち晴れの土曜日、母が退院して一週間が経ちました。

この間母は、寝ている以外はほとんどずっとボーッとした様子で過ごしていました。

この前夜は午後8時過ぎに寝て、深夜の1~2時頃に哀しいような淋しいような声を出していました。

そして午前7時半に起こして朝食となりましたが、3割ほど残しました。

ただ、この日はボーッとした表情というよりは、不機嫌でずっとしかめっ面をしているように見えました。

私が何か声を掛けても、幼児がイヤイヤをするように、ひとまず拒否するという感じでした。

昼食、夕食も半分程度残し、今度は体力的なことも心配になってきました。

ゴールデンウイーク中にイライラし始めたのをきっかけに、早めに退院させてもらって自宅で一週間過ごしました。

退院時から母の状態は心身共に少しずつ悪化し、今度はうつ病のような症状まで出てきたようでした。

日中の様子を見ていたり深夜の寝言を聞いたりしていると、はっきりしない意識の中で辛い時間を過ごしているのが分かります。

結局この時の私は、母のことを心配しながら『どうすればいいのか』と、悩むことしかできませんでした。

それでもこの夜は「また明日ね」と私が手を握ると「ありがとう」と母が言う、入院前にしていた就寝時の挨拶が久しぶりにできました。

2022年5月18日 (水)

鎮痛薬の副作用?

4年前の2018年5月18日は晴れて蒸し暑い金曜日、この日も母は一日中『うつらうつら』していました。

ただ、この日は早朝に起きることはなく、午前7時までよく眠っていたようでした。

それでも朝食が終わると、いつものようにウトウトし始めて、トイレに行って帰ってからもすぐに居眠りを始めていました。

母にどのような感じなのか改めて聞いてみると「どこかが痛いことはないが、気分がすぐれない」と答えました。

それを聞いて私は『もしかすると鎮痛薬の副作用もあるのではないか?』と、思いました。

何となく頭がボーッとするというのは、痛み止めの副作用として一番考えられるもののような気がしました。

母がいつから鎮痛薬を服用していたのか分かりませんが、手術前・手術後いずれにしても40日ほど続けていたのではないかと思います。

退院時の説明では朝2錠、夜も2錠となっていましたが、退院後は夜は止めましたが朝は続けていました。

それを朝の分も止めてみようかと思いました。

このころの母には、うつ病のようなところもあって、元気がない原因は精神的なものが大きいだろうと当時の私は考えていました。

ところが、塩分などの不足を病院で指摘され、この日は鎮痛薬の副作用も疑うようになりました。

現実に追いつけずあれこれ考えるばかりでしたが、原因を一つに特定できるはずもなく、当然鎮痛薬との関係も最後まで不明でした。

2022年5月17日 (火)

「そんなに寝られるわけがない」

4年前の2018年5月17日は晴れて暑い木曜日、母は相変わらず起きても意識がボーッとしているようでした。

血糖値を管理する必要があるので規則正しい3度の食事は欠かせませんが、それ以外は横になっているかボーッとしている状態でした。

前夜の母は8時半頃に寝て、夜中の11時に一度目覚めて「まだ起きなくていいの?」と、私を呼びました。

この日は朝まで何回かこの調子で、結局午前5時頃には起きて朝食を食べることになりました。

ただ、食欲がそれほどあるわけではなく、いつもの半分ほどで食べ終わりました。

それでもこの日はやや状態がいいのかトイレに行った後、昼まで椅子に座ってウトウトしていました。

昼食後はやはり眠くなったようで、午後2時半にはベッドで横になりましたが、ほとんど昼夜が分からなくなっている様子でした。

この時は4時間ほど寝ていましたが、珍しく良く眠れたようで、少し機嫌が良さそうに夕飯を食べてくれました。

ただ、やはり食後は眠くなったと言って、午後8時過ぎに足湯をした後にベッドで横になりました。

その時「何時に起きればいいの?」と母が聞くので、「明るくなる6時頃まで寝ていていいよ」と私は答えました。

「10時間くらいあるよ」と私が続けると「そんなに寝られるわけがない」と、このころとしては珍しく母は少し笑いながら言いました。

そして、結局この夜も午前1時半にはトイレに連れて行くなど、私の寝不足の日々が続いていました。

2022年5月16日 (月)

「足湯だけやろうか?」

4年前の2018年5月16日は晴れた水曜日、母が退院して4日目になりました。

母は前夜、夢を見ていたようで、何回か割と大きな声で寝言を言っていました。

この日の母は朝の6時に起きてトイレに行きましたが、食事の準備が整う7時までラジオを聴きながら再び横になってもらいました。

退院後はラジオもそうですが、テレビでの大相撲やプロ野球中継にもほとんど興味を示さなくなっていました。

ただ、この日の朝は食後にケーブルテレビで『演歌チャンネル』を見せたところ、いつもよりは反応が良かったように見えました。

午前11時頃には、お昼にラーメンを食べることを提案した後、血圧と脈拍を測るとこの時の脈拍も46しかありませんでした。

やはり塩分、ミネラル不足が脳や心臓の働きを悪くしていたのでしょうか。

ただ私にとっても、塩分制限していた母の食事で塩分を増やすように言われても、なかなか悩ましいものがありました。

それでも母の好きなラーメンを作ったり、ご飯に漬物を付けるなど出来る範囲で本当に少しづつ摂取量は増えていたと思います。

そしてこの日は午後8時頃、テレビの前で居眠りをしていた母に「足湯だけやろうか?」と尋ねてみました。

入院前は恒例になっていた清拭を退院後はしていなかったので、この日は久しぶりに足湯だけでもしてあげようと思いました。

母の反応はほとんどありませんでしたが、足を温めてあげると気持ちが良かったのか、いつもより大きな呼吸で眠っているように見えました。

2022年5月15日 (日)

すべての状況が悪循環に

4年前の2018年5月15日は晴れた火曜日、この日はお昼に姉が来てくれました。

そのためか、このころの中では母の意識は多少はっきりしているように感じられました。

それでも午前11時頃に測った脈拍は44で、前日までと体調は変らないようでした。

姉が帰った後、午後4時半頃から前日延期した介護に関する会議を、ケアマネージャーと介護用品の担当者を交えて行いました。

このような会議は変更があるたびに必要とのことで、改めて介護の仕事の大変さに頭が下がる思いでした。

訪問介護と訪問リハビリをお願いしましたが、保険の関係で複雑な問題があることも理解しました。

この日の母は人が来て刺激があったからか、比較的意識もしっかりした様子に見えました。

それでもケアマネージャーに「妹が来た」と言っていたそうで、ずっと人違いをしていたようではありました。

ところで母は退院したとはいえ、自力ではベッドに横になっているか、テレビの前の椅子に座っているかしかできません。

そのため、長い時間座っていると「お尻が痛い」と言い始めました。

お尻が痛いということになると、横になる方が楽なので、徐々にベッドにいる時間が長くなります。

ボーッとしている、お尻が痛い、すべての状況が悪循環になり始めていました。

2022年5月14日 (土)

塩分制限と塩分不足

4年前の2018年5月14日は月曜日、この日も母は引き続きボーッとした様子でずっと静かなままでした。

午前中に血圧を測ると、脈拍が44~45しかないので心配になり、午後から病院に連れて行くことにしました。

この日は新たな介護生活の会議を行う予定でしたが、月曜日の午後は以前通院していた時間帯なので病院に行くことにしました。

顔馴染みの先生に診てもらえるので丁度良かったと思い、予約がなく待たされることを覚悟で検査をしてもらいました。

血液検査と心電図をした結果、それほど悪いところは見られないということでした。

ただ、塩分や水分、カリウムなどが不足気味で、おそらくミネラル不足により意識がはっきりしないのではないかと言われました。

母は若い頃から腎臓が悪く、減塩醤油がまだ珍しい頃から料理に使うなど、塩分を控えることには気を遣っていました。

それでもこれまでは塩分不足を指摘されたことはなく、病院食が原因なのか、今後は塩分を取るような食生活を考えることになりました。

そのためこの日の夕食には梅干しや佃煮など、今まではなるべく控えていたものを出しました。

母は退院直後に思いがけない通院をしたことで、かなり疲れた様子でしたが、食欲はあったので意識と体力の回復を私は期待しました。

この翌年の2019年8月頃にも母は施設で同じような状態になり、その時も塩分不足を指摘されました。

母の持病に塩分制限は必須ですが、母に出された病院や施設での食事は、ウチで食べていたものより塩分が少なかったのでしょうか。

2022年5月13日 (金)

大変なことになる予感

4年前の2018年5月13日は曇りのち雨の日曜日、母が脚の骨折入院から40日ぶりに退院した翌日でした。

母は前夜午後10時頃ベッドに入り、朝の6時にトイレに行き再び8時頃まで寝ていました。

前日は長い時間椅子に座ってテレビを見ていたので疲れもあるのか、「お尻が痛い」などと話していました。

そのため、この日は昼食後にベッドで横になり、そのまま午後6時過ぎまで寝ていました。

この日は入院中に楽しみにしていた大相撲の初日でしたが、終わってから起きて夕食を食べることになりました。

夕食後もトイレに行き、テレビでナイター中継が続いているにもかかわらず、午後8時半にはもう寝てしまいました。

骨折前のことを考えると、相撲や野球に対して興味を示さない様子は全く考えられませんでした。

ただ、退院前の病院での様子は面会時のことしか知りませんが、おそらく同じような感じだったのでしょう。

リハビリ以外はベッドで過ごしていたので、かなり体力が落ちた感じで動くと疲れてしまうようでした。

眠っている間の呼吸も深く、いかにも疲れたようにイビキをかいていました。

母は帰宅してからここまで、起きている間も元気がなくボーッとしていて、疲れたから寝るという二日間でした。

それでも私は母が寝ている間もぐっすり眠るわけにはいかず、早くも大変なことになりそうな予感がしました。

2022年5月12日 (木)

不安に満ちた退院の日

4年前の2018年5月12日は晴れた土曜日、いよいよ母が退院する日になりました。

3月23日に椅子から転落し、4月2日に骨折が判明して入院、4月12日に手術、結局40日間の入院でした。

この日は午後2時に退院予定でしたが、午後1時頃に母の病室に行くと母のベッドは空でした。

ちょうどトイレに行っていて、「いいモノが出た」と母は嬉しそうな表情で戻って来ました。

その後、会計を済ませ、薬剤師さんから薬の説明を受けて、午後2時頃介護タクシーに乗って自宅に着きました。

家に戻っても、母は家での生活に不安そうな様子でした。

ただ、私にとっては母が入院する前の10日間は私がトイレに連れて行っていましたので、その頃とあまり変わらない生活になるはずでした。

ところが、母の精神的な状態だけは変っていたようでした。

この日はテレビをぼんやりと見ているだけで居眠りをしてしまい、話しかけてもほとんど答えないという状況でした。

最近ずっと記していますが、当時私は母に元気が無いのは精神的なショックが大きいと思っていました。

ただ、その後に経験したことなどから、今では塩分やミネラルをはじめとして栄養不足の方が大きかったのではないかと考えています。

そして、退院早々の翌々日の月曜日に、母は再び病院で診察を受けることになります。

2022年5月11日 (水)

「家でもリハビリを頑張って下さい」

4年前の2018年5月11日は金曜日、爽やかに晴れた日、午後3時15分頃母の病室に行きました。

母は横になっていたのでトントンと叩くと、目を開けて「体を洗ってもらったので、少し眠ろうと思った」と言いました。

いつもよりも元気そうな感じで、翌日に退院することも分かっていました。

母と話をしていると、リハビリの先生が来て「家でもリハビリを頑張って下さい」と、母に話しかけました。

母は頷きながらも、あまり自信がない様子でした。

先生は「家でも立ったり座ったりを練習して、筋力をつけるように」とアドバイスをしてくれました。

また、「現状でも傍にいて見守れば、かなりの部分まで自力で出来そうです」と私に話してくれました。

ただ、相変わらず母は不安そうな表情で、退院することに乗り気ではなさそうでした。

結局、退院して2週間足らずで再び入院してしまうことになりますから、この退院は強引過ぎたと言えるのかもしれません。

確かに私も一時期は、いろいろと考えたり後悔したりしたことがありました。

それでも今から思うと、この時にずっと病院でリハビリを続けても、母が自信を回復することはなかったように感じます。

その上、実際には母がこの後の第二の人生を笑顔で過ごしてくれたので、今では全てが良かったのだと思えるようになりました。

2022年5月10日 (火)

「帰りたい」は一切なし

4年前の2018年5月10日は木曜日、この日は午後3時に母の病室に介護認定の担当者が来ることになっていました。

その前の午後2時頃、医師と母の現状と退院の話をする予定になっていました。

そのため午後2時頃に母の病室に行くと母は寝ていましたが、起きてからは前日と違って意識がしっかりしていました。

「トイレに行きたい」というので看護師さんを呼ぶと、母は思ったよりも楽に車椅子に移動することができました。

その後の医師との話では、手術後の経過は順調で退院しても大丈夫だろうという回答をいただきました。

そのため少し急ぎすぎかとも思いましたが、翌々日の12日を提案したところ、許可していただくことができました。

母にその旨を説明して退院の意思を尋ねましたが「良く聞こえない」などと言いました。

このころの母はどこかイライラした感じで、この時も不満があるような表情で、ぶっきらぼうに答えました。

いずれにしても、以前入院した時にずっと呟いていた「帰りたい」という言葉は一切出てきませんでした。

おそらく母も、前日にリハビリの先生が言っていたように連休前の方が体が動いたので、自信を無くしていたのでしょう。

それで精神的に落ち込んでいるので、不機嫌でイライラしているのだと、当時の私は考えていました。

ただ前日も記したように、主に塩分をはじめとした栄養素不足の方が大きな原因だったのだろうと、今では思っています。

2022年5月 9日 (月)

退院を急ぐ悪い癖

4年前の2018年5月9日は水曜日、雨のち曇りの寒さを感じる日、午後3時から母のリハビリを見学することになっていました。

母の病室に行くと、母は寒いのかちゃんちゃんこを着たまま布団を被って寝ていました。

そこにリハビリの先生が現れたので再び母を起こそうとしましたが、やはり起きませんでした。

そのため、その場でリハビリの先生と話をすることになりました。

先生の感触では、退院しても大丈夫だろうということでした。

支柱につかまれば車椅子から立てるし、つかまっていれば右足を上げることもできるとのことでした。

ただ、このところ膝がガクッとなることがあり、連休前の方が状態は良かったとも言っていました。

それでもこの頃、私が母を早めに退院させたかったのは、母の認知が危うくなり、気持ちもイライラし始めたためです。

それは、筋力の低下で以前のように動けなくなって落ち込んでいる、気持ちの問題が最大の原因だと思ったからです。

今から考えると、退院したところで状況はそれほど変わらないのですが、私の悪い癖で居ても立っても居られなくなってしまったのでした。

それから母の状態の悪化の原因についても、この時は精神的な落ち込みに気を取られ過ぎていたように感じます。

つまり翌年の2019年8月頃にも同様の状態になり、塩分不足との指摘があったので、おそらくこの時も何か栄養素不足があったと思います。

2022年5月 8日 (日)

ベッドから転落の日

4年前の2018年5月8日は火曜日、朝7時頃に母が入院している病院から電話がありました。

この時私は電話に出ることができず改めてこちらから電話をしましたが、こういう時間の病院からの電話は嫌なものです。

その内容は、この日の朝に母がベッドの脇に落ち、体育座りのような格好で見つかったとのことでした。

母にケガはなかったようですが、時計が壊れたという話でした。

ついでに前日から考えていた、リハビリの進展具合と退院について看護師さんに話してみました。

そして、いつものように午後3時過ぎに病室に行くと、この日の母は意識もしっかりしていました。

午前中にリハビリをして、午後になってから少し前に体を洗ってもらったとのことでした。

「寒いからイヤだな」と思ったそうですが、終わった後には「気持ち良かった」と喜んでいました。

その後、夕食時に行った時には寝起きだったのか、母は無表情にひたすら食べていました。

食べ終わると「ごちそうさま」と言ったこと思うと、すぐに「トイレに行きたい」と言い出しました。

看護師さんに連れて行ってもらって帰って来ると「スッキリした」と満足そうでした。

この日もどことなく気分次第でイライラしている感じで、朝の出来事もあり、私は母の精神的な不安定さが気になっていました。

2022年5月 7日 (土)

お疲れの一日

4年前の2018年5月7日は月曜日、曇りのち雨の天気の中、午後3時15分頃自動車で母の面会に行きました。

母はベッドに横向きになって寝ていたので、トントンと肩を叩くと目を覚ましました。

ところが「まだ3時なら寝ている」と言って、身体を起こすことはありませんでした。

この日は久しぶりにリハビリに行ったはずなので、母も疲れているのだろうと思い、水筒を交換しただけで帰りました。

そして、いつものように夕食時に再び病院に行こうとすると、外は激しい雨になっていました。

そのため午後6時20分頃、また自動車で行くことにしました。

病室に行くと、母はベッドの横の縁に座って食べ始めようとしているところでした。

ただ、その姿勢は前後にも左右にも不安定で、いかにも食べづらいように見えました。

その上、意識はしっかりしているようでしたが、目が良く見えていないような感じでした。

ご飯を茶碗から掬おうとしてもほとんど掬えず、母は何もないフォークをしきりに口に運んでいました。

結局、いくらも食べないうちに疲れたのか、母は食事を終わりにしてしまいました。

看護師さんは、リハビリでは時々膝がガクッとなったが結構歩いていた、と話していましたので、お疲れの一日だったと思うことにしました。

2022年5月 6日 (金)

希望的観測とともに帰宅

4年前の2018年5月6日は日曜日、曇り空の中午後3時頃この日一回目、母の病室に行きました。

母は珍しく、自分のベッドにちょこんと座っていました。

「みんな寝ていて静かだから、自分も寝てしまいそうになるので座っている」と、言っていました。

トイレに行って「出た」とのことで、少しホッとしたような表情で窓の方を眺めていました。

いつものように一旦帰宅して夕食に合わせて行った二回目の面会時は、母は病室にはいませんでした。

そこに看護師さんが現れて「テレビの方にいますよ」と教えてくれました。

母は広間で同じ病室の人と、その他二人の入院患者と一緒に夕食中でした。

食事は既に済んでいたので、私が洗面所で口を漱がせてあげました。

その間に他の人たちを看護師さんが次々と部屋に連れて行って、母が最後まで待たされることになりました。

その前からこの夜の母は、少しイライラしている感じがありました。

それが待たされたことで、さらに不機嫌になったように思いました。

それでも、翌日からのリハビリの再開を母も分かっていたので、運動することで気分も変わるかな、という希望的観測とともに帰宅しました。

2022年5月 5日 (木)

「少し張り始めた」

4年前の2018年5月5日は土曜日、晴れて爽やかな天気でした。

この日も母に面会するために、午後3時頃と6時半頃の2回病室に行きました。

まず午後3時の面会時に母はベッドで寝ていたので、声を掛けると「今トイレに行ってきたところ」と言いました。

ただ、便秘が気になってきたようで「少し張り始めた」と言いながら、お腹を擦って見せました。

母と話をしている時に丁度姉からLINEが来て、この後面会に来てくれると知らせてくれました。

姉に母とゆっくり話してもらうために、私は20分ほどで切り上げて、母が着替えた洗濯物を持って一旦帰ることにしました。

その後、姉から連絡があり30分くらい母と話が出来たということでした。

いつものように午後6時半頃、私が再び母の病室に行くと、母はベッドの上で夕食を食べていました。

やはりこの日も寝起きのような感じで、あまり元気がないように見えました。

ただ、姉と話したことで少しは体力を使ったからか、食欲はいつもよりもあるようでした。

また「おしっこが少し変だと言われた」と母は言いましたが、詳しいことは分かりませんでした。

この日は姉が来て相手をしてくれたことで、心なしかいつもより母の意識がしっかりしているように思いました。

2022年5月 4日 (水)

脱水予防の重要性

4年前の2018年5月4日は金曜日、晴れの暑い日、この日も午後3時ごろ母の病室に行きました。

母はちょうどトイレに行ったところだと言って、起きていました。

前日同様に「暑い」と、口にしていました。

そして、トイレには今行ったが、午前中は行かなかったのではないかとも話していました。

本当なのかなと少し疑問に思いましたが、今考えるとこの頃から脱水に注意するべきだったのだと感じます。

この時は「水分を良く取るようにしてね」と伝えて、私は一旦自宅に帰りました。

そして、この日も午後6時30分頃に再び夕食中の母の面会に行きました。

母は夕方に私と話をした後に眠ったとのことで、寝起きのためか食欲が無いと言い、あまり食べていませんでした。

また、この時の入院中は夕食時に行くときに私は毎日、水筒に冷水を入れて持って行っていました。

この日も昼間は暑そうにしていたので、水分に注意するように言いましたが、母はそれほど水筒の水を飲んでいないようでした。

この後母は一週間余りで退院することになりますが、その後自宅で脱水症状を起こしてしまいます。

振り返ってみると、暑い日が続いたこの頃から脱水には注意しなければならなかったのでしょう。

2022年5月 3日 (火)

静かな病院

4年前の2018年5月3日は木曜日、南風が強く吹いていましたが、晴れて夕焼けのきれいな日でした。

この日は午後3時ごろ母の病室に行きました。

その時、母は眠っていたので声を掛けると起きて「暑い」と言いましたが、確かに病院の中は蒸し暑い感じがしました。

前日にはカテーテルを取りましたが、トイレには一回行っただけだと言っていました。

祝日のためか病院内はとても静かで、この日からの4連休は母の認知に対して少し心配になりました。

この日も一旦帰宅して、夕食の時間に合わせて再び面会に行きました。

母はトイレに行ったついでとのことで、車椅子に座った状態で食べていました。

夕食はほとんど終わっていて、いつものように持って行った冷たい水をおいしそうに飲みました。

母のラジオの点検をしながら、この日巨人が負けたことを伝えました。

母は「広島にはなかなか勝てないね」と残念そうに言い、最近の状況もしっかり分かっている様子でした。

しばらくリハビリが無いので体力的に心配なことは前日にも記しました。

そして、この日の病院内の静けさを知ると、今度は母の精神面も不安になってきました。

2022年5月 2日 (月)

連休前のハードなリハビリ

4年前の2018年5月2日は水曜日、この日もまず午後3時過ぎに入院中の母に面会に行きました。

母の話ではこの日にカテーテルを抜いたということでした。

また午前中に行ったリハビリが、いつもよりハードだったということも言っていました。

それは翌日からいよいよ4連休が始まるので、その間はリハビリが無いからだと言われたとのことでした。

やはり連休中はリハビリが無いことを知り、私の不安が的中したように思いました。

もちろん、それはやむを得ないことではありますが……。

そして、午後には久しぶりに体を洗ってもらったことを嬉しそうに話してくれました。

その後私は一旦ウチに帰って、母の夕食の時間に合わせてもう一度面会に行きました。

その際、母のラジオの電池を交換してあげたのですが、それを何故か自分のポケットに入れてしまいました。

そして運悪く、それに気づいたのが自宅に戻ってからでした。

この時私は迷いましたが、夜中の睡眠が浅いことが多い母が退屈するとかわいそうなので、この日3回目の面会に行くことにしました。

結局、私はこの日2万歩前後歩くことになりました。

2022年5月 1日 (日)

連休中の平日

4年前の2018年5月1日は火曜日、晴れた日でした。

ゴールデンウィークの中の平日ということで、母は久しぶりにリハビリをしたと言っていました。

内容は助手の人と2往復歩いたとのことで、疲れた様子でした。

このようにリハビリのある日は、比較的母の調子が良さそうに見えました。

逆に休日でリハビリが無いと刺激がないからか、認知を始めとして母の調子がイマイチの日が多かったように思います。

そのため、休日が続くこの時期は私にとって心配が絶えない日々になりました。

また、リハビリが本格的に始まったことで病院のケアマネージャーに、介護認定の変更の手続きをするように言われていました。

そのため主治医と話をする必要がありましたが、連休中は医師が不在のことも多く、思うようには進みませんでした。

さまざまな手続きは相手方が不在の場合には、こちらの都合通りにはなかなかいきません。

特に役所との手続きはいくら急いでも限界があり、介護関係では私もイライラすることがよくありました。

そういうことからゴールデンウィークは介護する側にとって、良い点は何もないように思います。

毎日が休日のような高齢者にとって、世の中の休日はあまり有難くないものだと実感しました。

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