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2022年4月

2022年4月30日 (土)

15年前のゼラニウム

今日はとても爽やかに晴れて、カラッとした湿気のない陽気でした。

春としては珍しく見通しも良く、富士山がはっきりと見えて本当に気持ちの良い日でした。

ウチの周囲では桜の花も終わり、藤の花もほとんど終わって、今ではツツジが見頃を迎えています。

ウチのベランダにもいくつか鉢植えの花があります。

母は花が好きな人で、私がウチのベランダに揃えた鉢植えを楽しんでくれて、時々花を摘んで食卓に飾ったりしていました。

それ以前、今の住まいに来る前は庭のある家に住んでいて、母が花々の世話をしていました。

転居する際に移動できるものは極力移しましたが、今でも残っているものは少なくなりました。

その中で今を盛りと咲き誇っているのがゼラニウムです。

このゼラニウムの鉢植えは、母が習字を習いに行っていた頃に友人から譲ってもらったと言っていました。

「斑入りのものは珍しいからあげるよ」と言われたと聞きました。

振り返ってみると、母が習字に行っていたのは80歳の頃まででしたので、それは15年も前のことになります。

今でも元気で、この時期にはどんどん花を咲かせてくれるので、母が見れば喜んでくれるだろうと思います。

2022年4月29日 (金)

ゴールデンウィークはいらない

今年もゴールデンウィークが始まりました。

子供の頃は休日が嬉しいものですが、年齢を重ねて身近な高齢者を世話していると休みが近づくたびに不安になります。

4年前の2018年の今頃は、母が脚の骨折で入院していてリハビリが本格的に始まった時期でした。

その頃は食事とリハビリが、母にとっての生活のリズムとして大切なものになっていると感じていました。

ただ、その病院では休日はリハビリが行われませんでした。

そのためカレンダーでゴールデンウィークの辺りを見ると、とても憂鬱になったものでした。

また、母は4人部屋の通路側のベッドで過ごしていましたから、太陽の動きで時間を知ることができませんでした。

そのためか、徐々に母は時間が分かりにくくなってきたようで、私はその点からも母の認知を心配するようになりました。

その頃は普通に会話はできていましたが、面会時に母が寝起きだったりすると『大丈夫かな?』と思う時もありました。

そのような状況でリハビリの休みが続くと、脚力の回復だけでなく母の精神的なものも心配だと思いました。

大体、病院は休日でも少ないながら看護師さんはいますが、医師が休みのところは多いのではないのでしょうか。

高齢者にとっては一旦筋力が落ちると回復が大変なので、一日おきくらいでリハビリができたら良かったと思うのですが残念です。

2022年4月28日 (木)

『いつもの母』

4年前の2018年4月28日は土曜日、この日も午後3時頃と6時頃の2回、母の面会に行きました。

昨日も記したように、本格的にリハビリが始まったり車椅子でトイレに行ったりと、母にも少しずつ動きが出てきました。

この時点での母の様子は家にいた頃とそれほど変化なく、ただ少し不安そうな口調で話している感じでした。

私も4人部屋の通路側にいる母の認知が大丈夫かと、不安な気持ちを抱きながら会いに行っていたことを覚えています。

この日の音声を聞いてみても元気さは今一つでしたが、それはウチにいた頃と同じように思いました。

それと比較して改めて感じたのが、施設での母は本当に元気で陽気だったということでした。

今でもはっきりとした理由は分かりませんが、施設に入所する頃の母は生涯でも一番明るく元気だったのではないかと思います。

特に目や耳の調子は明らかに良くなっていました。

それと同時に何をしても楽しそうに、いつも笑顔でニコニコしていました。

そして私が面会に行くと、待っていたようにその日の出来事を一生懸命に話してくれました。

当時は意識していませんでしたが、今から思うと私もそんな母に会いに行くのが楽しみだったのでしょう。

それと比較すると、骨折入院の時は『いつもの母』でした。

2022年4月27日 (水)

懐かしい4年前の母の声

4年前の2018年4月27日は曇りの金曜日、この日も午後3時頃と午後6時過ぎの二回、母に面会に行きました。

このころは退院に向けて体力の回復を図るために、車椅子でトイレに行ったり本格的にリハビリを始めた時期でした。

まだ始まったばかりで、母も帰宅に向けて元気が出たようで、それなりにやる気もあったように思います。

当時の音声を久しぶりに聞いてみましたが、少し耳が遠いように感じた他は自宅にいた頃と同じように話していました。

ただ、このころの声はどことなく静かで何か不安があるような感じがしました。

その後母は、ゴールデンウィーク明けに一旦退院します。

ところが、自宅で二週間ほど過ごすうちに、意識を失って再び入院をすることになります。

その入院中に今度はすっかり元気になり、今まで見たことがないほど陽気な母が現れます。

その母の様子を見て、私はこれなら施設に入ってもやっていけると思い、母に施設への入所を勧めました。

最初は母は家に帰りたがっていましたが、少しするとすっかり施設に馴染んで楽しそうに毎日を過ごしてくれました。

その頃の話し声は明るく元気で力強さがありました。

施設での明るい声と違って、久しぶりに聞いた4年前の母の声は、やはり少し気持ちが落ち込んでいたのかなと思いました。

2022年4月26日 (火)

帰宅に向けてのリハビリ

4年前の2018年4月26日は木曜日、爽やかな晴天の中、午後3時10分頃母の病室に面会に行きました。

母はちょうどリハビリから帰って来たところで、車椅子に座っていました。

そして、その前にはナースステーションでリハビリの先生に会って、前日に話した内容の書類も受け取りました。

母は「今日は手すりにつかまりながら2往復した」と話してくれました。

また、リハビリの前にはトイレに行って軟らかいものが少し出たと言っていて、体調は良さそうでした。

少しずつ体を動かすようになり、母にも元気が出てきたように感じました。

いよいよ帰宅に向けてのリハビリが本格的に始まったようでした。

私はこの日も一旦帰宅して、再び午後6時30分頃の夕食時に面会に行きました。

母のところにはまだ夕食が来ていなかったので、待っている間に久しぶりにCDで演歌を聞かせてあげました。

母が2曲ほど聞き終わった時に、母のテーブルに夕食が届きました。

夕食は夜勤の看護師さんたちが用意してくれるのですが、一つのフロアを3人で賄うため大変に忙しそうな様子でした。

病院にしても施設にしても夜勤は大変だ、という場面は何度となく目にしたものでした。

2022年4月25日 (月)

手術後2週間、順調な経過

4年前の2018年4月25日は水曜日、午後3時15分頃母の病室に面会に行きました。

母はちょうど看護師さんに手伝ってもらいながら車椅子に乗ろうとしているところでした。

手術後初めてトイレに行ってみるとのことでしたが、結構スムーズに車椅子に座りました。

母がトイレに行っている間に、私はリハビリの先生と話をすることになりました。

先生からは、まず現状の説明があり、次に今後の希望について質問がありました。

それに対して私は「家のトイレを使えるようになることが最大で唯一の希望です」と答えました。

そして母の病室に戻ると、母はトイレから戻って来ていて「スムーズに出た」と笑顔で教えてくれました。

また、このころの母はよく痰がからむことがあり、私は気になっていたので出させてあげようと思っていました。

深呼吸をして出すように要領を教えてあげると、母は「初めて痰を出した」と言いながら喜んでいました。

その後一旦帰って、再び夕食時に行くと、「血糖値は80いくつだって」と母は言っていて、血糖のコントロールも順調でした。

また、この日は昼前にリハビリをして、昼過ぎには抜糸をしたことを教えてくれました。

リハビリをしたり車椅子でトイレに行った効果もあってか、この日も母の食欲は旺盛なようでした。

2022年4月24日 (日)

「あら、そうだったかね」

介護生活が続いていると、その段階に応じて生活の内容も変わってくるものです。

いろいろ変化すると、それ以前のことを忘れてしまうのは普通のことのように思います。

私も母が施設に入所した後、かつての家での生活をいろいろと忘れていました。

例えば、その時々に必要を感じて母のために買ったものも、後で見つけて『これは何だろう?』と考えることがよくありました。

特に残った薬の整理をしていて大量に見つかったものを見て驚いたことがあります。

それは便秘薬でしたが『そういえば毎回たくさん持ち帰ったな』と思い出しました。

また、母が家での生活でいつも気にしていたのが、便秘の他には血圧と血糖値でした。

血糖値に関しては、一日三度の食事前にインシュリン注射をしていました。

私の記憶では、それはおそらく20年ほど続けていたと思います。

あるとき母が施設の看護師さんに「このお腹のブヨブヨどうしたの?」と聞かれていたことがありました。

そこで私が「長い間インシュリン注射をしていた場所なので、その影響だと思います」と答えておきました。

ところが、それを聞いた母は「あら、そうだったかね」と、自分がインシュリン注射をしていたことをすっかり忘れていました。

2022年4月23日 (土)

散歩に行くタイミング

今日は最高気温が27℃にまでなりました。

最近は、冬の寒い季節から春を一瞬で通過してすぐに夏が来てしまうような感じがします。

桜が散ったばかりの4月とはいえ、今日の日中は半袖で歩く人がほとんどでした。

ところで、私は母が施設に入所していた2019年の4月、母を散歩に連れて行くタイミングを探っていました。

この年の3月には母は入院していて、退院が4月に入って桜が散るころになってしまいました。

この時母は既に91歳で、定期的な血液検査では貧血気味の状態が続いていて、私はその点をかなり気にしていました。

ウチにいた頃の母は窓辺で日光浴をしていて、左側の頬は日焼けでシミができているほどでした。

ところが施設に入所後は外出することもなく、日に当たることもないので顔色はすっかり白くなってしまいました。

ですから私は、母に日光浴をしてもらうために散歩に連れて行きたいと考えていたのでした。

施設の医師から許可は取っていたので、その気になればいつでも行ける状況ではありました。

それが母の退院後はまもなく暑くなり、母が強い日光を嫌うこともあって様子を見ているうちに、実際に散歩に行ったのはその年の秋でした。

今日も日差しが強かったので、もし母を散歩に誘っても母は断ったかもしれないと思いました。

2022年4月22日 (金)

思わぬ長生き

4年前の今頃、2018年4月は母が脚を骨折して入院していました。

そしてこの入院により、その後の母の生活はそれ以前のものとは全く異なるものとなってしまいました。

また、この時の入院以降、私はその時々で状況の変化に動揺するばかりでした。

それでも今では総合的にみて、これ以後の母の人生は思っていたよりもはるかに良かったと考えています。

母は若い頃から腎臓が悪いために血圧の薬を服用していて、さらに70歳頃からは糖尿病で食事前にはインシュリンを注射していました。

そのためか、母は自分自身それほど長生きはできないと考えていたようでした。

晩年は誕生日を迎えるたびに「こんなに長生きできるとは思わなかった」と言っていたりしました。

また、曾孫と会った後には「まさか曾孫の顔を見られるとは思わなかった」とも話していました。

そんな母が最晩年は施設で生活することになりました。

母をウチで介護していた頃には、デイサービスに全く興味を示さなかったこともあり、母にとって施設での生活は難しいと思っていました。

ところが、骨折入院の後に体調を崩して再入院したところ、母は意識を回復しただけでなく陽気で楽しく毎日を過ごすようになりました。

そして、その状況のまま施設に馴染んでくれたので、一年半足らずでしたが、私にとっても楽しい時間を送ることができました。

2022年4月21日 (木)

『いつ何が起きるか分からない』

仕事先のマンションに、私によく声を掛けてくださるご夫婦がいます。

そのうちの御主人が昨日、内視鏡で検査をするために入院をしたということです。

今日、そのように話をしてくれた奥様の表情がとても印象的でした。

検査入院ですから予定していたこととはいえ、いつもの明るさは見えず、どことなく寂しそうに感じました。

一緒にいることが当然だと思っていた人がいない時間を過ごすことは、とても切ないものだろうと勝手ながら思いました。

もちろん長い人生の中では時々そのような事態が起こります。

特に高齢になるほどその可能性が高くなります。

私も母の介護を経験して実感したのは、『いつ何が起きるか分からない』ということです。

病気や事故などで具合が悪くなると、それ以前とは状況が変わってしまいます。

いずれその変化した状況には慣れますが、逆にそれまでの状況を忘れてしまうことも多いものです。

もちろん変化に適応していくことは大切ですが、それ以前の記憶が薄れていくのはどことなく寂しいものでした。

先の御主人には無事をお祈りしますが、話を聞いて永遠には続かない幸せの大切さを改めて考えてしまいました。

2022年4月20日 (水)

記録して良かった

このところ母が脚の骨折で入院した4年前のことを振り返っています。

さすがに4年前のことですから、私の記憶もかなり怪しくなっています。

ただ、この入院時に私はICレコーダーを購入し、そして日記を書くようになりました。

当時母は既に90歳になっていたので、入院や手術ということになると、何時の会話が最後になるか分からないという思いがありました。

そのため、会話を録音して記録しようと思ったわけです。

今になってそれが役立っていて、この時期の母の入院時に私は一日に二回面会に行っていたようです。

それ自体あまり覚えていませんが、この時は私にも時間があったので片道30分程度の病院に二回通っていたのでしょう。

若かったから出来たのだという思いとともに、それだけ心配だったのだと改めて思いました。

また、4年前の記憶が蘇ると同時に、それ以前の記憶も少しずつ思い出せるようになった気がします。

介護の状況が変わると、それ以前にやっていた日常のことが思い出しにくくなったように思います。

ところが記録したものがあれば、それを縁に遡ることもできたでしょう。

結局、私が母のことについて記録したのは最後の2年弱に過ぎませんが、それだけでも本当に良かったと今では思います。

2022年4月19日 (火)

大きな意識や気分の幅

4年前の2018年4月19日は晴れた木曜日、午後3時ごろ母の病室に面会に行きました。

前日母が興味を示していたスポーツ新聞を途中のコンビニで買って行きました。

ところが、この日の母は元気そうに起きていたにもかかわらず、新聞はあまり読もうとしませんでした。

この頃は意識や気分的なものが、日によって違っていました。

本人の話によると、この日はリハビリを兼ねて車椅子で食堂まで行ってお昼を食べたということでした。

また、良い天気だったのでリハビリルームで窓を開けたところ、風が強かったと言っていました。

そしてそのため、先生がすぐに窓を閉めたのだと、教えてくれました。

とりあえず元気な母と話ができて安心したところで、午後4時頃に一旦帰ることにしました。

その後再び午後6時過ぎに行くと、既に夕食の支度ができていました。

そして、母はそれをいかにも寝起きのような顔をしながら食べていました。

母に声を掛けると、それが夕食であることがよく分かっていないように感じました。

一日の中でも意識や気分が大きく異なるのは、病室で過ごす以上やむを得ない部分はありますが、私の中で不安が大きくなっていきました。

2022年4月18日 (月)

リハビリしてスッキリした顔

4年前の2018年4月18日は水曜日、午後3時ごろ母の病室に面会に行きました。

この日はここ数日とは異なり、母はなかなか良い表情で迎えてくれました。

話を聞くと既にリハビリを済ませたとのことで、スッキリとした顔をしていました。

また、私が持参したスポーツ新聞を見せると、母はそれを興味深そうに読んでいました。

次に、やはり持参した大きなカレンダーでこれまでの経過を遡ってみると、大体のことは母も覚えていました。

その中で今日は水曜日だという話が出た時、母はお気に入りのテレビ番組のことを気にしていました。

それは歌手の五木ひろしが司会をする歌番組で、BSで放送されるので入院後は見ることができなくなってしまいました。

いろいろと記憶もまだしっかりしているようで、私も安心しました。

この日は一度家に戻り、夕食の頃また面会に行くと母は眠っていました。

入院中はベッドの上なので、どうしても生活のリズムが崩れてしまい、意識がはっきりしている時とそうでない時の差が大きくなります。

この日はリハビリに行った後の、はっきりした意識の母に会えて嬉しく思いました。

入院中もその後の施設でも、リハビリをした日は母の元気さが全く違っていました。

2022年4月17日 (日)

見当識障害の症状

4年前の2018年4月17日は火曜日、この日は午後3時ごろに母の面会に行きました。

この日は再び病室が替わっていて、二人部屋から四人部屋になっていました。

前日既に時間や場所の認識が心許なくなっていたので、この部屋の移動は更に心配の種が増えるものでした。

そのためか前日ほどではないにしても、母はこの日も何かを見たと話していました。

やはり『せん妄』というのか、何か思い込みが激しいような状態になっていました。

それでも普通に会話はできて、リハビリを兼ねてトイレに行ってみたことを教えてくれました。

ただ、トイレに行っても中では一人ではできないと言っていました。

その後、ベッド上で簡単なリハビリをした後に姉が面会に来てくれました。

この日は話をしていると、少し痰がからみ出していたのが気になりました。

それでも体調より認知が心配で、調べてみると『見当識障害』の症状ではないかという気がしました。

いずれにしても患者の家族として勝手なことを言えば、こういう時に病室を移動して欲しくはなかったです。

病院の都合もあるでしょうが、患者の精神状態を悪化させて却って手間がかかっていることもあるように感じます。

2022年4月16日 (土)

「こんなところで寝たくない」

4年前の2018年4月16日は月曜日、夕方に母の病室に行きました。

ただ、この日は母の様子が少しおかしくなっていました。

4日前の手術以後ずっと同じ部屋にいるのですが、この日に初めて来たようなことを言い始めました。

また「こんなところで寝たくない」と、ぞんざいな態度で不機嫌そうに言いました。

ところで、母が脚の骨折で入院した時に病院から受け取った説明書きには、『せん妄』という文字がありました。

この時はそれを思い出して、このような状態を『せん妄』というのかな、と考えました。

母はこの後もいわゆる認知症にはなりませんでしたが、時々このように時間や場所が分からないような時がありました。

それ以外には、天井や壁、カーテンを見て「誰かいる」と言うことも時々ありました。

ただ、この時はその他に、母がいかにもご機嫌斜めなので戸惑った記憶があります。

2018年4月から5月頃は気分的にイライラしていることが時々あったようですが、その後施設に入所した後はほとんどありませんでした。

今では、塩分不足でこのようになることもあり得ると医師に聞きましたが、当時は『どうしたのかな?』と思うばかりでした。

毎日面会に行っては、その時の母の状態に振り回されてオロオロするばかりだったことを思い出します。

2022年4月15日 (金)

『のど自慢』と『笑点』

4年前の2018年4月15日は日曜日、お昼の時間に合わせて入院中の母の面会に行きました。

この日はNHKの『のど自慢』に、母のお気に入りの五木ひろしがゲスト出演するので、テレビを準備してあげました。

これまで病室ではテレビを見ませんでしたが、ベッドで起き上がれるようになったので試してみようと思いました。

ちょうど昼食の時間に当たりましたが、母は食べながら結構真剣な表情で画面を見つめていました。

また、時々笑ったりしていて、私が思っていたよりも楽しそうに見てくれました。

そのため、この日は日曜日なので夕方にもう一度行って『笑点』と見せてあげようと思いました。

ウチにいた時に欠かさず見ていた『笑点』を、母はお昼に見た『のど自慢』と同じように楽しそうに見ていました。

ただ、この時間は眠くなるのか、画面を見ながら時々居眠りをしていました。

ウチで過ごしていた頃の母は、ほとんどの時間テレビの前にいましたが、この時のように居眠りをすることもよくありました。

病院や施設では退屈だろうと思ってテレビを用意しましたが、私が期待したほどには見ることは多くありませんでした。

自分で準備できない上に、あまり見なくなると興味も薄れていったように感じました。

どちらかと言えば、テレビよりもラジオというのがこの頃からの母の楽しみだったように思います。

2022年4月14日 (木)

『すぐに病院に来ていればなぁ』

4年前の2018年4月14日は母の手術から2日目、母の体調は良さそうでした。

ただ前日の血液検査で、ヘモグロビンの値が低かったということで輸血をします、と主治医が言いました。

その輸血中にリハビリの先生が現れて「来週から本格的にやりましょう」と言ってくれました。

また、この日は土曜日でしたが、主治医の先生も次週から車椅子で動くことを予定している、とも話してくれました。

ところで、母が椅子から転落した日から、脚の骨折が判明し入院するまでに十日間かかりました。

母の話では、特に椅子から落ちた時の痛さは半端ではなかったそうです。

私には手術から二日目までの順調な経過を見ると『すぐに病院に来ていればなぁ』という思いはありました。

ただ、母が「病院に行きたい」と言わないと実際に連れてくることはできませんので、それまで十日が必要だったということでした。

おそらく高齢者の骨折や手術は数多く、病院側も慣れたものという感触がありました。

そして寝たきりを防ぐ意味もあるので、なるべく早くリハビリを始める、ということも聞きました。

ということで、これまで心配ばかりしていましたが、リハビリも始まって順調に回復しそうだな、と気持ちはかなり落ち着きました。

ところが、思いがけず特に精神面が問題となり、そんなに簡単に回復するものではありませんでした。

2022年4月13日 (水)

一人部屋から二人部屋へ

4年前の4月13日は母が脚の手術をした翌日で、午前10時過ぎに一度面会に行ってみました。

母は元気で、朝食を「たくさん食べた」と言っているところに主治医が現れ「朝食をたくさん食べる人は珍しい」と言っていました。

また、主治医の話ではこの日に血液検査をして必要があれば輸血をするということでした。

私は手術自体をかなり心配していたので、元気な母の姿を見て一先ず安心することができました。

ただ、実際に大変だったのは手術よりもその後だったことは昨日も記しました。

母は手術前は個室にいましたが、手術後は二人部屋へ移動しました。

その後に四人部屋へ移ることになりますが、病院の都合でやむを得ないのでしょうが、こうした移動は結構重要だと思います。

というのは、母の入院時に高齢者の入院に関する注意事項を書いたものを病院から受け取りました。

その中に『せん妄』という言葉が書いてありました。

その時点で私は『せん妄』とは何か知りませんでしたが、母は入院が長くなるにつれて確かにそのような状態になっていきました。

当時は、ずっと最初の個室に居れば違ったのではないか、などと思ったものでした。

いずれにしても、入院する時は原因となる病気やケガだけでなく、心身の他の部分にも注意が必要であることを実感しました。

2022年4月12日 (火)

術後の生活こそ心配

4年前の2018年4月12日午前中に、母は90歳で脚の手術を受けました。

その数年前に、私は知人の母親が90歳で脚を骨折して手術をするという話を聞きました。

当時の私は90歳の高齢者が手術するのかと驚いたものでした。

ですから母が同じ手術をすることになった時、『もう終わりかもしれない』と悲観的になったものでした。

そのため、母との最期の時がいつ来るか分からないという思いから、入院時からレコーダーを用意して面会していました。

ところが実際は、母が手術室に消えて病室で一時間ほど待っていると、母は戻って来ました。

主治医の話では手術自体は10分程度で終わったそうで、私も少し拍子抜けする感じでした。

幸いに母の手術は特に問題もなく無事に終わりました。

それでも母には持病があり、たくさんの薬を服用していて、手術後には輸血が必要になりました。

やはり簡単な手術でも何が起こるか分かりませんし、特に高齢者にとっては術後も心配でした。

結局、母の場合は手術前よりも手術後が何倍も大変なことになりました。

私が得た教訓としては、『骨折の手術は心配いらないが、術後の生活は心配しておいた方がいい』ということです。

2022年4月11日 (月)

ケガの功名

4年前の2018年4月11日は母が脚の手術をする前日で、面会に行くと母は「お風呂に入ってサッパリした」と言っていました。

母が身体を流水で洗ったのは、おそらく一緒に温泉旅行に行っていた頃以来だったと思います。

それ以降はタオルで身体を拭いてあげていましたが、それもいつ始めたのかはっきりとは覚えていません。

そもそも母は80歳くらいの頃に腰を痛めたことをきっかけに、一人では浴槽に入らなくなりました。

暫くは自分で身体を拭いていたようですが、いつからか私が背中や脚などを拭いてあげるようになっていました。

そして、85歳くらいまでは叔母と温泉に行った時だけ浴槽に入っていたわけです。

そんな母が脚の手術を前に入浴させてもらったことを、笑顔で嬉しそうに話してくれたので私も嬉しくなりました。

おそらく、この時の母は脚が不自由な人が入浴できるとは思っていなかったのかもしれません。

思いがけず入浴ができ、その上とても気持ちが良かったので笑顔がこぼれていたのだと思います。

ただもしかすると、今でも障害のある人が入浴できることを知らない人は多いのかもしれません。

その後の母は施設でも週二回入浴をして、またそれをとても楽しみにしていました。

ウチで介護している頃は入浴できなかったので、この点は文字通りケガの功名だったのかもしれません。

2022年4月10日 (日)

脚をケガして1年9か月後

13年ほど前に亡くなった父の命日が今日10日です。

父は84歳まで畑仕事を続けていたほど元気な人でした。

ただ脚にケガをして、脚を引きずって歩くようになってからは引きこもりがちになってしまいました。

そして、脚のケガから1年9か月後に亡くなりました。

父のことを思い出すと、母のようには熱心に面倒を見てあげられなかったことを残念に思います。

日本の介護保険は2000年から始まったそうですが、父がケガをしたのは2007年でした。

父が脚を引きずって歩いていたことを思えば、当然介護認定をしてもらうべきだったと今では思います。

ところが当時は私にも知識がなく、誰にも教わることもありませんでした。

その点、母の時には父の前例があったこともあり、早い時期から介護認定をすることができました。

やはり介護だけではありませんが、知識や経験は少しでも多い方が助かります。

父が実際に介護保険を使ったかどうかは分かりませんが、少しは元気を取り戻せたかもしれません。

それから、これを記している最中に気づいたのですが、そういえば母も脚のケガから1年9か月後に亡くなりました。

2022年4月 9日 (土)

「きれいな桜だった」

今年も桜が散り始めました。

2018年には桜が咲き始めた3月23日に母が椅子から転げ落ちました。

その四日後の27日には満開になった桜を見るために、結果として最後になるドライブに母と出かけました。

そして4月2日に母は脚の骨折で入院しましたので、2018年の桜はその後は見ることができませんでした。

翌2019年は3月の桜の開花時期に母は入院していて、『今年の桜は見せてあげられるかな?』と私はやきもきしていました。

そんな中で、そろそろ退院かという頃に母は感染症に罹り、退院が4月にずれ込んでしまいました。

結局、ほとんど葉桜となってしまった頃に母は退院して施設に移りました。

入院が思いがけず長くなったことで、施設では再びほとんど毎日リハビリが行われるようになりました。

初日のリハビリで母は、リハビリルームの窓を開けてもらって外の桜を見たと言いました。

「ほとんど葉桜だったでしょ?」という私の問いに、母は「きれいな桜だった」と答えてくれました。

そして「今年の桜が見られるとは思わなかった」と、笑顔で続けて言いました。

いろいろと大変なことがあった前年を思い出していたのか、母は感慨深そうに微笑んでいました。

2022年4月 8日 (金)

「今日もここに泊まるの?」

2018年7月に母はいわゆる老健に入所しました。

家にいた頃の母はデイサービスにも興味を示さず、慣れない場所を嫌う傾向もあるので、ほとんどウチで私が面倒を見ていました。

しかしこの時は、その前に入院していた病院で母は、すっかり元気で陽気になったので施設でもうまくやっていけるかも、と私は思いました。

結果として母は施設での生活を楽しんでくれました。

それでも最初の一週間から十日ほどは、少し怖がっているような感じもありました。

私は施設にほぼ毎日、夕方に面会に行っていましたが、母は初日から元気な声でいろいろと話をしてくれました。

その日に経験したことを思い出しながら、私に伝えたくて仕方がないというような話しぶりでした。

もっとも、話の内容は思い込みによる間違いもありましたが、とにかくたくさん話してくれました。

そのように母が新しい生活について興奮気味に話す様子は、私を安心させてくれました。

ただ、1時間ほど面会して私が帰ろうとすると、それまで笑顔で話をしていた母の表情が変わりました。

「今日もここに泊まるの?」と、私に尋ねる母の顔は何かを恐れているように見えました。

私が帰ろうとすると母がこのような表情になるということが、一週間から十日ほど続いたように思います。

2022年4月 7日 (木)

次の行き先

2018年7月に母は病院から、同じ建物内の介護老人保健施設に入所しました。

その前月の6月に入院中だった母は元気を取り戻し、陽気で明るくなりました。

それを見て私は、これならば母の次の行き先として施設でも大丈夫かなと思いました。

というのは、ウチにいた頃の母はケアマネージャーが勧めてくれたデイサービスですら全く興味を示しませんでした。

私も介護離職していましたから、母にその気がないのであれば行かなくていいだろうと考えていました。

ところが、母が入院中に予想以上に元気になり、私が見学した施設も良さそうだったので、勧めてみようと思いました。

その時に施設の話を聞いた母は、あまり乗り気ではない感じがしました。

はっきりとは言いませんでしたが、どちらかといえばウチに帰りたいような口ぶりでした。

それでも退院と同時に隣の施設に移り、一週間ほどは夕方になると帰りたがっていましたが、その後はすっかり施設の生活に馴染んでくれました。

今となっては、母が晩年を施設で過ごして良かったと思っています。

私も元気で楽しそうに過ごしている母に会いに行くのが楽しみでした。

ただ、施設に入所後は母が一度も帰宅しなかったことは少し残念ですが。

2022年4月 6日 (水)

気持ち次第で効果が違う

2018年5月に意識不明で入院した母は、6月にはすっかり元気になりました。

病院で看護師さんたちと話をして笑ったりしていて、もしかすると生涯で一番陽気なのではないかと思うくらいでした。

するとリハビリにもやる気が出て、毎日楽しみにしていたようでした。

ある日私が面会に行くと、ベッドに仰向けになった母が両腕の屈伸運動をしていました。

この時の入院は意識不明からしばらくの間、ずっと横になっていたので上半身から運動を始めていたようでした。

母は「洗濯ばさみを使った運動もしている」と話していました。

それは誰か他の人と一緒にやっているようで「小さい子と一緒だから負けるわけにはいかない」と言いながら笑っていました。

その後、脚の運動をしている時期には担当の先生が「前の入院の時とは本人のやる気が違う」と話してくれました。

そして、6月中にはリハビリの成果を私が見る機会がありました。

緊張した面持ちの母が両手で手すりを掴んで立ち上がり、5メートルほどの距離を2往復歩きました。

その時のリハビリルームは音もなく何処か厳かな雰囲気の中、私は涙が出そうになるほど感動しました。

同時に、同じ運動をするのでも気持ち次第でこんなにも効果が違うのか、と改めて思いました。

2022年4月 5日 (火)

「今回はやる気が違います」

ここ数日は、介護をする上では介護をされる人の精神状態がとても重要であるということについて記しています。

2018年4月に脚の手術をした母は5月に退院しましたが、約二週間後に意識不明で再び入院することになりました。

そして入院の二日目に意識を回復した母の状態は、しばらくは一進一退の様子でした。

その後6月に入って徐々に体調が良くなってきたようで、リハビリも順調に進んでいたようでした。

同時に気持ちも安定してきて、面会に行くといつも陽気に話してくれたものでした。

母が元気になった原因についてはっきりしたことは言えませんが、いくつか思い当たることはあります。

一つは私が主治医にうつ病対策をお願いしたことです。

それから、看護師さんたちが気さくに母の世話をしてくれていたこともあります。

他には、この時は脚だけでなく一からリハビリをすることになり、母がリハビリを楽しんでいたことも大きかったと思います。

おそらく、脚のリハビリの時は思うように歩けずに焦っていたのではないでしょうか。

ところが、一から始めると毎日のように回復が目に見えるのでリハビリが楽しくなっていったように感じました。

「今回はやる気が違います」と、この時の母の様子を病院のリハビリ担当の先生が話していたことを思い出します。

2022年4月 4日 (月)

「もうダメなのかな」

昨日も記したように2018年4月、母は脚の骨折で入院することになりました。

ちょうど4年前のことになりますが、母は入院中に気分の落ち込みからか段々とイライラするようになりました。

また、4人部屋の通路側のベッドで過ごしていたこともあってか、時間の感覚などの認知の面でも不安が出てきました。

その状況を心配した私が主治医に退院の相談をして、手術から約一か月後の5月の連休明けには退院しました。

ほとんどリハビリも進んでいない状況で、家に戻って来ても母に元気は戻りませんでした。

その上食欲がどんどん落ちてきて、食べるよりも横になっていることが多くなりました。

そして退院から約二週間後に、母は意識を失って再び入院することになりました。

私は無理に退院させたことが失敗だったと後悔すると同時に、「もうダメなのかな」と考えながら入院の手続きをしました。

幸い翌日には母は反応を示すようになり、その次の日には意識も回復しました。

結局、この時は精神的なものだけではなく、塩分や水分の不足もあって元気が無い状態が続いていたようでした。

その後、この入院中に母は見違えるように明るくなり、リハビリも熱心に励んで元気になります。

この経験が私に、介護する上での高齢者の精神状態の重要性を教えてくれました。

2022年4月 3日 (日)

母もケガから

昨日は高齢者の精神状態に関して、父の例を挙げてみました。

今日は母の例も考えてみようと思います。

母は2015年11月に貧血を起こして救急車で入院しました。

この時は輸血をしたくらいで短期間で退院しましたが、この時期に要支援から要介護1ということになりました。

母の生活に特に変化はありませんでしたが、元々の持病があった上に、より大きく体調の不安を感じるようになったようでした。

杖を使って歩くようになって以来、母はほとんど外に出かけることはなくなっていました。

それがさらに引きこもりがちになったように思います。

そして、2018年4月に脚を骨折して入院した時はそれ以上に気落ちした様子でした。

この時は精神的なことだけではなく、水分や塩分の不足もあって体調自体も良くなかったようでしたが。

結局、体調不良に精神的な落ち込みが加わって、食欲不振から意識を失って再び入院してしまいました。

母が再入院したこの時に私は「もうダメかもしれない」と、正直思いました。

この時の経験から、介護生活では精神状態を重視しないといけないと、私は改めて認識しました。

2022年4月 2日 (土)

父のケガ

昨日は被介護者の精神状態に注意することの大切さを記しました。

実例を上げますと、私の父は畑を借りて野菜作りを84歳まで続けていました。

往復に自動車が必要なほどの少し離れた場所の畑に通っていて、元気に畑仕事をしていました。

ところがある日、耕運機を使用中に脚にケガをして、それがきっかけで脚を引きずって歩くようになってしまいました。

実は、そのケガをした日は畑仕事を止めるために後片付けをしていたということでした。

ですから、それ以降は畑に行くこともなく家に引きこもりがちになりました。

高齢者が家に引きこもると、運動不足から衰えが早くなるように思います。

実際に、あれだけ元気だった父も、この怪我の後は2年足らずで亡くなってしまいました。

今から思うと、父のケガの程度はリハビリをすれば脚を引きずらなくなったくらいだったかもしれません。

そしてもしかすると、普通に歩けるくらいに回復すれば、父ももう少し長生きできたかな、とも思います。

当時は私にも介護保険の知識もなく仕方なかったことですが、父には申し訳なかったと感じています。

そんな訳で、高齢者が精神的に落ち込むと身体的にも衰えが早くなったと思われるケースとして、父のことを記してみました。

2022年4月 1日 (金)

被介護者の精神状態を考える

介護は育児に似ていると思います。

また、逆に似ていない点も数多くあります。

もっとも異なるのが、終わりが見えないということでしょうか。

いつ終わるか分からないので、介護する人が耐えられずに悲劇に終わることが時々ニュースになったりします。

他には、育児と違って状況が改善することがほとんど考えられないことが上げられます。

それはつまり、一旦介護を始めると徐々に介護の内容が質量ともに厳しくなっていくということです。

そして介護者が疲れてしまい、最悪の場合にはいわゆる介護地獄と呼ばれる状況になる場合もあります。

ただ、これは介護される側から見ても、私には想像しかできませんが、辛いものがあるように思います。

例えば、私の母のように高齢になってから車椅子の生活になってしまうと、再び歩けるようになるのはかなり難しくなります。

それはやむを得ないことですが、当事者にとっては精神的なショックは大きいものがあります。

被介護者の精神状態が良くないと、介護状態の悪化に拍車がかかり介護者の負担がより大きくなってしまいます。

私の経験からしても、介護される人の精神状態を大事にしてあげることが大切だと感じます。

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