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2022年3月

2022年3月31日 (木)

「先生の声が小さくて聞こえない」

ここ数日は、母にとって辛い検査や治療はなるべく遠慮したいと思っていたことを記しました。

そしてそれは、おそらく母も同じように考えていたのではないかと思います。

実際、母にとって多少辛いこともあったでしょうが、私は出来る限りで上手くいったように思います。

ただ、晩年は主治医も私に話をするので、母にとっては寝耳に水のような事態もあったかもしれません。

この点については私も後悔することが少しあります。

それは、私から母への説明が足りなかったかな、ということです。

主治医が私に向かって話をするのですから、当然、私が母に言わなければ伝わりません。

ただ、母が自分の病状についてどこまで知りたいと思っていたのかは微妙なところです。

月に一度通院をしていた当時のある時、診察室で医師が説明をしてくれました。

診察室を出た後、私が母に「先生の話分かった?」と尋ねると「先生の声が小さくて聞こえない」と答えました。

確かに当時は少し耳が遠いと感じたこともありましたが、あまりはっきり知りたくないのかな、とも感じました。

また、毎月の決まった通院とはいえ、母はそれなりに病状の悪化が心配で不安なのかな、とも思ったものでした。

2022年3月30日 (水)

注文の多い患者の家族

昨日の内容にも関連することですが、病院に入院すると患者は治療をしてもらえます。

逆に言いますと、治療が必要でなければ病院にはいられなくなります。

そして、退院後も食事制限など持病の悪化を防止する対策を助言されたりすることもあります。

それらは当然のことではありますが、私の母はかなりの高齢者ですから複雑な思いがありました。

例えば、検査や治療により体力が消耗してしまったり、精神的に参ってしまわないかという心配がありました。

また、加齢による体力的な衰えの上に食事制限をすることで、老化が加速してしまうのではないかという不安もありました。

つまり自分勝手な話ではありますが、必要な検査や治療は希望するが、それ以外は好きなようにさせて欲しいというのが、私の気持ちでした。

おそらく、母の気持ちもそれほど違いはなかったと思います。

母の晩年は入退院を繰り返したり、施設に入ったりしてさまざまに制限されることがありました。

そして、いつの間にか母の体調に関することを私が決める場合が増えてきました。

病院や施設に対して、私はおそらく注文の多い患者の家族になっていたと思います。

ただ、振り返ってみるとその結果は母にとって良かったのではないか、と今でも私は自画自賛しています。

2022年3月29日 (火)

イヤな思いはさせたくない

前回は胃カメラの検査をせずに母を退院させたことを記しました。

2015年11月の入院当時、母は88歳の誕生日の直前で、もし胃がんでも見つかると却って厄介なことになるという思いが私にはありました。

例えば胃がんと診断されて手術が必要と言われた場合に、母が手術に同意するかどうか。

同時に精神的なショックで体調不良を起こしたらつまらない、という考えが私にはありました。

それまで母は年齢の割に元気で食欲旺盛でしたので、楽しみとしての食事ができなくなることは極力避けたいと思いました。

また、ここまで長生きしてきて今更辛い検査は必要ないのではないかとも考えていました。

母はこの後4年ほど生きましたが、私はこの後もそのような思いを持ち続けていました。

つまり、何らかの体調不良があっても、母が嫌な思いをしてまで生き永らえるのはどうかということです。

こういうことを母と話したことはありませんが、母も同じような考えだっただろうと感じています。

母の通院に付き添うようになってからは、医師や看護師の説明を私が聞くことが多くなりました。

そしてこの頃からは、母の身体に関することはほとんど私が決めていたように思います。

出来るだけ長生きして欲しいけれども「イヤな思いはさせたくない」、そのことを一番優先して決めていたつもりです。

2022年3月28日 (月)

胃カメラ拒否の理由

一昨日に引き続いて2015年11月の母の入院について記していこうと思います。

この時、母は救急で入院した病院で、輸血を受けました。

ただ、主な治療としてはそれくらいで、他には私が説明した入院の経緯から医師は胃カメラの検査を提案しました。

私が懸念していたステロイドの副作用であれば、内臓からの出血が最も疑われるからだろうと思います。

「吐血や下血をしたことはありませんか?」と、医師は私に尋ねました。

私は「はっきりとは分かりませんが、下血はともかく吐血はありません」と、答えたと思います。

当時母は食前にインシュリン注射をしていましたから、しっかり食べないと本人が低血糖の不安を抱えることになります。

そういう事情もあって、この頃も母は良く食べていたので吐血や下血はあまり考えられませんでした。

むしろ、数日前に足元がびしょ濡れになっていたことが関係しているのではないかと、私は思っていました。

確実なことは今でも分かりませんが、脚のむくみからかなりの量の体液が出ましたから全く問題ないわけはないと思いました。

いずれにしても、母が「帰りたい」と話していることもあり、胃カメラはお断りして、かかりつけの病院に相談したいと申し出ました。

胃カメラの経験は私にもありますが、どちらかと言えば、既に87歳で食欲旺盛な母にあの検査はさせたくない、というのが本当の理由でした。

2022年3月27日 (日)

桜並木へ最後のドライブ

先日、桜の開花宣言がありましたが、早くも今日あたりウチの近所でも見頃の時期がやってきたようです。

2018年の今日、3月27日は確か既に満開で見頃を過ぎようとしていた頃だと覚えています。

その4日前の3月23日に母は椅子から落ちていて、本人が言うにはその後は徐々に回復しているとのことでした。

その時母は既に90歳でしたので、たとえ脚のケガが無くても、あと何回桜を楽しめるか分かりませんでした。

もちろん本人がどのように考えているか確認はできませんでしたが、少なくとも私は母の体を心配しながらもそんなことを考えていました。

そこで、好天のこの日に私は母に「車で桜を見に行こうか?」と、誘いました。

まだ脚に痛みはあると言いながら、母は同意してくれました。

ウチから駐車場に行くためには、どうしても4段ほど階段を降りる必要がありました。

もちろん母もそれを理解していながら、出かけることに賛成しました。

ウチの近所には母も知っている桜並木があり、本当に満開で見事でしたが母は脚が気になっていたようで、反応は控えめでした。

それでも桜並木の周辺を2周し、私は母にきれいな桜を見せてあげることができて良かったと思いました。

結局、私と母とのドライブはこの時が最後になりました。

2022年3月26日 (土)

血圧の低下で意識不明に

前回の続きになりますが、母がトイレで気を失ったので私は救急車を呼ぶために電話を取りに行こうとしました。

ただ、気を失った母から手を離すとバランスを崩して倒れてしまいそうになるので、慌てたことを覚えています。

人の意識が無くなると、頭から倒れても受け身もしなくなるのだということを、この時に改めて実感したように思います。

それはともかく、何とか母の体を押さえながら救急車を呼ぶことができました。

電話を切った後、母のバランスが崩れて頭がガクッと落ちた時に母が目を開けて意識が回復しました。

それはあたかも、ちょっと居眠りをしていて目が覚めた時のような感じに見えました。

少しして救急隊が到着した時には母の意識は完全に戻っていたので、私はこのままでいいのではないかと隊員の方に話しました。

それでも母の血圧を測った隊員の方が「血圧が70しかない」と言うので、病院に行くことになりました。

おそらく血圧が下がっていたので意識が無くなり、頭が落ちた時に血流が戻り意識も戻ったということでしょうか。

結局、以前も記したように母は入院して、輸血などの処置をしてもらいました。

この時の貧血の原因はステロイド剤を止めてしまったことによる副作用ではないかと思われています。

この約2年半後に脚の骨折で入院するまで、こういった貧血が起こることはありませんでした。

2022年3月25日 (金)

母が気を失った夜

2015年10月の後半、母は本来飲み続けるべきステロイド剤を切らしてしまい、しばらく飲まないままでいました。

そのことと関係があるのか、救急車で運ばれる一週間くらい前から、母の脚がむくんでパンパンになってきました。

私もその状態をみて、夜寝る前に母に足湯を勧めたりした記憶があります。

また、当時私はまだ仕事に行っていましたが、ある夜母の足元を見るとズボンがびしょ濡れになっていて驚いたことがありました。

台所仕事も母がやっていましたので、母に「何かこぼしたの?」と聞くと「こぼしてない」という答えでした。

その後さらに脚のむくみが酷くなり、とうとうなかなか脚を曲げられなくなってしまいました。

当時母は布団で寝ていましたが、脚を曲げられないため私が手を貸して横になるようにまでなりました。

そういう状況の中で、夜中に母が「トイレに行きたい」と私を呼びました。

脚が曲がらないので一人で寝起きができないため、私が起こさなければなりませんでした。

私が母を起こして体を支えながらトイレに連れて行き、出てきた後、母は「目が見えない」と言って居間の椅子に座りました。

少しして、「もう一回行きたい」と言う母の体を抱えるように便器に座らせると、母はそのまま意識を失いました。

私は驚いて救急車を呼ぼうと思い、電話を取りに行きました。

2022年3月24日 (木)

「これは何ですか?」

度々取り上げている2015年11月に母が意識を失って入院した原因について、私はステロイド剤の副反応ではないかと思っています。

そもそも母がステロイドを服用し始めたのは、2015年7月頃だったと思います。

それは2015年5月頃に母の手足に水ぶくれができ始めて、しばらく私がガーゼや包帯などで手当てをしていました。

その頃の母は通院している病院の先生にはその症状を言いたくないというので、しばらく黙っていることにしました。

ところが、診察時に母の腕に巻いた包帯を先生が見つけて「これは何ですか?」と叫ぶように言いました。

そこで、これまでの経緯を説明して同じ病院の皮膚科を紹介していただくことになりました。

その結果「類天疱瘡」ということで、ステロイド剤を服用することになりました。

この「類天疱瘡」にはステロイド剤が良く効いて、母の水ぶくれはみるみるうちに小さくなっていきました。

ただ、この時期は糖尿病の検査の翌日に皮膚科に行くということになっていました。

私の仕事の都合もあり、糖尿病の検査には私が付き添って行きましたが、翌日の皮膚科には叔母に一緒に行ってもらっていました。

そして、2015年の10月の皮膚科の予定日には母が予定時間に起きられなかったとのことで、診察をキャンセルしてしまいました。

その時点で母の水ぶくれは全く無くなっていたので、そのままステロイドを飲まずに済ましていました。

2022年3月23日 (水)

椅子の転落から人生が動く

2018年3月23日の午後3時頃、ウチの居間で母が椅子から転げ落ちました。

隣室にいた私は床に座っていた母の両脇に手を入れて身体を持ち上げて、椅子に座りなおさせてあげました。

確かその時の母は照れ笑いをしていましたが、後になって「かなり痛かった」と言っていました。

私は内心『骨折しているんじゃないか?』と思いながらも平静を装っていました。

それは大事ではないことを望んでいましたし、母の性格からしてもおそらく病院には行かないだろうと思ったからでした。

その2時間後の午後5時頃には母が「トイレに行きたい」と言いましたが、どうも動けなさそうでした。

そのため、母を椅子に座らせたまま私がトイレに連れて行き、トイレの中以外は全介助という感じになりました。

『翌日の様子を見てからだな』と私は思っていましたが、その後数日は少しづつ良化している様子に見えました。

この日から今日で4年になりますが、短かったようにも長かったようにも感じます。

ただ、このころ母の体調は悪くなく持病の状態も安定していたので『骨折しなければ、まだ生きていたのではないか』と思うこともあります。

母が生きていれば現在94歳ですから、正直なところどうかと思いますが、可能性はあったでしょう。

いずれにしても、この時の椅子からの転落が母の人生はもちろんのこと、私の人生も動かすことになりました。

2022年3月22日 (火)

「帰りたい」

昨日取り上げた2015年11月の母の入院によって私は介護休職し、その半年後には介護離職することになりました。

母は入院前は要支援でしたが、この入院後は要介護状態になりました。

家には借りた車椅子を常時置くようになったり、トイレの手すりやベッドも借りて、少し生活も変わりました。

この時の入院では貧血ということで輸血をしましたが、主な治療はそれだけで4日ほどで退院しました。

母もどこまで深刻に考えていたのか分かりませんが2日目には「帰りたい」と、呟いていました。

貧血の原因は必ずしも特定できていませんが、おそらくステロイド剤の副作用ではないかと私は考えています。

そのことを入院先の医師にも話しますと、医師は「胃カメラで検査しましょう」と言いました。

ステロイドの副作用としては内臓からの出血というものが多いので、当然の反応でした。

ただ、母が「帰りたい」と言っていることと、入院前まで吐血や下血の様子はなかったことで私はお断りすることにしました。

その代わりに通院している病院で相談したい旨を申し出て、短期間で退院することを認めていただきました。

この時私が母の貧血の原因をステロイドの副作用ではないか、と考えた理由については更に遡る必要があります。

そして今、改めてこの時の入院を振り返ると、母にとっても私にとっても大きな事態だったのだと感じます。

2022年3月21日 (月)

他人事でない介護離職

5日前の3月16日に取り上げた、2015年11月に母が救急車で入院した時のことを引き続き記していこうと思います。

ただ、当時の私はまだ日記をつける習慣が無かったので、記憶している限りということになりますが。

この時の母の入院での最大の変化は、最終的に私が介護離職をしたことです。

当時働いていた職場はそこそこ年配の方が多く、時々介護を理由に退職していく人がいました。

それを見て私は「皆さん、大変なんだな」と思いながらも、何処か他人事だと感じていました。

ところが、母が入院することになって改めて考えてみると、母の世話は自分がする以外にはないことに気づきました。

その時の母は4日間で退院することになり、退院後の生活もそれ以前とそれほど変わりなく過ごせていました。

ただ、母は体調にどこか不安があるような感じで、特に食事はこれを契機に私が作ることになりました。

それまでは母が出来る限りの家事をしていましたが、これからは主に私が代わってするようになったわけです。

それでも私が作れるメニューなど限られていますし、また、歯が悪く糖尿病がある母が食べるものは余計に手間もかかります。

朝はパン、昼は麺類などで済ますこともできましたが、毎日夕方になると私の胃が痛み出すようになりました。

とりあえず、職場の方は介護休職をすることになりました。

2022年3月20日 (日)

「広いけど遠いところだな」

大きな地震をきっかけとして以前住んでいた家について考えていると、いろいろと思い出したことがありました。

結局50年近く住んでいましたが、建て始めたのは私がまだ小学生の頃でした。

建築中には時々、母と一緒に大工さんへのおやつを持って建築現場を訪れたことを覚えています。

また、建築前に地鎮祭を出たこともうっすらと記憶しているように思います。

その建築現場は、当時住んでいた場所からは歩いて5分くらいの距離のところでした。

それでも小学生にとっては「広いけど遠いところだな」と、思ったものでした。

確か建築後一年経過した頃だったと思いますが、ある日羽アリが大量に飛び交って驚いたことがあります。

それでも50年近くその家に住むことができて、数々の思い出はその家とともにあるといってもいいでしょう。

また、子供たちの成長とともに二階にそれぞれの個室を建て増してもらうなど、両親には感謝しています。

ただ、もともと一階は日当たりが良くなく、洗濯物を干すために母は毎日階段で二階に行っていました。

そして、いつからか一階に洗濯物用の乾燥機を備えて、母は二階には上がらなくなりました。

母の高齢化と日当たりの問題で、地震が無くても自宅の建て替えを考えざるを得ない時期が来ているのは確かでした。

2022年3月19日 (土)

持ち家からの転居

2011年3月11日のことを2日間振り返りましたが、今日もその続きです。

このころの母は杖を使って歩けるくらいで、まだ元気でした。

実際、ほぼ毎月のように温泉に旅行に行っている時期でした。

ただ、自宅が母よりも年老いている感じで、既に築45年になっていて所々床が抜けるようになっていました。

そんなこともあって、職場で大きな地震に遭った私は自宅に居る母を心配したわけでした。

幸い、地震による被害はほとんどありませんでしたが、今後自宅をどうしようかと真剣に考えるきっかけにはなりました。

とりあえず持ち家があると、リフォームしながらなんとか住み続けたいと思うものでしょう。

ただ、もう一度大きな地震があったら怖いな、という感覚はありました。

それでも新しい転居先を決めたのは、それから3年余りを経過した2014年6月頃のことでした。

そして実際にそこで生活を始めたのは、さらに半年近く後の2015年1月のことになりました。

大きな出来事があると、このままでいいのかと考えますが、喉元過ぎれば熱さを忘れるもので、しばらくは自宅での生活が続いていました。

結局転居をしたのは母の体調が悪くなり、紹介された総合病院に行く予定の前日のことになりました。

2022年3月18日 (金)

2011年3月11日のこと

昨日に続いて東日本大震災の頃のことについて、記憶を辿りながら記してみることにします。

その時私は仕事中で、築45年を超える自宅に母が一人でいるため、とても心配したものでした。

職場から携帯で何度か電話をしても繋がらず、他の人たちもほとんどが繋がらない状態でした。

運良く午後4時過ぎには帰宅できることになり、徒歩で約3時間ほどの道のりを歩くことにしました。

途中の建物を見てもほとんど被害はないので、ウチも大丈夫だろうと少し安心しながら歩いていました。

1時間ほど歩いたところで公衆電話が見つかり、家に電話するとすぐに繋がり母と話をすることができました。

母は「怖かった」と言っていましたが、無事が確認できたことで気分は楽になりました。

思っていたようにウチまでは3時間ほどかかり疲れましたが、これといった被害もなくホッとしました。

気付いた被害としては、トイレのタイルにヒビが入っていたくらいだったようでした。

その当時、母はまだ要介護の状況ではなく、確か要支援1だったと思います。

私も定期的な通院の送り迎えはしていましたが、母は自分で杖を使って歩いているという状態でした。

80代半ばでしたが、洗濯や炊事などの家事もまだ母が普通にできるほど元気な頃でした。

2022年3月17日 (木)

蘇る東日本大震災の記憶

昨夜大きな地震がありました。

11年前の東日本大震災の時のように長く揺れていました。

震源も当時と近く、福島や宮城では震度6強の地域もあり、規模は小さいながらも津波も来たようです。

そして、やはり誰もが11年前のことを思い出したようです。

11年前の3月11日午後2時46分、私は仕事で外にいましたが、当時築45年ほどの自宅にはまだ介護が必要ない頃の母が一人でいました。

地震の後は電話がなかなか繋がらず、私は確か職場を午後4時半ごろ自宅に向かって帰ったように思います。

職場から自宅までは徒歩で3時間ほどで帰れることは分かっていました。

一般的な帰宅時間より早く職場を出られたためか、道路の人通りは少なく、途中の家並みも静かだったように記憶しています。

特に目立った被害がある家も見当たらず、「ウチも大丈夫そうだな」と、歩きながら少し不安も解消されつつありました。

携帯電話は全く繋がりませんでしたが、一時間ほど歩いたときに公衆電話を見つけたので、自宅の母に電話をしてみました。

意外にもすぐに繋がって、母も「怖かった」と言っていましたが、無事が確認できて安心したのを覚えています。

このごろ地震が多く、防ぎようもありませんが、覚悟と準備だけは怠らないようにしておきたいと思っています。

2022年3月16日 (水)

「入院した方がいいですよ」

今日も暖かく良い天気でしたが、風が爽やかなので仕事帰りに少し歩くことにしました。

その途中で、かつて母が救急車で運ばれて数日入院していた病院の前を通りました。

それは2015年11月のことで、午前3時40分頃に母はトイレに起きた際に気を失い、私が救急車を呼んだのでした。

救急隊が到着した時には母は意識を回復していましたが、救急隊の方が血圧を測ると「70しかない」ということでした。

「入院した方がいいですよ」と、救急隊の方の勧めで入院先を探してもらうことになりました。

その当時、定期的に通っていた総合病院は基本的に救急を断りませんが、それは診察時間内に限るということでした。

そのため救急隊員の方が探して、受け入れてもらえたのがその病院でした。

母にとっては87歳にして、おそらく初めての救急車での入院でした。

母はそのままICUに入院することになり、私は日の出前でまだ暗い待合室で書類を書いたことを覚えています。

そして、一連の手続きを終えて病院を出たのは午前7時頃で、既に明るくなっていました。

その日は雨が降っていて、私はなぜか母が着て行ったちゃんちゃんこを傘代わりに持って帰ってきました。

今日久しぶりにその病院の前を通って、こういった入院の経緯を始めいろいろなことを思い出しました。

2022年3月15日 (火)

4年前の元気な様子を振り返る

今日も20℃を超えて、暖かい一日になりました。

このところ桜が満開の頃よりも気温が高く、遅れていた今年の桜も一週間ほどで開花するのではないかと言われています。

この時期を迎えると、母が椅子から落ちて脚を骨折した頃を思い出します。

もう4年も前のことになりますが、その日も春らしい暖かい日だったように記憶しています。

それは2018年3月23日のことで、その後少しして入院することになります。

私が母の第二の人生と呼んでいるものは、この骨折がきっかけになって始まりました。

90歳の母が人生で初めて受けるのがこの骨折の手術でした。

何しろ年齢が年齢ですから私も心配で、この時の入院から母との会話を録音するようになりました。

また、この録音した音声を元に、柄にもなく人生で初めて日記をつけるようにもなりました。

ただ、そのおかげでこのブログを始めることもでき、記憶だけでなく記録に基づいた記事を書くことができています。

このブログでは2年前に当時を一日ずつ振り返りましたが、母の調子が悪い時を思い出すと私も調子が悪くなったものでした。

ですから、今後は4年前のことを振り返ることになりますが、元気な母の様子を記していきたいと思っています。

2022年3月14日 (月)

袖まくり

今年は珍しく寒い冬でしたが、3月に入って特にここ数日はかなり暖かくなってきました。

今日は24℃まで気温が上昇して、動くと汗ばむような陽気でした。

この陽気で思い出したのが、母が衣服の袖をまくっている姿でした。

母は小柄でふっくらとした体型で、既製服では袖が長いため、よく袖をまくって着ていました。

そんなこともあり、施設に入所してから私が勧めた七分袖の夏用の服をとても気に入ってくれました。

そして、その上に着ていた馴染みのカーディガンは袖が長いので、当然のように袖まくりをしていました。

ただ、何といっても一番記憶に残っているのは輪ゴムです。

母がウチで家事をしていた頃、母の手首に輪ゴムが巻かれているのをよく見かけました。

おそらく水仕事をする時などに衣服の袖を押さえるために使うので、ずっと手首に巻いていたのだろうと思います。

母の手首の輪ゴムを見た当時は「痛くないのかな?」などと私は思っていました。

でもその輪ゴムは、母にとって仕事をするための『やる気スイッチ』のような物だったのかもしれません。

そして今、私は台所で洗い物をする時には、袖をまくって輪ゴムで押さえるようにしています。

2022年3月13日 (日)

施設の母は病人か?

制限食について数日取り上げている間に、いろいろな記憶が蘇ってきましたので、ここにまとめてみたいと思います。

まず、母が心不全と診断されたことで、2018年11月から施設での食事が制限食になったということ。

その内容は、私の知る限りでは塩分・水分の摂取がかなり制限されていたこと。

2019年8月頃に母が塩分不足で体調不良になったこと。

その解決策として、ふりかけご飯を食べるようになって体調、特に認知が回復したこと。

その頃、施設の食事について看護師さんが「施設の食事は通常の物でも塩分は少ない」と言っていたこと。

食事が制限されてから、およそ一年後の2019年11月に母は最後の入院をしたこと。

私は制限食は仕方がないとしても、極力母が好きなものを好きなように食べて欲しいと思っていたこと。

病院の主治医と施設の医師との連携はほとんどなさそうだったこと。

などなど、思い出したことも含めて列挙してみました。

病人が病院や施設で食事が制限されることは当然のことだと、私は思います。

ただ、施設に入所していた母が病人として扱われるべきかどうかは微妙だと、今でも私は思っています。

2022年3月12日 (土)

制限食で老化が加速

ここ数日、心不全と診断された母が施設で制限食を出されていたことについて記しています。

その点について私は反対で、出来れば好きなものを好きなように食べさせたかったと、今でも思います。

もちろん施設に入所している限りそれは許されませんが、もし自宅で母の面倒を見ていたら好きなように食べてもらったでしょう。

食べることは人生の楽しみの一つですし、生きていくための栄養補給としても大切なものですから。

そういう理由もあって、母が自宅に居るときは少し多いくらいの食事を毎食出していました。

母も年齢の割にはよく食べてくれて、その効果もあってか持病以外は健康状態に問題はありませんでした。

その点、制限食になってからは食が細くなり、心なしか老化が加速したように感じました。

当然、加齢による衰えもありますが、体力や特に皮膚の張りに老化が目立ったように見えました。

ところで、施設の制限食は病院の主治医からの指示というよりも、施設の看護師さんが決めていたような節がありました。

どうも、入院していた時の食事を参考にして退院後の食事を決めていたように見えました。

病院と施設でもっと緊密に連絡しているものかと思っていましたが、実はそれほどでもなかったようなのです。

その点はもう少し確認しておくべきだったことで、今でも残念に思っていることの一つです。

2022年3月11日 (金)

最晩年の制限食

昨日に続いて、制限食について少し考えてみたいと思います。

母の場合は2018年11月に心不全と診断されてから、食事が制限されることになったようです。

おそらく主に塩分と水分が制限されたのだと思いますが、施設の食事は普通食でも塩分は少ないと看護師さんが話していました。

そんな制限食が続いたからか、2019年8月には塩分不足で体調不良になってしまいました。

そのため今度は塩分を補給するために、お粥にふりかけをかけて食べることになりました。

すると母は「ふりかけご飯がおいしい」と言うようになり、徐々に体調も回復しました。

ただ、制限食は塩分だけではなく量も減っていたようで、母はそのことにも時々不満そうな言葉を発していました。

そんな経緯もあって、私は施設での制限食にはあまり賛成できませんでした。

もちろん入所している以上、施設の決定に従うほかはありませんでしたが……。

難しい問題ですが、健康第一なら制限食、本人の満足を考えれば普通食ということになるのでしょうか。

ただ、母は既に90歳を超えていましたし、私は母に残りの人生を楽しんで欲しかったので、制限なく食べられれば良かったと思います。

食べることも好きな母でしたから、最晩年に制限食というのはちょっと寂しいものがありました。

2022年3月10日 (木)

制限食でなければ……

母は施設入所後に心不全が発症して制限食を食べるようになり、好きではないお粥が出てくるようになりました。

それでも元気があるときには、お粥も食べられていたようでしたが、徐々に食べなくなっていきました。

そうなると悪循環に陥ってしまいました。

食べないから元気が出ないし、元気が出ないと食欲もなくなります。

2019年の8月から9月にかけて、母は元気が無くなり何度か通院で診察してもらいました。

結局、塩分不足が指摘され、対策としてお粥にふりかけをかけて食べるようにしてみました。

母は「おいしくなった」と言いながら食欲は戻りましたが、どことなく元気が無い状態は変わりませんでした。

もしかすると、このころの栄養不足がきっかけとなったのか、その後の血液検査では数々の項目が異常値を示すようになりました。

その後、母は2019年の10月は少し元気を取り戻していましたが、翌11月には最後の入院をしてしまいました。

そして、心不全と診断されて約一年で亡くなりましたから、もし何の制限もない食事だったらどうだったか、と考えることもあります。

ですが、病院や施設では持病があれば食事が制限されるのは当然なのでしょう。

難しい問題ですが、率直なところ、好きなものをおいしそうに食べる母の笑顔をもっと見たかったと思います。

2022年3月 9日 (水)

お粥嫌い

ソバ、猫と母が苦手なものを二日間に亘って取り上げました。

そして、今回はお粥について記してみようと思います。

お粥があまり好きではないことは、普段から母は口にしていました。

ただ、なんでもない時に普通のご飯の代わりにお粥が食卓に上ることはありません。

それが、入院したり、施設に入った後にはお粥が出されることがありました。

それでも健康な時には、何らかの味がついていれば食べないわけではなかったようです。

特に問題になったのは、2018年11月の入院で心不全と診断された後のことでした。

その後2019年の3月と7月にも入院し、そのたびに食事制限が厳しくなっていきました。

施設の看護師さんの話によりますと、制限食はお粥が原則だということでした。

母はそれでも2019年の7月までは多少なりとも食べていたようでしたが、その頃を境に食べない日が出てくるようになりました。

私が「母は、もともとお粥が嫌いですから」と看護師さんに伝えると「これまでは食べていました」と答えました。

確かにその通りですが、実際に食べないので食事制限以上に栄養状態が心配になる事態になってしまいました。

2022年3月 8日 (火)

「どうして猫なの?」

昨日のソバに引き続き、母が今一つ苦手なものを取り上げてみたいと思います。

それは猫なのですが、母が猫をあまり好きでないことは以前から知っていました。

それでも自宅や施設で生活をしている限り、猫の顔を見ることはありませんでした。

ところで、2018年7月に母は施設に入所しましたが、その時に持って行ってあげたのがヤクルトカレンダーでした。

この年の5月頃までヤクルトの宅配をお願いしていたので、前年の暮れに貰って自宅の壁に貼って使っていたものでした。

ところが、母の入院に伴い宅配を止めてもらったため、2019年のヤクルトカレンダーは手に入りませんでした。

ただ、施設での生活は同じような日々の繰り返しになるので、出来れば母の近くにカレンダーを用意してあげたいと考えました。

そのため、ある日面会に行く前に途中の100円ショップでカレンダーを買って行くことにしました。

ただ、その時売り場には適当な大きさのカレンダーがあまりなく、その中から買ったのが「ニャンコカレンダー」でした。

毎月違う猫の写真が上で、下に毎月のカレンダーが表示され、まくり上げるタイプのものですが「どうして猫なの?」と母は言いました。

2019年は、ずっとそのカレンダーで母と日付を確認してきましたが、秋が深まった頃になって母が尋ねてきたのでした。

「どうして?」と私が聞き返すと、「猫は好きじゃない」という母の答えを聞き、私は苦笑いするばかりでした。

2022年3月 7日 (月)

「おソバはあまり好きじゃない」

母が施設に入所した後に、散歩したりコーヒーを飲んだことをとても喜んでいた様子を、最近は記しています。

家で世話をしていた時には、そこまで喜ぶことはなかったので意外に思った記憶があります。

ところで逆に、母があまり好まなかったものもありました。

それはソバでした。

ある日、いつものように夕方に面会に行くと、昼食にソバが出て「あまりおいしく無かった」と母は言っていました。

聞いてみると、高齢者が喉に詰まらせないようにという配慮か、短く刻んであったそうです。

そこに汁をかけてスプーンで掬って食べたとのことでした。

そういう食べ方をしたこともあって、母に言わせると「なおさらおいしくなかった」ということでした。

ただ、改めて訊いてみると「もともと、おソバはあまり好きじゃない」とも言っていました。

思い起こすと、母と叔母と一緒に旅行に出かけた際に、帰りのお昼にソバを食べたことがよくありました。

母にとっては昼食にソバというのはあまり良い選択ではなかったのかもしれません。

当時の母は「おソバはあまり好きじゃない」とは口にしなかったですから知りませんでしたが、嬉しくはなかっただろうと思います。

2022年3月 6日 (日)

離れることで見えてくるもの

この3月に入ってから暖かく穏やかな陽気の日が続いていて、本当に散歩にふさわしい時期になりました。

そういうことで散歩をお勧めするような記事を続けて書きました。

それは、母が散歩に行ったことをとても喜んでくれたからでもありました。

思っていた以上の母の笑顔を見て、もっと早くから、もっと数多く散歩をすれば良かった、と今でも感じています。

同様に母の喜ぶ様子を見て意外に思ったのがコーヒーでした。

ウチで母の介護をしていた頃の朝食にはパンを食べることが多く、その時に母が飲むものは紅茶がほとんどでした。

一方コーヒーに関しては、時々おやつに私がレギュラーコーヒーを淹れることがありました。

「コーヒー飲む?」と私が声を掛けると、母が拒否したことは確かにありませんでした。

ただ、母がどの程度コーヒーを好きなのか、そういうことを考えたことはありませんでした。

その後、母が入所した施設では毎月誕生会があり、その時にはケーキとコーヒーが振舞われていました。

「コーヒーおいしかった。おかわりしちゃった」と、初めての誕生会で母は大喜びしていました。

一緒に住んでいると分からなかったものが、離れると見えてくるということがあるものなのですね。

2022年3月 5日 (土)

散歩のススメ

今年の2月は最近では珍しく寒さが続いたからか、今日3月5日に春一番が吹いたということです。

ここ数日、3月になってから好天の日ばかりで、毎日散歩の話題をここに記しています。

体力の維持にも良いですし、気分転換にも良いのが散歩です。

ただ、被介護者が積極的に自ら外出することはなかなか難しいことだと思います。

例えば、私の父は80歳を過ぎてケガで脚を引きずるようになると引きこもりがちになりました。

母も車椅子に乗るようになってからは、あまり外に出たがらなくなりました。

それでも、そんな母を施設入所後に初めて散歩に連れて行くと、本当に楽しそうにしていたのが今でも印象に残っています。

それならもっと早く、こちらから積極的に散歩に誘ってあげれば良かった、と後悔したものでした。

ただ、道路や建物内など、場所によっては介助が大変なところもありますので、出かけることにしり込みをする気持ちはよく分かります。

それでも慣れてしまえば、いろいろと楽しみも見つかり、気分も楽に出かけられるようになるのだと思います。

孤立しないで社会的な繋がりを持ち続けるためにも、出かけたり散歩したりすることは大切です。

いずれにしても、暖かく穏やかな日が多いこの時期は散歩に最適ですから、ぜひおすすめしたいと思います。

2022年3月 4日 (金)

一日でも早く始めよう

3月に入ってから暖かい日が続いていて、今日も晴れて穏やかな散歩日和になりました。

仕事帰りに真っすぐ帰らず歩いていても、気分が晴ればれするような陽気になってきました。

母が施設に入所していた頃も、このような天気の日には、私は母を散歩に連れて行ってあげたいと思っていました。

ただ、最初に一緒に散歩ができたのは、母が亡くなる50日ほど前のことになってしまいました。

そして、最後の散歩の翌日に入院して、その40日後に亡くなってしまいました。

結局3回しか散歩はできず、とても残念に思いました。

それは、母が思っていた以上に散歩を楽しんでいて、とても喜んでくれたからです。

更に喜んでもらおうと思い、4回目には久しぶりに自宅に帰って来ることも考えていただけに、本当に残念でした。

ところで、高齢者を介護することは誰にとっても大変なことだと思います。

ただ、その大変な介護も終わるときは誰にも予測できないので、予定を立ててもそのまま消化されずに終わることもあり得ます。

「親孝行したいときには親は無し」ということも言われます。

私の乏しい経験から考えても、後悔しないためには、できることは一日も早く実行する方が良い、ということだと思います。

2022年3月 3日 (木)

幻の四回目の散歩

今日は3月に入って三日目、いかにも散歩日和という暖かく良い天気が三日間続いています。

こういう陽気の日は母を散歩に連れて行ってあげたいな、と今でも思うことがあります。

一応、母が施設に入所してから三回散歩に出かけられたことは良かったと思っています。

それでも少し悔いが残っていることもあります。

その一つは、散歩の開始が遅れたために四回目の散歩に行けなかったことです。

実は、その四回目の外出の機会には母を自宅に連れてくることを考えていました。

その頃の母は、車椅子のまま自宅に来ることを楽しみにしていたようでしたので、とても残念でした。

そしてもう一つの後悔は、母を自宅で介護していた時期に散歩に連れて行かなかったことです。

理由としては、母が自ら出掛けたがらなかったこともありますが、今では多少強引にでも連れて行く方が良かったかもしれないと思います。

それは施設での散歩を母がとても喜んでいたこともあって、そんな気持ちが強くなりました。

確かに、要介護の状態になると外に出たがらなくなる人が多いのではないかと想像します。

ただ、外出して社会との繋がりを感じることも高齢者の心身の健康のために重要な点だと考えるようになりました。

2022年3月 2日 (水)

「わぁ、カワイイ」

今冬は寒い日が続きましたが、3月に入って昨日今日と晴れて暖かくなりました。

今日は良い天気の中、仕事帰りに母が入院・入所していた病院と施設の建物まで散歩してきました。

母に会いに行くときは4時前後の夕方に行くことがほとんどでした。

今日はお昼頃に着きましたが、新型コロナの影響もあるのか建物の周囲に人の姿はほとんどなく、ひっそりとしていました。

思い起こすと、施設に入所した母と最初に散歩をしたのも今日のように天気の良い日でした。

そして、そのコースは病院と施設の建物の周囲を回ったのでした。

建物の敷地から出た時、散歩をしている犬と遭遇して、母はその犬を見て「わぁ、カワイイ」と歓声を上げながら腕を伸ばしました。

それはおそらく、久しぶりの外出で気分が良かったことも影響していたのだと思います。

その証拠に、散歩から戻ると母は「気持ち良かった」と笑顔で言ってくれました。

その喜び方は私の想像をはるかに超えていて「もっと早く連れて行ってあげれば良かった」と後悔したものでした。

母との面会の帰り道は、その日の母の体調や機嫌によって私の足取りの軽重が違っていました。

今日の帰り道は足取りが重いことはありませんでしたが、いろいろと思い出がよみがえってきました。

2022年3月 1日 (火)

「みんなも行けばいいのに」

月日の経つのは早いもので今年ももう今日から3月ですが、カレンダーに合わせたように、とても暖かい日になりました。

日差しがポカポカで、通りかかった公園では菜の花が満開になっていました。

こういう日は今でも母と一緒に散歩をしたかったなと、考えることがあります。

思い起こすと、母が施設に入所してからしばらくして、「散歩に連れて行ってあげたい」と思うようになりました。

ところが実際には、最初に散歩をしたのが最後の入院の2週間前になってしまいました。

一番残念だったのは、2019年の桜が咲くころに丁度母が入院をしていたことです。

一番散歩に適した時期を逃したのは今でも残念に思います。

ただ、施設に入所してから母は入退院を繰り返していたこともあって、外出するタイミングが難しかったことは事実です。

そんな中で最初に散歩ができたのが2019年の10月の終わりごろでした。

施設の近辺を30分くらいかけて回っただけでしたが、久しぶりの外出に母は想像以上に喜んでいました。

「気持ち良かった。みんなも行けばいいのに」と、笑顔で話してくれました。

家族の協力が無ければできないことですが、母の嬉しそうな表情を見て、もっと早く連れて行ってあげれば良かったと思ったものでした。

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