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2022年2月

2022年2月28日 (月)

日焼けとシミ

今年の冬は最近にしては珍しく寒い日が続いていましたが、ここ2~3日は晴れて暖かくなりました。

暖かいのは嬉しいのですが、今住んでいる部屋では日が高くなると日光が当たる時間が短くなります。

逆に、寒い時期にはかなり部屋の奥まで日が入るので、とても有難く感じています。

ですから、寒い冬でも晴れていれば日光浴を楽しむことができます。

ところで、この日当たりの良い部屋には母も4年ほど一緒に暮らしていました。

母は南向きの窓辺で日光浴しながら居眠りをするのが晴れた日の楽しみになっているようでした。

母はいつも体の左側を窓に向けていたので、顔の左側が日に焼けてシミもできていました。

ただその後、入院したり施設に入所しているうちに母の顔の日焼けは段々と色あせてきました。

私は「シミが消えて来たな」と思いながらも、白くなっていく母の顔にどこか不健康さを感じました。

そのため、私は「母を散歩に連れて行きたいな」という思いが強くなりました。

最終的には母と3回散歩に行くことができて良かったと思っています。

それでも、亡くなった時の母の顔には日焼けの跡は全く無くなっていました。

2022年2月27日 (日)

「戦争はイヤだ、二度とイヤだ」

先日、ロシアがウクライナに侵攻して戦争が始まりました。

市街地が戦場になっていて、ここ数日はこの話題で持ち切りです。

ところで、母が最後の入院をしていた時、確か亡くなる一か月くらい前のことだったと思います。

面会に行くと母が「戦争はイヤだ、二度とイヤだ」と、言いました。

このころはずっとベッドの上でしたので、さまざまな夢を見たのだろうと思います。

この時にどのような夢を見たのかは聞きませんでしたが、私は言葉もなくただ頷くだけで時期的に遺言のようにも感じました。

ところで、私の父は終戦が近くなって出征し、母も何回か空襲に遭ったそうです。

二人からはそれほど戦争の話を聞くことはありませんでしたが、その程度のことは聞いた覚えがあります。

もしかすると、当事者でなければ分からないような悲惨な状況も体験したかもしれません。

ですから、本人が進んで話すのでなければ細かいことまで訊くのは、なかなか憚られるものがあります。

そして両親が戦争の中を生きて、その後私が生まれたことを改めて考えると、偶然と幸運に恵まれたのだ、という思いが強くなりました。

私たちの世代は戦争を体験しないで済むかな、という状況ですが、何があっても戦争には反対します。

2022年2月26日 (土)

血糖値とインシュリン注射

母は若い頃に腎臓を悪くして、ずっとたくさんの薬を服用していました。

そして、おそらく70歳くらいの頃から糖尿病を発症して毎食前にインシュリン注射を打つようになりました。

それは母が90歳の時に脚を骨折して入院して、一度退院した後に2週間ほどして再び入院するまで続きました。

その時の入院は意識を失っていたため、しばらく点滴で栄養を取っていました。

この時は40日間入院して、退院と同時に施設に入所することになりました。

施設の入所が決まった後に、相談員の方から連絡をいただきました。

「病院でインシュリン注射を打たないでいけるかどうか調べるので、少し時間がかかります」というような内容でした。

この40日間はインシュリン注射をしていたのかどうか不明ですが、施設入所後は打つことはありませんでした。

施設入所当日に付き添ってくれた看護師さんによると、「今朝の血糖値も問題ありませんでした」ということでした。

おそらく病院での生活と食事であれば、母の糖尿病は問題のないレベルになっていたのでしょう。

ただ、施設入所後は三度の食事の他におやつもあり、母の話では「しょっちゅう食べている」とも言っていました。

いずれにしてもその後、母の血糖値を測ることはありませんでした。

2022年2月25日 (金)

医師の疎通不足

このところ、母が通院していた病院に併設されている施設に入所できたことについて記してきました。

昨日までは、それはラッキーだったという面から述べました。

本日は数少ない悔いが残る部分について考えてみたいと思います。

母が入院していた病院には主治医がいましたが、施設でも母のいたフロアには担当の医師がいました。

併設されている二つの施設ですので、両方の医師同士が緊密に連携しているものだと思うのが普通ではないでしょうか。

少なくとも私はそのように考えていました。

ただ、実際は二人の医師が直接話をすることはなく、主に病院の主治医と施設の看護師が話をしていたようでした。

その辺りを私はしばらくの間、誤解していたのが今でも少し残念な点です。

そのようなことは病院でも施設でもよくありました。

つまり何らかの問題が起きた時、誰に話をするのが適当なのかはっきりしないということです。

そのため、全てが終わった今でも「ああすれば良かった、こうした方が良かった」などと後悔していることにつながっています。

今から思うと勝手な思い込みが問題で、嫌がられても何でも確認することが大事だったのだろうと思います。

2022年2月24日 (木)

施設と病院が近いこと

私の母が、通院していた病院に併設された施設に入所できたことは本当に運が良かったと思います。

母は施設に入所してから4回も入院することになりました。

その都度、ドア一枚で隔てられた病院に入院できたことは最大の幸運だったと思っています。

例えば逆に、母の介護を自宅でしていたケースを考えてみます。

その場合、もし救急で入院することになると、どこの病院に連れて行かれるか分かりません。

実際、母が通院していた病院は救急は断らないということでしたが、診察時間内に限られるということでした。

つまり早朝や深夜は時間外ということで断られるわけです。

そのような事態になり、入院する都度違う病院だったとすれば、それは考えるだけでも大変なことが想像されます。

手続きをする立場の私にとっても、毎回違う病院だったら煩わしかっただろうと思います。

また手続きだけではなく、母の病歴や服用している薬などの説明を何度もしなければならなかったでしょう。

そのような事情からしても、毎回同じ病院に入院できたことは、母にとっても良かっただろうと思います。

施設と病院が近いこと、これは介護施設を選ぶうえで重要なポイントにするべきだと考えます。

2022年2月23日 (水)

「老健」入所の経緯

母が病院に併設している施設に入所できたことは本当に運が良かったと思います。

実は、私は母が施設に入所することになる少し前まで、「介護老人保健施設」というものの存在を知りませんでした。

2018年6月、意識不明で入院した母が元気になり、主治医に次の行き先を考えるように言われました。

その主治医が話の中で「特養か老健がいいと思う」と言ったので、私は「老健とは何ですか?」と尋ねたのでした。

そして「この病院の隣にもある」ということで、早速見学に行きました。

その時点の母の様子は、とても元気で陽気でしたから私は「特養よりも老健がピッタリだ」と感じました。

リハビリ施設も充実していて、丁度リハビリにやる気を見せていた母も喜んでくれそうだと思いました。

また、習字をする時間もあるようで、母にとって久しぶりの習字を楽しんでくれるといいなとも思いました。

そして何よりも、病院の隣に移動するだけでいいというのが一番嬉しいところでした。

ただ、見学の時点ではなかなか空きがなく、いつ入所できるか分からないということでした。

それが6月の末に電話で入所の問い合わせをしたところ、やはり断られたために他を探そうとしていました。

するとすぐにその施設から折り返し電話が来て、入所できるということになり、突然のことで驚くとともに嬉しかったことを覚えています。

2022年2月22日 (火)

ラッキーだった施設入所

2015年11月、母は貧血を起こして救急で入院しました。

この時は4日ほどで退院しましたが、この入院をきっかけにして、私は仕事を辞めて家で母の面倒を見ることになりました。

その後母は2018年4月に脚の骨折で入院しました。

5月には退院したものの、心身ともに不調で結局脱水状態に陥り再び入院することになりました。

この時の入院中に意識を回復した母は、生涯で最も元気で陽気ではないかと思うほど明るくなりました。

そうして2018年7月には施設に入所して、いわゆる第二の人生を楽しんで過ごしてくれました。

ただ、施設に入所してからも4回入院をしましたが。

振り返ってみますと、母が90歳を過ぎてから最後の2年間に6回も入院しています。

その都度、私は入院の手続きをしながらも今度は大丈夫だろうかと、オロオロしていたわけです。

もちろん本人もその都度大変だったことと思います。

それにしても病院と併設している施設に入所できたことは本当にラッキーでした。

もしも、自宅で面倒を見ていたらと考えると、その大変さは2倍や3倍どころではなかっただろうと思います。

2022年2月21日 (月)

答えは「諦めが肝心だよ」

2019年6月、入院中の母が思いがけず元気で陽気になり、何をしても楽しそうな表情をするようになりました。

脚を骨折して落ち込んでいた前月とはすっかり変わった様子に、私は嬉しいながらも何があったのかという感じでした。

とりあえず母はリハビリに前向きになり、体力的にもすぐに回復しました。

患者が回復すると、今の病院はなるべく早く退院させようとして次の行き先を決めるように話してきます。

そのため私は、その病院に併設している介護老人保健施設を見学することにしました。

母がウチにいた頃には、デイサービスにも興味を示さなかったので、施設は全く考えていませんでした。

ただ、この頃の母の陽気さを見ると、もしかすると今なら施設にも馴染めるかなと思いました。

運良く入所した母は、最初は戸惑いもあったようでしたが、一週間ほどで慣れてくれました。

施設でも相変わらず元気で陽気に過ごしていた母に、ある職員さんが尋ねました。

「どうしていつもそんなに明るくいられるんですか?」

その職員さんは家でも両親を介護していて、親と文句を言いあってばかりだと悩みながら母に質問したのでした。

それに対する母の答えは「諦めが肝心だよ」でした。

2022年2月20日 (日)

「今度は大丈夫だ」

今日20日は母の命日、早いもので母が亡くなった日から2年と2カ月が経過しました。

母が90歳で脚を骨折して入院し、その後施設に入って亡くなるまではおよそ1年8カ月ほどでした。

いつの間にか、私が病院と施設に毎日のように通っていた時間よりも、その後の時間の方が長くなってしまいました。

段々と記憶も朧げになっていく中で、母は本当に楽しく第二の人生を過ごしてくれたと思います。

このところこのブログでは、母のように介護される人の精神状態を大事にすることの大切さを記しています。

母も骨折で入院した時はかなり落ち込んでいました。

そのためか体調も崩してしまい、退院したものの意識不明で再び入院することになりました。

しかしながら二度目の入院で意識が回復した後、母は何かが吹っ切れたように元気で陽気になりました。

するとリハビリにもやる気が出てきて、歩行器を使って歩けるまでに回復しました。

今でも良く覚えているのは、面会で母のベッドを覗いたときに母が寝たままの姿勢で腕の屈伸運動をしていたことです。

確か意識を回復してからそれほど時間が経過していない頃で、リハビリを始めてからもまだ間もない頃のことだったと思います。

笑顔で運動をしていた母を見て私は、「今度は大丈夫だ」と確信したのを覚えています。

2022年2月19日 (土)

体力の維持と精神の安定

昨日の話を続けますと、母は病院でのリハビリを頑張り、施設に入所後も元気で陽気に過ごしてくれました。

そして施設でのリハビリも順調に進み、歩行器を使って歩けるところまで回復しました。

病院のリハビリの先生が予想していた状況まで戻ったことで、私としても感動するとともに一安心しました。

母もそこまで出来たことで自信を深めたようで、施設での生活を楽しそうに、いつも笑顔で話をしてくれました。

ほんの2~3か月前には骨折や意識不明で入院したことがウソのように思える元気な日々が続きました。

ただ、その頃から血圧が高いことを指摘され、母もそれを気にしたのか運動を控えめにするようになりました。

それは入所後3か月を経過したこともあって、丁度リハビリの回数が減った時期と重なりました。

そうして90歳を過ぎた高齢者の運動量が減ると、それまでの元気さが少しずつ失われていくように感じました。

母にとっては体調の不安が現れたことと、運動量が減ったことで精神的にも揺れ始めたようでした。

このところこのブログでは、被介護者の精神的な安定が大切だということを強調しています。

そういった意味からすると、このころの母の状況では、体力を維持して元気に過ごすことが重要だったように思います。

体力の維持と精神の安定は繋がっていて、そのバランスが崩れ始めたのがこのころだったのかと感じます。

2022年2月18日 (金)

「気持ちが前向きです」

私の母は90歳の時に足を骨折して入院し、生まれて初めての手術をしました。

そして手術後の入院中に精神的に不安定な様子に見えたため、私が主治医にお願いして早めに退院をしました。

どこかイライラしている感じがして、認知も怪しくなってきたように思ったからでした。

ところが帰宅しても回復するどころか、精神面だけでなく体力的にも落ちてきて、2週間後に再度入院することになりました。

この時は意識不明で入院しましたが、今度は意識を取り戻すとすっかり元気になり、40日後に施設に入所することになりました。

何故、母があれほど元気になったのか今でも分かりませんが、本当に夢のようでした。

生涯で一番陽気なのではないかと思える母は、この後1年半ほど施設での生活を楽しんでくれました。

私がこのブログを始めたのは、この時期があって母と楽しいやり取りができたことがきっかけです。

そしてこの経験から、介護生活の中で重視されるべきものの一つが介護される人の精神状態だと確信しています。

母は最初の入院では、気落ちしているのかリハビリにも消極的だったと、担当の先生が話していました。

ところが二度目の入院時は、「気持ちが前向きです」と同じ先生が言ってくれました。

母が神妙な表情で立ち上がり、両手で手すりを掴みながら歩きだした時、私は感動して涙が出そうになりました。

2022年2月17日 (木)

介護される精神状態を考える

ここのところ介護に関して、被介護者の立場、特にその精神状態にこだわっています。

介護を語る際、主として話題になるのは介護者の負担が大きいということが多いように思います。

もちろんそれは大きな問題ですが、それでは介護される側はどうなのか、ということを考えてあげることも必要だと私は思っています。

ところで、私が介護といえるようなものをしたのは、父と母しかいません。

その数少ない経験からしても被介護者の状況、特に精神状態が介護者にとっても重要だと感じていました。

例えば介護される人が高齢者の場合、その高齢者自身が加齢による衰えを感じています。

以前は普通にできたことが、徐々にできなくなっていくのは誰にとっても歯痒いし、辛く寂しいものだと思います。

つまり、その時点の介護の状況が改善されることはほとんど考えられません。

そのような状況を受け入れて、気持ちの平静を保つのはとても難しいことだと思います。

中には介護されることが屈辱的だと考える人もいるようです。

親子でも、ちょっとしたことで言い争ったり、あるいは遠慮があったりして気まずくなることもありました。

なかなか解決できるような問題ではありませんが、とても重要なことだと私は考えています。

2022年2月16日 (水)

「年は取りたくないものだ」

介護が問題視される時、ほとんどの場合「介護は大変だ」という面から語られるように思います。

介護者が一人で抱え込んで、いわゆる介護地獄に陥るというのは良く聞く話です。

ただ、私が母の面倒を見るようになって全てが終わった今、改めて考えるのは介護される人のことです。

「年は取りたくないものだ」と、私の父はしばしばこのように言っていました。

父は本当に元気な人で、最後の入院をする直前までほとんどすべてのことは自分で出来ていました。

それでも、様々なことで加齢による不便なことはあり、そのような時に「年は取りたくないものだ」という言葉を自嘲気味に発していました。

ただ、少なくとも介助が必要な点はないように見えましたので、私もほとんど手助けをすることはなかったわけですが。

今から思うと、父に対してももっと優しくしてあげれば良かったと反省しています。

もっとも、その反省が生きて、母に対してはできるだけのことをしてあげられたのかもしれませんが。

いずれにしても、加齢による衰えは誰にでも起こり、寂しく感じたり気落ちをする原因になるものだと感じます。

介護問題が語られる際に、軽視されがちに見える被介護者の精神状態に、もっと目を配ってもらえると良いと思います。

2022年2月15日 (火)

介護を受ける気持ち

昨日は食事の支度について、母に代わって私が担当することになった事情を振り返りました。

介護は突然始まることもあるでしょうが、ウチの場合は母の持病が安定していましたので、加齢とともに徐々にという感じでした。

そのうちの一つが台所仕事だったということです。

ところで、以前ここにも記したと思いますが、母が初めて介護認定を受けたのは入浴用の椅子を買うためでした。

当時母は外出時に杖を突いて歩いていて、お風呂は滑るからという理由でほとんど入らなくなっていたのでした。

この時は要支援1という結果で、浴用椅子を一割負担で購入した記憶があります。

その後10年の間に、要支援2から要介護1になり、最後は要介護4にまでなりました。

当然のことですが、介護状態が重くなれば介護者にかかる負担は大きくなります。

とはいえ、今では様々な介護サービスがありますから、その都度適切なサービスを受ければ介護者の負担は減らすことができます。

私は介護する立場でしたから、当然のそのように行動していました。

ただ、今思うのは、介護を受けることになる母の気持ちをもっと考えてあげるべきだったな、ということです。

これまで普通にできたことが一つ一つできなくなっていく、仕方ないこととはいえ母も寂しかっただろうなと思います。

2022年2月14日 (月)

冬は鍋料理

今年の冬は例年に比較して寒いように思います。

寒さは体調に良くないことが多いので、冬は暖かいものを食べてグッスリ眠りたいところです。

そういう理由もあって、いつの頃からかウチでは冬は夕食に鍋を食べることが多くなっていました。

また他の理由としては、食事の支度をする母の負担を減らすことがありました。

実際、母が88歳になる少し前に救急で入院するまでは、台所仕事のほとんどは母がしていました。

ただ母も加齢とともに足腰が弱くなってきて、台所に立っていられる時間が徐々に短くなってきていました。

そこで、食材を切って鍋に入れて煮るだけで出来、温めればいつでも食べられる鍋料理はベストな選択だったと思います。

その頃のことを思い出すと、夕方になると母は台所から包丁を持って来て、まな板をテーブルの上に置きます。

そしてテレビが正面に見える場所に座って、用意した鍋用の材料を次々と切っていました。

そんな感じで夕飯の支度を何年か続けてくれましたが、だんだんと包丁を持ちながら居眠りをするようになりました。

私が一緒にいるときにも何度か包丁を落としたことがあって、そろそろ食事の支度を交代した方がいいかなと思ったものでした。

それも今となっては楽しかった思い出ですが、変わらないのは冬は鍋料理がベストだということです。

2022年2月13日 (日)

暦の上では春とはいえ

今晩は雪が降り、そこそこ積もるような天気予報が出ています。

既にほとんど溶けてはいますが、二日前にも雪が降ったばかりです。

地球の温暖化が言われて久しいですが、今年の冬は間違いなく例年よりも寒いような気がします。

ところで、母が86歳まで住んでいた旧家は築50年を過ぎていて、隙間風が入り放題で特に冬は外で過ごしているような寒さでした。

そのため、総合病院を紹介された際に少し前から借りていたマンションに移動することにしました。

そのマンションは部屋が南向きで、冬でも晴れた日は室温が20℃を下ることは少なく、暖かく過ごせました。

母はむくみやすく寒さが大敵で、そのマンションで生活をするようになってからは持病は小康状態を保っていました。

このマンションでの生活は4年と少し続きましたが、その間母が「寒い」と口に出したことはなかったように思います。

日当たりや暖かさが体調に及ぼす影響がここまで大きいものだとは、私は考えてもいませんでした。

高齢の母が落ち着いて生活ができるようになったこの転居は、本当に良かったと今でも思っています。

特に忘れられないのが、窓辺でお茶を飲みながらうたた寝をしている母の姿です。

暦の上では春とはいえ、まだ寒い日が続く今年は例年以上に窓辺の日差しを有難く感じます。

2022年2月12日 (土)

乾燥にも注意

ここ2年ほど、日本では新型コロナが猛威を振るっています。

もし母が今も存命であったならば、新型コロナに感染しないか心配で気の休まることがないものと思います。

幸いというべきか、母は新型コロナが流行する前に亡くなり、四十九日の法要までは普通に済ますことができました。

それでも高齢者にとっては普通の風邪をひくことも大事に至ることがありますので注意をしていました。

そのため、夜母が床に就く際には飲用水を入れた水筒を枕元に置いてあげました。

母は夜中に目を覚ますことも多く、水筒の蓋を開けて水を飲む音が聞こえることもよくありました。

それから、特に乾燥している冬場は風邪をひきやすいので要注意でした。

冬は水筒の他に、ベッドの脇の加湿器を稼働させながら眠ってもらいました。

それなりの効果があったのか、ウチにいる間は母が風邪をひくことはありませんでした。

介護離職をして母の面倒を見ていた私なりの努力の成果だったかどうかわかりませんが、結果として良かったです。

昨日は足元に注意でしたが、今日は乾燥にも注意を声高に叫びたいと思います。

新型コロナが蔓延している現在、何かがあって救急車を呼んでもなかなか来ませんから。

2022年2月11日 (金)

足元に注意

母は80歳くらいまで、バスと電車を乗り継いで1時間ほどかけて大学病院に通っていました。

私も時々スケジュールが合えば、自動車で送り迎えをしていたような記憶があります。

ところがある雨の日、途中のバスの中で足を滑らせて腰を痛め、近所の整形外科に通うようになりました。

その後その整形外科の紹介で、大学病院に替えて近所のクリニックに通い始めました。

暫くして、そのクリニックから母の持病が悪化していることを知らされて、総合病院を紹介されて通院することになります。

それ以来、私が母の通院の送り迎えを欠かさずにするようになりました。

これは母が86歳の時で、以上のような経緯からそれ以前は母の病状について私はあまり知りませんでした。

ただ、これ以降は診察室で医師の話を母と一緒に聞くことになりました。

それ以降は徐々に母よりも私の方が、母の病状に詳しくなっていったように思います。

親の通院の付き添いだけならば、本人の病状を把握する必要はほとんどありませんでした。

それが母の介護をするようになると、本人以上に様々な決断を強いられることがしばしばありました。

昨日、東京でもかなりの雪が降り、今朝は足元に注意しながら出かけたこともあってか、そんなことを思い出しました。

2022年2月10日 (木)

戦争反対

私が自宅で母の面倒を見ていた5年前、「この世界の片隅に」という物語が話題になりました。

私もそのコミック全三巻を買いましたが、いわゆる積読の状態がずっと続いていました。

それが何故かこのところ読書欲が出てきまして、今年の寒い陽気の中で窓辺の日差しに当たりながら先日読み終わりました。

広島の軍港だった呉の辺りを舞台とした太平洋戦争の頃の物語でした。

そして、主人公の「すず」さんは、私の母より2歳ほど上の設定になっていました。

広島で育った「すず」さんが子供の頃の戦前から、結婚して呉に行ってからの戦中・戦後までの生活が生々しく描かれていました。

戦時中の軍港の話ですから悲惨な場面も多いですが、「すず」さんを始めとして登場人物達はそれなりに生活を楽しんでいました。

思い出すのは、母が最後の入院をしていた頃に「戦争はイヤだ、二度とイヤだ」と言っていたことです。

戦争の経験をしたほとんどの人は、おそらく同じようなことを言うでしょう。

ただ、母もそうでしたが、戦争を経験した人は思い出すのも嫌なのか、戦争についてあまり語らない人が多いように思います。

その点この「この世界の片隅に」は多くの人を取材して出来上がった物語のようですから、大変な苦労も想像できます。

今の若い人達にとってはピンと来ないかもしれませんが、こういう物語は語り継がれるべきだ、というのが遅ればせながら読後の感想です。

2022年2月 9日 (水)

「私の第二の人生」

2年前の今日、2月9日にこのブログを始めました。

おかげ様で、その後は毎日記事を書き続けることができました。

母の四十九日の法要が終わり、母の思い出や私が介護について考えることを書き残しておこうと思い立って始めたのがこのブログです。

母は90歳の時に足を骨折して、その後施設で生活することになりましたが、予想外に元気で陽気に晩年を送ってくれました。

私はこの時期を「母の第二の人生」と考えていて、私自身も一緒に楽しませてもらいました。

そのため、この時期の母との思い出をぜひどこかに残しておこうと考えました。

このブログを始めて2年の間に、1年4カ月間の施設での生活の様子を一日ごとに振り返りました。

2年前のことを振り返るにしても、母が元気な日は私も気持ちが軽やかになりました。

しかし、やはり体調が良くないことを思い出すのは、気分が滅入ったりするものだということが分かりました。

そこで今後は、母が元気で楽しかった思い出を優先的に振り返って記事にしていきたいと考えています。

そして、時々は介護や医療に関して思うところを思うままに綴っていきたいと思います。

何となく、このブログを書き続けていること、これが「私の第二の人生」なのかな、という気もしています。

2022年2月 8日 (火)

精神的な安定こそ必須

医療者は恨まれやすい、と昨日取り上げたコラムの筆者は言っています。

というのは、介護生活はほとんどの場合は被介護者が亡くなることで終わります。

それだけで介護者や周囲の人たちの気分は落ち込みます。

それ以外に、特に介護者はこれまでの介護生活が良かったかどうか反省したり後悔したりするものだと思います。

私の経験でも、自分自身では母に対して考えられるベストな選択をしてきたつもりでした。

それでも「これで良かったのか?」という考えが、時々脳裏に浮かんでしまうものでした。

「やるだけやった」という満足感と、「良かったのか?」という迷いが心に浮かんでは消えていく状態はいつまでも続いています。

そんな心理状態はほとんどの介護者に起こり、場合によっては医療者への恨みにつながるかもしれません。

私の場合も主治医とはほとんど会えず、説明ももっと頻繁に受けられれば良かったという思いもあります。

おそらく介護者と主治医との関係は人によってそれぞれで、不満を抱くことも多々あるだろうと思います。

それこそ医師による丁寧な説明は悲惨な事件を防ぐ意味では最も重要なことでしょう。

ただ、介護者がそれをしっかりと受けとめるためには、介護者が精神的に安定していることが必要なのだと思います

2022年2月 7日 (月)

医療者の弔問

先日、埼玉県ふじみ野市で起きた医師が散弾銃で殺害された事件について、今日も新聞のコラムで取り上げられていました。

筆者は訪問看護もしていた方で、今回の事件で医師が弔問に行ったことについて複雑な思いがあるようです。

訪問看護を経験する前であれば、医療者が弔問することは理解できなかっただろうと言います。

しかし、介護者の自宅はまさに訪問看護をする現場であり、呼び出されれば行く人がいても当然でしょうとも言います。

ただ、医療者はいろいろなことから恨まれる場合もあるようです。

それは皆さんが良く承知しているので、危険が予想される場所は避けることが多いようです。

それでも今回のケースのように熱意のある医師は、呼ばれて行かないという選択肢はなかったのだろうということです。

結局、この事件は恨まれている可能性がある医師が自宅を訪問する危険性を可視化したケースで、その衝撃は大きいだろうとのことです。

今後医療者の弔問は慎重にならざるを得ないのではないか、というのが筆者の結論です。

ところで、この事件は様々な方向からいろいろと考えさせられる問題が多いと思います。

医療者が恨まれやすいこととか、訪問自体に潜む危険性なども重要な論点です。

ただ、これまで何度も強調しているように介護者が精神的、身体的、経済的に安心できる環境を作ることが最良の解決策だと私は思います。

2022年2月 6日 (日)

個人の努力の限界

最近は埼玉県ふじみ野市で起きた事件について考えることが多くなっています。

この事件については、介護の問題や訪問医療や訪問介護の問題などいろいろな方向から見ることができます。

つまり、これまでにも述べてきたように、介護地獄に陥って悲劇を招いてしまったという一面があります。

それ以外に今回の事件では、訪問して医療や介護を行うことの危険性も問題になっています。

そもそも訪問医療や訪問介護の現場の密室性は、ある程度避けられないものです。

この事件を取り上げた新聞記事によりますと、個人でそれなりに予防策を取っている人は多いようです。

それでもパワハラやセクハラを受けたという人が、半数近くに上るそうです。

結局、対策を個人任せにしていてはこれらの被害は無くならないのではないかと思います。

まずは、以前も書きましたが、介護者のストレスを減らすことを考えるべきでしょう。

同時に、訪問する立場の方も時間や人数に余裕を持たせることが必要になると思います。

つまるところ、対策ができないのは介護や医療の現場に人とお金が足りていない、ということが大きいのだと考えます。

個人の努力では限界があり、足りない部分は公的な援助が必要な時期に来ているのだということでしょう。

2022年2月 5日 (土)

笑顔で介護できる環境が必要

先日来取り上げている埼玉県ふじみ野市で起きた事件が、新聞にも特集記事として掲載されていました。

その記事では、介護や医療の訪問ケアに潜む危険をどのように防ぐかということが主題になっていました。

もちろんそのような視点が大切だということは私も賛同します。

それでも私は、この問題はいわゆる介護地獄の延長上にある問題だと考えたいと思います。

この頃、自殺願望のある人が誰かを道連れにするような事件が度々起きています。

このような事件に対して、どのように身を守るかを考えてもなかなか難しいものです。

ということは、こういった事件が起きないような手立てをすることが必要で、より簡単だということです。

今回のふじみ野市の事件にしても、医師の身を守るためには介護者の心身の状態や経済的な問題を安定させることが重要だと感じます。

誤解を恐れずに言えば、いわゆる介護地獄に陥っている介護者が冷静に物事を判断するのはなかなか難しいでしょう。

だからこそ、そのような人が理性的に考えられる状況を作ってあげることが社会として必要だと思います。

今回の事件を最後にして、今後は訪問介護や訪問医療で事件が起こらないようにしたいものです。

それならば、介護者も被介護者も笑顔でいられるような状態で、介護ができる環境を作っていくことが一番大事なのだと思います。

2022年2月 4日 (金)

「おさんどんもできないし」

昨日は男性が女性を介護することに対する私自身の偏見について述べました。

ただそれは、私だけの偏見というよりも多くの人が持っている感じ方なのかもしれません。

特に私よりも年長の方に多い見方のような気がします。

母が亡くなったのは12月ですが、その年の9月頃に心身の状態が良くない時期がありました。

その頃、母にしては珍しく入所していた施設の不満を言い始めました。

それを聞いた私は家に帰る方がいいかなと考えて、それを母に提案してみました。

「家に帰ろうか?」と私が聞くと、母は心身が不調なこともあってか、あまり乗り気ではありませんでした。

「おさんどんもできないし……」母はそのように答えました。

母の真意は今となっては分かりませんが、家に帰っても何もできないことを恐縮していることは確かでした。

実際には母が施設に入所する前の2年ほどは、既に私が炊事を担当していたのでしたが……。

どうしても私より上の世代は、男女の同居では女性が家事をするという考えから離れられないのでしょう。

家事も介護も女性がするもの、という思いからは解放されなければならない、と強く思う今日この頃です。

2022年2月 3日 (木)

車椅子での外出は自転車と同じ

私は母が施設に入所してから、自宅近くのマンションで清掃の仕事をしていて、もう3年半ほどになります。

3年半も通っていると仕事に慣れるとともに、住民の方々の中にも顔見知りになる人も出てきます。

そして、残念ながら何人か亡くなってしまった方もいらっしゃいます。

その他には、最初の頃には杖を突いていた方が今では車椅子で外出する姿も見かけます。

時々立ち止まりながらも杖を使って何とか歩いて外出をしていた奥様が、昨年の暮れ頃から車椅子で移動するようになりました。

その車椅子を押すのが御主人です。

お二人ともその前から見知っていましたが、車椅子を使う姿を見て御夫婦なのだと認識しました。

御夫婦ですから、奥様の乗る車椅子を御主人が押して出かけることに何の問題もありません。

それでも私の偏見ですが、御夫婦の場合に御主人が介護をする側になるのは、どこか寂しさが増すように感じてしまいます。

女性の方が年下で長生きというのが夫婦の多数派だという考えが、私の中から抜けていないのだと思います。

同時に様々な偏見があるので、介護すること、されることを人に見られたくないという人々も多いように感じます。

車椅子での外出は自転車と同じ、というような状況にして偏見などを吹き飛ばすには、まだまだ時間がかかりそうです。

2022年2月 2日 (水)

沈丁花の香り

自宅で親を介護していると引きこもりがちになる場合が多いだろうと思います。

私の母も足腰が弱ってからは、通院以外はほぼ出かけることは無くなりました。

私もそういう状況になってからは、母を散歩に誘うこともなく時々一人で買い物に行くくらいになりました。

実際、母も外出時は車椅子ということで億劫なのか、ほとんど外に出たがりませんでした。

ただ、今では天気の良い日には一緒に出掛けてあげれば良かったと思っています。

というのは、母が最後の入院をする前に3回だけ車椅子で散歩に出かけました。

たった3回でしたが、毎回母はとても楽しそうな表情をしていました。

その時は既に車椅子の生活にも慣れていたということもありますが、もっと早く誘ってみれば良かったと思ったものでした。

早いもので昨日から二月に入り、寒かった今年の冬もそろそろ終わりに近づいてきました。

今朝外に出ると、何処からか沈丁花の香りがしたような気がしました。

「沈丁花の匂いがするね」「そうだね」「もう春が近いね」

こんな会話をしながら花好きな母と散歩ができたら楽しかっただろうと思います。

2022年2月 1日 (火)

徐々に老化していく姿

ここ数日は埼玉県ふじみ野市で起きた事件から考えたことを書いています。

介護をしている人の精神状態や経済的な問題を自分の経験から想像してみました。

介護の状況というものは、それこそ人それぞれだろうと思います。

それでもほとんど共通しているのは、状況が悪化していくことと、いつまで続くか分からないことだと思います。

私が介護離職したのち、母は4年ほど生きてくれました。

2年半ほどは自宅で、後の1年半ほどは施設でした。

自宅で介護していた間、母の持病は安定していましたが、徐々に老化していく姿は寂しいものでした。

また、3度の食事の支度もあって定職に就くことを考えるのが難しく、経済的な不安も大きなものがありました。

もしかすると、埼玉の事件の容疑者も同じよう思いがあったのではないかと思います。

介護を一人で抱え込むと容易に介護地獄に陥ります。

この容疑者も訪問看護を使っていますので全く孤独だったというわけではないでしょうが、ほとんどの時間は母親と二人だったのでしょう。

徐々に死に近づいていく老親とずっと一緒にいて、正気でいるのはなかなか厳しいだろうと思います。

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