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2022年1月

2022年1月31日 (月)

経済的な行き詰まり

昨日は埼玉県ふじみ野市で起きた事件を元に容疑者の精神状態から、自宅での介護は危険と背中合わせだと記しました。

その他に自分の経験から重要なものとして、経済的な問題が大きいと感じます。

それは、介護が大変だから精神的に参ってしまうとともに、経済的な心配も参ってしまう原因の一つだろうということです。

私の場合で言えば、築50年になる旧家から新しい環境を選ぶときに重視したのは母の体調と家賃でした。

母の体調を考えれば日当たりが良いのは外せませんし、そのためには多少高い家賃もやむを得ないことでした。

当時は私も仕事をしていましたし母には年金がありましたので、その中で負担ができる家賃の部屋を選びました。

その後、母の介護度が上がり、私はいわゆる介護離職をして一時期は無収入になりました。

ところが、母が入院したり施設に入ったりすると、まずは部屋が一つ余ってしまいました。

そして母が亡くなると、当然母の年金が終わってしまうので、家賃は全て私が負担しなければならなくなりました。

つまり、介護生活の終了とともに家賃をはじめとする経済的な問題が悩ましく現れてきます。

この事件の容疑者のことは分かりませんが、母親の年金の問題は彼の頭にはあったと思います。

そのように考えると、経済的な行き詰まりもこの事件の背景の一つだったのではないかという気がします。

2022年1月30日 (日)

自宅の介護は悲劇と背中合わせ

昨日取り上げた埼玉県ふじみ野市での事件について、今日の新聞のコラムでも書かれていました。

その論調は、本当は母思いのはずの容疑者が訪問看護に来ていた医師を殺害して母親も悲しんでいるだろう、と。

そして、地域の在宅医療を支えてきた医師の命が奪われたことは悲しく残念だという感じでした。

もちろんその通りだと思いますが、少し付け加えたいこともあります。

まず、今日の報道によると、容疑者は医師に亡くなった母親の蘇生措置を要求したということです。

このあたりの信ぴょう性はまだはっきりしませんが、容疑者の精神状態が気になります。

66歳の男性が92歳の母親の介護を自宅でしていたということです。

私のわずかな経験からしても、自宅で高齢者の面倒を見るのは大変なことです。

それでも、私の場合はほとんどの時期が母の通院と食事の面倒を見るだけで済みました。

ただ2週間ほど、母が寝たきりのような状態になった時は、私も寝不足になったりして大変な時期がありました。

ここのところ毎日強調していますが、介護で孤立して介護地獄に陥って的確な判断ができなくなるのは誰にでもあることです。

結局、自宅で一人で高齢者を介護することは、悲劇と背中合わせだと覚悟しておくべきだと感じます。

2022年1月29日 (土)

埼玉県の悲惨な事件

ここのところ、介護の孤立から介護地獄に陥る危険性に関して考えてきましたが、そんな中で大変悲惨な事件が起きました。

埼玉県ふじみ野市で介護していた母親を亡くした人が、訪問看護に来ていた医師を散弾銃で撃ったということです。

この話を最初に聞いたとき、私は介護者と医師の間で意思の疎通がうまくいかず、何らかのトラブルがあったのかと考えました。

その後の報道によると、どうも介護者が母親が亡くなったことで自殺をしようと考えたようです。

その道連れに医師を呼び出して、散弾銃で撃ち死亡させたということのようでした。

今の段階ではトラブルがあったかどうかは分かりませんが、介護者の精神面が不安定だったことも推測されます。

新聞記事によると、介護者は亡くなった母が以前通っていた病院でクレームをつけるなどして、要注意人物とされたこともあったようです。

その点は置いておくとしても、事件当時は66歳の息子が92歳の母親を介護していた状況のようです。

その中で、訪問看護を使っている以外はあまり人との交流は無かったようでした。

つまり、ほとんど孤立している状況の中で、いわゆる介護地獄という状態だったのかもしれません。

若しくは、ずっと介護していた母親が亡くなったことで自暴自棄になったのかもしれません。

いずれにしても、他人事として簡単に片づけることのできないような悲惨な事件でした。

2022年1月28日 (金)

「邪魔じゃないかね?」

このごろは介護と孤立ということについて拘っています。

昨日はスロープを借りれば母を散歩に連れて行けたかな、という思いを書きました。

ただ、母が同意したかどうかは何とも言えませんし、特に最初に連れて行くのが難しかっただろうと思います。

実際母は、腰を痛めてから外出をあまりしなくなりました。

車椅子での外出も、他の人の邪魔になるのではないか、という言葉も発していました。

そういうことを聞いてから、私も外出に誘わない方がいいのかな、と考えていたことも確かです。

母にとっては、近所の人に車椅子の姿を見せたくないという思いもあったのかもしれません。

今から思うと、それでも普通に歩いていた時のように、買い物に行ったり散歩させてあげたりした方が良かったと思っています。

母が最後の入院をする前の一か月ほど、母は再び元気で陽気な状態になっていました。

その頃、家に帰ることを話題にすると母はかなり前向きで「車椅子で買い物に行くと邪魔じゃないかね?」ということまで言っていました。

「小回りのきくコンパクトな車椅子もあるよ」と私が言うと、母は嬉しそうな笑顔を見せてくれました。

結局、買い物は夢に終わりましたが、今でも残念に思っていることの一つです。

2022年1月27日 (木)

スロープを借りれば良かった

一昨日の記事の最後に以下のことを書きました。

『母が亡くなって2年以上になりますが、今でも私は母を積極的に散歩に連れて行ってあげれば良かったと後悔することもあります。』

介護する上で孤立せずに社会との関わりを持つ意味でも、なるべく外に出た方がいいという考えを示したつもりです。

ただ、言葉で言うことは簡単ですが、実際は様々な事情により引きこもりがちになる場合が多いと思います。

物理的な問題や心理的な問題などいろいろあるでしょう。

心理的なことで引きこもるのは、高齢者に限らず多くのケースがあると思います。

それに比べて物理的なことは解決できる可能性が大きく、その部分で私は今でも後悔する点があります。

それは旧家から移動したマンションにはスロープがないということです。

新しく移ったマンションは日当たりが良く、母の持病が悪化することもなく元気に過ごしてくれました。

ただ、少し古い建物であるため階段の脇にスロープが無く、外出する際は階段を数歩上り下りする必要がありました。

つまり、階段の上下で母に車椅子を降りてもらうことになり、そういうことも考えるとなかなか私から散歩に誘うことができませんでした。

今ではスロープを借りてでも散歩に行けば良かったと思っていますが、当時はそこまで考えが及びませんでした。

2022年1月26日 (水)

介護地獄はすぐそこに

この数日は介護における孤立について考えてみました。

自宅で介護をしている場合に最も危険なのが、孤立していわゆる介護地獄に陥ることだと思います。

私が介護辞職をして自宅で母の介護をしていた期間は2年半ほどでした。

その内のほとんどの時期は、母の介護といっても食事の世話くらいでそれほどの厳しさは感じていませんでした。

ただ、あまり料理の経験のない私にとって、糖尿病の母の三度の食事のメニューを考えることは胃が痛くなるような仕事ではありましたが。

それでも、それ以外にはあまり手がかからない母でしたから、時間には余裕がありました。

ところが、母が骨折入院から戻って来てからは、トイレに連れて行く必要があるので事態は一変しました。

例えば、母が夜中にトイレに行きたいと言った場合、連れて行ってあげることになるので、母の声が聞こえるところで眠ることになりました。

そうなると、落ち着いて眠れなくなり、日中もぼんやりしていることが多くなりました。

この時期は訪問看護もお願いしていたのですが、寝不足だけはどうにもなりませんでした。

結局、この状況は二週間足らずで済みましたが、一人で一人を介護するのは肉体的にも精神的にもキツイということを、私は実感しました。

やはり、介護地獄はすぐ身近に口を開けていると考えていないと危険です。

2022年1月25日 (火)

大切な社会との関わり

ここ2日、介護者が必要なのはアドバイスよりも誰かに傍にいてくれることだ、という趣旨の話をしました。

私もこれに同感しますし、介護をしている方々の中にも同様に思われる方は多いものと思います。

私の場合は母の介護をしたとはいえ、かなり恵まれていたように感じていますが、それでもしばしば誰かがいてくれればと思ったものでした。

一方、介護される人も孤立させるべきではないと私は思います。

自宅で介護する場合、ほとんどが親族が面倒をみることになるのでしょう。

すると、どうしても引きこもりがちになってしまいます。

私の母の場合も自宅にいた頃は通院以外はほとんど外出せず、引きこもりがちになっていました。

それが、施設に入所する前に何故かとても陽気になったので施設に馴染んでくれました。

これは非常に稀なケースだとは思いますが、いずれにしても多くの人に面倒を見てもらうことは大切なことだと思います。

そうして介護者も被介護者も孤立をさせないことが、いわゆる介護地獄などを防止するためには大事なのでしょう。

そのためには介護をする状況になっても、社会との関わりを何か持ち続けることが必要です。

母が亡くなって2年以上になりますが、今でも私は母を積極的に散歩に連れて行ってあげれば良かったと後悔することもあります。

2022年1月24日 (月)

「いてくれてありがとう」

昨日は新聞記事に上がっていた、介護者が欲しいのはアドバイスではなく一緒にいてくれているという実感だということを取り上げました。

私が母の介護をした経験からしても、一人で一人の世話をするだけでも結構大変です。

ですから、何をして欲しいということでもなく誰かがいてくれると助かるという気持ちはありました。

また、それと同時に、介護をされる人にとっても介護者以外の誰かがいることが大切ではないかと私は思います。

これも私の経験で言えば、いつも一緒にいる二人では話題もなくなって黙りがちになることも多くありました。

つまり、誰かが傍にいてくれることは介護をする人もされる人も、より安心できる要素の一つだと思います。

ただ、介護者と被介護者が日常生活を送っているところに入った人は、何となく寂しさを味わうのかもしれません。

私もその立場に立たされたら、何をしていいのか戸惑うばかりだろうと思います。

ケースバイケースではありますが、介護は24時間ずっと手が必要なわけではありません。

ただ、必要な時に手が足りないと、いわゆる介護地獄に陥ったりする危険性があります。

そういった意味でも介護者からすると、誰かが近くにいてくれるだけで心強いものがあります。

何かあった時には、「いてくれてありがとう」と、そんな言葉を掛けたい気持ちになると思います。

2022年1月23日 (日)

一緒にいてくれているという実感

今日は先日新聞に掲載されていた記事を元にして、介護について少し考えてみようと思います。

ある医師の実家では、お母さんと同居していた弟さんがお母さんの介護をしていたそうです。

時々その弟さんから電話があって、この医師は医学的な見地からアドバイスをしていたということです。

そんなある日、弟さんから「言っているだけじゃなくて、家に来てくれないか」という怒りを込めた電話が来たそうです。

そして、実家に帰った時に見たお母さんの病状と弟さんの介護する姿に悲しくなり、自分を責めたということでした。

私も母の介護をしていた者として、どちらの立場も良く分かります。

特に介護は人それぞれですから、一般的なアドバイスが役に立つことはあまりないでしょう。

私の場合は食事の世話が一番で、それほど大変ではありませんでしたが、それでも人手があれば助かることは確かでした。

この方の弟さんもおそらくそのような状況であったと思います。

ただ、この記事にある「家に来てくれないか」という言葉は、人手が欲しくて言っていただけではないでしょう。

それは医師であるお兄さんが言っているように『介護者が必要としているのは言葉ではなく、存在なのだ』ということに尽きるのだと感じます。

つまり、介護者には『一緒にいてくれているという実感』こそが必要だと、この医師は理解したそうで私もそれに同感します。

2022年1月22日 (土)

「通院することになりました」

このところ8年前の今頃に、母が通っていたクリニックから病院を紹介していただいたことについて書いています。

母の持病が悪化して病院を紹介されることになり、私が二つの病院の中から一つを選んだことは書きました。

その病院に行く前日に厳寒の旧家から温暖なマンションに移動したことも書きました。

そして、マンションで一日過ごしたところ、母の体調が明らかに良化して「通院でいいですよ」と言われたことも書きました。

人が生きていくうえで日光や暖かい環境が大事だということが母のケースから良く分かります。

ところで、新しい病院に行くときに、クリニックの医師から紹介状とともに何かを預かったように記憶しています。

確か、その預かったものは返しに行くことになっていて、病院を受診した後に一度だけクリニックに私が一人で行きました。

その時に私が「通院することになりました」と報告すると、先生は明らかに驚いた表情をしていました。

おそらく、クリニックの先生も母は入院するか、人工透析をすることになると思っていたような気がします。

私もその当時は同じように思っていましたし、母もそういう覚悟をしていたようでした。

幸い、母はその後も6年ほど元気に生きてくれました。

母は時々「こんなに長生きできるとは思わなかった」と言っていて、確かにこのような危険な時を何度か乗り越えたことがありました。

2022年1月21日 (金)

2つの病院からの選択

昨日は『新しい病院との縁』という話をこちらに書きました。

母はその後の5年11か月の間、こちらの病院にお世話になりながら、最後は同じ建物内の介護老人保健施設で生活していました。

今では私はこの病院や施設を選んで本当に良かったと思っています。

ただ当時は、その時々の成り行きに任せて選んできただけだったわけですが……。

実は新しい病院に関しても、クリニックの医師からは2つの病院を紹介されてどちらかを選ぶように言われました。

「お母さんの持病が悪化してウチでは見られないので、大きな病院を紹介します」と聞いた私がどちらかを選ぶことになりました。

一方は私も診てもらったことがあり、父も一時期入院していたことがある病院で、もう一方は場所も知らない病院でした。

今から思うと、その頃私は行ったことのある方の病院の駐車場に不満があったようでした。

そのため、もう一方の病院にも駐車場があることを確認して、そちらを選ぶことにしました。

初めて行く全く知らない病院でしたが、駐車場も無料で滅多に満車になることも無く、その点でもラッキーでした。

その上、後でお世話になる老健が併設されていて、結果として母は楽しく第二の人生を送ることができました。

もう一方の病院を選んでいたらどうだったか分かりませんが、この時の選択は悪くはなかったと母も喜んでくれていると思います。

2022年1月20日 (木)

新しい病院との縁

8年前の2014年1月20日は、母が通っていたクリニックから紹介された病院に初めて行った日です。

私も、母の持病がかなり悪化して、いよいよ入院か人工透析をすることになるのかと大変心配しました。

そこで、その前日に叔母と一緒に母の両脇を抱えるようにして、半年前から借りていた暖かいマンションに移動させました。

マンションに入った瞬間に母はトイレに行き、スッキリした笑顔で出てきました。

翌朝、起きて来た母を見ると、明らかにむくみが良化したような顔をしていました。

そういう状況でしたから、新しい病院での検査の結果も通院して様子を見ましょう、という良い方向になりました。

確かこの頃のことだと記憶していますが、母は「透析してまで生きたくない」と言っていました。

もちろん、透析以外では生き永らえることができないということになれば事情は違っていたかもしれません。

それでも、幸い母は最後まで人工透析をすることはなく、その点は良かったと思いました。

それは、この病院に通っている間は糖尿や腎臓の悪化が見られず安定した状態だったからでしょう。

そして、母はこの日の5年と11か月後に、この病院で最期の時を迎えることになりました。

その間にはいろいろとありましたが、振り返るとこの病院に通院することになって、母のためにはとても良かったと今では思います。

2022年1月19日 (水)

「どこが悪いんですか?」

昨日、8年前の今頃に厳寒の旧家から温暖なマンションに移動したことを書きました。

実は、それは2014年1月19日の夕方のことで、丁度テレビでは大相撲中継をしている時刻でした。

いかにも体調の悪そうな母の両脇を叔母と私で抱えながら、マンションに連れて来たのでした。

ところが、マンションに着いてすぐにトイレに入った母が、トイレから出てきた時はスッキリした笑顔でした。

翌日には紹介された病院に初めて行くことになっていて、叔母も付き添ってくれることになったので、前日のうちに来てくれたのでした。

一夜明けたその日は良い天気で、暖かい部屋で寝たからか母は前日よりもさらに元気になったように見えました。

「これで病院に行ったら、どこが悪いんですか?と言われそうね」と叔母が言いました。

病院での検査と診察の結果は、叔母の予言通り「通院で様子を見ましょう」ということになりました。

寒い家から暖かい場所に移動して一夜過ごしただけで、母の状況が劇的に改善したのは検査の結果に明らかに出ていました。

そしてそれは検査をするまでもなく、母の表情を見ただけで分かるほどでした。

当時86歳だった母が90歳まで、そのマンションで生活をした4年ほどの間、母の持病はそれほど悪化することなく安定していました。

結局、母はその後旧家に足を踏み入れることはありませんでした。

2022年1月18日 (火)

厳寒の旧家から温暖なマンションへ

8年前の今頃、1月後半に母と私は旧家からマンションに移りました。

旧家は築50年ほどになっていて、隙間風入り放題の上に場所によっては床が抜ける状況になっていました。

元々日当たりが悪く、冬には暖房の正面以外は凍えるような寒さになることもしばしばでした。

そういう環境の中で母も私も生活していて、良い体調を維持できるはずがありません。

移動先のマンションは半年ほど前から借りていたのですが、母はなかなかその気にならないようでした。

ただ、冬の寒さで母の持病が悪化して、クリニックから病院を紹介されたこともあって、この時期に半ば強制的に移動させました。

その移動したマンションは窓が南向きで日当たりも良く、冬でも室温が20℃くらいはありました。

寒い中、旧家からマンションの室内に入った母はすぐにトイレに駆け込みました。

厳寒の旧家ではトイレに行くのも寒いので、なるべく我慢していたようで、それも持病の悪化の原因だったかもしれません。

その時トイレから出てきた母は「出た」と笑顔で言っていて、その顔はむくみが少し取れたようにスッキリしていました。

結局母はこのマンションで4年ほど生活しましたが、その間は持病の悪化はほとんどありませんでした。

母にとっては日当たりが良く温暖なマンションの環境が、薬と同様の効能があったように思います。

2022年1月17日 (月)

「シクラメン、また咲いた」

母は80歳頃まで一人で病院に行ったり、書道を習いに行っていました。

そして、そういった用事で出かけたついでに花の苗を買ったり貰ったりして玄関先で育てていました。

あるとき、母が玄関の辺りにいた私に「シクラメン、また咲いた」と喜んで教えてくれました。

その頃の私は、残念ながら花のことは全く興味がなかったので、その言葉にはピンと来ませんでした。

その後、80代後半になった母はほとんど家から出なくなり、私が植物の世話をするようになりました。

植物の知識がほとんど無かった私でも、しばらく続けていると花のことが少しは分かるようになってきました。

概ね、世話をし過ぎるのは良くなく、特に鉢植えでは水の遣り過ぎで失敗することが多いということを実感しました。

もちろん花の種類にもよりますが植物は意外に強く、何もしないで放っておくくらいの方が上手くいくように感じました。

そしてシクラメンも扱いましたが、母が「シクラメン、また咲いた」と喜んでいた理由が分かったように思いました。

シクラメンは冬から春にかけて咲きますが、花が終わった後の姿、特に夏の間は完全に枯れてしまったように見えました。

それが時期が来ると、葉が出て花が咲き始めます。

シクラメンは多年草ですから当たり前なのですが、夏の姿で諦めていた私は花が咲いたのを見て母と同じように感動の声を上げました。

2022年1月16日 (日)

一週違いの幸運

昨日、南太平洋のトンガ諸島周辺で海底火山の噴火があり、それによって起きた津波が今朝日本の沿岸に到達しました。

津波によって主に船に被害が出たようですが、避難を余儀なくされた方々も多かったようです。

津波の避難といえば、おそらく東日本大震災の時以来ではないでしょうか。

2011年3月11日の午後2時46分頃に起きたのが東日本大震災でした。

その時私は仕事で外出していましたが、家に一人でいた母は「怖かった」と後で振り返っていました。

このころの母は月に一度の通院をしていましたが、持病は安定していました。

ですので、当時は月に一度くらい杖を使いながら歩く母と一緒に旅行に行っていました。

行き先は先日書いた箱根や房総半島、河口湖などでした。

その中で房総半島は東日本大震災で沿岸には津波も押し寄せてきて、それなりに被害が出たようでした。

実はその大震災は金曜日に起きたのですが、その一週前の金曜日、3月4日の同時刻に私たちは房総半島の海岸沿いを車で走っていました。

もし大震災が一週間早ければ、私たちも被害に遭っていたのは間違いなく、その点では運に恵まれたのかもしれません。

ありふれた言葉ですが、いつ何があってもいいように人生をどう生きるか、津波のニュースに触れて改めて考えさせられました。

2022年1月15日 (土)

医師との話と責任の重さ

今日も通院や施設での医師とのやり取りについて考えてみようと思います。

確か母が80歳くらいの頃から、私は母の通院の送り迎えをしていたように思います。

そして母が86歳の時に、むくみが悪化してクリニックから病院を紹介されました。

母は当時杖を使って歩いていましたが、病院では母のために車椅子を借りて、私がその車椅子を押して一緒に診察室に入ることになりました。

そうなると医師によっては私の方に話をしてくる人もいて、徐々に私は母の病状や薬のことなどに詳しくなっていきました。

母は「先生の声が小さくてよく聞こえない」としばしば話していて、私に良く聞いておくように暗に言っているようでした。

年齢とともに母の耳が遠くなっていたことも確かですが、少しずつ私の責任が重くなっていくのを感じました。

心配性の母にとって、年齢とともに悪化していくであろう状況を知りたくないという気持ちもあったと思います。

そして、施設の医師との話は全て母と離れて私が一人で聞いていて、母は私を介してしか自分の病状を知らないという状況になりました。

母もそれを望んでいたような感じでしたが、果たしてそれで良かったのかなと考えることもあります。

また、母が受ける検査や治療を決めるのが事実上私になり、それぞれの決断が良かったのかという思いが今でも時々浮かんできます。

全体的に母の晩年は悪くなかったと私は思いますが、母の率直な感想を聞いてみたいような、聞きたくないような感じがしています。

2022年1月14日 (金)

病院と施設の医師の連携

私は『母の第二の人生』、特に施設での生活は母がとても楽しそうにしていたので良かったと思っています。

それでも、今でも不満や不可解に思っていることもいくつかあります。

そのうちの一つが病院と施設の医師の連携の問題です。

特に介護老人保健施設の医師の位置付けに違和感を持ちました。

施設には医師が必要なようですが、その医師に会ったのは母の入所時と退院からの再入所の時だけでした。

医師は毎日施設にいるのではなく出勤は週に何日かだったようでした。

初めて入所した際にその医師が私に言ったのが「介護老人保健施設では健康保険は使えない」ということでした。

その言葉を聞いていた私が、母の体が明らかにむくみ出した時にも病院に行くことをお願いし難かったことは事実でした。

その他にも、少し高価な薬や精神安定剤を母に使うことを断られたこともありました。

それ以外には、病院と施設は同じ建物内ですから、もっと緊密に連携しているのかと思いましたが、それほどではありませんでした。

これは私の勝手な思い込みに過ぎないわけですが、ちょっとガッカリした点ではありました。

今ではそれに関していかなる感情もありませんが、当時は不満に思ったものでした。

2022年1月13日 (木)

幸運もあって結果オーライ

このところ父の晩年について考えることで、私自身に反省する点があったことを痛感しました。

逆に母の晩年についてはその反省も生かせたからか、母にも少しは喜んでもらえたのではないかと思っています。

というよりも、むしろ母に関してはいろいろと幸運だったと思います。

まず、通院していた病院に介護老人保健施設が併設されていたことでした。

そして、運良くその施設に入所できたこと。

また、入所前に母がとても元気になり、それまでになかったほど陽気で前向きな気持ちになってくれたこと。

入所後には4回入院することになりましたが、全て隣の通院していた病院に入れたこと。

なかなか介護生活でここまで恵まれることも無いだろうと思います。

その上、母はその介護施設での生活を笑顔で楽しく過ごしてくれました。

私はほぼ毎日、そのような母に会いに行くのがとても楽しみでした。

これらは全て筋書き通りに進んだというよりも、状況に応じて選択をした結果が良かったという感じでした。

私の中にも母のために良い選択をしてあげようという思いはありましたが、結局は幸運もあって結果オーライだったという気がします。

2022年1月12日 (水)

知られていない介護認定

ここ数日、父の晩年のことについて考えているうちに、いろいろと思い出したことがありました。

昨日は、当時介護保険について詳しく知っていれば違った対応もあったのでは、と反省をしました。

実は、父が亡くなった際の入院時、病状がやや回復した時に主治医から次の行き先を考えるように言われました。

つまり、自宅に帰るかどこか介護施設に入所するか決めてください、という意味でした。

私は介護保険も介護施設も考えたことすらありませんでしたから、一から調べる必要がありました。

まず介護認定をしてもらうための手続きを始め、同時に介護施設を検討することになりました。

ただ、介護認定の面接は済みましたが、介護施設の選定前に父の病状が再び悪化して、主治医は次の行き先について口にしなくなりました。

結局、父は介護保険を使うことはありませんでしたが、死後に届いた通知では要介護4か5だったように記憶しています。

それでもこの時に得た知識によって、その後母のためにも介護認定を申請して要支援1という結果を得ました。

母の場合、腰を痛めたことで入浴が不便になり、浴用の椅子を買うために申請したものでした。

その結果として一割負担で椅子を買うことができました。

このような知識はほとんどの人が必要を感じてから調べるのでしょうが、もっと広く世の中に知られて欲しいものだと思います。

2022年1月11日 (火)

介護の知識の必要性

昨日に引き続いて父のことを思い出してみようと思います。

父は本当に元気な人でしたから、母に比べて最後まで冷たく対応し過ぎたかな、という思いが私にはいつまでも残っています。

もっと優しくしてあげれば良かったな、というのが正直なところです。

私は、母の月に一度の通院には仕事の休みを取って付き添っていましたが、父の通院の際は一人で行けると考え仕事に行きました。

結局その日父は病院に行かず、その後救急でその病院に問い合わせたところ断られたことがありました。

最終的には少し遠い病院に入院して、父はそこで亡くなることになります。

あの日、私が付き添って病院に行っていればと思うことが今でもあります。

それでも介護や医療のことは、父の時に経験したことが母の時には大いに役立ちました。

父は母よりも10年早く亡くなっていますので、父には申し訳ないですが、良い経験になったということでしょうか。

つまり、父の晩年に私にもっと介護の知識があれば、もっと違った対応ができたかもしれないということにもなります。

母は晩年、本当に元気で楽しそうに施設で過ごしてくれました。

父の時にも私に介護の知識がもっとあれば、父ももう少し楽しい晩年が送れたのではないかと思っています。

2022年1月10日 (月)

父の思い出

10日は父の命日なので、今日も仕事帰りにお墓参りに行ってきました。

父は母の10年前に86歳で亡くなっていますが、80代になっても元気な人でした。

82歳まで私と一緒にゴルフに行ったり、84歳まで畑を借りて野菜を作っていました。

そして、畑仕事をしているときに器械の誤操作で脚にケガをしてから元気がなくなり、引きこもりがちになりました。

それまでは車の運転が大好きで本当に元気に過ごしていました。

こんな思い出があります。

今でもそうかもしれませんが、一緒に行っていた当時のゴルフ場はほとんどが高齢者のプレーヤーでした。

特に平日のお客さんは私よりも高齢の方ばかりでした。

ところが、ある時に私が気付いたのが『この日のゴルフ場で、明らかに父が最高齢だな』ということでした。

運転が得意で好きな父は82歳でもゴルフ場への往復を自ら運転し、1ラウンドプレーしていました。

そういう父でしたから、私も晩年の父が苦しいときにほとんど手を差し伸べることができず、今でも残念に思うところがあります。

今となっては、月に一度のお墓参りが唯一の親孝行になってしまいました。

2022年1月 9日 (日)

服と帽子のコーディネート

母がお世話になっていた施設に感謝の気持ちを表すためにマスクを送ったことは、先日からこちらに書いています。

そのお礼状を頂いた際に同封されていたのが、職員さんたちの母についての思い出話でした。

これを受け取って私は本当に嬉しく思いましたので、今日もこのことを取り上げようと思います。

そも思い出話の一つに『息子さんが、服と帽子をコーディネートしてくれていておしゃれだった』というものがありました。

確かに母が施設で着ていた服は、ほとんど私が選んで買ったものでした。

というのは、母は80代後半くらいから買い物に出かけなくなったので、私が買わなければならない状況でした。

それから、特に肌着は綿の古めかしい物を着ていたので、この機会にポリエステル素材の物に変えてあげました。

施設の中は母にとって暑く感じることが多かったようで、ポリエステルの衣類は母も気に入ってくれました。

他にも母が気に入ってくれそうな衣類をしばしばネットで探しましたが、徐々に私にとって楽しみな時間になりました。

高齢者用の衣類は多くが地味で濃い色のものが多いのですが、私はあえて明るい感じの色の物を選ぶようにしていました。

それは母と生活していた頃、濃くて暗い色は見にくそうだったので、身の回りの物はなるべく明るい色の物を揃えるようにしました。

入所者には珍しい明るい色の服を見て職員さんは『おしゃれ』と感じたのでしょうが、母も気に入っていたようで笑顔が映えていたと思います。

2022年1月 8日 (土)

病院、施設で陽気な母

昨日、母がお世話になっていた施設に送ったマスクのお礼状が届いたことを記事にしました。

その中には職員さんたちの母に対する思いが語られていて、私は感謝の気持ちとしてマスクを送って本当に良かったと改めて感じました。

第一に介護の職場は入れ替わりが激しく、2年も経過しているので母を知っている職員さんがどれほど残っているのか不安がありました。

そんな中、たくさんの職員さんの思い出が語られていてとても感激しました。

それから、また新型コロナが蔓延し始めてきたことで、マスクを送ったことが喜ばれているようで、是非とも有効に活用して欲しいと思います。

ところで、母は90歳で足を骨折して手術をして退院し、自宅での2週間ほどの間に脱水症状を起こして再び同じ病院に入院しました。

この入院中に意識を回復した母は、すっかり元気でとても陽気でカワイイお婆ちゃんになりました。

退院時には、母が使っていたコップに担当してくれた看護師さんたちが寄せ書きをして送り出してくれました。

その時に移動した先が、今回マスクを送った施設になります。

そのような状況でしたから、母が施設に馴染むまでにそれほど時間はかかりませんでした。

自宅で母と暮らしていた当時、私は母がこういった施設での生活を受け入れることはないだろうと考えていました。

ところが、予想外に母は施設で明るく楽しそうに過ごしてくれたので、今では本当に良かったと思っています。

2022年1月 7日 (金)

心温まるお礼状

昨年の暮れに、母がお世話になった施設にマスクを送ったことは以前の記事に書きました。

その施設から今日、お礼状が届きました。

電話でお話をした事務長の挨拶文と、母が寝起きしていたフロアの職員さんたちの思い出話が同封されていました。

おそらく、母のお世話をしてくれた職員さんたちがそれぞれのエピソードを綴ってくれたのだと思います。

ある方は「相撲と帽子と穴子寿司が好きだと話していた」という思い出話。

またある方は「職員が声を掛けると笑顔でニコニコ話してくれる」そんなイメージがあるとのことでした。

他には「普段は物静かでしたが、話をすると笑い上戸だった」そんな記憶があるという方。

「言葉が上品で、かわいいお婆ちゃんという感じ」という方もいました。

「巨人ファン」「ラジオを聴いていた」「職員の体調を気遣ってくれた」などの言葉もありました。

まだ母のことを覚えてくれている方々が、変わらず仕事を続けられていることを知りホッとしました。

それと同時に、遅くなってしまいましたが感謝の品を送って良かったと改めて思いました。

職員さんたちの言葉を聞いて、母もきっと喜んでくれただろうと確信しています。

2022年1月 6日 (木)

介護の現場に頭が下がる

昨日の記事で、母がお世話になった施設にお礼の意味でマスクを送ったことを書きました。

ただ、新型コロナの影響もあってタイミングを逸したため、母の死後2年以上が経ってしまいました。

ですから、職員さんに母のことを思い出してもらうために、母の写真をマスクと一緒に送りました。

というのも、母はその施設に1年半ほどいた間に3回入退院を繰り返しました。

退院をするたびに同じ施設の同じ部屋に帰りましたが、お世話をしてくれる職員さんの中に新しい方が何人かいるのが普通でした。

それだけ介護の現場は入れ替わりが激しいものだということでしょう。

ですから、今では母のことを知っている職員さんがどのくらい残っているかという状況かもしれません。

それでも、母のことを覚えている職員さんには感謝の気持ちが伝わって欲しいな、という思いでした。

私自身も少しの間ですが、自宅で母の面倒を見ていた時期がありましたので、介護をすることの大変さが良く分かります。

ですので、介護を仕事にしている人たちには、本当に頭が下がります。

ただ、その介護の現場では残念ながら辞めてしまう人も数多くいるようです。

高齢者にとって介護してもらうことは不可欠ですので、介護の現場の方々が笑顔で働ける職場になって欲しいものだと心から思います。

2022年1月 5日 (水)

「早くお礼してね」

私は昨年の暮れに母がお世話になっていた施設に、お礼の気持ちとしてマスクをお送りしました。

実は母が亡くなった時に、四十九日の法要が終わったら菓子折りでも持参してお礼の挨拶に伺おうと考えていました。

ただ、母の四十九日の法要が行われた頃、ちょうど新型コロナが広がり始めていて介護施設に行くことが難しくなっていました。

そういう事情から、なかなか挨拶には行けずに時間ばかりが経ってしまいました。

そして、昨年の12月には母の三回忌を迎え「早くお礼してね」という声を聞いたような気がしました。

生前の母は本当に施設によく馴染んでくれて、楽しそうな表情で施設の生活で起こったことを話してくれました。

また、ずっと自宅で過ごしていたら見られないような笑顔の写真をたくさん撮ることもできました。

そのため、施設へのお礼は私もずっと気にしていましたから、この機会にマスクでも送るといいかなと考えて、施設に連絡してみました。

施設では今でも面会は原則禁止だそうですが、母の感謝の気持ちを表すためにマスクを送りたいと伝えると喜んでくれました。

振り返ってみると、入所中は楽しかったことも心配したりしたこともありましたが、今となっては全てがいい思い出になりました。

そして、ずっと気になっていたことを終わらせることができて、胸のつかえが下りたように感じました。

ただ、母のためにしてあげることが一つずつ無くなって行くのは、寂しい思いがすることも確かです。

2022年1月 4日 (火)

行けるときに行く

昨日は箱根駅伝から母と温泉に行ったことを思い出して、その頃の思い出を書きました。

我が家は私が子供の頃から、父が運転する自動車で箱根や伊豆などによく旅行に行っていました。

かなり記憶が薄れていますが、子供の頃は一年に一度くらいの割合で行っていたような気がします。

その後も父の生前は正月は旅先で過ごすことが多く、いろいろな場所に行きました。

覚えているのは、茨城の那珂湊や千葉の銚子、富士宮の白糸の滝や熱海などです。

父はどこに行くのも自らが運転する自動車というほどの人で、80歳過ぎまで車を運転していました。

振り返ってみると、年末が近づくと「今度はどこに行く?」と父が私に尋ねることがありました。

私がネットで場所と宿泊先を決めて、年が明けたら父の運転する自動車で出かけるということがおそらく10年ほど続きました。

父の考えでは、家族で旅行に行って正月くらいはいつも家事をしている母に負担を掛けないようにという思いやりだったのかと思います。

当時の私は、なかなかそこまで思いが至らなかったのですが。

つまり、いつも一緒にいる家族が一緒に旅行に行ってもそれほど楽しいものでもなかったですから。

それでも、前日の結論と同じように『行けるときに行く』ことの大切さをこういった過去の思い出からも痛感します。

2022年1月 3日 (月)

箱根駅伝で思い出す

毎年、お正月恒例の箱根駅伝が今年も2日、3日と行われました。

私もテレビを時々見ていましたが、今年はかなり寒そうでした。

箱根といえば、父が亡くなった後に母を温泉に連れて行ったのはほとんどが箱根でした。

箱根はそれ以前からしばしば家族でも行っていて、駅伝中継でも見慣れた風景を懐かしく思って見ていました。

そして振り返ってみますと、母と一緒に行っていたのはもう9~12年も前のことになります。

叔母さんが同行してくれていたので、母も温泉に入れることをとても喜んでいて、ほぼ毎月のように行っていた時期もありました。

このころの母は杖を使いながら歩いていて、一人での入浴は不安に思っていたという事情もありました。

やはり親子でも男女ですと入浴の世話は難しく、叔母が一緒に来てくれたことはとても有難く、今でも感謝しています。

そして、毎回のように同じ宿に行っていましたので、先方でもほぼ毎回同じ部屋に案内してくれて、これも有難かったです。

また、その他に思い出したのが宿泊した部屋のテレビのことです。

それは当時流行り始めた32インチの液晶テレビで、母が「見やすい」と言ったので、自宅のブラウン管テレビを同じ型に買い替えたのでした。

駅伝からいろいろな思い出がよみがえりましたが、行けるときに行っておいて良かったな、というのが正直な気持ちです。

2022年1月 2日 (日)

テレビの終わり

今日のニュースで、昨年の紅白歌合戦が史上最低の視聴率だったことを伝えていました。

このところ音楽に関連した記事を書いていましたが、本日もそれに関連して考えてみようと思います。

私は数年ぶりに少し紅白歌合戦を見ましたが、以前と違って音楽を聴く番組になっているなと、むしろ好感を持ちました。

逆に以前のようなバラエティ色の強い方が好きだという人もいるのでしょう。

ただ、今回ニュースになった視聴率に関しては、内容の問題はそれほど関係がないように思います。

何と言っても、テレビの視聴率はかなり前から全体的に低下しています。

お茶の間で一家が集まってテレビを見る習慣はほとんどないですし、テレビがない家もあるようです。

私が子供の頃などはテレビを見るくらいしか余暇を過ごす娯楽は無かったですが、今は他に楽しめるものがいくらでもあります。

この傾向は今後もさらに進むはずですので、テレビそのものがいずれ無くなってしまうものなのかもしれません。

もちろんこれはテレビだけのことではなく、どのようなものでも何時かその役割を終えるときが来るのでしょう。

人間に関して言うと、高齢になって自分の役割が終わったと思うと落ち込んでしまう人も多いように感じます。

時の流れは無情なものですから、できる準備はしておきたいものです。

2022年1月 1日 (土)

人生は無常

昨日記事に取り上げた藤井風さんが、昨日の第72回紅白歌合戦に出場しました。

数々のサプライズ演出もあって彼の魅力がフルに発揮され、久しぶりに見た紅白歌合戦は見ごたえがありました。

そして、私のひいき目かもしれませんが、彼は初出場ながら舞台の上でひときわ輝いている感じがしました。

また、新型コロナの影響で観客が少なく声も出せなかったのか、静かに音楽を聴ける雰囲気でアーティストの魅力が引き出されていました。

ここ数年は紅白歌合戦をほとんど見ていませんでしたが、こういう音楽を大切にする方針が続けば今後も見ようと思います。

それから、この紅白歌合戦には、母がお気に入りだった五木ひろしさんが出場しませんでした。

五木さんは前回まで50回出場したそうで、今回は辞退することを事前に発表していたとのことでした。

50年間歌手として一線級の活躍をすることは並大抵のことではありませんが、やはり時の流れには抗えません。

考えてみますと五木さんが出場した50回の内、47~8回は私の母も見たのだろうと思います。

その母は亡くなり、五木さんも華やかな舞台を辞退して、新しい人たちがそこで活躍し始める。

時の流れは早く、人生は夢のように過ぎて行き、世代交代をするとともに番組も変化していきます。

当然のことですが、人生の無常を感じます。

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