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2021年12月

2021年12月31日 (金)

藤井風『帰ろう』

ここ二日間は『演歌・歌謡曲チャンネル』の思い出から母に関することを書いてきました。

母が施設に移って以降も、私は『演歌・歌謡曲チャンネル』をしばらくの間は時々見ていました。

ただ、私はそれほど演歌好きなわけではなく、特に母が最後の入院をした頃には演歌を聴く気分にはなれませんでした。

そのためそれ以後は、よりにぎやかな音楽を求めて隣の『MTVチャンネル』を見ることが多くなりました。

おそらく若い視聴者が多いと思われるこの『MTVチャンネル』でもいろいろなランキング番組がありました。

毎日のようにそれらの番組を見ていると、その時に流行っている曲がよく流れるので『髭男』や『あいみょん』などを覚えるまでになりました。

母が亡くなった淋しさから聴き始めた曲でも、一旦覚えると一緒に歌ったりして楽しくなるものでした。

そのような音楽が流れる生活がもうすぐ一年経とうかという頃、ランキングに藤井風の『帰ろう』という曲が入ってきました。

2020年の10月~11月の頃でしたが、この曲を3回目に聴いたときに何故か涙がこぼれてしまいました。

映画を見たり小説を読んで感動したことはありましたが、一つの曲を聴いて泣くことは長い人生でも初めてのことでした。

それからネットで『藤井風』という歌手を検索しましたが、当時はほとんど情報が無く、ひたすらYouTubeの動画を見ていました。

その後すぐにいわゆる『風沼』にはまり、今では全く抜け出せなくなってしまいました。

2021年12月30日 (木)

森山愛子『会津追分』

2年前の2019年12月30日は月曜日、曇り時々雨で8℃の寒い日、母が亡くなってから十日が経過しました。

何となく、施設での生活も幻だったように思えてきて、それ以前の自宅での生活は夢のように感じられてきました。

それでも遺品の整理をしていると、母の思い出がよみがえることもあり、昨日はその中から『演歌・歌謡曲チャンネル』のことを書きました。

私が母にこのチャンネルを教えたのは、脚を骨折して入院する1~2年前のことだったと思います。

それ以来、母は午後2時から始まるランキング番組を毎日楽しみにしていました。

以前ここにも書いたように、母は演歌ファンというよりも五木ひろしのファンと呼ぶのが正確なのかもしれません。

それでもランキング番組を見続けていると、母が覚える歌も少しずつ増えていきました。

その中で、私にとって一番印象的だったのが、骨折で入院をする2か月くらい前のことでした。

見ているのがランキング番組ですから、お目当ての歌がいつ流れるか分かりません。

「出た、出た」と母が独り言のように言ったので画面を見てみると、森山愛子という女性歌手の『会津追分』という曲が始まっていました。

次男が一時期会津に住んでいて、母も何度か行ったことがあるので、懐かしかったこともあったのでしょう。

骨折前に楽しみに聞いていた曲なので、骨折入院中に聴かせると、母は「何この曲?」と、画面がないのでピンときていない様子でした。

2021年12月29日 (水)

『演歌・歌謡曲チャンネル』

2年前の2019年12月29日は日曜日、晴れて11℃の日、母の告別式が終わってから初めての休日でした。

午前中に2回洗濯をして、午後は天気も良いので買い物を兼ねて外出しました。

買い物の途中までは母の施設と同じ道順なので、いろいろと考えながら歩きました。

母の生前は専ら不安や心配を抱えながら歩いた道でしたが、この日はより幅広いことを考えられるようになっていました。

そのうちの一つが、母が施設に入所する前の家での生活についてでした。

母の80代後半は、通院以外はほとんど外出することはなく、家ではテレビを見ていることが多い生活でした。

起きている間はずっとテレビを流していて、好きな番組だけジッと見るという感じでした。

母が特に好きな番組は、演歌などの歌番組、大相撲中継、巨人戦が主なものでした。

ウチでは十数年前からケーブルテレビに加入していますが、その理由の一つは母が巨人戦を楽しみにしていたからでした。

試合開始から終了まで全て見ることができるので、母はとても喜んで見ていました。

そんな母が、晩年よく見ていたのが『演歌・歌謡曲チャンネル』でした。

当時は毎日午後2時から様々なランキングを放送していて、母はこの番組が特にお気に入りで、この時間は真剣にテレビを見つめていました。

2021年12月28日 (火)

楽しく生きた『第二の人生』

2年前の2019年12月28日は土曜日、晴れて11℃の日、母が亡くなって一週間ほどが過ぎました。

その間、いろいろと考えることがありました。

一番よく考えたことが「ああすれば良かったのではないか、こうすればより長生きできたのではないか」ということでした。

確かに、もう少し早く入院していれば、もう一度くらい退院することができたかなとも思います。

実際に、母の誕生月が11月で、施設で行われる誕生会はその月の後半でしたから、それまで何とかなるといいな、と思っていました。

前年の11月も母は入院していて11月の誕生会は欠席しましたので、今回は楽しませてあげたいなという気持ちがありました。

ただ、その前にむくみや血圧の状況がかなり悪化していましたから、決断が遅くなったことを悔やむ気持ちもありました。

それでも今では、入院直前まで生活を楽しめた母は幸せだったかな、という思いが強くなってきました。

というのは、もう一度退院できたとしても、以前と同じような生活ができたかどうかは疑問だからです。

母は私が第二の人生と呼ぶ施設での生活を、予想以上に元気に陽気に過ごしてくれました。

そして、満面の笑顔で楽しそうに施設での話をしてくれる母に会いに行くのが私は楽しみでした。

ですから、もしももう一度退院できても、より弱々しくなっている母を想像すると、どんな感情を抱いただろうかと不安なものがあります。

2021年12月27日 (月)

相続した血圧計

2年前の2019年12月27日は金曜日、曇りのち晴れで14℃、母の告別式が終わって二日経過しました。

告別式の日の夜は普通に眠れて、翌朝はいつもの仕事に行きました。

そして、仕事が無事に終わり家でも普段の生活をして、何となく休み明けで疲れたように感じたので少し早めに床に就きました。

3時間ほど眠ってから目が覚めると、胸の辺りに痛みを感じる上に脈拍が多いことに驚きました。

一旦起きて血圧を測ってみると、173/120で脈拍が82でした。

その後間隔を開けて何度か測りましたが、30分ほどは同じような数値が並びました。

ようやく1時間くらい経って平常の値に戻りましたが、おそらく良くない夢を見ていたのだろうと考えました。

告別式の日は疲労のためか、夢も見ないでよく眠れたのでしょう。

ところがその翌日に何かの夢を見て、動悸がして血圧が上がって跳び起きてしまいました。

母が亡くなって睡眠中に緊急の電話で起こされる心配は無くなりましたが、どこか精神的に不安定だったのだと思います。

ここ数年、母の体調の心配ばかりしていましたが、気が付けば自分のことも心配した方が良い年齢になっていました。

そのため、これまでは主に母の血圧を測っていた血圧計が、この日以降は私の血圧計になりました。

2021年12月26日 (日)

「生きてて、ごめんね」

私の母が亡くなり四十九日の法要が終わった頃、日本でも新型コロナが広がり始めていました。

それからほぼ二年になりますが、新型コロナの流行はまだ収まってはいません。

以前こちらにも記したと思いますが、母の場合四十九日まで流行前に済みましたので良かったと思います。

特に施設や病院での面会制限もなく、今から思うと母も私も幸せだったなぁ、と感じます。

それでも、先日の三回忌は私が一人でお墓参りをするだけにしましたので、未だに様々な影響があるわけです。

今朝、あるテレビのニュースで介護施設での面会風景が取り上げられていました。

それは娘夫婦が施設に入所している母親に会いに行く場面のようでした。

その施設では、ひと月に一度だけ15分間ガラス越しに会うことができるという説明でした。

お互いガラス越しですので姿は見えますが、会話はそれぞれが持つ電話でしていました。

印象的だったのは、その会話の中で母親が「生きてて、ごめんね」という言葉を発したことでした。

母親にとっては一か月ぶりに来てくれた家族のはずですが、自分がいなければ面倒掛けないのにという心情が出てしまったようでした。

私の母も入所中に気弱なことを言うことが何度かありましたが、コロナの流行はそれ以上に余計なことを考えさせているな、と感じました。

2021年12月25日 (土)

意外と大きな金具

2年前の2019年12月25日は水曜日、晴れて10℃の少し寒い日、母の告別式が行われました。

午前11時頃に式場に着くと既に姉が来ていたので、お通夜で焼香が終わった時に涙が出たことを伝えました。

そして、もしかするとこの日の挨拶の代読をお願いするかもしれないと言うと、心配してくれました。

午前11時40分頃、髪を剃り法名を与えるという『髪剃りの儀式』を行いました。

その際に、母の棺の中に姉が誕生日に送ったウサギのぬいぐるみとジャイアンツタオル、由伸タオルを入れてあげました。

その後、正午にいよいよ母の告別式が始まりました。

式の最後の出棺の前には、供えてあった花と持参した折鶴で母の周りを飾ってあげました。

ただ、意外に鶴の数が多く、今にも母の顔までが隠れてしまいそうな状態になりましたが、母も喜んでくれたかなと思いました。

そして出棺前の挨拶では、やはり不安が的中して前日同様に大粒の涙が出ましたが、何とか挨拶は終わらせることができました。

その後、火葬場に移動して一時間ほどで母は骨になってしまいました。

「年齢の割にはしっかりした骨だ」という説明とともに、係員が骨折手術の際に使われた金具を見せてくれました。

思えば、母の第二の人生が始まるきっかけが足の骨折で、その象徴がこの金具ですが、初めて見たそれは意外と大きなものでした。

2021年12月24日 (金)

大粒の涙が零れる

2年前の2019年12月24日は火曜日、晴れて12℃の日、母のお通夜が行われる日でした。

午後2時ごろ、母の写真と棺に入れることになった折鶴を持って、一度葬儀屋へ行きました。

式場では準備が進められていて、母の遺影が飾られた祭壇が出来上がりつつありました。

亡くなってから三日ほど間隔が開き、落ち着いていた私の気持ちが式場の厳かな雰囲気に再び引き締まった感じがしました。

一旦家に帰り着替えなどを済ませて、午後4時30分頃再び母のお通夜の会場へ行きました。

この時間には、母の好きだったきれいな夕焼けが西の空に広がっていました。

午後6時にお通夜が始まり、喪主である私が最初にお焼香をする時間になりました。

母の遺影に一礼してから、お焼香をして一歩下がって再び一礼をした時でした。

突然、何の前触れもなく私の目から大粒の涙が零れ始め、なかなか止めることができませんでした。

母が入院してから40日、意識をなくしてからでも20日ほど経過していて、既に気持ちは整理がついたものだと思っていました。

それにしてもこの時の涙は、人生で初めてと言えるほど粒が大きかったのをはっきりと感じました。

ただ単に泣くというよりも『大粒の涙が零れた』という表現がぴったりの状況でした。

2021年12月23日 (木)

寂しい気分と安らぐ気持ち

2年前の2019年12月23日は月曜日、晴れて12℃の日、午後3時ごろ母の遺体が安置されている葬儀屋に行きました。

到着した時、丁度式場の方に棺を持ち運んでいましたが、それが母の物かどうか確認する間もなく、他の用事のためそのまま移動しました。

その用事とは、病院で入院費用の精算をすることでした。

母が足の骨折で入院して以来、一年半以上に亘って通った建物に行くのもこの日が最後になるかもしれません。

病院と介護施設は同じ敷地にあってドアで繋がっていますので、母はずっとこの建物にいたわけです。

つまり、ほぼ毎日母に会いに行っていた場所でしたから、忙しい時期ではありましたが、どことなく寂しい気分になりました。

行くときはいつも不安でしたが、帰りは嬉しかったり心配したりと母の様子によっていろいろな日々がありました。

これからは『不安や心配を抱えながら歩くことはないのだな』と考えると、気持ちが安らぐようにも思えました。

その後、葬儀用の衣服や小物などの買い物をして自宅に帰りました。

その途中にも葬儀屋から翌日の連絡事項が電話で来るなど、それなりに忙しく過ごした日でした。

2021年12月22日 (水)

笑顔が輝く遺影

2年前の12月22日は日曜日、曇りのち雨で10℃の日、この日も母が安置されている葬儀屋に午前11時頃に行きました。

母にとっての曾孫を連れて姪が来てくれるというので、私も午前中から行くことになったわけです。

葬儀屋に着くと母の遺影が出来上がっていました。

それを見ると私が思っていた以上にその笑顔が輝いていて「あぁ、この写真にして良かったなぁ」と思いました。

同時に、母が施設に入所した後に笑顔の写真がたくさん撮れたことに感謝しました。

母の施設入所後の生活を私は『母の第二の人生』と呼んでいますが、この時期があって本当に良かったと感じました。

10年前の父の葬儀の頃には、遺影に笑顔の写真を使うことは考えられませんでした。

ところが、今回の母の遺影については帽子の着用もオーケーで、笑顔はむしろ望ましいとも言われました。

自宅に居た頃と比較して、施設に入所してからの母は表情豊かで笑顔に溢れた生活をしていました。

これは私には予想外で、もしかすると本人にとっても意外だったのかもしれませんが……。

いずれにしても、今では遺影は笑顔の写真に限ると心底思います。

この時から2年を経過した今でも、母の顔を見るといつでも楽しそうに笑っていてくれる、これは本当に嬉しいものです。

2021年12月21日 (火)

納棺の儀

2年前の2019年12月20日午後6時40分頃、母は亡くなりました。

その日は結局、葬儀屋で日付が変わるまで葬儀などの打ち合わせをしました。

主に火葬場の都合によって、お通夜が24日、告別式が25日に決まり、その時まで母のために一室用意していただきました。

明けて2019年12月21日は土曜日、曇りで10℃の日でした。

この日は午後2時から納棺の儀をするというので、午後1時45分頃葬儀屋に行きました。

納棺の儀には、前日一緒に母を看取ってくれた姪も来てくれて、最初は母のお化粧から始まりました。

この一週間ほどでかなり痩せたこともあって、お化粧を施してもらうとさらに生前とは違う顔になったな、という印象でした。

その次には、病院で着替えてもらったときには履いていなかった靴下を持参して、姪と一方ずつ履かせてあげました。

それから胸の上で組んでいる指を拭いてあげましたが、その氷のように冷たい指は最後までむくみが取れず太いままでした。

そして棺が持ち運ばれて、職員さん二人が頭と脚を持ち、私と姪がその間に手を添えて母を棺の中に入れました。

私はちょうど背中の辺りを下から支えていましたが、母の体は大分小さくて軽くなったなと感じました。

40日間の入院で最後の20日ほどは意思の疎通もできなかったので、覚悟はしていましたがやはり寂しいものでした。

2021年12月20日 (月)

ついに、その日が……

2年前の2019年12月20日は金曜日、晴れて15℃の日、このころは午後7時頃母の病室に行っていました。

そのため、この日も早めに夕飯を食べるつもりで午後4時過ぎに食事を作る準備をしていました。

そのような時、午後4時20分頃に母が入院している病院から電話が来ました。

ついにその日が来て、私は急いで出かけることになりましたが、途中の夕焼けがとてもきれいだったのが印象的でした。

母と一緒に眺めた西の空はかなりの回数になりますが、この日は母にも見せてあげたい茜色の空でした。

午後5時20分頃に母の病室に着くと、母はハァハァと激しい息遣いの呼吸をしていました。

脈拍は乱高下していて血圧の波はほぼ平坦で、心電図も見たこともないような波形になっていました。

看護師さんの話では「血圧が50まで下がったので連絡しました」ということでした。

まだ息のあるうちに会うことができたのは良かったと思いました。

この日はこれまでの鼻からの酸素吸入から口を覆う形に変っていましたが、荒い呼吸ながら苦しそうな表情でないのが救いでした。

これまでの経過で様々迷ったことも多かったですが、鎮静剤を使った時期は結果的に良かったと思いました。

午後6時40分頃、母は息を引き取りました。

2021年12月19日 (日)

気持ちよさそうな寝息

2年前の2019年12月19日は木曜日、曇りで10℃の日、午後7時頃母の病室に行きました。

いつものように仰向けに寝て、顔は右を下にしているので丁度こちら側を向いていました。

母の様子は、スヤスヤと寝息を立てて気持ちよさそうに眠っているように見えました。

計器の数字を見ると、この日は脈拍が90台でここ数日よりも安定していました。

血圧は115/42、酸素量は94で、前日に引き続き利尿剤の点滴は外されていました。

顔のむくみは少し前から無くなって、むしろここ数日でかなり痩せて老けたように感じました。

そして、腕のむくみはまだ多少残っていて、前日までと変わっていませんでした。

ただ、心電図の波形の悪化がこのところ急速に進んでいて、前日よりもさらに嫌な感じになっていました。

そして、声を掛けてみても全く反応がないのが、とても残念でした。

それでも母の寝顔を見ていると『いつまでもこのまま眠っていてくれればいいな』と、心から思いました。

この日の最後には胸に掛けていたジャイアンツの白いタオルを、いつも愛用していた高橋由伸のタオルに交換してあげました。

母に反応はありませんでしたが、それだけでもしてあげて良かったと思いました。

2021年12月18日 (土)

温かいお別れの挨拶

2年前の2019年12月18日は水曜日、曇りで16℃の日、午後7時5分頃母の病室に行きました。

母はこの日も仰向けに寝ていて、顔は右側を向いていて息遣いは静かでした。

脈拍は80~120の間を乱高下している状況で、心電図は相変わらず余計な波が目立っていました。

血圧は125/55、酸素量は94で、前日からの変化としては利尿剤の点滴が外されていました。

これは後日看護師さんに確認したことですが、利尿剤は血圧を下げるので外したということでした。

確かに前日よりも血圧は高目になっていましたが、計器が示す血圧の波はあまり元気がありませんでした。

ただ、若い頃から多くの薬を継続的に使っていた母が、ほぼ自然な薬に頼らない状況になったことは感慨深いものがありました。

そろそろ帰ろうと思って「今日は帰るよ、また来るね」と耳元で囁くと、突然アラームが鳴り出しました。

計器を見ると酸素量が78まで下がって、すぐに90台まで戻りましたが、声を掛けたので反応したように感じました。

実際に母が反応してくれたのかどうかは分かりませんが、もう痰の吸引もされないので私も安心した気分になりました。

また、久しぶりにお別れの挨拶として母の顔と腕に触れてみると、相変わらず母の体は温かく、どこか懐かしい感じがしました。

可能であれば『いつまでもこのようにスヤスヤと眠っていて欲しい』と思いながら母の病室を出ました。

2021年12月17日 (金)

反応が慰め

2年前の2019年12月17日は火曜日、曇りで10℃の日、午後7時頃母の病室に行きました。

前日は激しく呼吸をしていて、心電図も落ち着かないので心配していましたが、病院からは何も連絡はありませんでした。

一抹の不安を抱いて病室に入ると、母は仰向けでこれまでと同じようにタオルを胸に掛けて寝ていました。

顔は左側に向けていて、口でハァハァと呼吸をしていました。

脈拍は前日のように高い数字ではありませんでしたが、80~90台で忙しく動いていました。

また、血圧は98/36で、波がこれまでとは違ってかなり小さく、上がりにくくなっているのかと感じました。

酸素量に関しては最初96という数字が表示されていましたが、見ているうちに徐々に下がり始め、87になってアラームが鳴りました。

私は付き添っていた時以来、久しぶりに聞いた音でしたが、今回はパニック障害によるものではないので深刻な状況なのだろうと思いました。

そして、母の顔は明らかに痩せてきてシワが増えたように見え、帽子も被っていましたがかなり緩くなっているのが分かりました。

このころは声を掛けても身体は全く動かなくなりましたが、脈拍や血圧の値は必ず少し動きました。

ですので、声を聞いて反応してくれているのだと思いましたし、これがせめてもの慰めという状況になっていました。

今思うと、前日の発作で心臓の機能はほとんど失われて、惰力で数日生きていたのだろうという感じでした。

2021年12月16日 (木)

最後の発作

2年前の2019年12月16日は月曜日、晴れて13℃の日、午後7時頃母の病室に行きました。

この日は病院に出かける前に、ここ数日気になっていた葬儀屋さんに電話をしてみました。

前日の状況を見て、そろそろ話をしてみた方がいいのではないか、そう思ったからです。

そして母の病室に入ってみると、母は仰向けに寝て口を開けて激しく呼吸をしていました。

計器を見ると、脈拍が100~170の間を急激に上下していて、そのうえ一瞬も安定していませんでした。

母の様子は、まるでマラソンを走っているような表情で、それを計器の数字が裏付けていました。

いつからこの状態なのか分かりませんが、いつ心臓がバテて止まっても不思議ではない感じでした。

暫くは見守っていましたが、何もできない上に、夜中に呼び出されることもあり得るような状況なので、とりあえず帰りました。

緑の帽子を被っていたり、タオルを胸に掛けていたりと、母は前日までと同じような姿で寝ていました。

ただ、ここ数日感じていた心臓の状態の悪化が、さらにスピードアップしたようでした。

そして、この後の経過を考えると、この時が最後の発作だったように思います。

唯一の救いは鎮静剤のおかげか、ハァハァ激しく息をしていても、母の表情がそれほど苦しそうではないことでした。

2021年12月15日 (水)

カバンの中の爪切り

2年前の2019年12月15日は日曜日、晴れて12℃の日、午後6時55分頃母の病室に行きました。

母はここ数日と同様仰向けに寝ていて、顔は右側に向けてよく眠っているようでした。

緑の帽子を被り、由伸タオルを胸に掛けて前日と同じ格好をしていました。

珍しく鼻で呼吸をしていたのか、スヤスヤと静かに寝息をたてていました。

ただ、嫌な予感は当たっていて、心電図の悪化は思っていたよりも早く進んでいました。

同時に、血圧を表示している波動もこれまでよりも少し小さくなっているように見えました。

むくみは変わりないように見え、顔はともかく腕のむくみは相変わらず目立っていました。

この日も声を掛けると計器の数値や波が動いたように思いました。

それでも、ここまで状況が厳しくなると、さすがに回復を望んでも難しいことはわかりました。

ところで、私は施設や病院に行くときには、大事なものを忘れないように同じカバンを持って行っていました。

母が施設にいた当時に「なかなか爪を切ってもらえない」と言われて以来、そのカバンの中には爪切りが入っていました。

もう二度と母の爪を切ることもないだろうと思うと寂しいものがありましたが、この日の帰宅後カバンから爪切りを出すことにしました。

2021年12月14日 (火)

心電図の悪化が明らか

2年前の2019年12月14日は土曜日、晴れて16℃の日、午後7時頃母の病室に行きました。

この日も母は仰向けの姿勢で、首は右側を下にしてスヤスヤとよく眠っているようでした。

看護師さんが被せてくれたのか、久しぶりに緑色の帽子をしていました。

耳元に声を掛けると脈拍、血圧、呼吸に少し動きがあったので、聞こえていたのかなと思いました。

右側を下にしているので右目の瞼が少しむくんでいるように見えました。

ただ、顔全体はここ数日で小さくなったように感じ、シワが目立ってきたように思いました。

そして、腕のむくみは相変わらず取れていませんでした。

計器の数字はほとんど変化がありませんでしたが、心電図の波形がかなり乱れてきていて、この一日でも悪化が明らかな様子でした。

前日の面会時に大きな息遣いをしていたので、その後にも悪化が一段と進んだのか、そんな気がしました。

また、少し前から母の写真集を作成していて、この日はビデオをいくつか見ました。

前年の5月、自宅で昏睡状態になる前日に母がベッドで泣いている動画がありました。

そしてまた母は昏睡状態になってしまいましたが、その間の1年半ほどは本当に楽しそうで良かったな、と改めて思いました。

2021年12月13日 (月)

口の出血と大きな息遣い

2年前の2019年12月13日は金曜日、曇りで9℃の寒い日、午後7時頃母の病室に行きました。

この日は口を開けて大きく息を吸っていて、大きく音を立てていました。

ただ、その表情は苦しそうなものではなく、少し覚醒しているのか瞼の中で目が動いているように見えました。

また、開いている口の中が赤く見えたので覗き込んでいると、この時間としては珍しく看護師さんが入ってきました。

その話によると、このところ母の口が乾いていたので汚れを取ったところ、出血してしまったということでした。

気になっていた飲み薬について尋ねると薬は飲んでいないということで、点滴以外の処置はされていないようでした。

看護師さんは、大きな息は日中はしていなかったと言い、母の顔を少し右側に向けると息は小さくなったように思いました。

むくみは顎の下に少しあり、両腕は相変わらず太さが目立っていました。

その腕には力が入っているのか、何かのコードを左手の指の間に挟んでいました。

計器を見ると心拍数は100前後で安定せず、心電図は明らかに余計な小さな波が2つになり、かなり目立ち始めました。

前日までの状態でしばらく落ち着けば、自宅で面倒を見ることも考えていましたが、とても厳しい状況になったと思いました。

いずれにしても、大きな息遣いと心電図の乱れは気になりました。

2021年12月12日 (日)

『かなり痩せたな』

2年前の2019年12月12日は木曜日、晴れて19℃にもなった暑いくらいの日、午後6時55分頃母の病室に行きました。

母はこの日も仰向けで、顔は左側を向いていました。

また、私が部屋に入った時には覚醒していたのか、話しかける前から瞼や口元が少し動いていました。

そして、声を掛けるとさらに瞼が動き、口も動いて何か声を出したかと思いましたが、はっきりと確認はできませんでした。

顔を見ると、むくんでいるというよりはこの日は『かなり痩せたな』という感じに見えました。

瞼もむくみは無く、くっきりとした二重で、顔全体にはシワが目立っているように思いました。

ただ、腕には相変わらずかなりのむくみが残っていました。

心電図や計器の数値は前日までとそれほどの変化はありませんでした。

こうして一日ずつ振り返ってみると、この時期でも呼びかけに反応してくれた日が結構あったのだと改めて感じました。

また、この日は日中に子供の頃から通っている理髪店に行きました。

そこの店主との話の中で、体調の悪い親族の方が余命2~3週間と言われたため、葬儀屋に相談したということを聞きました。

直前に慌てないために、私も考えておかないといけないな、と思いました。

2021年12月11日 (土)

居ても立っても居られない

2年前の2019年12月11日は水曜日、曇りで17℃の暖かい日、午後6時55分頃母の病室に行きました。

この日も仰向けの体勢で寝ていましたが、左側を向いていたので壁側の方に回って顔を覗き込みました。

その顔と腕のむくみは心なしか前日よりも良化したように見えました。

そして、少し眠りが浅くなっていたのか声を掛けると、瞼を何度かパチパチさせていました。

また、同時に脈拍も少し増えたようだったので、おそらく声が聞こえたのだろうと思いました。

この日の数値は血圧が143/65、酸素量は98、ただ心電図に再び怪しげな波が現れていました。

概ね前日と似た状況でしたが、この心電図の変化はとても気になりました。

ところで、この日の午後には以前母がウチでお世話になっていたケアマネージャーと電話で話をしました。

母の状況を説明して、寝ている状態のまま自宅に戻すことはできないか相談をしました。

ケアマネージャーの話では、できないことではないが主治医との話し合いが先になるということでした。

これは当然の答えですが、この時に私自身も本当にそれを望んでいたのかどうかは今でも分かりません。

このころ小康状態が続いている母に対して何もすることができず、居ても立っても居られなくなって電話をしてしまったように思います。

2021年12月10日 (金)

お墓参りから一か月

2年前の2019年12月10日は火曜日、曇りで13℃の日、午後6時55分頃母の病室に行きました。

この日も母はほぼ仰向けに寝ていましたが、顔は左側を向いていました。

その顔のむくみは顎の下や瞼に少し残っている感じがしました。

また、腕のむくみは両腕ともかなり残っていて、相変わらず良化している様子はありませんでした。

それでも脈拍が74、血圧が105/37、酸素量は97でここ数日と同様、数値は安定していました。

ただ、心電図に再び余計な波が現れたように見えました。

ところで、母は眠りが浅いタイプで夜は眠くなるまで起きていて、80代後半まで夜中の1~2時くらいに就寝することが習慣になっていました。

その分、昼寝を良くしていましたが、睡眠が足りないので朝は弱いタイプだったように思います。

これまでの人生で足りなかった睡眠を取り戻そうとしているかのように、このころの母はグッスリ眠ってくれていました。

早いもので11月11日からの今回の入院は一か月が経過していました。

その入院の前日には母と一緒にお墓参りに行きました。

いろいろ欲を言えばきりがありませんが、それだけでも良かったな、と思いました。

2021年12月 9日 (木)

小康状態に安堵

2年前の2019年12月9日は月曜日、曇りで11℃の日、午後6時55分頃母の病室に行きました。

母は仰向けに寝ていて、顔は右側を向いて鼻を鳴らしながらよく眠っているようでした。

声を掛けてみても体の動きはありませんでしたが、脈拍が少し増えたので聞こえていたのではないかと思いました。

顔のむくみは顎のあたりに少しある程度でしたが、腕のむくみは前日までと同様かなり残っていました。

それでも計器の数値などはそれほど悪くありませんでした。

心電図は一時期様々な波が現れていましたが、この日はかなり平坦な形に戻ったように見えました。

脈拍は72、血圧は104/39、酸素量は97と前日からの悪化はほとんどないようでした。

状況に変化があまりないので、もしかして回復に向かうこともあるかな、などと甘い考えを持つこともありました。

このころは時計代わりに夕方行くことは止めていて、夜7時前後にほんの数分だけ面会に行くことにしていました。

毎日、往路は不安な気持ちを精一杯奮い立たせて寒い中を何とか歩いているという状況でした。

それでも、ここ数日は小康状態が続いていて、ずっと寝たままの母でも会えることが楽しみになっていました。

この日も、復路は一先ず安心してそれほど寒さを感じずに帰ることができました。

2021年12月 8日 (水)

今が一番よく眠る時期

2年前の2019年12月8日は日曜日、晴れて12℃の日、午後6時55分頃母の病室に行きました。

母は左側を下にして寝ていて「来ましたよ」と声を掛けると、瞬きのように瞼が何度か動いていました。

脈拍も少し増えたようだったので、おそらく聞こえたのだろうと思います。

前日、姪たちが来てくれた時にはほとんど動かなかったのが残念でしたが、反応があると嬉しいものでした。

この日も顔のむくみは目立ちませんでしたが、布団を捲って腕を見ると相変わらず太くむくみが残っていました。

またこの日は、脈拍が78前後で、血圧は145/50、酸素量が97で安定していて、小康状態という感じでした。

早いもので、母のパニック障害のような状況から付き添うことになって2週間が経過していました。

その頃のことを考えると、表示されている数字や熟睡しているような様子は、どこか私を安心させてくれました。

また、母はいつも眠りが浅かったように記憶していたので、グッスリ寝ている姿は微笑ましくもありました。

90年を超える長い人生で、今が一番よく眠る時期なのかな、などと考えていました。

そして、計器の数値もしばらく安定していたので『ずっとこのままでいてくれればいいな』とも思いました。

もちろん、それは無理な話でしたが……。

2021年12月 7日 (火)

最後の面会、反応なし

2年前の2019年12月7日は土曜日、雨のち曇りで7℃の寒い日、午後3時に病院に行きました。

この日は姪たちが一家で来てくれたので、二組に分かれて母の病室に行くことになりました。

最初に病室に入った時母は、仰向けで寝ていて珍しくイビキをかいていました。

この時はグッスリ眠っているようで、両腕を布団の外に出して、その手でウサギのぬいぐるみを抱えるように持っていました。

顔のむくみはそれほど目立ちませんでしたが、相変わらず腕はむくんでいました。

そして、耳元で呼びかけても全くと言っていいほど動きは無く、やはり良く寝ているようでした。

次に二組目が入った時には、呼びかけに少し反応したように思いましたが、身体の動きはありませんでした。

計器の数値は脈拍が74、血圧105/38、酸素量97で、心電図もそれほど変化はなく規則正しい動きをしていました。

これらの様子を見ていると、母は腕のむくみを除けば体調も悪くなく、ただよく眠っているように感じられました。

もしかすると、姪たちにもそのように見えたかもしれません。

前日は呼びかけの声に目を開けてくれた母でしたが、そのような姿を彼らに見せてあげられなかったのはとても残念でした。

結局、彼らが生前の母に会えたのはこの日が最後になってしまいました。

2021年12月 6日 (月)

思いがけず目を開ける

2年前の2019年12月6日は金曜日、この日は前日の母の様子から、先日始めた『笑顔写真集』の作成に時間を掛けました。

曇りで10℃のとても寒い日でしたが、午後6時55分頃母の病室に行きました。

母は左側を下にして寝ていて、胸元には姪が誕生日のプレゼントとして送ってくれたジャイアンツのタオルを掛けていました。

耳元に話しかけると、思いがけず目を開けました。

そして、声にならない声、吐息のような感じで何かを言っていくれました。

計器による呼吸の波が大きく動いていたので、間違いなく反応してくれたのだと思います。

ただ、確かに目は少し開いていましたが、見えているのかどうかわかりませんでした。

それでも耳は聞こえているようで、前日は完全に昏睡状態に入ったと思いましたが、このころでも覚醒している時間があったようでした。

この日は顔のむくみはほとんど目立たず、腕のむくみも前日ほど太くはなかったように感じました。

計器の数値も脈拍65、血圧110/37、酸素量94と悪くなく、良化したのかと考えてしまいました。

しばらくぶりに目を開き、数値もまずまずで回復するのか、などと淡い期待を抱いた日でした。

今、振り返ってみるとこんな日もあったのだと改めて思います。

Img_20191206_1857182019年12月6日 

2021年12月 5日 (日)

再び昏睡の世界へ

2年前の2019年12月5日は木曜日、晴れて16℃の暖かい日、午後6時50分頃母の病室に面会に行きました。

この日はやや右側を下にして、前日同様にほぼ仰向けに寝ていました。

話しかけたり顔や体に触れても全く動くことはありませんでした。

前日も動くことはありませんでしたが、呼びかけると目が瞼の中でキョロキョロと反応してくれたのですが、この日はそれもありませんでした。

そのためか逆に心電図や血圧、呼吸は安定していました。

眠りが浅い方だった母が、スヤスヤと気持ち良さそうに寝ている姿を見て、安心する気持ちと同時にやはり寂しく思いました。

その姿はふっくらとしていて、顔や両腕などの上半身は相変わらずむくみが目立ちました。

計器の表示だけを見れば良化している感じを受けますが、母の姿を見るとなかなか難しいな、という印象でした。

思い起こしてみると、母は脚の骨折で入退院した後、ウチで昏睡状態になって40日の入院後に施設に入所したのでした。

その前後から母は、信じられないくらい元気で明るくなりました。

その状況を見て私は、90歳にして母に第二の人生が訪れたと考え、その日々を綴るために母の死後にこのブログを始めました。

しかし、この日に母は再び昏睡の世界に帰って行ってしまったようでした。

2021年12月 4日 (土)

瞼の中の目が動くだけ

2年前の2019年12月4日は水曜日、晴れて16℃の暖かい日、午後6時55分頃母の病室に行きました。

母はやや左側を下にする形で、珍しくほぼ仰向けの姿勢で寝ていました。

耳元で声を掛けると、閉じた瞼の中で目がキョロキョロと何回か動きましたが、他には反応がありませんでした。

日に日に反応が少なくなっていましたが、ここまでの状況になると一層寂しさが増してきました。

むくみは瞼や顎下、顔全体にもあるように見えました。

ただ、それ以上に布団の上に出している右腕のむくみが目立っていました。

その右腕は、指から手首の上の方まで明らかにかなり太くなっていました。

心電図は前日よりも余計な波動が少なく、スッキリしていて力強く、脈拍も83くらいで安定していました。

酸素量も93で安定していて、血圧も珍しく158/68という良い数字が表示されていました。

既に意識はほとんどないので精神的な心配は無くなりましたが、この後はこれらの数値の悪化が心配になりました。

姪が土曜日に面会に来てくれると連絡がありました。

その時に少しでも反応してくれる状況であればいいな、と思ったものでした。

2021年12月 3日 (金)

笑顔写真集作成中

2年前の2019年12月3日は火曜日、晴れて16℃の日、午後6時40分頃に母の病室に行きました。

母は右側をやや下にして寝ていて、暑いのか襟が少しはだけた感じでその上にタオルを掛けていました。

この日は手のむくみは相変わらずでしたが、瞼にはむくみはほとんどありませんでした。

ちょうど血圧計が動き出して測定が始まり、220/100と出てアラームが鳴りました。

そのままにして、声を掛けてみると母の瞼が開きそうになりました。

その後も何度か瞬きをするように瞼がピクピク動きましたが、目を開けることはありませんでした。

おそらく声は聞こえていて、反応してくれたのだと思います。

ただ、前週の月曜日から始めた鎮静剤の効果か、若しくはもう体力がないのか分かりませんが他に動きはありませんでした。

そして、脈拍や酸素量は安定していましたが、先ほど表示された血圧と心電図が心配でした。

心電図は明らかに初めて見る怪しげな波形が増えていました。

もちろん、このころはまだ回復を願っていましたが、徐々に悪化していく状況には祈ることしかできませんでした。

また、父の葬儀の際に写真をたくさん持ってくるように言われたことを思い出し、母の笑顔写真集を作り始めたのはこのころのことでした。

2021年12月 2日 (木)

声にならない声

2年前の2019年12月2日は月曜日、雨で14℃の日、午後6時55分頃母の病室に行きました。

この日は午後3時半頃、姉が先に面会に行ってくれました。

姉の話では、話しかけると母は瞼を閉じたまま目の奥を動かして反応したようだったとのことでした。

私が病室に入ると母は左側を下にして寝ていて、そのためか左の瞼が大きく腫れていました。

前日はかなりむくみが良くなった印象がありましたが、この日は右側の瞼も少しむくんでいる感じでした。

「来ましたよ」と耳元で挨拶をすると、母の口元が動いて声にならない声で何かを言っていました。

残念ながらよく聞き取れませんでしたが、同時に腕が少しだけ動いて掴んでいたタオルが揺れていました。

前日のように笑顔までは見ることができませんでしたが、私が来たことは分かってくれたようでした。

そして手を握ってみると、やはり前日までとは違って、かなりむくみが目立ちました。

一日でここまでむくんでしまうのか、と思うくらい悪化のスピードが速いと感じました。

最後に背中に触れてみると、肩甲骨が目立って筋肉がほとんど落ちてしまったようでした。

つい一月前まで拭いてあげていた母の背中がすっかり瘦せ細ってしまい、また一層寂しさが募りました。

2021年12月 1日 (水)

「もう大体でいいよ」

2年前の2019年12月1日は日曜日、晴れて13℃の日、午後7時20分頃母の病室に行きました。

母は右側を下にして横になっていて、瞼の腫れがほとんど引いていたように見えました。

腕もいつもよりも細く見え、外目にはむくみはかなり良くなったように感じました。

このところ点滴の単位が減っているようで、そのため水分の摂取量が減ってむくみも引いて来たのかな、などとも考えました。

「来ましたよ」と声を掛けると、母は少し笑って何か声を出してくれました。

残念ながらよく聞き取れませんでしたが、その時の表情が嬉しかったので写真に撮りました。

この日は血圧の値は分かりませんでしたが、脈拍は75くらいで安定していました。

また、鼻にチューブがしっかりと入っていないにもかかわらず、酸素量は95~96ほどで安定していました。

数日前までこの値が90を切るかどうかで大騒ぎをしていましたが、この状態を見るとなんだかホッとしました。

鎮静剤を使い始めて6日ほどになり、朦朧としていながらも穏やかに寝ている母の姿を見て、これで良かったのだろうと思いました。

少し前までは「鼻で息を吸って」と言ったり、外れたチューブを入れてあげたりしたものでした。

「もう、そういうことは大体でいいよ」と、伝えてあげたい気分でした。

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