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2020年8月

2020年8月31日 (月)

2年前のこと

このごろは2年前のことを主に書いています。

2018年の夏も暑い日が多く、今では懐かしく思い出されます。

母はその暑い夏を施設に入所して元気に過ごしていましたが、施設では当然エアコンが使われていたわけですが、それでも暑さを感じることが多かったようです。

2018年8月31日も36℃の暑い日でした。

この日も母は元気で午前中にリハビリを済ませて、昼食もおいしく食べたとのことでした。

煮物のようなものが刻まれて出てきて、他に葉物のお浸しが美味しかったと笑顔で話してくれました。

いつも持って行く水筒の水を4~5口も飲んで、さすがに暑いようでした。

職員さんと相撲の遠藤の話で盛り上がったことも教えてくれました。

母の第二の人生でも最も屈託なくご機嫌だったのがこのころだったように思います。

私にとっても当時を思い出すことはとても楽しいことなので、毎日のようにここに書いています。

2020年8月30日 (日)

「あるよねー!」

2年前、2018年8月30日も34℃の暑さの中、いつもの時間に面会に行きました。

前日に続いて、朝から目がショボショボして見にくくて気になるということを言っていました。

それでも朝は5時半に起きて、靴下と靴以外、ズボンまで自分で履いて起こしに来るのを待っていたとか。

今日もご飯がすごくおいしくて、卵焼きも薄くて味が付いていてすごくおいしかったと、相変わらず元気でした。

ただ、ご飯が出てくるのが遅いことが多いと話し、待ちくたびれるくらい食欲があるようでした。

また、職員さんと話をして、力士の遠藤のことや五木ひろしの名前が出てきたそうです。

その職員さんが五木ひろしの歴史を知りたいと言っていたとのことでした。

私が「五木ひろしならレコードがたくさんあるよ」と言うと、母は「あるよねー!」と大笑い。

この日はリハビリはなく、午前中に入浴をして、午後は昼寝をしたとのことでした。

目以外は体調も良く、メニューが変わっておいしくなった食事のことをたくさん話してくれました。

2020年8月29日 (土)

「先生のおかげと自分の努力」

2018年8月29日は、施設内のエアコンがあまり効いていないのか、やや暑い感じでした。

いつものように午後4時に面会に行くと、トイレから帰ってきたところだとのことでした。

母の話だと、今は出なかったが昨日の夜ドッサリ出たとかで体調はいいようでした。

この日は母も室内が暑く感じるとのことで、カーディガンを着たり脱いだりしていると言っていました。

リハビリが午前中にありましたが、朝から目がチラチラするので、先生に話して内容を軽くしてもらったとのことでした。

前日、姉がリハビリを見学して「思ったより元気だね」と言っていたと伝えると母は「先生のおかげと自分の努力」と、自画自賛をしていました。

確かにかなり頑張っていることは見ているものにも分かりました。

その後の着替えでは、やはり暑さのせいで少し汗ばんでいました。

「明日はお風呂があるよ」というと「入るだけでも気持ちいいからね」と楽しみにしている様子でした。

目がチラチラするというのは少し気になりましたが、この日も心身ともに調子の良さそうな母でした。

2020年8月28日 (金)

連日のリハビリ見学

施設には姉が時々面会に来てくれました。

2018年8月28日、前日に続いてリハビリを見学することになり、この日は姉と一緒に行きました。

リハビリルームに着いたとき、母は手すりの前に座っていました。

既にボール、ロープ、腿上げ、足を伸ばして上げるといういつものコースは済ませているとのことでした。

この日は手すりのコースを一回往復してから歩行器を使って歩きました。

母は、足の痛みはないが、左足の力が抜けるような感じになると言っていましたが、元気そうに動けていました。

姉も想像以上の動きだったと感心していました。

先生の話では、母は入所したばかりの上に意欲があるので、リハビリの予定を多めに入れているとのことでした。

二日連続で見たリハビリはなかなかハードでしたが、90歳の母は楽しそうにこなしているように見えました。

思えば、意識不明で入院してから僅か3か月しか経過していない時期でした。

おそらく母にとってこの時期は、一日一日がとても内容の濃い毎日だったのだと思います。

また、施設での生活の中でも、心身ともに最も調子の良い時期でもあったと感じられ、会いに行くのが楽しかったです。

2020年8月27日 (木)

リハビリ見学の日

2年前の2018年8月27日は母のリハビリを見学することになっていました。

おやつタイムが終わったくらいの時間に面会に行き、二人で3階のリハビリルームへ行きました。

リハビリルームに着くと母は、慣れたもので手をアルコールで消毒していました。

まずリハビリの前に、足を伸ばして先生にマッサージをしてもらいました。

この日の母の足は、むくみがほとんどなくなって、かなり良い状態になったようでした。

運動はまず、腿上げを20回、次に膝を伸ばして両足を上げてそのまま10数えるのを5セット。

その後、膝にゴムボールを挟んで10回潰し、次はゴムひもで膝を縛って股関節を広げる運動。

一休みした後に、手すりにつかまっての歩行を3メートル、2往復。

この日は足もそれほど痛くはないとのこと。

次には歩行器を使ってみましょうか、ということになりましたが、先生の話では4~5回目だとのことでした。

使う歩行器は思っていたよりも小さなもので、歩行中に母の左膝が何度かガクンとなりながらも、10メートルほど歩きました。

少し休憩してから、自分の車椅子まで再び歩いて戻りました。

私が想像していた以上にハードなリハビリで、母もかなり疲れた様子でしたが、冷水を2~3口飲んで一言「おいしい」と、満足そうでした。

リハビリ見学は施設入所前の病院以来で、2か月ぶりくらいでしたが、母の体力の回復には目を見張るものがありました。

2020年8月26日 (水)

暑い夜に水があれば

2年前の今頃も35℃を超えるような暑い日が続いていました。

2018年8月26日も午後4時前に面会に行きました。

母は、おやつを食べてからトイレに行って戻ってきたところだといって、食堂のいつもの場所に座っていました。

おやつには人参ジュースが出て、甘くておいしかったし、ゼリーも出て、こちらはあまり甘くなくておいしかったと笑顔でした。

また、この日は施設のどこにいても暑いというので、面会中も持参した冷水を飲ませると「冷たくておいしい」と喜んでくれました。

寝室も西日が当たって暑いので、この日の朝起きてみると、タオルケットが反対になっていたとのことでした。

おそらく夜中も暑いので、寝ていてもじっとしていられないのでしょう。

着替えのために部屋に戻り、ベッドに座った時にも水をもう一口飲みました。

寝室では飲食が禁止ということで、水筒を置いておくことはできません。

母は家では夜寝るときに枕元に水筒を置いて、夜中に目が覚めた時に水を飲むことがよくありました。

このころ暑い日が続いていたので母は「夜、欲しいなあと思うけど……」と残念がっていました。

2020年8月25日 (火)

「おっぱいが小さくなっちゃった」

2018年8月25日、この日も大体いつもと同じ時間に面会に行きましたが、母はいつもの定位置にはいませんでした。

探してみると、少し奥のテーブルに何人かの方と一緒に座っていました。

話を聞いてみると、おやつを食べてトイレに行き、手を洗っていると懐メロが聞こえてきたそうです。

見ると年上のおじいさんが奥のテーブルで森繫久彌のCDを聞いていたので、一緒に聞かせてもらっていたとのことでした。

そこには大正生まれのおばあさんもいて、おそらくその人が最年長ではないか、との母の話でした。

施設にすっかりなじんで、いろいろ新しい情報も仕入れていた母でした。

この日のおやつは、バームクーヘンと紅茶だったことも教えてくれました。

また、この日は35℃の猛暑で、施設内も暑いので持参した水筒の冷水を飲ませると「おいしい」と言ってくれました。

このところ足が痛む日もありましたが、この日は足が軽くて調子が良いのにリハビリがなくて残念だ、とも話していました。

最後にベッドで着替えさせていると母が「おっぱいが小さくなっちゃった」と言いました。

それに対して私が「もう赤ちゃんも生まれないだろうから、いいんじゃない?」と返すと「そうだね」と母は笑っていました。

足のむくみもほとんどなく、心身ともに好調で母の笑顔が輝いていました。

2020年8月24日 (月)

「そろそろ息子が来る時間」

2年前の2018年8月24日、いつものように午後4時ごろに面会に行きました。

この日はちょうどトイレに入っていて、「そろそろ息子が来る時間だ」と言いながらトイレに入ったとのことでした。

施設の生活にも慣れ、息子の面会時間も覚えて、すっかり落ち着いてきた時期でした。

この日のおやつは、お茶とともにプリンのような牛乳ゼリーのようなものを食べたと話してくれました。

ご飯が普通の白米になったから、水分がないだけ今までよりも早く食べ終わると。

昨日は珍しく冷奴が出て、今日のお昼はラーメンが出たという食事の話を楽しそうに。

ラーメンは長いと思ったら短い麺なので、箸では掴めないのでスプーンで食べたとか。

「ラーメンは初めて」と言ったら、職員さんに「そうですかぁ」と言われたとのことでした。

先日入所してきた人に「どこに泊まっているんですか?」と聞いたら「ここです」と言われたと笑っていました。

「ここは風向きによっては寒いですよ」と教えてあげたら、次の日から上着を着てきたそうです。

すっかり、良い先輩になっていました。

そういうことを次から次と笑顔で楽しそうに話してくれました。

2020年8月23日 (日)

さらに絶好調

前日に会議を行った翌日の2018年8月23日も、いつものように夕方に面会に行きました。

早速、この日の昼食からお粥が軟らかめの白飯になったということでした。

母は久しぶりのご飯がおいしかったと喜んで、玉子焼きもおいしかったと笑顔でした。

さらに、リハビリの先生も昨日の会議について何かを話していたとか。

そのリハビリの内容はいつも通り、ボールとゴムを使った足の運動とモモ上げ、さらに手すりを掴んで2往復歩いたとのことでした。

一時期気にしていた足のむくみと膝裏の痛みも、かなり良くなってきたということでした。

その他、展示会のためでしょうか毛糸で菊の花を作ったと。

その作業の際に自宅で作った鶴の話をしたので、持ってきてほしいと催促されてしまいました。

また、この日は体重を測って、2㎏減ったと言われたとのことでした。

前日の会議では、食事については当初の1600㎉から1400㎉にしているということで、入所当初に少し増えた体重も減ったようでした。

この日も元気に一日のスケジュールをこなして心身ともに調子も良く、明るく話をしてくれた母でした。

2020年8月22日 (土)

関係者会議

2年前、2018年8月22日には施設で母の介護方針に関する会議が行われました。

毎日のように面会に行っていたので、知らないことはほとんどありませんでしたが、いくつか確認したことがありました。

精神安定剤は8月初めくらいまで服用していて、その後の変化は感じないとのこと。

インシュリンは打っていないが、問題なさそうなので、血液検査もしていないとのこと。

利尿剤は飲み続けているということ。

特養に入所の申し込みをしてあることで、入所が決まるまでの延長が認められやすいとのこと。

母が好きではないお粥を、柔らかいご飯に変更してもらうことも出来そうだということ。

三か月前に脱水状態で入院したのがウソのように回復した母が、心身ともに絶好調な中での会議でした。

心配することもあまりなく、いつまでもこの状態が続いて施設での生活を楽しんで欲しいな、と思うばかりの頃でした。

2020年8月21日 (金)

「人工透析をしてまで生きたくない」

母は若いころに腎臓を悪くして、その後糖尿病を発症しました。

確か80歳くらいまでは、バスと電車を利用して大学病院まで月に一度通っていたと思います。

そんな中、ある雨の日の通院中にバスが揺れ、バランスを崩して腰を痛めたということでした。

その腰痛の治療のために地元の整形外科にしばらく通うことになり、このころから外出時に杖を使うようになりました。

その後、この整形外科の医師の紹介で、腎臓も地元のクリニックで診てもらうことになりました。

80歳を過ぎて、さすがに大学病院まで行くのは辛くなったのだと思います。

紹介された地元のクリニックには、86歳まで通っていましたが、血液検査の数値が悪化して総合病院を紹介されました。

むくみもひどく、クリニックの先生の見立てでは、その総合病院に入院することになるだろうと考えていたようです。

おそらくこの時期のことだったと思いますが、母は「人工透析をしてまで生きたくない」と言っていました。

結果は、入院も人工透析も必要なく、それまでと同じように通院で様子を見ることになりました。

この総合病院に通うことになって以後、私も通院に同行することになり、少しずつ母の面倒を見るようになりました。

その中で、母の「人工透析をしてまで生きたくない」という言葉はずっと私の頭の中に残りました。

2020年8月20日 (木)

きれいな夕焼け

今年は7月いっぱい梅雨で、8月に入ると突然暑い日が続きました。

今日も良く晴れて最高気温は35℃ほどになりました。

それでもお盆を過ぎて、日陰の風は少し涼しくなってきた感じもします。

また気が付くと日が短くなっていて、6時半にはかなり暗くなってきています。

少しずつ日没が早くなり、ウチのベランダからも夕焼けが見られるようになってきました。

晩年の母はあまり外に出ることはなく、ウチにいた当時は窓から外を見ることが好きなようでした。

特に朝日や夕日がお気に入りでした。

施設でも開けた景色が西側でしたので、よく母と夕焼けを見たものでした。

私は時計代わりに午後4時ごろに面会に行くことが多かったので、この2年は夕焼けや日没を母と一緒に楽しみました。

母は体調が良く元気な時は、きれいな夕焼けを見ると歓声を上げたりして、とても喜んでいました。

ただ、気分によっては寂しそうに夕日を見つめているときもあったように記憶しています。

2020年8月19日 (水)

「寝ながら考えた」

2年前の2018年8月19日は午後4時ごろに面会に行きました。

この日は母が「寝ながら考えたことがある」と切り出しました。

『なんだろう』と、少し身構えて聞いてみると「家で作った鶴はどうしたかな?」とのことでした。

どうも千羽鶴のようなものを作ろうと思っているようでした。

前日に話をしたケアマネージャーから展示会があるということを聞いて、いろいろと考えたようです。

このころは、入浴やリハビリ以外に、敬老会のための歌の練習や展示会の作品作りなど、施設の行事を楽しんでいました。

食欲もあり体調も良さそうで、足のむくみも少しずつ小さくなってきていました。

積極的に施設での生活を楽しんでいる母の姿を見て、出来ることは何でも協力してあげようと思ったものでした。

2020年8月18日 (火)

「習字をもっとやりたい」

2年前の今日、2018年8月18日は面会中に施設のケアマネージャーと話をする機会がありました。

入所して一か月半ほどが経過して、母はすっかり施設での生活になじんでいました。

そのことはケアマネージャーも知っていて、さらに母の情報や希望などを知りたいということでした。

私も母の率直な気持ちを聞いてみるのに丁度いいと思いました。

母の希望は「習字をもっとやりたい」ということでした。

ケアマネージャーの答えは「10月に作品展がありますが、現状は人員の関係で習字は月1回程度」とのことでした。

また、母は「男性のトイレの世話は最初恥ずかしかったが、皆いい人で良かった」と話していました。

そういえば、私以外の男性に介護されるというのは、施設が母にとって初めてのことでした。

そういうことも介護する立場、される立場で結構重要なことかもしれません。

その他では、当時の母の心境としては、家に帰るよりも希望すれば施設にいられるかどうか、を気にしている感じでした。

入所前に老健について、家に帰る前に三か月くらいリハビリをするところ、というような説明をしていたので不安があったのかもしれません。

いずれにしても、このころは体調も良いからか、毎日元気で施設での生活にも満足しているようでした。

2020年8月17日 (月)

『お風呂バッグ』

母が施設で生活をするにあたって、いくつか用意するものの指定がありました。

その中に『お風呂バッグ』というものがありました。

私は、施設で使う『お風呂バッグ』というものがあるのかと思い、スーパーマーケットで店員さんに尋ねてみました。

バッグ売り場の店員さんは『お風呂バッグ?』という反応でした。

二人で話したのは、よく分からないけれども濡れてもいいようなバッグではないか、ということでした。

そこで、子供が使う水着を入れるバッグはどうか、ということになり買いました。

その時に選んだのが写真のリラックマのバッグです。

結局、入所時の担当者の話では、施設での入浴時に着替えを持ち運ぶだけなので、普通のバッグで構わないとのことでした。

それでも他の入所者の方々の普通のバッグの中で、母のリラックマのバッグは目立っていました。

母の施設での生活の中で間違われにくく、また少しでも話題になるようにと考えて、子供用のかわいいバッグを選んだ効果はありました。

もっとも、着替えを入れて持ち運ぶのは職員さんなので、母は自分がどんなバッグを使っているのか最後まで気にもしていないようでしたが。

2020年8月16日 (日)

戦争への嫌悪

昨日8月15日は終戦記念日でした。

今年で75回目だったということです。

戦争について母から聞いたことは、疎開したことやB29の目撃談など断片的にはいくつかあります。

ただ、多くの戦争体験者がそうであるように、母も戦争のことはあまり話さなかったように思います。

ところが最後の入院時の、なかなかむくみが取れずに一進一退といった状況の中で面会に行った時のことでした。

「戦争はイヤだ、二度とイヤだ」と母が言いました。

このころは、ほとんどベッドに横になっていて、意識のある時でもほとんど目が開かず、よく夢も見ていたのだと思います。

夢と現実をはっきり区別しにくくなっていたこともあるようでした。

そういう中で、突然のように母が戦争のことを話したのが印象的でした。

この時は私が面会に来ていることを理解したうえで、私に対して言ったものだと思います。

この後徐々に母は意識をなくしていきましたから、この言葉はほとんど母の遺言のようになりました。

母が人生の最後に戦争への嫌悪を口にする。

思いがけないことでしたが、それだけ戦争に対する恨みは深いものがあったのだろうと想像します。

2020年8月15日 (土)

フィラのポシェット

母の施設での第二の人生は、積極的、行動的に日々の生活を本当に楽しんでいるように感じました。

例えば9月に施設の敬老会が予定されていて、8月頃はそのために歌の練習をしていたそうです。

歌詞を見ながらの練習だそうですが、歌詞が書かれた冊子の文字が小さいので眼鏡が欲しいと母が言いました。

それを聞いて私は「そうだ、小物入れのようなものを持って行ってあげよう」と考えました。

その時買ったのが、赤いフィラのポシェットです。

母はこれをとても気に入ってくれて、いつも身の回りに置いていました。

起きているときは車椅子に乗せて自分の脇に置き、寝ているときはベッドの枕元に置いていました。

中にはもちろん眼鏡とラジオ、ティッシュとハンカチが必ず入っていました。

このポシェットは母の施設での生活に欠かすことのできないものになっただけでなく、母のトレードマークの一つになりました。

そのポシェットは2年前の丁度今頃、2018年8月14日に買ったものでした。

2020年8月14日 (金)

目と耳も好調

母は自身の第二の人生を元気で陽気に楽しんでくれました。

この時期は体が元気だっただけではなく、目や耳の状態も良くなっていたように感じました。

実際に家で面倒を見ていた頃は、耳が遠くなったなと思うことがしばしばありました。

それが、施設に面会に行って話をしていても、聞き返されることはほとんどなかったように思います。

また新聞やカレンダーを見せても、家にいた当時よりはよく見えていたようでした。

もちろん広くて明るい場所ということもあったのでしょうが。

施設に入所する前の病院でのリハビリは、目や耳に対するものもやっているということを先生が話していました。

そして、この時期の母のリハビリに対する意気込みは並々ならぬものがありましたので、その効果はとても大きかったと思っています。

その他にも、大人数での生活で刺激があったことも一つの要因でしょう。

家での介護時は、テレビを見るか家族と話すくらいしか刺激がありませんでしたから。

いずれにしても、母の元気には目や耳の調子の良さも大きく影響していたと思われます。

2020年8月13日 (木)

もうひと踏ん張り

今年は7月末まで梅雨が続いて涼しい天気でしたが、8月に入ってからは一転して暑くなりました。

ここ数日は特に暑く、この暑さの中で絶好調なのが蝉です。

酷暑の中うるさいくらいに鳴いています。

ただ蝉は成虫になってからは短命なので、元気に鳴く蝉の声の中で同時に道端で仰向けに転がった蝉もよく見かけます。

仰向けの蝉でもまだ生きている場合、触れると動き出し、再び飛んでいく蝉もいます。

それは蝉にとっては最後の力を振り絞っているようで、飛んでいく蝉に「頑張れ」と声を掛けてあげたくなります。

そんな蝉の姿を見て、母のことを思い出しました。

母も「もうダメかな」という状況から、第二の人生に向かって飛び立って行ってくれました。

その第二の人生は、あまり長くはなかったですが、予想以上に元気に陽気に楽しんでくれました。

母の人生を蝉になぞられるのは失礼かもしれませんが、もうひと踏ん張り頑張ってくれたことを感謝しています。

2020年8月12日 (水)

腎臓から心臓へ

母は若い頃から持病がありました。

腎臓が悪く、高血圧があり、後には糖尿病にもなりました。

月に一度は通院し、おそらく10年以上食前にはインシュリン注射を打っていました。

それが、施設に入所する前の入院時に主治医の判断でインシュリンを止めました。

もちろん入院生活での血糖値に問題がないことを確認したうえでのことですが。

ただ、母は結局心不全で亡くなりました。

通院していた頃もほぼ毎年のように、心電図やエコー検査をして心臓に問題はないと言われていました。

全てが終わっていろいろと考えることが今でもあります。

その一つが、施設では血糖値は一度も測っていないようだったので、糖尿の悪化から心臓に影響が出たのではないかということです。

亡くなる1年ほど前に心不全と診断された際の説明では、弁膜の動きが悪いとのことでした。

おそらく老化が原因でしょうと言われましたが、糖尿との関係はどうだったのでしょうか。

もちろん今では分かりませんし、いずれにしろ心臓の寿命が尽きたのだとは思っています。

残念に思うのは、余命1年ならば食事制限はしないであげたかったな、ということです。

2020年8月11日 (火)

年中無休

今年もお盆休みの時期になりました。

ただ、今年はコロナ禍で人々の行動は例年とは変わっているようです。

それでも公的な機関や病院の診察は休みますし、高齢者施設も休日と同じような対応になります。

母が病院や施設にいるときに、年末年始やゴールデンウィーク、お盆休みの予定が出ると心配になったものです。

今年の新型コロナのPCR検査数も週末や休日には減るように、医療施設も当然のように休日対応になっています。

患者や患者予備軍にとっては休日も関係なく、体調はいつ悪化するか分かりません。

施設でも職員の数が少なく、そういう日は母は暇そうにボーっとしていることが多かったように思います。

リハビリを始めとして、これといった行事がない日は元気も出ないようでした。

それで、いつも考えていたのは、高齢者にとっての病院や施設だけでなく、休日はそれぞれの人が交代で取るようにすることはできないものだろうかということです。

人は休むが、職場は年中無休。

そうすれば高齢者に関することだけではなく、今よりも社会全体がスムーズに回るように思うのですが。

2020年8月10日 (月)

5枚セットのタオル

第二の人生の母は入浴も楽しみにしていました。

最初に頭からお湯を掛けられて驚いたこともあったようですが、いつも「さっぱりして気持ちいい」と喜んでいました。

そんな母は80歳くらいの時に腰を痛めてから、家では入浴せずに体を拭くだけにしていました。

いつの頃からか、母の手の届かないところは私が拭いてあげていました。

特に母が類天疱瘡になり、あちこちに水ぶくれができてからは大変な作業になりました。

それとともに、かなりの枚数のタイルが必要になりました。

そういった時期に、よく近所のホームセンターに5枚セットのタオルを買いに行きました。

母が施設に入ってから後は、そのタオルを買う必要はなくなりましたが、先日久しぶりにタオルが必要になりホームセンターに行ったところ、同じタオルがあったので買ってきました。

 

2020年8月 9日 (日)

ピンクの洗濯ネット

施設の母に毎日会いに行く理由の一つは、洗濯物の交換でした。

母に車椅子からベッドに移ってもらって、ベッドに座った状態で上半身の汗を拭いて、下着と上着、帽子、靴下などを替えていました。

持ち帰った洗濯物はその日の夜に洗い、翌日の面会時に持って行くという流れでした。

母の洗濯物は自分のものと区別して、ピンクの洗濯ネットに入れて洗っていました。

母が90歳に近づいた頃からか、私が母に代わって洗濯をするようになっていました。

洗い終わった母の衣類が入った洗濯ネットを持って行くと、母は自分のベッドに座って室内用の物干しに一つずつ掛けていました。

夕方の午後4時、5時頃に、よくそのような姿を見かけました。

ピンクの洗濯ネットを見て、そんな懐かしいことを思い出しました。

2020年8月 8日 (土)

「息子が決めている」

母に毎日会いに行く、その理由は幾つか上げられます。

そのうちの大きな一つは洗濯です。

施設で洗濯してもらうことも確か一日100円くらいで出来たと思います。

ただ着替えを手伝うことで、私にも母の体調をチェックすることができました。

これは別に意図したことではなく、結果的に良かったと思います。

それから母の衣類に関心を持たざるを得なくなり、ネットやスーパーで高齢者用の衣類を調べることも多くなりました。

高齢者用の服は地味なものが多いのですが、私は母のためにはなるべく色や柄の明るいものを買うことにしていました。

母が自分で買う服はやはり地味目のものが多いので、あえて明るいものを選んでいました。

母は施設で服や帽子のことを聞かれると、「息子が決めている」と答えていたようです。

年齢の割に明るいものを着ていると話題になることも多かったようですが、母も悪い気はしていなかったように感じました。

2020年8月 7日 (金)

猛暑日に想う

今日はとても暑くなり、東京では今夏初めて35度を超える猛暑日になりました。

こういった暑さの中も、昨年と一昨年は毎日のように母に面会に行っていました。

今から考えると、我ながら良くやっていたなぁ、と思います。

やはりそれは、母が第二の人生を楽しんでいたことが嬉しかったことと、面会は家での介護よりは楽だったということもあったような気がします。

今日の夕食は暑さに負けないようにゴーヤチャンプルを作り、炊いたご飯を寿司飯にして食べました。

どちらも母が好きだったもので、美味しそうに食べてくれた姿が目に浮かびます。

家で母を介護していた時は、料理には苦労しました。

それを思えば暑い中を母に会いに行くことは、楽しいことではあっても辛くはなかったのだと、今改めて思います。

2020年8月 6日 (木)

母の遺言

75年前の今日、1945年8月6日に広島に原子爆弾が落とされました。

その後8月15日に戦争は終わりました。

母は昭和2年、1927年の生まれですから、終戦時は18歳でした。

母から戦争中や戦後の話を聞くことはほとんどありませんでしたが、かなり大変なことも多かったのではないかと思います。

いわゆる青春時代を戦中、戦後に過ごしたわけですから。

そんな母が、昨年11月の最後の入院中にこんなことを言いました。

「戦争はイヤだ、二度とイヤだ」

もう体調の回復が厳しくなりつつあり、寝ていることが多くなっていた時期のことでした。

目も開きにくくなっていて、色々なことを夢のように見たりしていたのだと思います。

私とすれば、突然聞いた言葉でしたがとても印象的で、母はずっとその思いを持っていたのだと確信しました。

その後母とは、あまり会話が出来る状況ではなくなりましたので、私にとってはこの言葉が遺言のようになりました。

2020年8月 5日 (水)

自然な笑顔

2年前の今日、2018年8月5日は日曜日で、母は私以外の誰かが面会に来てくれるかと、期待していたようです。

それだけ体調も良くなり、精神的にも余裕ができて、施設での生活にも慣れてきていました。

この日も日曜日なのでゆったりと過ごしていて、爪を切ってもらったり、相撲の話をしたりしていたそうです。

ラジオも聴いていて、この日から始まった高校野球のことも知っていました。

施設に入所して一か月が過ぎ、母が第二の人生を一番楽しんでいたのが、このころではないかと思います。

この日の昼食にもすごくおいしいものが出たと、嬉しそうに報告してくれました。

とにかくこの時期の母は、笑顔に溢れていました。

母の遺影に使った写真はこの日に撮ったもので、本当に自然な笑顔でした。

このことだけでも第二の人生、良かったなと思います。

2020年8月 4日 (火)

幻の二回目

昨日も書きましたように、母の施設での生活はまずまず良かったと、私は思っています。

タイミングよく入所できたこと、病院と隣り合わせの施設であることだけでも良かったと思います。

ただ、もし家に帰ることになっていたらどうだったか、ということは今でも考えることがあります。

当時は骨折入院後に家での介護に失敗したことから、私としては家での生活はできれば避けたいと思っていました。

母は入所直前のまだ入院中の時に「家の様子を見てみたいな」と話していました。

骨折の時とは母の精神状態が全く違っていましたから、二回目は上手くいったかもしれません。

実際に施設が決まるまでは私も、家での介護も考えるべきかな、とも考えていました。

ただ、その場合は二度と失敗ができないとか、母の精神状態が変わるかもしれないなどのプレッシャーがありました。

いずれにしても母は、家の様子を見ることなく亡くなってしまいました。

さまざまな状況を考えると、家での介護は少し難しかったでしょうが、家の様子だけは見せてあげたかったな、と思っています。

2020年8月 3日 (月)

施設の立地

母のいわゆる第二の人生が始まったのは、2018年6月のことです。

そして亡くなったのが2019年12月ですから、およそ1年半の期間でした。

第一の人生が自宅で、第二の人生が施設でした。

振り返って考えると、母の第二の人生はそれなりに良かったと私は思いますが、母自身がどう思っていたかは分かりません。

ただ、それなりに楽しんでくれたのではないでしょうか。

もちろん、色々と考えながらも出来なくて残念なことは幾つかあります。

例えば、家の様子を見に帰ることとか、近所のスーパーマーケットで買い物をすることなどです。

また、マグロの刺身やその他の好きなものを自由に食べさせてあげたかったこともあります。

それでも、良いタイミングで施設に入所できたこと、これが一番うまくいった原因だったように思います。

そして、なんといっても入院していた病院の隣にある施設だったのが良かったです。

丁度、主治医から次の行き先を考えるように言われて問い合わせたところ、うまい具合に空きがあったようで、間もなく入所できました。

入所後に4回入院しましたから、いい場所にある施設に入れたと思います。

家で介護したらどうだったかと、よく考えますが、少なくとも入退院はかなり大変だっただろうなと思います。

2020年8月 2日 (日)

横向きの寝姿

母は腰を痛めてから、横向きにしか寝なくなりました。

80歳を少し超えたころからだったと思います。

いつも壁を背にしていましたから、家で寝るときは必ず右を下にしていました。

ただ82~84歳のころ、よく一緒に温泉に行っていましたが、その時はいびきををかいていることがありました。

そのような、いびきをかいているときは必ず仰向けに寝ていました。

温泉に入って疲れると、ぐっすり眠るので横向き以外でも寝ていたようです。

逆に言うと横向きにしか寝ないということは、深くは眠っていないことの証明のようなものでした。

そのためか母は、朝は調子の悪いことが多いようで、血糖値や血圧を慌てて測ることがよくありました。

ある時、ケアマネージャーに母は横向きに寝て寝返りを打たない、と話すと「知らないうちに寝返りしているものです」と言っていました。

そう考えるのが当然のことだと思います。

それでも、ずっと一緒にいる私は、夜中に寝姿を見に行くことも何度もありましたが、逆を向いて寝ている姿を見たことはありません。

2020年8月 1日 (土)

蜂蜜とシナモン

昨日の夕食にさつま芋を蜂蜜とシナモンで味付けをして食べました。

これは元々アップルパイを参考にした、リンゴを煮た時の味付けでした。

母は歯がほとんどありませんでしたから、リンゴを生のまま齧ることができませんでした。

そのためにリンゴを食べるときは摺りおろして食べていました。

リンゴを摺りおろすとすぐに色が変わってしまって、いかにもおいしくなさそうに見えます。

そこで、リンゴを煮れば母も食べられるのではないかと考え、その際の味付けが蜂蜜とシナモンでした。

母も「おいしい」と言って食べてくれました。

母を家で介護していた時は、毎食前にインシュリン注射をしていました。

そのために食事の時間を規則正しくすることが大切で、毎食のメニューを考えるのは難儀でした。

それでも考えて作ったものを「おいしい」と言って食べてもらえると嬉しいものでした。

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