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2020年7月

2020年7月31日 (金)

食べ方上手

2年前、2018年7月31日には姉が面会に来てくれました。

この日の母との会話の中で、施設の料理について話が出ました。

母の話では、「食事は出されたものはほとんど完食している」

「見た目は全部ミンチだが、味は美味しい」

「ハンバーグなどは美味しいし、青菜も見た目はともかく味はいい」

「お粥は好きではないが食べている、辛し和えなどはとてもおいしい」などと、大体満足しているようでした。

母は食べることが好きで、出されたものはほとんど残さず食べるような人でした。

歯がほとんどなく、入れ歯を使っていないので、硬いものやグニャグニャしたものは噛めないので舐めるだけでしたが。

ただ、歯がなくても上手に噛んでいるようで、里芋などヌルヌルするものでも誤嚥するようなことは一度もありませんでした。

いつのころからか、お餅は食べさせないようにしていましたが、ひょっとすると問題なかったかもしれません。

お餅は好きなので、本人も怖がりながらも食べたそうでした。

その他にも、魚の骨などもしっかり除けていましたので、母は食べ方が上手だなと思ったこともありました。

2020年7月30日 (木)

「元気だね、かわいいね」

2年前、2018年7月30日の午後4時ごろ面会に行くと、いつもの位置に母の姿がありませんでした。

丁度トイレに入っているということで、少し待つことになりました。

この時も出なかったとのことで、ここ二日ばかり便秘に悩んでいるようでした。

その他には一日中車椅子に座っている生活のためか、足の膝の裏に痛みを訴えるようになりました。

確かに、体の不調もこのように少しはありましたが、概ね元気に施設での生活を送っていました。

この日も9階の広間で話をしました。

先日、熱海のあたりに被害をもたらした台風が、まだ九州にいることを伝えると「図々しいね」と母の一言。

部屋に戻るときには、母が自分で車椅子をまずバックさせて、エレベーターの前まで自力で行きました。

施設入所当時は「私は絶対やらない」と言っていたのですが、いつの間にか自分で動かせるようになっていました。

その姿を見て私は嬉しく思いながら、「元気だね」と言うと「元気だよ」と答えてくれました。

職員さんにも「元気だね、かわいいね」と言われたと、母は笑顔で話してくれました。

入所してほぼ一か月、この頃はいつも笑顔で元気に施設の生活を楽しんでいる母でした。

2020年7月29日 (水)

延命処置

母は晩年、何度か入院をしました。

その都度、私が入院の手続きをしましたが、毎回のように「延命処置をしますか?」と尋ねられました。

最初は、『延命処置』そのものの理解がありませんので、即答はできませんでした。

先生のお話をいろいろと聞いてから、後日「延命処置は結構です」とお答えしました。

ただ、少し大げさに言えば、母の命にかかわることを私が決める感じがして、なかなか気が重いものでした。

考えてみますと、母の通院に私が付き添うようになってから、いつからか定かではないですが、母の状況についても私が先生と話をするようにはなっていました。

そういうことと延命処置の採否は全く重さが違いますが、いつの間にか私は母の生命にかかわっていたんだと知ることになりました。

その後は幸い、母に代わって私が重大な決定をすることは、ほとんどありませんでした。

それでも、母のためにした私のさまざまな判断が良かったのかどうか、今でもあれこれ考えることがあります。

2020年7月28日 (火)

面会に行かない日

二年前の今日、2020年7月28日は台風12号の影響で風雨が強かったため、施設に面会に行きませんでした。

前日の面会時に「明日は台風の状況によっては来ないかもしれない」と母には伝えておきました。

考えてみれば、母が骨折入院をした4月2日以後、病院や施設に会いに行かなかった初めての日になりました。

当時の記憶はほとんどありませんが、記録によりますと母が元気だったころでもあり、面会に行かないのは寂しい気分だったようです。

寂しいということ以上に、面会に行かないと洗濯物を交換することができませんから、着替えに影響が出ることもあり得ます。

幸い二日続けて行けなかったことはなく、母が困るようなこともなかったものと思います。

そしてその後は、母が施設にいた1年半ほどの間に台風や雷雨などで会えない日は数日ありました。

その数日を除いてほぼ毎日、面会に行っていたとは我ながら良く頑張ったな、と思います。

2020年7月27日 (月)

元気の要因

母が施設に入所した当初の数か月は本当に元気でした。

どうしてそんなに元気だったのかと言えば、当然体調が良かったことが一番大きかったと思います。

それ以外の要因としてまず思い当たるのが、抗うつ薬としての『抑肝散』です。

骨折退院後、自宅に帰り、徐々に落ち込んでいったので、再入院後主治医にお願いして、服用していたものです。

この薬の効果もかなり大きかったと思います。

ただ私は当時、ほとんどがこの薬のおかげだと考えていましたが、今ではその他に大きな要因が二つあると思っています。

一つは入院していた病院の看護師さんたちとの触れ合いです。

私は面会時の母しか知りませんが、ずっと一緒にいてくれた看護師さんたちとは、よく話をしていたようです。

それ以外にも、ナースステーションでリハビリ代わりに簡単な手作業をして、お菓子を一緒に食べたりしていたようです。

もう一つはリハビリです。

二度目の入院時には担当の先生の話では「積極的にリハビリに取り組んでいて、前回と本人のやる気が違う」とのことでした。

その後の母の話からしますと、やる気が出たのは、少しずつ出来ることが増えたからではないかと思います。

良く母が言っていたのは、「年下の人よりも自分の方が出来る」ということでした。

どんどん新しいことが出来るようになるのは楽しいようで、最後は歩行器を押しながら歩けるようにまでなりました。

母は周囲の方たちの暖かい手助けのおかげで、第二の人生を明るく楽しく過ごしてくれました。

2020年7月26日 (日)

充実した生活

2年前の今日、2018年7月26日は木曜日でした。

この日、面会に行くと母は食堂のいつもの位置に座っていました。

「今、リハビリから帰ってきたところ」と言っていて、そのためかカーディガンを脱いでいました。

いつものように9階に行って話をすると「今日は忙しかった」と言いました。

午前中に入浴して、午後は誕生日のパーティーがあって、リハビリもしたと。

リハビリの先生が翌日お休みだそうで、今日はしっかりやったのだと説明してくれました。

お尻の傷のために使い始めたクッションは調子が良く、痛くないということでした。

ただ、クッションを使うことで少し姿勢が高くなったので、しっかり座らないと危ないと自覚しているようでした。

また、7月生まれの人たちのための誕生パーティーがあって、皆プレゼントをもらっていたと。

自分はコーヒーを飲んでケーキを食べたと。

ケーキは色々な種類があり、小さいので10個くらい食べたが、久しぶりだったと喜んでいました。

たくさんのことを元気に話してくれて、施設での生活を楽しんでいることが良く分かりました。

2020年7月25日 (土)

元気で前向き

2年前の今頃の母の状況は施設入所後20日ほど経過して、ますます元気になり、陽気に毎日過ごしていました。

私の知る限り、この頃の数か月が母の生涯で一番明るく陽気な時期だったように思います。

一日3度の食事以外におやつがあって、「なんだか、ずっと食べているような気がする」と良く言っていました。

また、週に5回のリハビリと週に2回入浴があって、とにかく忙しく、「一日が過ぎていくのが早い」とも話していました。

リハビリで褒められたという腿上げをやって見せてくれたり、車椅子も自分で動かせるようになっていました。

話をしていると、目や耳の具合も家で生活していた頃よりも、多少良くなっているように感じました。

とにかく元気で前向きでした。

ただ、ほぼ一日車椅子に座っている生活になり、家にいたころからあったお尻の傷が、また痛み出したとのことでした。

そのため一時間ほど昼寝をさせてもらうこともあったようでした。

もう一つ、座っている生活の影響で足に浮腫みが出て、看護師さんも気にするほどの太さになっていました。

こちらも利尿剤を少し飲み始めたとのことでした。

以上のように、体調の不安が全くないわけではないですが、母が施設の生活を楽しんでくれていて、私も毎日会いに行くのが一番楽しかった時期でした。

2020年7月24日 (金)

隔離よりも触れ合いを

7月22日に東京都八王子市で、82歳の夫が83歳の妻の首を絞めるという事件が起きました。

夫は妻をいわゆる老老介護していましたが、結局妻は亡くなったそうです。

介護経験者の体験談を読んだりしますと、よく出てくるのが『介護地獄に陥るな』という言葉です。

つまり介護する時は一人で抱え込むと危ないよ、ということです。

ただ、これは介護される側にも言えるのではないかと、私は思います。

母の例で見ますと、昨日書いたように子供たちの歌や踊りを見た日はとても感激していました。

また、リハビリや入浴をした日は、明るく話をしてくれました。

家で私が介護していた時と比較して、非常に生き生きとしていました。

やはり、介護される側もなるべく多くの人とかかわることが大事なのではないかな、と思いました。

ただ、今の状況は、高齢者や障碍者など同じ境遇の人たちを集めて、社会から遠ざけるような方向に進んでいるように感じます。

そういう隔離のようなことではなく、なるべくいろいろな人と触れ合うことが介護される人にとって良いのではないでしょうか。

私は、介護されている方が今でも社会の一員であると思えることが大切だ、と経験を通じて実感しました。

2020年7月23日 (木)

子供たちとの交流

2年前、2018年7月に母は介護老人保健施設に入所しました。

その前に入院していた病院で、すっかり元気を取り戻して明るくなっていた母は、上手に施設に馴染んでくれました。

その後、1年4か月に亘ってそこでの生活を楽しんでくれました。

ということで、良い施設に入ることができて、母は幸せだったな良かったな、と私も思っています。

ただ、それでも私は高齢者を集めて収容する施設というのは、あまり肯定的にみられません。

以前から感じていたことですが、どうしても高齢者や障碍者だけを集めるというのが賛成できません。

効率性を考えれば、同じような状況の人々を集めて世話をするのは当然でしょう。

一方で利用者からすれば、そのような施設に入れられて社会から隔絶させられたように感じることもありそうです。

母も特に晩年は高齢者の皆さんが集まる食堂のテーブルで、暇を持て余したようにボーっとしていることがよくありました。

そんな中で、子供たちが施設に来て、歌や踊りを披露してくれた日があったそうです。

その日の面会時、母は思い出したように涙を流しながら「子供たちが健気でかわいかった」と元気な声で話してくれました。

入所者の皆さんも子供たちの手を握って、涙を流して喜んでいたそうです。

母もそうでしたが、高齢者は子供が好きな人が多いのですね。

毎日そういう行事はできないにしても、子供たちが遊ぶ姿を見ることができるような施設があれば、高齢者も生き生きと過ごせるのではないかと私は思います。

2020年7月22日 (水)

マグロの刺身

昨日も書いた通り、母は食卓に並んだ料理は残さず食べるのが習慣になっていました。

家で生活していた時に、私が「こんなに食べるかな?」と思うほどの料理を並べても「少し食べすぎたかな」と言いながら、全てを食べていた母の姿を思い出します。

それだけ食べることが好きで、おそらくそのために年齢の割に元気だったのだと思います。

その母が心不全と診断されてから食事制限されました。

その後、1年ほど生きている間に塩分不足を起こしたり、栄養不足のような状況もありました。

そのため私は、母が食事制限をされなければ、どうだったのだろうと考えるわけです。

多少最期が早まっても、好きなものを好きなように食べた方が、本人にとって良かったのではないかとも思います。

少なくとも制限がなければ、気分的にも楽で美味しく食べられますから、かえって長生きしたのではないかなどとも考えてしまいます。

最後まで母は、施設では食べられないマグロの刺身を食べたがっていました。

何とか食べさせてあげたかったなと、今でも思います。

2020年7月21日 (火)

全て平らげる

母は昭和2年の生まれです。

いわゆる青春時代は戦中・戦後に当たるので、大変な経験も数多かったことと思います。

そういった戦中派というような人々は、事細かに戦争についての話をすることは好まなかったような気がします。

それでも母の習慣の中に、戦争の影響を見たと思うことがありました。

それは母が食事を残すということが、ほとんどなかったことです。

おそらく母の世代では、食卓に並んだものは全て食べることが当然だと考える人がほとんどだと思われます。

私の小さいころでも、食事を残すことはもったいないと言われていましたから。

そのためか母は90歳を過ぎても、出されたものは全て食べるというつもりで食べていたようでした。

また、施設入所後も食事は足りないと言うこともあるほどで、全て食べていたように思います。

そんな中で2018年11月に母は入院して、心不全と診断されました。

その後は食事を制限されることも度々あって、食事の質や量について母が不満を言うこともありました。

持病の悪化を防ぐために食事制限をすることは理解できますが、結局、母は1年後に心不全で亡くなりました。

結果論ですが、食事に関しては制限をしないで、好きなものを好きなだけ食べてもらいたかったと思う気持ちが今でもあります。

2020年7月20日 (月)

病院の経営

このところずっと言われていることですが、新型コロナウイルスの影響で病院の経営が難しくなっているようです。

看護師のボーナスが出ないことで、400人もの看護師たちが辞めるような病院もあったと聞きます。

新しいウイルスに対応するため、現場の人々は今まで以上に気を遣いながら仕事をしているはずです。

それにもかかわらず、待遇が以前よりも悪くなるなら、仕事に対するやる気を失うのも当然です。

母が入院していたフロアも、夜勤は3人の看護師さんで回していました。

「大変だなぁ」と思いながら見ていたこともありました。

ところで、医療が崩壊したら大変だ、ということはずっと前から話題になっています。

それは新型コロナウイルスの感染が拡大して、病院が溢れてしまうことが一番心配されていました。

ところが、今は病院の経営状態や人手不足などが現実の問題として危ないようです。

病院は社会にとって必要不可欠なものですので、簡単になくなってしまっては困ります。

病院は、普段からある程度人員や設備に余裕を持っても経営していけるようにしておかないと、緊急時には本当に崩壊してしまうかもしれません。

それが今回のコロナ禍での教訓ではないでしょうか。

2020年7月19日 (日)

コロナ禍の面会

母は昨年の暮れに亡くなりました。

そして、四十九日は今年の2月に行いました。

その頃私は母の四十九日が済んだ後には、お世話になった施設に挨拶に伺おうと考えていました。

ところが、丁度その頃から新型コロナウイルスの問題が大きくなってきました。

そのために高齢者施設などの面会禁止も始まりました。

そのコロナ禍も一時は治まったかに見えましたが、7月になって再び新型コロナウイルスの感染者が増加しています。

私も施設への挨拶を躊躇したまま、今後いつ行けるかも分からない状況になってきました。

母は施設で本当に楽しそうに毎日の生活を送っていました。

また、施設の職員の皆さんはいつも明るく母に接してくれました。

そのようにお世話になったことに対するお礼を一言でも伝えたいと思い続けています。

ただ現実は徐々に厳しくなってきていて、いつ実現できるか分からない状況なのが残念です。

何の気兼ねもなく施設を訪れ面会することが、こんなに難しくなるとは夢にも思いませんでした。

2020年7月18日 (土)

肩こり

母は家の中では90歳で足を骨折するまで、伝い歩きで一人で歩けました。

ところが80歳くらいの頃から、外では杖を突いて歩くようになりました。

外出中に足を滑らせて腰を痛めたことがきっかけだったそうです。

そのほかに加齢で痛みが出たり、思うように動かせなくなったりするものです。

母は足腰には以上のように痛みや衰えが出てきていました。

ただ、腕については何も聞いたことがありません。

女性はよく肩こりを訴えたりするものですが、母が「肩が凝った」と言ったのを聞いたことがありません。

また、病院や施設でベッドで寝ているときも、腕を器用に使って自分で姿勢を直したりしていました。

リハビリでも腕の運動は足の運動よりも先に熱心にやったようですから、その効果もあったのだと思います。

最後の入院時、92歳でも、腕はしっかり動かせていたように、体の動きにはほとんど問題はありませんでした。

その頃には腎臓、心臓、血液には少しづつ不具合が出てきたことが検査によって分かっていました。

それでも身体はまだ普通に動かせていただけに、残念でした。

2020年7月17日 (金)

第二の人生の始まり

2018年は母の第二の人生が始まった年でした。

簡単にその年の経過をまとめてみます。

4月 骨折で入院

5月 計40日の入院後、退院、12日後脱水症状で再入院

6月 計40日入院、回復し元気に

7月 施設に入所

この年の5月24日に昏睡状態で入院した時は「もうダメかな」と正直思いました。

それ以前にも「もう危ないかな」という状況は何度かありました。

ただ、この時母は既に90歳で意識不明の状態でしたから、さすがに厳しいなという印象でした。

ですから、回復して元気になり施設に入所した時は夢のようでした。

もっとも、当時は毎日が不安と心配で一生懸命だったようで、記録や音声を振り返って、やっと思い出すような感じではあります。

それでも母は、生涯で最も元気で陽気なのではないかと思える状態で施設に入所して、楽しそうに毎日を過ごしてくれました。

私がこの頃を『母の第二の人生の始まり』と呼んでいるのは、このような経過があったからです。

2020年7月16日 (木)

写真がない

最近は、2年前の母の様子を記事として振り返ることが多くなっています。

2018年7月は病院から介護老人保健施設に移り、心身ともに絶好調になりつつある時期でした。

『母の第二の人生の始まり』と言ってもいいかもしれません。

この時期の心配とすれば、足がむくみ始めてきたことと、お尻にできた傷くらいでした。

その他は体調もよさそうで、精神的にも安定していて新しい生活にも馴染んでくれました。

このころは毎日会いに行くのも楽しみでした。

この時期があったので私は、このブログを始めたといっても過言ではありません。

ただ、少し残念なのは、この時期の母の写真がほとんどないことです。

元々、あまり写真を撮る習慣がないのですが、この時期なら母の良い表情がたくさん撮れただろうに、と思います。

2020年7月15日 (水)

むくみ

母は若いころから腎臓が悪く、そのためかむくみが出やすかったようでした。

ようでした、というのは太っているのかむくんでいるのか、外目では分かりにくいからです。

近所のクリニックに通っていた85歳ころは54~55キロくらいの体重で、その中にはむくみもかなり含まれていたと思います。

そのクリニックから総合病院を紹介されて、しばらく通ううちに母の体重は40キロ台に落ちていきました。

その時に先生は「まだむくみがあるので、もう少し落とせるでしょう」と言っていました。

90歳で足を骨折した時には43キロくらいで、むくみはあまりなかったと思います。

ある程度痩せてくると、むくみが出ると分かるようになってきます。

当時むくみが出るときは、くるぶしのあたりから膨らんできましたので、足のチェックが欠かせませんでした。

ところが2018年11月に入院した時は足がパンパンにむくみ、その上、顔までむくんでしまいました。

その入院時に心不全と診断されました。

その後一年、周期的にむくみが出ましたが、徐々に上半身のむくみが優勢になっていきました。

専門的なことは分かりませんが、上半身のむくみは主に心不全から来ているのかなと理解していました。

最後の入院時、足のむくみはすぐに治まりましたが、上半身のむくみはなかなか取れず、亡くなった後も手指は太くなったままでした。

2020年7月14日 (火)

花の名前

今、ウチの近所の公園にアガパンサスが咲いています。

また、ウチのベランダにはキルタンサスの鉢植えがあります。

他にもゼラニウムやオリズルラン、クレマチスなどの鉢植えもあります。

以上、あまり聞きなれないカタカナの花の名前ですが、私も最近まで知らなかったものばかりです。

私が若いころに知っている花の名前と言えば、梅とか桜とか誰もがわかるものくらいでした。

逆に母は花が好きで、庭につつじを植えて育てたり、鉢植えの花の世話をしたりしていました。

その母が高齢になり介護が必要になってから、それらの世話は私がすることになりました。

時々新しい花を買ってくると母は喜んでくれて、花を摘んでテーブルに飾ったりしていました。

私は母の喜ぶ顔が見たくて、ホームセンターで花を見ているうちに花の名前を知るようになりました。

また、いつの間にか花によって季節の移り変わりを知るようになっていました。

これは母のおかげとお礼を言うべきかもしれません。

それとも年齢のせいでしょうか。

2020年7月13日 (月)

入所当初の忙しい日々

母が入所していた施設では月曜日と木曜日に入浴をすることになっていました。

また、入所当初はリハビリが週に5回あり、その他にちょうど夏祭りの行事のための盆踊りの練習がありました。

2年前の今頃、退院したばかりの母にとっては、かなりハードなスケジュールの日々だったと思います。

それでも母は意識もはっきりしてきて、体力的にも回復してきたこともあって、楽しそうに過ごしてくれました。

振り返ると、少し忙しいくらいの方が元気も出て、生き生きとしていたように思います。

反対に、入所期間が長くなるとリハビリの回数が減らされます。

また、施設の景気の問題なのか、いろいろな行事が縮小されていったように感じました。

そのためか施設での母の生活は、段々と暇を持て余すようなことが多くなっていきました。

やはり高齢者も活動的な日々を送れれば、生き生きと元気でいられるように思います。

逆に暇な日々を送ると、つい居眠りをしたり認知が怪しくなり、体力と気力が失せていって、老化がより加速するように感じました。

入所当初の母は本当に明るく元気で、何事にも積極的にチャレンジして、面会時には楽しそうにいろいろと話をしてくれたものでした。

2020年7月12日 (日)

リハビリと入浴

2018年7月12日は木曜日でした。

母が入所していた施設では木曜日は入浴をすることになっていました。

母に話を聞くと、この日は午前中にリハビリをして、午後に入浴をしたとのことでした。

リハビリは両足の間でゴムまりを潰す運動とモモ上げ、そして手すりを掴んでの歩行などをしたようです。

このころは大体このようなメニューだったのだと思います。

リハビリは最初の三か月が強化期間とかで週に5回ほどあり、母の生活のリズムとして大切なものになっていました。

また、入浴は全身がドラム缶に入るような感じで、違う人が頭を洗ってくれるとか。

とても気持ちがよかったと喜んでいました。

そしてお風呂から帰ると、3時のおやつを食べたということでした。

入所して一週間ほど経過して、生活に慣れてきたとともに、体力も付いてきて少し余裕も出てきたようでした。

最後に母の部屋に行って着替えをしました。

上半身の着替えは一人でできますし、車椅子とベッドの移動も、だいぶ楽に出来るようになってきていました。

2020年7月11日 (土)

面会の仕方

2年前のことを書くために、当時の記録や音声を改めて見聞きしています。

そうすると当時とは違う印象を持ったり、より理解が深まったりすることがあります。

当時は私が不慣れなことも多く、また母の体調の心配もあって、周囲が見えていなかったこともあったと思います。

逆に、最初からほとんどパターンが決まっていたものもありました。

それは面会の時間と面会中の行動です。

母は認知症ではなかったですが、時間や場所、人の区別などはよくわかっていないことが多いようでした。

そのため、面会に行く時間は基本的に午後4時と決めていました。

また、面会に行ったら9Fに移動して話をして、母の部屋のフロアに戻ってから部屋で着替えて、洗濯物を持って帰る。

そういう面会の仕方を、ほとんど入所の当初から始めていたことが当時を振り返ることでわかりました。

実際に元気な時でも時間の理解は怪しいことが多かったです。

その点で、決まった時間に行くことは母にとって少しは手助けになっていたと思います。

2020年7月10日 (金)

お習字の時間です

2018年7月10日、私の姉が初めて施設に母の面会のために来てくれました。

母が施設に入所して、ちょうど一週間になっていました。

施設での生活は病院とは違って忙しく、車椅子に乗っていることが多いこともあって、母はこの日も少し疲れ気味に見えました。

それでも姉が来てくれたことで、母はいつも以上に一生懸命、楽しそうに話をしてくれました。

この日は、いきなり「お習字の時間です」と言われて驚いたこと。

「筆が良くなかった」と言いながらも「いきなり書いた割には上手く書けた」と大笑いしながら自画自賛していました。

その他の話題としては、リハビリをして「腕にも大分筋肉がついてきた」こと。

他にも「おやつにどら焼きが出た」「ドラム缶のようなお風呂に入った」「食事はまぁ美味しい」など、姉に話していました。

帰りに母が書いた習字の作品を見ましたが、久しぶりとは思えないほど良く書けていました。

おそらく母にとって毛筆で書くのは10年ぶりくらいかと思いますが、腕に力が戻ってきたしっかりとした字でした。

確かに自画自賛するのもおかしくない出来栄えでした。

今後も、このような感じで施設での生活を楽しんで欲しいな、と思いました。

2020年7月 9日 (木)

順調な滑り出し

母は施設に入所してからも、元気で陽気に過ごしていました。

ただ、母はその時すでに90歳で、一か月以上入院していました。

病院では食事やトイレ、リハビリ以外は基本的にベッドで過ごしていたわけです。

それに対して、施設では夜眠れなくなるからと昼寝も許されず、疲れを感じることが多かったようです。

その上、ほぼ一日中車椅子に座っているので、お尻が痛くなり足もむくみ始めました。

もちろん、フロアに看護師さんがいますので、お尻の傷も足のむくみもチェックしてもらえるので安心でした。

また、ベッドサイドにテレビを置いてもらって大相撲を見せましたが、やはり疲れるようでほとんど寝ていました。

それでも、リハビリが順調だということで、車椅子への乗り降りがかなりスムーズにできていました。

また、食事もおいしいと言っていて、いつも完食しているとのことでした。

不安や心配はありましたが、ひとまず順調に生活が送れている感じではありました。

2020年7月 8日 (水)

止めていたインシュリン注射

2018年7月に母は病院から施設に入所しました。

入所後も元気で陽気に過ごしていましたが、気になる点もありました。

母は70代から糖尿病で、食事の前にインシュリン注射を打っていました。

ところが、施設入所時には注射を止めていて、その後は2度と打つことはありませんでした。

病院の主治医の判断で止めたわけですし、退院時の血糖値は問題なかったという説明でした。

その後の血糖値は通院でも測らなかったので私には全く分かりませんし、病院や施設の食事では、それほど血糖値が上がることはなかったかもしれません。

ただ母には糖尿病の持病があり、最後は心不全で亡くなりました。

一般的に糖尿病が悪化すると、心臓や血管に支障が出ることもあるといいます。

母の場合の糖尿病と心不全の関係は分かりませんし、別にそれを問題視するつもりもありません。

ただ、インシュリン注射を続けていたらもっと長生きできたかな、とは今でも考えたりします。

母が亡くなった後も別の選択肢ならどうだったか、と考えることがいくつかあります。

このインシュリン注射もそのうちの一つです。

2020年7月 7日 (火)

「何かというとご飯を食べる」

母が施設に入所した翌日、2018年7月5日は15時45分に面会に行きました。

母は「ここは広くて迷子になりそうだ」と一日過ごした感想を言ってくれました。

この日は午前10時からリハビリをしたとのことでした。

「リハビリルームも広い」とか。

内容はこれまでの復習のようなことで「結構できていますね」と、女性の先生が言ってくれたそうです。

「前の先生がうるさかったから、良くできているんだね」と母の見解です。

またこの日は木曜日で、月曜日とともに入浴が予定されている日でした。

お風呂の前後には看護師さんが、念入りに肌を見てくれて、手入れをしてくれたとのことでした。

その他のことで母が一番熱心に話したのが食事のことでした。

「何かというとご飯を食べる」「短い時間に食事、食事で大丈夫かと思う」と言っていました。

確かに三度の食事以外におやつもあって、頻繁に何かを食べている印象だったようです。

それでも「おかずが少ないけど、味付けが凝ってる」「こちらの方が美味しい」などとも言っていました。

この日は、慣れない場所に戸惑いながらも記憶もしっかりしていて、落ち着いた声で話をしてくれました。

入院していた前日までと違って、忙しさで疲れているはずですが、変わらずに元気でしたので安心しました。

2020年7月 6日 (月)

健康保険が使えない

2018年7月4日に母は、介護老人保健施設に入所しました。

私は母を家で介護していた時は、高齢者を集めて世話をするということに良い印象を持っていませんでした。

また、母もそういった施設に行くことは嫌がるだろうと思っていました。

ただ、骨折入院後に家に連れて帰って失敗していることと、母の状態がすっかり元気になり、生涯でも一番陽気ではないかと思えること。

そういった理由から、今回は施設に入る方が良いのではないかと考えました。

施設への入所日に、母が生活をするフロアの担当医師と話をしました。

その中で引っかかったのが『介護老人保健施設では健康保険が使えない』ということでした。

その医師の話では、特養では健康保険が使えますが、老健では使えないとのことでした。

始めて知ったことでしたが、それでは持病持ちの母が、病院で診察してもらう事態になったらどうするのか、ということが当然気になります。

その時は確認しませんでしたが、その後母は当然何度か病院のお世話になりました。

結局、ほとんど施設が負担してくれましたが、こういうことは利用者にならないと分かりません。

介護保険と健康保険は違う制度だということでしょうが、どんな制度も簡単で分かりやすい方がいいですね。

2020年7月 5日 (日)

寄せ書きのカップ

2018年7月4日に母は退院して、介護老人保健施設に入所しました。

5月24日に昏睡状態で入院し、40日ほど病院で過ごしました。

4月2日に足の骨折で入院した時も40日入院して、家に帰りました。

この時は入院中徐々に元気がなくなり、帰宅した後もずっと元気がないままでしたが、今回は全く逆でした。

今回は、意識が回復するにつれて、元気も出てきて体力がついてくるという好循環でした。

私は当時、母が元気をなくしたのは精神的な問題が大きいのだろうと考えていました。

それというのも、血液検査などでも特別に悪いものが見当たらなかったからです。

そのため、今回の入院時には精神的なケアもお願いして、抗うつ薬も服用させてもらいました。

ですから、母が入院中に元気で陽気になったのは、薬の効果があったことは確かだと思います。

しかし、今回当時の記録や音声を振り返ってみると、別の原因もあるだろうことに気が付きました。

それは、意識が回復してからの看護師さんたちとのやり取りや、リハビリの先生の暖かい声掛けがとても大きかったのだと思いました。

この後、施設に移ってからも母がリハビリが大好きだったのは、この時の先生の指導があったからだと思います。

そして、看護師さんたちはいつも気軽に母に話掛けてくれましたし、退院時には母が使っていたカップに寄せ書きをしてくれました。

皆さんのおかげで、母は退院前の数日、いつも明るく元気でした。

2020年7月 4日 (土)

「愉快な人ばかりで良かった」

2018年7月4日水曜日、いよいよ退院して施設に移動です。

午前10時に病室で面会。母は、すでに私服に着替えてトイレにも行き、ベッドに横になっていました。

私服になると「おしゃれだ」「似合う」と、看護師さんたちに言われたと笑顔でした。

この日も暑い日でエアコンが効いているため、カーディガンを着ると「感じが違う」とも看護師さんに言われたとか、元気で良く喋りました。

母がトイレに行っておきたいと言うので看護師さんを呼ぶと、予想以上に軽くベッドから車椅子に移りました。

「腕の力がついたね」と声をかけると、母は「先生のおかげですと言っておいた」とリハビリの先生にお礼を言ったことを話してくれました。

また、家で母の介護をしていた当時は、私が薬の管理をしていました。

ただ、現在の状況は全く把握していませんので、看護師さんに薬のことを尋ねると、今はインシュリンは使っていないが、血糖値は安定しているとのこと。

他には、ステロイドと精神安定薬はこの時も使っているとのことでした。

この当時の元気さや陽気さは、『抑肝散』の効果が多少はあったのではないかと思います。

いよいよ移動ということで、ずっと付けていたリストバンドをカットしてもらいました。

「良かったね」「おめでとう」「元気でね」ナースステーションでは、看護師さん一人一人から暖かい声をかけていただきました。

それらの言葉に母は、「愉快な人ばかりで良かった」と笑顔で答えていました。

2018年7月4日

2020年7月 3日 (金)

「私より10も若い」

2018年7月3日も午後3時30分に面会に行きました。

この日も母はベッドに仰向けに寝ていましたが、トントンと叩くと目を開けました。

「大事な日に来ないかと思った」昼寝をしたことで日付が変わって、もう4日になったと勘違いしたようでした。

「夜中にいろんなことを話していた」と、看護師さんたちと話をして、移動の心構えもできたように感じました。

また、この日も午前中にリハビリをやったとのことでした。

「パズルが一番難しい」リハビリの総集編のようなもので、今日はパズルもやったと教えてくれました。

リハビリに行く途中のエレベーターで、母の手術に立ち会ったという看護師さんから話しかけられたそうで「明日移動できて良かったですね」と言われたと、笑顔で話してくれました。

持って行った老眼鏡で新聞を読んでもらうと、掛けないよりは良いということで、施設にも持って行くことにしました。

その新聞のある記事を見て「誰が死んだの?」と尋ねてきました。

「歌丸さん」

「あら、私と同じくらいかな?」

「80だって」

「私より10も若い」こんなやり取りをして、大笑いしていました。

この日も元気で明るく、移動についてもこれまでのソワソワした感じはなく落ち着いていて、これならば大丈夫だと安心しました。

2020年7月 2日 (木)

「おしゃれする時に困る」

2018年7月2日午後3時30分、病室に面会に行きました。

この日の母は午前中にお風呂に入り、午後はリハビリをして、少し前にベッドに横になったところだとのことでした。

この日のリハビリでは、いつもの運動の他に「積み木みたいなものを5~6回やった」と言って、幼稚園以来だと大笑いしていました。

手すりに沿っての歩行は「以前より良くなった」と先生に褒められたので、「先生のおかげです」とお礼を言ったと笑っていました。

この日も元気で陽気で良く喋ってくれましたが、一つこだわっていることがありました。

「ちょっと考えた、夏服のこと」「タンスを一度見に行かなきゃいけない」「おしゃれする時に困る」と言いながら大笑い。

服装の心配もあるのでしょうが、一度家の様子を見に帰りたいという意思表示だったかもしれません。

このころ、はっきりと家に戻りたいという言葉は聞きませんでしたが、少しはそんな気があるようにも感じていました。

そこで、前もって家から持って行っていた夏服が病室のタンスに入っていたので見せてあげました。

「あら、いいじゃない。あることが分かれば安心だ」と、ひとまず安心してくれました。

この日は、新しい環境に移動することにも前向きなようで、こちらも安心しました。

2020年7月 1日 (水)

「やりたくない」

2018年7月1日は暑い日で病室の窓が開けてあり、生暖かい風が入ってきていました。

母はベッドに仰向けに寝てラジオを聴いていました。

この日も元気で、冷たい水を渡すと美味しそうに飲んでから一息ついて、話し出しました。

「それでさ、やっぱりさ、眼鏡がテレビの前にあるけど……」突然、何の話かと思いました。

「何をやらされるか分からないから」「全然見えないと、話にならないから」

どうも、7月4日に移動する施設での生活のことを心配して、眼鏡が必要だと思ったようです。

その他にも「4日は朝から行くの?」「普段は何をしているの?」など、新生活のことで頭がいっぱいのようでした。

この日は日曜日でリハビリもなく、時間があるのでいろいろと考えてしまうのでしょう。

一番気になったのが、「いつの間にか車椅子を自分で動かしている人がいる」ということでした。

少し前から食堂で一緒に食べる人の中に、車椅子を一人で動かしてくる人がいるようでした。

母はその人のことを、自分が今度行く施設から来ている人だと思い込んでいるような節がありました。

「邪魔でしょう?」「車椅子を動かすのは、やりたくない」

このころの母は何事にも前向きで、楽しそうにしていることが多かったのですが、何故かこのことだけは頑なでした。

「やりたくない」

今でもその理由はよくわかりません。

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