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2020年5月

2020年5月31日 (日)

久々の会話

食事もあまり取らずに、人を避けるような動きをしながら寝ていたのが2日続きました。

そのような状況の中、2018年5月31日は不安一杯で面会に行きました。

この日は、タオルケットを掛けて枕をお腹に乗せて寝ていました。

眠っていると思い、しばらく左手を握っていると、何か話しました。

聞いてみると、水を飲みたいとのことでした。

看護師さんが茶色い液体の入ったコップを持ってきてくれましたが、母は目が開かずコップを持とうとはしますが、なかなか持つことができませんでした。

やはりあまり食べていないようで、そのためかうまく体を動かせないようでした。

先生の話では、点滴も自分で外したりするので、していないとのことで、栄養不足なのは確かでしょう。

ただ、この日は精神的には落ち着いていて、会話ができました。

「今日は5月31日で、明日からは6月だよ」と教えると、「そう、早いねぇ」と、か細い声ながらも答えてくれました。

かみ合った会話は骨折で入院していた時以来で、久しぶりでしたが、ここでは家の花のことを話す程度に留めておきました。

意識は少し戻ってきたように思えましたが、しっかり食べられるようになるかどうか、が最大の心配になりました。

2020年5月30日 (土)

左手を挙げる

2018年5月30日の面会は微妙でした。

前日は、また精神的に難しくなったような感じがあり、不安になりました。

この日は、タオルケットを落として何も掛けずに寝ていたので掛けてあげると、また顔を隠すように自分で頭までタオルケットを被りました。

「大丈夫だよ」と声をかけ顔を出してあげると、そのままにして寝ていました。

今日も難しいかなと思いましたが、看護師さんを呼んで話をしました。

聞いてみると、昼の食事はおかゆを3口ほど食べただけで薬も拒絶したとのこと。

それでも、車いすに乗ってお風呂に入って来たとのことでした。

ずっと寝たままではないことを知って、ひとまず安心しました。

「水分と栄養を摂ってゆっくりしてね」と言いながら手を握ると、今日はうなずいていました。

また、看護師さんと話をしていると、寝たまま左手を挙げてきたので握ると、握り返してくれました。

この日は目は開かず無言でしたが、話は理解していて精神的にも問題はなかったようでした。

2020年5月29日 (金)

一進一退

2018年5月24日に脱水で入院した母は回復して、26日と28日には話が止まらないくらい元気でした。

5月29日に看護師さんと話したところ、夜中に独り言を言っていることも多く、昼夜逆転することもあるようだとのことでした。

その日はリハビリをしたとのことでしたが、面会に行ったときは寝ていました。

声をかけたり、体に触れても反応はありませんでした。

ただ、タオルケットを被ったり、人を避けるような動きをしたので、人が来ていることは分かっていたのか?

それも意識的なのか、眠っていたのか微妙な動きでした。

しばらく見ていても、起きて話をする気配がないので「また来るよ」と言って手を握っても反応は無し。

また少し精神的に難しい状況になったのかな、とも思いました。

2020年5月28日 (木)

順調な回復

2018年5月28日、前日は話ができなかったので、心配しながら面会に行きました。

この日は主治医と面談をする予定があり、その前に病室に行くと目を開けていました。

とても元気に話してくれましたが、タンスの中の上着のことなどを気にしていて、状況をどこまで理解しているのか、という感じでした。

とにかく機嫌も良く元気そうでしたので、ひとまず安心しました。

母と話をしている途中で、先生と話をすることになりました。

先生が言うことには、脱水は回復し、腹痛は問題なし、食事も完食に近いとのこと。

今日もリハビリの担当が来て、順調に回復していますということでした。

こちらからの要望は、体力の回復と精神的安定で食欲が出るようにと伝えました。

先生は、とりあえず1週間様子をみましょうとのことでした。

その後、病室に戻ると「相撲をとうとう見なかった」「昨日、五木さんが何かやった?」など、母は少し状況が分かっているようなことも話していいました。

一時期の昏睡状態は脱して、もう大丈夫かと思い安心しました。

「水分と栄養をよく摂るようにね」と伝えると、母は笑っていました。

理解できていたかどうかは、分かりませんでしたが。

2020年5月27日 (水)

拍子抜け

今日も2年前のことです。2018年5月27日の面会時は静かに寝ていました。

点滴が外されていたので、状態は良化しているのでしょうが、この日は話しかけても無言でした。

また、ベッドの柵が紐で固定されていたので、おそらく握って引き抜いたりしたのでしょう。

前日も手をしきりに動かしていたので、目が覚めた時はいろいろと動いていたのだと思います。

結局この日は「また来るよ」と言って手を握っても、ほとんど反応はありませんでした。

前日は、ずっとハイテンションで喋っていたので、もう大丈夫かと思いましたが、この日は少し拍子抜けしました。

ところで前日の26日は、母が意識を回復し元気を取り戻してくれたので、本当にうれしかったことを覚えています。

骨折で入院して以後、徐々に元気がなくなっていましたから、驚くと同時に奇跡が起きたようにも感じました。

いくつか書き残しておきたい出来事があって、このブログを立ち上げたわけですが、2018年5月26日のことは、そのうちの一つです。

2020年5月26日 (火)

2018年5月26日、無邪気

今日も昨日に引き続き、2年前の5月26日のことになります。

前日に意識は回復していたとはいえ、不安と心配を抱えてこの日も病院に向かいました。

病室に入る前に昨日の夜から食事が出ていることを知りました。

少し安心して病室に入ると、ベッドで仰向けに寝ていましたが、目を開けていました。

胸のあたりで、掛けているタオルケットをしきりに折り紙をするように手で折ろうとしていました。

声をかけると、すごい勢いで話し始めました。こんなに元気に話をする母は初めて見ました。

ただ、内容は「天井に何人か人がいる」とか「今日は暑い中たくさん歩いて疲れた」などというものでした。

夢で見たのか、過去の記憶がよみがえったのかわかりませんが、とにかく楽しそうに話してくれました。

それでも「昨日体を洗ってもらって、お尻の傷が2つあると言われた。」などとも言っていました。

見ると確かに肌がスベスベしていたので、実際に体を拭いてもらったのでしょう。

点滴を3日間したおかげか、かなり意識も回復してきたようでホッとしました。

いずれにしても昨日までの元気のない母が突然、元気で無邪気に、そして一生懸命に話をしてくれました。

話の内容はほとんど、とりとめのないものでしたが、ずっとこのまま現実に戻らずに楽しそうにしているのも悪くないかな、とも思いました。

2020年5月25日 (月)

入院の翌日

昨日の続きで、入院の翌日の話です。

2018年5月25日、いつ病院から呼び出されるか不安の中で一夜が明けました。

お昼を過ぎても病院からの連絡はなく、午後3時の面会時間を待って病院に行きました。

どのような状況か不安で心拍数や血圧を上げながら、病院に着きました。

病院のエレベーター前で偶然、骨折の手術をしてくださった先生と会い挨拶をしました。

先生は昨日、今日と母を見てきたようで「昨日よりかなり良くなっていますよ。目を動かしたりしています。」と、教えてくれました。

これを聞いて、ひとまずホッとしました。

病室に入る前に看護師さんが、朝、母がナースコールを何度か押していたと話してくれました。

それから病室に入り、呼びかけると聞こえているようでした。

「脱水でまた入院することになって、ごめんね。」と言うと、頷いたようでした。

浴衣の胸元を閉じようとしたり、タオルケットを被ろうとしていたので「寒い?」と尋ねるとやはり頷きました。

また、布団がベッドの柵に掛けられていたので、看護師さんに訊いてみると、家で寝ているときと同じようにベッドの柵から手や足を出すので、危険なためとのことでした。

とりあえず意識が戻ったのは一安心でしたが、精神状態は家にいるときと変わらないのかな、と感じました。

2020年5月24日 (日)

再び入院

2年前の今日、2018年5月24日(木)、母は再び入院しました。

この日は朝6時ごろ、「お腹痛い、お腹痛い」という寝言のような声に気づきました。

トイレや水を尋ねても拒否するので、訪問看護の看護師さんに連絡して来ていただくことになりました。

その間は手足をばたつかせて、ベッドの柵にぶつけたりして乱暴に動いていました。

その後、看護師さんの判断で介護タクシーで病院に連れていくことにしました。

介護タクシーが到着するころには、今度は母は全く意識がなくなり、呼びかけたり頬を叩いても反応しませんでした。

結局、骨折でお世話になった病院に、再び入院することになりました。

先生の話では、脱水症状が進んでいて、とりあえず点滴で様子を見るが、年齢を考えると急変がないとは言えないとのこと。

腹痛についてはCTを撮ってみるとのこと。

また、手足をばたつかせるような行動は身体内部の不調によることも多く、その際は重篤なことが多いらしい。

そして、この時の母の体重は37.5kgとのことでした。

これは骨折入院前、つまり2か月ほど前よりも4~5kgは減っていました。

それだけ、水分や栄養が足りなくなっていたようです。

この日の病院からの帰り道は「もうダメかもしれない」そんな気分でした。

2020年5月23日 (土)

下の世話

今日も2年前のことです。

2018年5月23日、母の状態はさらに元気がなくなり、食事とトイレ以外は寝ていました。

当時は食前にインシュリンの注射をしていましたので、本人も食事の大切さが分かっていて、食事は少しずつでも食べていました。

この日はお昼前に「トイレに行きたい」というので連れて行くと、すでにオムツの中でウンチが背中までべったりと付いていました。

こういうことは初めてでしたので、何をどうしたのかよく覚えていませんが、ビニール手袋とタオルをたくさん捨てたことだけは覚えています。

私が母の下の世話をしたのは、この時が最初で最後でした。

そういう意味では私がした母の介護は、この時期以外は比較的楽な方だったかと思います。

その後、訪問看護の看護師さんが来てくれましたが、その間も寝たままでした。

結局、この日も夕食後、間もなくベッドに入り、しばらくはシクシク泣いているようでした。

2020年5月22日 (金)

栄養不足

今日も引き続き2年前のことです。

2018年5月22日も母は元気がなく、食事とトイレ以外はほとんど寝ていました。

前日に決まった訪問リハビリをしたり、長女が会いに来てくれたりしましたが、感情の起伏もなく、日に日に元気がなくなる感じでした。

この2日前には突然大きな声で泣き出しました。

この日は夜、寝床に入ってからシクシク泣いていたり、「お腹痛い」などと寝言のように言ったりしていました。

母のまるで子供のような振る舞いに、当時私は精神的な問題を疑いました。

ただ、やはり主な原因は、栄養不足による体調不良が大きかったのだろうと今では思います。

というのは、昨年施設でも母は認知が怪しくなり、精神的にも不安定になった時がありました。

その原因は血液検査の結果、塩分不足ではないかと言われました。

昨年の塩分不足での状況を見て、2年前も塩分か何かの栄養素不足だった可能性が高そうです。

2020年5月21日 (木)

体調不良

昨日の記事の続きになりますが、母が大声で泣いた翌日の5月21日は訪問看護をお願いした方々との会議がありました。

その日も母は食事以外は寝ていて、ずっと元気がありませんでした。

当日いらした看護師さんも、血圧や酸素量を測ってくれましたが特に異常はないとのことでした。

前週の診察でも大きな異常は見つからず、塩分、水分、カリウムなどが不足気味という結果でした。

以上のようなことから、当時私は、母の不調は精神的なものが大きいと考えていました。

ただ、今思うと根底にはやはり体調不良があって、検査に表れない栄養素の不足などの原因があったかもしれません。

というのも、毎日ボーッとしている中でも、一日の最後にはお休みの挨拶で、手を握りながら「また明日ね」というと「今日はありがとう」と返事をしてくれた日もあったからです。

起きているときの意識に濃淡があるようで、状況を理解できれば精神的にも落ち着いている感じもありました。

とりあえず、翌日には訪問でリハビリをしていただくことになりました。

2020年5月20日 (水)

2018年5月20日、泣き出す

2年前の今頃、母は足の骨折入院から退院して、家で介護生活を送っていました。

退院前から元気がなく、それは退院後も同じで、食事以外は寝ているか、椅子に座ってボーッとテレビを眺めているようでした。

聞いてみると、痛いところはないが、何となく気分がすぐれないとのこと。

食事も以前は出されたものはほとんど全て食べていたのが、退院後は半分程度しか食べないようになりました。

2年前の今日、2018年5月20日の夕食も、3つあった豆腐を1つ残しました。

そこでつい「これくらい食べれば」と言うと、母は手づかみでそれを口に入れ、そのままテーブルに突っ伏してしまいました。

忘れないうちに食後の薬を飲ませようとすると手で遮り、突っ伏したまま子供のように大きな声で、ワンワン泣き出しました。

それまでの元気のなさが嘘のような大きな泣き声に、私は驚いてオロオロするばかりでした。

2020年5月19日 (火)

豆飯

先日、テレビを見ていたら俳句の番組が始まりました。

面白そうでしたのでしばらく見ていると、お題は「豆飯」ということでした。

それを聞いて、母が時々豆御飯を作っていたことを思い出しました。

ほとんどがグリーンピースでしたが、そら豆の場合もありました。

母は豆御飯が好きだったようです。

私は自分で豆御飯を作ったことはありませんが、自分が子供の頃のことを懐かしく思い出しました。

そして、豆御飯は季節の食べ物で、俳句の季語としては夏だということをこの番組で知りました。

2020年5月18日 (月)

減塩

母は若いころから腎臓が悪く、血圧を下げるものなど多くの薬を飲んでいました。

同時に、食べるものにも気を使っていて、一番考えていたのが塩分を摂りすぎないことだったように思います。

今でこそ、さまざまな食品に減塩の物がありますが、以前は少なく割高でした。

それでも母は早くから減塩しょうゆを使い、料理の味も薄めにしていました。

それ以外にも酢の物を好んでいたのは、減塩のためもあったのだろうと思っています。

さて、このように塩分を控えるという母の意識は、はたして効果があったのでしょうか?

結果として、92歳まで元気で楽しく生きることができましたから、それなりに効果はあったと信じています。

2020年5月17日 (日)

12日間の介護

昨日に続いて2018年5月のことです。

ゴールデンウイークの頃から母は、精神的にイライラしたり元気がなくなったりしていたので、私の方から主治医にお願いして、おそらく先生が考えていたよりも早く退院させてもらいました。

しかし、家に戻ってからも、ずっとボーっとした感じで元気がありませんでした。

ただ、当時は食事の前にインシュリン注射をしていましたから、食事を規則正しく摂り、量もある程度食べてもらわないと睡眠中の低血糖も心配でした。

また、トイレに行くのも車椅子代わりのキャスター付きの椅子で連れて行っていました。

ですから、夜中もトイレに呼ばれれば、起きなければなりませんでした。

母を家で介護したこの時期は、結局わずか12日で終わりましたが、夜もあまり眠れずに、ひたすら心配と不安、疲労で過ぎた12日間だったように思います。

ただ、この時期のあと、しばらくして母は奇跡的に復活し、第二の人生を楽しんでくれました。

この時期がなければ、このブログを書くこともなかったかもしれません。

2020年5月16日 (土)

2018年5月

2018年5月は、母と私にとって激動の月になりました。

12日(土)骨折から退院

14日(月)元気がないため受診

24日(木)意識を失くして再び入院

母は12日から24日まで自宅で過ごしたわけですが、その間は食欲もなく、元気もなく、ほとんど寝てばかりでボーっとしていました。

24日に母が入院した時に私は「もうだめかもしれないな」正直そう思っていました。

後にこの頃のことを母に尋ねると、少しは覚えていたようで、「あの頃はおかしかった」と振り返っていました。

結局、2018年5月24日に意識を失くして入院した母は、その後、家に戻ってくることはありませんでした。

2020年5月15日 (金)

南蛮漬け

新型コロナ騒動は生活に様々な影響を及ぼしています。

最初のころはトイレットペーパーが店頭から消えたり、いまだにマスクが足りないなどの品不足もその一つです。

私も品不足は心配で、賞味期限の長い保存食をネットで注文したりしました。

保存食といえば、代表的なものは缶詰ですが、缶詰で探すと種類が限られてしまいます。

例えば魚では、サバ、イワシなどはたくさん見つかります。

魚缶を探しているうちに「保存ができるアジはないのかな?」と思って調べてみました。

ありました。

缶詰ではありませんが、冷凍の南蛮漬けでした。

味見のために注文して、早速食べてみました。

これまで南蛮漬けが特に好きだったわけではありませんが、これはおいしかったです。

リピートでまたすぐに注文してしまいました。

考えてみると、母はこうした酢味のものが好きでしたので、早くにこういう食品を見つけていれば喜んだかなとも思います。

自分も年を取って、味覚が母に似てきたのでしょうか?

2020年5月14日 (木)

さわやかな日

今日は朝から晴れて日中は、かなり暑くなりました。

それでも湿気が少なくて、さわやかな一日でした。

このような日は今でも、母を散歩に連れて行ってあげたいな、と思います。

実際に散歩したのは、最後の3週間で3度だけでした。

もっと早くから考えてはいましたが、なかなか実行できませんでした。

理由としては、暑さや寒さなどの気候の問題、母の体調や精神状態などもありました。

ただ、最大の問題は私が思い切れなかったことだと思います。

当初、施設での生活や規則などに遠慮してしまったことや、母に断られたらどうしようかと考えてしまったこと。

逆に、母が外を気に入って、家に帰りたがっても困るという気もしました。

高齢者の介護は永遠に続くわけではなく、いつ局面が変わったり終わりが来るかもわかりません。

良かれと思ったことは躊躇せずに実行しないと、後悔するかもしれないという実例です。

2020年5月13日 (水)

退院後、すぐ診察

昨日に続いて2年前のことです。

骨折入院から退院した母は家に戻ってからも元気がなく、2日後にはまた診察してもらうことになりました。

家で測定した血圧は低く、脈拍も45しかないので病院に連れて行ったわけです。

入院前の母の脈拍は大体60~70の範囲でしたから驚きました。

病院での検査では、心電図には異常なく、血液検査も目立った異常はないとのことでした。

私はこの時、体調というよりは精神的な部分が大きいのだろうと考えていました。

ただ、塩分、水分、カリウムが不足気味だという先生の話はありました。

すべてが終わった今、冷静になって考えてみると、この時の母は検査項目には表れないような問題が体調にもあったと思っています。

結局、身体的にも精神的にも元気のないまま退院した母は、再び入院することになるわけです。

2020年5月12日 (火)

骨折からの退院

2年前の今日、2018年5月12日に母は骨折での入院から家に帰ってきました。

結局、この後の母の余命は1年半ほどでした。

その1年半の間には、このブログを立ち上げようと考えるような出来事がいろいろと起こりました。

それは今後少しずつ紹介するとして、この時の退院はこちらから先生にお願いして、早めに退院させてもらいました。

その理由は5月の連休ころから、母の元気が少しずつなくなり、認知も怪しくなりそうだったからです。

ただこれは失敗でした。

母は5月24日には再び入院することになります。

2020年5月11日 (月)

ヤクルト

母は晩年は便秘に悩まされることがありました。

昔はよくビオフェルミンという整腸の薬を飲んでいました。

そしていつの頃からか、宅配のヤクルトを飲むようになりました。

骨折で入院するまでは宅配のもので、施設に入所してからは時々コンビニで買っていってあげたものを飲んでいました。

少し心配症な母は独特の飲み方をしていました。

それは、冷蔵庫から出したヤクルトをしばらくテーブルに置いておくのです。

冷たいまま飲むと、お腹を下すからという理由でした。

便秘予防とはいえ、冷たい飲み物はあまり好きではないようでした。

2020年5月10日 (日)

光陰矢の如し

今日10日は父の命日ですので墓参に行って花を供えてきました。

ちょうど半年前の2019年11月10日には、母を連れて介護タクシーで墓参をしました。

また、今日は母の日です。

昨年の母の日(2019年5月12日)には穴子寿司などを買って、施設で母と一緒に食事をしました。

思い出してみると、一年前の今頃の母は食欲も旺盛で元気でした。

半年前、一年前のことを振り返ると、本当に時間のたつのは早いものだと実感します。

2019年5月12日撮影

2020年5月 9日 (土)

せん妄

高齢者が入院すると「せん妄」という症状が現れることがあります。

そのことは、入院時に病院から渡された注意書きにも書いてありました。

母の場合は入院が長くなったり、ベッドにいる時間が多くなったりすると、壁やカーテン、天井などに「人がいる」と言うことが時々ありました。

こういうことも起きるので、高齢者の入院は体調以外にも心配が絶えません。

ただ、母は戸建ての家からマンションに引っ越してきたときにも、しばらくの間、窓から見える住宅の屋根に「男の人が3人いる」と言っていたことがありました。

この時は何を見間違えたか、いまだにわかりませんが、高齢者になるとこういうこともあるということは知りました。

2020年5月 8日 (金)

エアコンの風

今日はとてもさわやかな天気でした。

ただ、来週には蒸し暑くなるという予報が出ています。

これからは冷房が必要な日もあるでしょう。

母はどちらかといえば寒がりで、特にエアコンの風を嫌っていました。

冷たい風には敏感に反応していました。

施設での母の座席の場所には、ちょうど頭にエアコンの風が来ると言って、不満を漏らすこともありました。

そのために施設では、夏でもお気に入りのカーディガンを着て、それでも寒ければやはりお気に入りのちゃんちゃんこを着ていました。

カーディガン、ちゃんちゃんこは母のトレードマークのようになっていて、晩年は特によく似合っていました。

2020年5月 7日 (木)

幸せな人生

人は必ず死にます。そして残された者は寂しい思いをします。

亡くなった人の人生が幸せだったかどうか、残されたものが色々と考えます。

一般的には、社会的・経済的に成功すれば幸せな人生だったといわれるように思います。

では、母の人生は幸せな人生だったといえるのでしょうか?

私が最近思うのは、人生はそれなりに長く、その中で起こることのすべてが幸せであるわけはないということ。

ただ、その長い人生の中で幸せを感じる時間が数多ければ、それなりに楽しい人生だったと言えるのではないかということです。

つまり幸せという言葉は、人生という長い時間よりもどちらかと言えば短い時間に、より当てはまるのではないかと思っています。

母について言えば、施設に入ってからは明るく、楽しそうに日々を過ごしていました。

ずっと家にいたとしたら、平凡な日常を過ごし、そのまま人生を終えていたかもしれません。

それに対して、施設での母は生まれ変わったような笑顔を見せてくれました。

そんな姿を見ていた私は、間違いなく母は幸せな時間を数多く積み重ねることができたのだ、と確信しています。

2020年5月 6日 (水)

介護保険を使う

父は亡くなる前に三か月ほど入院していました。その途中で手術をして状況がよくなった時に、病院の勧めで介護認定を受けました。

父はそのまま病院で亡くなってしまいましたが、私が介護保険の使い方に触れたのはその時が初めてでした。

当時母は腰を痛めていて、外を歩くときには杖を使い、足が滑るからということでお風呂でも浴槽には入らない状態でした。

そこで父の死後間もなく、母のために入浴用の椅子を買おうと思い、母に介護認定を受けてもらいました。

結果は要支援1と出て、介護保険を使うことができ、一割負担で入浴用の椅子を買ったと記憶しています。

ただ、その後も母はお風呂に入ることはなく、身体をタオルでふくだけでした。

結局その椅子は使われることなく、家を取り壊すときに処分しました。

2020年5月 5日 (火)

スキンシップ

自宅で母の面倒をみていた当時、夜眠るときには挨拶とともに母の手を握ることにしていました。

確か2015年11月に貧血で入院した後、自宅に戻ってきてから始めた習慣だったと思います。

その時期に母は要支援から要介護に認定され、布団からベッドで眠るようになりました。

母のベッドの枕元には眠りながら聴くラジオと、のどを潤すための水筒を用意したものでした。

母がベッドに横たわり、ラジオのイヤホンを耳に入れたら、手を握りながら「じゃ、また明日」と一言。そして、部屋の電気を消す。

そんなことが2年半くらいは続きました。

おそらくきっかけは、母が初めて救急車で入院して、4日ほどで退院しましたが、その後まもなく88歳の誕生日を迎えたこと。

いつ何があってもおかしくない状況になったという思いが私にはあって、スキンシップを始めたように記憶しています。

今となっては母がどのように思っていたのかはわかりませんが、一日が無事に終わったという感じがしたものです。

2020年5月 4日 (月)

遺品の整理

「コレクション 俺が死んだら ただのゴミ」

以前ラジオでこのような川柳を聞きました。シルバー川柳というもののひとつでした。

私は物を整理したり捨てたりすることが苦手なので、この川柳が胸に刺さりました。

早いもので母が亡くなってから、もうすぐ半年になろうとしています。

やはり例によって、なかなか遺品を捨てることができません。

言い訳をするとすれば、母に関するものはまだ私にとってゴミではないということでしょうか。

ただ、自分のものはできるだけ処分しておきたいと思います。

いつゴミに変わるかわかりませんからね。

2020年5月 3日 (日)

かすれ声

去年の今頃のことでした。母の声がかすれ気味なことに気づきました。

施設のエアコンが冷房になって、風邪でも引いたのかと思いましたが、声以外に風邪のような症状がありませんでした。

施設の人たちを見ても、風邪が流行っているような感じもありません。

そしてほぼ同時に、私も声がかすれてきました。やはり他には風邪の症状はありませんでした。

ちょうど、その頃テレビでハウスダストが取り上げられていました。

私たちの症状からすると、どうもこれが怪しいのではないかと思いました。そこで、急ぎ大掃除をしました。

また、母が施設に入所以来、洗濯物は面会時に家に持ち帰って洗濯していましたので、めったにしない洗濯機の洗濯槽も掃除しました。

その結果、しばらくして私たちの声のかすれは治まりました。やはりハウスダストが原因だったように思います。

大事がなくて良かったですが、その後洗濯槽には気を遣うようになり、時々洗うようになりました。

2020年5月 2日 (土)

五月晴れ

5月に入って昨日今日と爽やかな良い天気が続いています。いわゆる五月晴れです。

昨年の今日、5月2日も夕方の面会時には良い天気になり、母が外を見ながら「いい天気、外に出たい」と言いました。

母を散歩に連れて行ってあげたいと以前から思ってはいましたが、体調や気候などの条件を考えるとなかなか踏み切れないでいました。

今頃を逃すと、すぐに暑くなってしまったり、母も時々入院していましたから実際に初めて散歩をしたのは、これから半年後の2019年10月のことでした。

結局、施設に入ってから散歩に出たのは3回だけでした。

いくつか後悔していることがあるとすれば、もっと早く元気なうちに散歩したかった、ということもその中の一つです。

2020年5月 1日 (金)

爪切り

母が足を骨折したのは、自分で足の爪を切ろうとして椅子から落ちたからでした。

その当時は、足の爪は切ってあげていたと思うのですが、その時は手の爪を切ったついでに足の方も自分で切ろうとしたようです。

母の爪は比較的固く、また、あまり深爪をしたくないようで、手の爪は自分で頻繁に切っていました。

施設に入ってからは安全を考えて、職員の方に切ってもらっていました。

それでも母は爪が伸びると気になるようで、私に「爪を切りたい」とよく言っていました。

職員の方にお願いしても、「後で」とか「今、忙しい」などと断られることもあったようです。

母も元気な時であれば問題ないのですが、精神的に不安定な時は断られると、非常に落ち込んでいました。

そのため、私は母に面会に行くときに、カバンの中に爪切りを入れていくようになりました。

そして実際に何度か切ってあげましたが、爪を挟んだだけで母は怖がって、まだ切っていないのに「痛い」と声を上げたことも何回かありました。

そんなことを懐かしく思い出しました。

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