母の好物(1)
母は糖尿病を患っていましたが、よく食べて、甘いものも好きでした。特にケーキのような洋菓子です。
母の入っていた施設では、毎月、誕生会が行われていました。その月に誕生日を迎える入所者の方をお祝いするわけです。その際には、ケーキとコーヒーが出たそうです。特に淹れたてのコーヒーがおいしかったと、毎月にように話してくれました。
ただ、母の誕生月は11月で、入所中二回誕生日がありましたが、二回とも入院中で自分のお祝いのケーキを食べることはできませんでした。
母は糖尿病を患っていましたが、よく食べて、甘いものも好きでした。特にケーキのような洋菓子です。
母の入っていた施設では、毎月、誕生会が行われていました。その月に誕生日を迎える入所者の方をお祝いするわけです。その際には、ケーキとコーヒーが出たそうです。特に淹れたてのコーヒーがおいしかったと、毎月にように話してくれました。
ただ、母の誕生月は11月で、入所中二回誕生日がありましたが、二回とも入院中で自分のお祝いのケーキを食べることはできませんでした。
母は、2018年7月に介護施設に入所しました。入院中に主治医の先生から退院後の受け入れ先を探すように言われ、いくつか問い合わせて運良くそのうちの一つに入ることができました。
母は当時抗うつ薬を飲んでいたためか非常に陽気で、すぐに施設になじんでくれました。どちらかといえば神経質で心配性な母が、予想外にうまく溶け込んでいたので安心したものでした。
家族の負担を考えれば施設はありがたい存在です。それでも私は現在の介護施設に対して、もろ手を挙げて賛成ではありません。理由としては、高齢者ばかりを集めると刺激が少なく、より精神的に落ち込みやすくなりがちだからです。
子供や若者と交流する機会などを増やせば、施設により活気が出て、多くの高齢者も元気になるかもしれません。
2009年9月、父が亡くなった時にお墓を買いました。今どきのお墓はいろいろデザインができるということで、母のアイデアで「光」という文字を入れることにしました。
当時、母は書道を習いに行っていて、お手本の「光」の文字が気に入っていたようです。そこでその「光」をお墓に書き込むことにしたわけです。
母の入所していた施設では、時々書道をすることがありました。母も希望してやらせてもらっていました。その施設では毎年11月に展示会があり、昨年は10月に書いた作品を展示していました。
2019年11月に展示会があった時、母は入院していましたが、母の作品も当然展示してありました。それは母が生涯最後に書いたものとなりました。
そこに書かれた文字は「光」でした。
母を介護するようになって、病院や介護施設に行く機会がよくありました。その度に現場の大変さを感じていました。看護師さんや介護職員の方々の大変さです。
皆さんいつも忙しそうに働いています。普通の状況でそうだとすれば、何か不測の事態があれば今以上に大変なことになります。
母も病院や施設では待たされることがよくありました。結局、仕事量に比較して人が足りないのだと思います。
待たされるのは誰にとっても気分のいいものではありません。場合によっては、命にかかわることもあるかもしれません。
今この国では、人件費をなるべく少なくする方向に動いていると感じます。しかしそれは、そこで働く人もその施設の利用者も幸せにしていない気がします。
人生とテレビの連続ドラマは良く似ているような気がします。若い頃は身の回りに様々な出来事が起き、それが永遠に続くかのように思います。まるで連続ドラマのように。
それが高齢者になるにつれ、日々の生活は同じことの繰り返しで退屈なものになりがちです。そうなるとテレビの世界では視聴率が下がり、ドラマの打ち切りが検討されたりします。そのドラマは最終回を迎える前に終わってしまうかもしれません。
人生には最終回があるわけではありませんが、突然終わってしまう点ではドラマの打ち切りと同じようなことになります。
母の人生をドラマに例えると、次回予告では久しぶりに自宅で好きな刺身を食べるシーンがありました。それを次回の楽しみにしていたのに、その前に打ち切られてしまいました。とても残念です。
母が入所した介護施設は、入院先の病院で主治医の先生から、「次の行き先を考えてください」と言われて探したところですが、非常に運良く入ることができました。
今日は2月としては暖かく穏やかな天気でしたので、一万歩ほど散歩してきました。こういう日は今でも、母を散歩に連れて行ってあげたいな、と思います。
母が施設に入る前の2年半ほどは、いつでも散歩に連れていくことはできたはずですが、当時は病院への定期的な通院以外はあまり家を出たがらないので、ほとんど散歩はしませんでした。
部屋が南向きで日当たりが良いこともあったし、外に出るにも車椅子なので、その姿を見られたくないという気持ちもあったように感じていました。ただ、多少強引にでも連れて行って慣れてしまえば散歩も気に入ってくれたかもしれません。
高齢者の介護は、本人の体調や精神的な状況もあって予定通りにいかないことも多く、後悔することも多々あります。私にとっては散歩もその一つです。
類天疱瘡という病気を知っていますか?母は87歳の時にこの病気に罹りました。
母を介護した経験から、その難しさを少し考えてみたいと思います。
一番感じたのは、意思の疎通の難しさです。やはりお互いに遠慮があるのですね。親子の関係でもそうでした。
子が親を介護しているのですから、要望があれば何でも言ってほしいと思うのですが、お願いする方はなかなかそうもいかないようです。
そもそも、年を取って行動が不自由になるのはそれ自身がストレスなので、精神的にも不安定になりやすいようです。
結論めいたものをいえば、お互いを敬いながらも、お願いしたいことは遠慮なく言える関係を保つということでしょうか。難しいですが。
今日は母の二回目の命日ということで、お墓参りに行ってきました。
母は若いころから高血圧のため、降圧剤を服用していました。私も血圧は高く、高校生の時に150/90くらいでした。
40年以上前のことですが当時、高血圧は上が140~160は境界線とされていて、高血圧予備軍という扱いでした。薬は飲みませんでしたが、加齢とともにさらに上がるものだと言われていました。
ところが、今朝の私の血圧は119/78。確かにこれは自分でも低い方ですが、最近の平均は135/85くらいでしょうか。若いころに比べて明らかに低くなっています。
はっきりした理由はわかりませんが、ほとんど毎日、一万歩以上歩いていることも効果があるのだろうと思います。
母は、施設に入所していた約一年半の間に四度入院しました。四回目が最後になってしまいました。その最後の入院中に印象的な言葉を母から聞きました。
「戦争は嫌だ、二度と嫌だ」
まだ回復の見込みがある頃だったと思います。ずっとベッドの上ですから戦時中の夢でも見たのかもしれません。そんな言葉を発しました。
それまでに母が戦争のことを話すのは、めったにありませんでしたから、突然で少し驚きました。そのため、よく覚えています。
それはまるで戦争経験者から、戦争を知らない世代への遺言のようでした。
今日もマスメディアは新型コロナウイルスの話題で溢れていました。高齢者や糖尿病・心不全などの持病のある人が重症化しやすいとのことです。
母は、若いころから腎臓が悪く、高血圧・糖尿病・心不全の薬を服用し、類天疱瘡でステロイド剤も飲んでいました。感染すれば重症化が間違いない状況でした。
昨冬はインフルエンザを心配しましたが、今年も存命であれば心配が倍になるところでした。
実際に、母の入所していた施設でも感染症に罹ってしまった方もいたようでした。母は大丈夫でしたが、家族は心配することくらいしかできないのですね。
昨日、新型コロナウイルスによる肺炎で、国内で初めての死者が出たとのことです。80代の女性だとか。身近に高齢者がいると心配です。
母も高血圧と糖尿病がありましたから、冬になるとインフルエンザや風邪が心配でした。枕元には加湿器を置き、外出時はマスクをするなどそれなりに注意をしていました。
今年は今までとは比較にならないくらい恐ろしい状況です。特に、高齢者施設などで感染者が出ると大変です。皆様も十分にご注意ください。
昨日は、健常者が老化により障害者になることなどを書きました。そして、介護を受ける立場としては、どこまで状況を受け入れることができるかが重要だということです。身体的な障害はわかりやすいですが、精神的なストレスはなかなかわかりません。
つまり、介護を受けるときは、認知症になってしまった方が気が楽なのではないか。もちろん介護する方はより大変ですが。
母は認知はほぼ問題なかったのですが、気分の良いときは介護してもらうことに問題なくても、落ち込むと自分が周囲に迷惑をかけていると思い込むことも何度かありました。以前は簡単にできたことができなくなる。そうしてますます落ち込んでゆく。母もそうでしたが、このような高齢者のうつ病はよくあるようです。
介護や医療の場だけではありませんが、マニュアル的対応よりも人それぞれの精神的な面を重要視するような考え方を採り入れる。そうでないと、高齢者が長生きを後悔するような世の中になっていくのではないかと思います。
「老後の生きがい」というべきものがあればいいのかな?ただ、それもいずれはマニュアル化されそうですが。
障害者に対する言葉として健常者という言葉があります。両者は対照的なものとして使われることが多いように思います。それは多くの場合、多数の健常者と少数の障害者として。人数という観点ではその通りですが、個人として見ると少し違うようです。
「健常者とは、障害者予備軍である。」こういう考え方もあります。ケガや病気だけでなく、老化でも生活に支障をきたす場合があります。そして徐々にいろいろな場面で介助が必要になります。健常者が障害者になるわけです。
母の場合は、80歳ころから杖を突いて歩くようになり、85歳ころ外出時に車椅子、90歳では室内でも車椅子になりました。高齢者になれば介助が必要になることは、誰もが頭の中では理解していることでしょう。
ただ、自分が将来介護される立場になるとして、どこまでの介護を受け入れられるか難しい気がします。
最近、世間では新型コロナウイルスの話でもちきりです。特にテレビは不安を煽りすぎではないかと思うほどの状況です。
ただ、持病のあるお年寄りは、新型でなくてもこの時期は心配です。特にインフルエンザですが、母は予防接種を一度も受けませんでした。自宅にいるうちはまだしも、昨冬は施設で過ごしましたから心配しました。
母は若いころから血圧の薬を服用し、糖尿病でもありました。施設では乾燥する時期は、手すりに濡れタオルをかけるなど、それなりの対策はしていました。それでも、ベッドの周辺の湿度が20%以下になることもあって不安はありました。幸い無事に一冬過ごしましたが、毎日会うまでは心配でした。
母が亡くなったことは寂しいですが、この時期のこうした不安がなくなったことは、私の体調にとっては良かったようです。
2018年5月、母は自宅で昏睡状態になり入院しました。この時は40日ほどで退院して、そのまま施設に入所しました。そして2019年12月、入院中に昏睡状態になり、そのまま帰らぬ人となりました。
昏睡から昏睡へ、その間は一年半ほどでした。母はその期間のほとんどを施設で過ごしたのですが、意外にもそこでの生活にすぐに馴染んでくれました。それどころか、ハイテンションで上機嫌で、とても楽しそうでした。
昏睡から覚めて、第二の人生を楽しんで、また昏睡の世界に戻って行ってしまった。
あの時の元気な母は、現実だったのか、幻だったのか、今でもそんな感じがします。
2019年12月20日、母が亡くなりました。92歳でした。
2015年11月、私は自宅で母を介護するために離職し、その後母は足の骨折などを経て施設に入りました。
その間4年ほどの時間が過ぎたはずなのに、告別式が終わった時に感じたのは「すべては幻だったのではないか」ということでした。
それは不思議な感覚でした。
母が入所した施設にはほとんど毎日面会に行っていたのに、すべてが夢の中の出来事のように思われました。
ただ、現実に4年間、特に後半の2年はいろいろありました。
その時期の記憶をたどりながら、母との思い出を中心に、介護や医療などについて感じたことを記録しておこう。
以上のように考えて、このブログを始めることにしました。
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